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2006年3月31日

米で中絶禁止の法律が成立

 アメリカでは、“神”を語るブッシュ大統領とそれを支持する“キリスト教右派”と呼ばれる人々の台頭で“右傾化”が進んでいると言われる。アメリカの“右”は京都議定書を蹴ったり、イラク戦争を始めたことなどで疑問点も多いが、「生命尊重」を旗印に掲げる点などで評価すべき面をもっている。このほどサウスダコタ州で制定された法律は、母親に生命の危険がある場合を除くすべての妊娠中絶を禁じるという画期的な内容だ。これは、現在のアメリカで、女性の“中絶の権利”を確定したと言われている1973年の「ロー対ウェイド」の判例に挑戦するものとして、注目されている。
 
 3月8日付の『ヘラルド・トリビューン』紙などによると、この法律は、先月下旬に同州の上院で可決され、3月6日にマイク・ラウンズ知事(Mike Rounds)によって署名されて成立した。アメリカの中絶反対派は、この法律制定を足がかりに、ブッシュ大統領による連邦最高裁判事の入れ替えなどで有利な環境ができつつあるとして、今後、オハイオ、ジョージア、テネシーなどの州で同様の法律制定を推進し、中絶反対の気運を全国的に盛り上げていくことをねらっている。ただし、この法律が発効するのは7月1日からで、それまでに反対派が16,728人以上の署名を集めれば、11月の選挙まで発効を差し止めることができるという。同州は、もともと保守的な考えが強い。妊娠中絶を行うクリニックは州内にわずか1箇所しかなく、そこでの中絶は年約800件という。

 3月18日付のイギリスの科学誌『New Scientist』は、この法律制定の経緯の一部を科学的データを交えて説明している。それによると、同州では法律制定に先立って、上院議員、法律家、医師、中絶問題の双方の立場の活動家など17人の委員からなる「検討グループ」を作り、生命はいつから始まるか、中絶は母親の健康に肉体的・精神的にどう影響するかについて検討し、その結論にもとづいて法案を策定した。しかし、結論が出るまでに4人がこのグループから抜けたというから、意見の対立の深刻さを示している。
 
 この「検討グループ」は、新しいDNA分析の技術などによって「議論の余地なく明らかになった」こととして、次の3点を指摘した--①胎児は受精の時から一個の人間であること、②あらゆる妊娠中絶は生きている人間の命を終らせる行為であること、そして③胎児は、現代医学のもとで保護されるべき患者であること、である。また、同グループは、個人を特定するDNA解析など、1973年以降の科学的知見を根拠にして、「人間は受精の直後から完全な独自性を有している」と結論する。そして、胎児は受精の時から、母親とは別の、一個の独自の完全な人間であるとし、受精卵は、子宮に着床するよりかなり前の段階--3回分裂した段階--で、自らのその後の成長と発達を制御する能力を獲得している、などの興味ある見解を述べている。
 
 中絶の肉体的リスクについて、同グループは「妊娠中絶が女性の体に及ぼす健康上のリスクは相当程度あり、重要である」と結論する。このリスクとは、感染症、出血、将来の不妊、乳癌と死の危険性の増加である。また、中絶後の1年間で女性が死亡する確率は、出産後1年の女性の死亡率の4倍あり、中絶後には自殺する確率も上がるとする。一方、中絶の精神的リスクについては、同グループはこう結論する--「妊娠した母親が、精神的外傷や落胆を受けずに自分の子の命を奪うことができると思うのは、まったく現実的でない。母親の本能は自分の子を守り育てるところにあるのだから、その子を殺すことは正常で、自然で、健康的な母親の能力の域外にある」。だから、いくつもの統計的調査では、女性は中絶後に鬱病や躁鬱病になりやすく、自殺願望を抱いたり、薬物濫用の傾向が生まれるという。
 
 2月24日の本欄で、里親制度を使った中絶防止策を実施するという福島県の決定にエールを送った。日本では、海外まで行って卵子の提供を受けたり代理母を依頼する人がいる一方、不用意に妊娠したからといって、簡単に自分の子を殺す人がいる。自分より小さく無力だからだろうか、受精卵や胎児は親の“道具”に化している感がする。そんな扱いを受けた子が、老後の親の面倒を見てくれるはずがないのである。「肉体が人間である」という謬見から、決して幸福はやって来ない。

谷口 雅宣

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2006年3月29日

映画『シリアナ』

 渋谷の映画館で『シリアナ』という作品を見た。「石油・CIA・アラブがからんだ話」という程度の予備知識しかなかったのだが、映画が始まって監督や役者の名前が出てくるところで、原作が『See No Evil』(悪を見ず)だとあるのを見て、内容が分かった。1月24日の本欄に、私がその日にニューヨークの書店で買った本のリストが掲げてあるが、そこにこの本の名前が含まれている。副題は「The True Story of A Ground Soldier in The CIA's War on Terrorism」(CIAでテロと戦う地上兵士の実話)で、この本の日本語版の題は『CIAは何をしていた?』(ロバート・ベア著/佐々田雅子訳、新潮社、2003年)という。映画の内容も、そういう政治色の強いものだった。

 2時間以上の映画だが、ストーリーはアメリカとアラブの地で同時併行的に展開していく上、3~4人の異なった登場人物の視点から重層的に描かれていくので、複雑でわかりにくいことは否定できない。しかし、そのことが却ってリアリティーを生み出している。なぜなら、現実は複雑でわかりにくいからだ。これらの人物とは、CIA工作員、エネルギー・アナリスト、パキンスタンからの出稼ぎ労働者、そしてワシントンの法律家である。通常はあまり関係のなさそうなこれらの人物が、「テロリズム」という現象を媒介として皆つながって描かれている点が興味がある。

 ノンフィクションの原作をベースにし、監督もリアリズムを追及しているから、前に本欄で取り上げた『亡国のイージス』のような“肩すかし”は食わされなかった。私は「平和」「環境」「資源」の問題は今日、互いに密接に関連していると述べてきたが、この作品は「環境」を除いた残り2つの問題の関連をよく描いている。さらに、そこに「貧困」と「悪政」の要素を加えて説得力のあるものになっている。ごく簡単に言うと、テロリズムが生まれる背景には、少数がとてつもなく豊かな王国にいる、とてつもなく貧しい人々の絶望感があり、この悪政を守っているのが国益優先のアメリカの対外政策だ--というのが監督の訴えようとしている点だろう。ここでテロリストは、家族と同信の仲間のために“巨悪”を狙って自爆する純粋な少年として描かれている。
 
 マイケル・ムーアの映画『華氏911』(2004年)を見た時も感じたのだが、こういう政府批判の映画が堂々と上映され、正しく評価されるという点で、アメリカは立派であり、羨ましい。本作品の製作総指揮を行い、自らCIA工作員を演じたジョージ・クルーニー(George Clooney)は、今年のアカデミー賞助演男優賞を受賞した。彼は「この作品は反アメリカ的だと思いますか?」との質問に対して、次のように答えている:
 
「いや、むしろ、すごくアメリカ的な作品だと思ってるんだけど。そうじゃなかったら、僕らは作らないしね。アメリカっていうのは、疑問を投げかける自由を持った国だ。疑問を投げかけるのは、僕らの権利でもあり、そして義務でもある。この映画はそのために作ったんだから」

 ところで、映画の題名になっている「シリアナ」の意味だが、これはワシントンの政策シンクタンクが使う一種の“業界用語”で、「アメリカの利益にかなう中東の新しい国」という意味だそうだ。そういう国を作ることがアメリカの国益になるとして、対外政策が練られているのだ。地域的にはシリア、イラン、イラク辺りを指すらしいから、現在アメリカは、イラクをシリアナにしようと努力していることになる。

谷口 雅宣

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2006年3月28日

鳥インフルエンザは恐くない?

 本欄では昨年10月8日と11月20日に、鳥インフルエンザの問題を少し書いた。問題の焦点は、鳥をバタバタと死なす強毒性のウイルスが突然変異して、人から人へ感染するタイプになった時の影響だ。世界で2千万~5千万人もの死者が出たと言われる1910年代末のスペイン風邪が引き合いに出され、医療技術が進歩した現代でも「何百万人」もの犠牲者が出るとの予想が世界中を飛び交った。そして、「タミフル」というインフルエンザ治療薬が“有望”とされ、世界中から注文され、製薬会社はフル生産している--そういう話だった。その後、鳥インフルエンザは、鳥に運ばれて東アジアから中央アジアを渡り、ヨーロッパや西アフリカへまで到達した。その途上で、様々な種の鳥に感染しただけでなく、イタチやネコにまでとりついて殺した。人間の犠牲は3月27日現在で「97人」という。

 専門家の間では、この「97」という数字を多いと見るか少ないと見るかで、「悲観論」と「楽観論」に分かれるらしい。悲観論についてはすでに書いたので、今回は楽観論を紹介しよう。

 28日付の『ヘラルド・トリビューン』紙には、これまで鳥インフルエンザによる犠牲者が最も多かったベトナムで患者の治療にあたっているジェレミー・ファラー博士(Jeremy Farrar)の見解が紹介されている。ファラー博士によると、97人という犠牲者数は最近のものだが、1997年以降の犠牲者数を合計すると「186人」だという。博士をこれを「たった186人」と表現する。なぜならこの数字は、アジアの何十億羽もの鳥が何百万人もの人間と接触したすえに出た感染者の数だからだ。この確率を考えると、今回のウイルスが“種の垣根”を越えて人間同士の間に広がる可能性は極めて小さいという。つまり、ファラー博士は、この鳥インフルエンザのウイルスが、人間に感染する形に変異することは大変むずかしいと見るのだ。また、もし仮にこの困難な“種の壁”をウイルスが超えることができたとしても、その変異によって、人に対する毒性は弱まっている可能性があるというのだ。

 今回の強毒性の鳥インフルエンザによる犠牲者は、「鳥のインフルエンザ」が人へ感染したもので、人から人へ感染する「人のインフルエンザ」に変異したウイルスはまだ見つかっていない。そして、「鳥のインフルエンザ」の人に対する致死率は、高く見積もっても「100万分の97」--つまり、0.01%未満である。だから、「鳥のインフルエンザ」に留まっているかぎりは、このウイルスはエイズやマラリヤより恐ろしいわけではない。問題はひとえにウイルスの「変異」の可能性による。ファラー博士が言うには、過去において大量の人がインフルエンザの犠牲になったケースは、先に触れた1918年のスペイン風邪だけであり、これは人類の歴史上きわめて特異な1回きりの出来事だったかもしれない、というのである。

 読者の不安は、これで少しは薄まっただろうか? 今のところは、交通事故に遭わないように気を配ることの方が重要かもしれない。
 
谷口 雅宣

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2006年3月27日

イスラームにヴァチカンはない

 イスラム原理主義のタリバン政権に代ってアフガニスタンに登場した新政府が、実際にどれほど“民主化”したかを示す出来事があった。それは、イスラームからキリスト教に改宗したため「背教の罪」に問われた同国の男性、アブドル・ラフマン氏(41)に対し、裁判所は26日、精神状態などを理由に訴追手続きを中止した、ということだ。ラフマン氏は、まもなく釈放されるというが、同国の宗教指導者らは、イスラム法にもとづき「死刑」を求めていたというのだから、なかなか大変な国だとの印象を受ける。民主主義下では、「信教の自由」は基本的人権の一つとして当然に保障されるが、この国ではイスラームからの改宗は、相当な覚悟が必要なのだ。27日付の『産経新聞』などが伝えている。
 
 ラフマン氏の訴追が報道された先週、アメリカでは一斉に批難の声が上がり、ブッシュ大統領は「深く困惑した」(deeply troubled)と言い、ライス国務長官はアフガニスタンのカルザイ大統領に電話して「好意的な解決」を求めたという。しかし、この件を扱う裁判官は「外部の干渉には譲らない」と言っていた。だから、本件の解決は政治的な色彩が強い。

 アフガニスタンの憲法改正委員会のアドバイザーをしていたジェイ・アレクサンダー・セアー氏(J Alexander Thier)は、27日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に寄稿して、もっと詳しい事情を書いている。それによると、ラフマン氏は離婚訴訟中で、娘(複数)の保護引渡しを要求していたところ、それに反対する妻の家族が昔のことを持ち出して、16年以上も前にイスラームからキリスト教に改宗したラフマン氏に養育の資格はない、と言ったそうだ。それを聞いた検事の一人が、背教の罪で同氏を訴追したらしい。イスラム法は解釈の幅が大きく、狭く解釈すれば本件には死刑の判決もあり得るらしく、担当の裁判官は事前に被告の死刑の可能性を示唆していたという。
 
 ここに宗教法の「解釈」という重要な問題が出てくる。宗教法の重要な部分は、「教典」とか「聖典」と呼ばれる書物に拠るところが大きい。そして、主要な宗教の教典は何千年も前の、現代とは著しく異なる環境において成立したものがほとんどである。しかし、そこに教祖の教えの“源流”や“原点”が“雑じり気なしに”記されていると考え、その言葉を文字通りに解釈すべきとするのが「原理主義」の立場である。アフガニスタンにも原理主義的な法解釈をする裁判官がいて、それに呼応する政治勢力もあり、今回のような出来事に発展したのだろう。
 
 上記のセアー氏は、アフガニスタンの新憲法には一種の“内部矛盾”があることを指摘している。この憲法は、イスラーム以外の「他の宗教の信者は自らの信仰を自由に実践し、法律の規定の範囲内で宗教儀式を行うことができる」と定めているし、国家が世界人権宣言の精神を遵守することを義務づけている。しかし、その一方で同じ憲法が、どんな法律も「イスラームの信仰と法に反してはいけない」と規定し、裁判官の法解釈に大きな裁量権を与えているという。だから、教典を狭く原理主義的に解釈することで、憲法で許された基本的人権が制限されるという今回のような問題が発生する余地があるのである。
 
 原理主義的に解釈しなければ、今回の問題もうまくクリアできるようだ。セアー氏によると、エジプトの穏健なイスラム法学者などは、「棄教」は犯罪であるかもしれないが、その償いの期間に制限はない--つまり、神の意志に従うのは個人であって、国家はそれを無理強いできない--との解釈をしているという。多分、死後のことは神のみぞ知るということだろう。

 同じ『トリビューン』紙に掲載されている別の記事によると、「棄教には死を」という考え方を支持するイスラム法学者は、モハンマドの言行録である『ハーディス』の中に、信仰を変えるものは殺されるべきだとの言葉があるからだという。しかし、より上位の教典である『コーラン』の中には棄教について書かれた箇所はあるものの、決して「死刑に処すべし」とは書いてない。だから、イスラーム国において改宗者が死刑になることはむしろ珍しいそうだ。最近の例では、1985年にスーダンで1件、89年と98年にイランで計2件、そして92年にサウジアラビアで1件だけという。イスラーム諸国にも改宗者は多くいるはずなのに、なぜ『ハーディス』が守られないか--その理由について、UCLAのイスラム法の専門家、カーレル・アブ・エルファドル氏(Khaled Abou El Fadl)は、「それは宗教に強制があってはならないと書いてある『コーラン』に、明らかに矛盾するからです」と言う。
 
 数多くのイスラム法学者が互いに異なった解釈をする--これが、イスラームの一つの大きな問題のようだ。イスラームには“ヴァチカン”がない。この事実は、その土地の、その時の事情に合わせた柔軟なイスラム法解釈を可能にする一方、今回のような混乱や“非常識”を生む温床ともなるのである。宗教における「解釈」の問題が、いかに難しいかを教えてくれる一件である。

 谷口 雅宣

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2006年3月26日

人類は進化する? (2)

 3月10日の本欄で、「人類は進化の途上にある」という話を書いた。イギリスの科学誌『New Scientist』が3月11日号で、この発見について特集している。それによると、シカゴ大学のブルース・ラーン教授(Bruce Lahn)は昨年、脳の発達にかかわる2つの遺伝子の発生を調べた。すると、1つは6万年から1万4千年前に現れたもので現在、人類の7割が共有しており、もう1つの遺伝子はもっと最近の出現で、1万4千年から5百年前に現れて、まだ地上の4分の1の人類しかそれをもっていないことが分かったという。これらの遺伝子の機能が何であるかはまだ分かっていないが、このようにして調べていくと、過去1万年の間に700以上の人類の遺伝子に変化が起こっていたというのだ。
 
 記事の中に「人間は心で環境を変えてきただけでなく、変えた環境によって考え方を変化させてきた」という話が出てくる。カリフォルニア大学サンディエゴ校のクリストファー・ウィリス教授(Christopher Wills)によると、現代社会では一人がすべてをやれるわけではないから、他人が得意でないことをやることが生存に有利に働く。そういう状況が永く続くと、人類は行動の多様化に向けて進化していくだろうという。

 しかし、自然淘汰だけが人類進化のエンジンではない、とニューメキシコ大学のジェフリー・ミラー教授(Geoffrey Miller)は言う。彼の考えでは、人類の進化は“性による選択”によって加速しているという。つまり、移民や異民族間の混血によって遺伝子が急速に混ざり合い、性的に望ましい性質が選択されているというのだ。高等教育の普及、都市化、インターネットによるデートなどを通じて、知性において、性格において、精神や肉体の健康状態において“似たもの同士”が結ばれる可能性が急速に増えており、その中で、生存に有利な新たな遺伝子が固定化される傾向があるとする。生殖補助医療の普及も、遺伝子組み換えも、この傾向に拍車をかけるという。こうしてミラー氏は、千年後の人類は「もっと美しく、知性豊かで、バランスがとれ、健康で、感情的に安定したもの」に進化すると予言するのである。
 
 ここまで来ると、先に触れた『モロー博士の島』の話を出して警告したくなる。科学技術は人類を進化させ幸福を実現するという楽観論が、必ずしも事実と一致しないことは、本欄で何回も取り上げたし、私の著書にも書いた通りである。しかし、交通・通信手段の急速な発達により、人類が今後、遺伝的にさらに混ざり合っていく傾向は否定できないだろう。その場合、“純血種を守る”という考え方が、この大きな流れの中でどのように機能するかという問題は、深く考えてみなければならない。これは、“単一民族”を標榜する日本人にとって避けて通れない大きな問題となるだろうし、現にそうなりつつあると私は思う。

谷口 雅宣

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2006年3月25日

韓国に女性首相誕生か?

 お隣の韓国に初めて女性の首相が誕生しそうだ。大統領は依然として男性の盧武鉉(ノムヒョン)氏だから、女性が韓国政治の“頂点”に立ったわけではない。しかし、同じ極東アジアの国として、女性の「No. 2」就任は画期的だと思う。このほど盧大統領に指名された韓明淑(ハンミョンスク)氏は、韓国国会の承認があれば正式に首相となる。今年1月には、南米のチリと西アフリカのリベリアに女性大統領が誕生したことは本欄でも触れた。ドイツ初の女性首相、アンジェラ・メルケル氏(Angela Merkel)の国際舞台での活躍は目覚しい。そして今回、韓国でも女性が首相になれば、4大陸で女性の活躍の場が広がりつつあることを示している。

 韓氏は、開かれたウリ党の国会議員で62歳。2000年に政界に入り、03年には金大中政権下で創設された女性省の初代大臣となり、現政権では03年に環境相を務めた。民主化と女性の地位向上を忍耐強く推進してきた経歴とソフトな調整力が認められて、今回の抜擢となった。韓国名門の梨花女子大学仏文科を卒業し、民主活動家の朴聖焌氏と結婚。79年には労働者や農民、低所得層の女性に社会主義思想をひろめたかどで反共法(後の国家保安法)違反で逮捕される。2年間の獄中生活を経験した後、韓国内の女性運動の組織化に奔走。87年には、20以上あった女性団体をまとめて「韓国女性団体連合」を結成した。2004年には国家保安法廃止のための法案の提出に携わったが、成立にいたらなかった。

 ということで、『産経新聞』は「政治家としては左派」で「米国の対北政策に批判的」という評価だが、『朝日新聞』は別の側面を書く--平壌に生まれ、6歳で朝鮮戦争を体験。一家で韓国側に逃れる。結婚直後に夫(現・大学教授)がスパイ容疑で投獄されたため13年間待ち続けた。また、御茶ノ水女子大学にも留学した与党では数少ない知日派で、韓日議員連盟の副会長を務めたこともある。しかし、「日本の歴史認識や憲法改正の動きへの批判は、厳しい」という。

 チリ大統領のバチェレ氏は、少女時代に投獄されて拷問を受けた経験をもつ。また、リベリア大統領のサーリーフ氏も、政治犯として2度捕らえられた経験をもつ。そう言えば、昨年ノーベル平和賞をもらったケニアのワンガリー・マータイ氏も、女性ながら政治犯として投獄された経験がある。ドイツのメルケル氏の経歴はよく知らないが、ロシア語に堪能というから、きっと変化のある少女時代を過ごしたのだろう。彼女たちの活躍は、一見「悪い」と思われる体験からも無限の可能性が引き出されることを有力に示している。それはもう、性別とは無関係のものなのだ。

谷口 雅宣

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2006年3月24日

中国も“環境税”導入か?

 環境破壊と経済発展の著しい中国が、4月から“高級品”へ増税することを決定した。12年ぶりの大幅な税率改定である。一応、消費税のような形をとっているが、増税の対象が大型車やゴルフ用品(クラブとボール)、プレジャーボート、割り箸など環境へ悪影響を与えると考えられるものに絞っているところを見ると、一種の環境税と見ることもできるだろう。高級時計には+20%、ゴルフ用品とプレジャーボートには+10%、床用の板材と木製の使い捨て箸には5%の税金が新たに課せられる。また、急速に増え続ける自動車は、排気量が1~1.5リットルの車は従来の5%から3%に下げ、4リットル以上は8%から20%に上げるなど“グリーン税制”を明確にする。23日の『ヘラルド・トリビューン』と『朝日新聞』の夕刊が伝えている。

 この税制改定で、中国政府は環境保全に加えて、省エネと貧富の差の縮小も意図しているようだが、主な狙いは自家用車の規制である。中国は一応、社会主義を標榜しているが、個人用の自動車の販売台数は2000年に64万台だったものが、昨年は一気に310万台にまで増えた。これによって燃料の消費量は急拡大し、大都市では大気汚染が深刻化している。今回の増税はこれら自家用車のうち大型車を狙い撃ちするから、国内メーカーよりも海外メーカーへの影響が大きいだろう。特に、大型乗用車やジープを製造するダイムラー=クライスラー社にとっては痛手だろう。さらに、7月1日以降に販売される自動車に対しては、より厳しい燃費効率が義務づけられるというから、欧米の自動車メーカーへの影響は大きいだろう。
 
 私は、中国政府のこの明確なメッセージを歓迎する。自由主義経済下ではこれほど思い切った税率変更は難しいのだろうが、環境破壊と化石燃料の消費増大の“先頭”に立っているような国だからこそ、温暖化防止のためにできることはどんどんやってほしい。ただし、今回の増税には「航空燃料」が実質含まれていない点が、気になる。今後もこの国での販売の急増が予測される自動車は、これによって「燃費のよさ」が最大のセールスポイントになる可能性があるから、日本産のハイブリッド技術がさらに普及していくだろう。

谷口 雅宣

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2006年3月23日

山に雪が降る

 休日を利用して山梨県大泉町の山荘に来た。昨年の秋以来、4ヵ月ぶりだ。夏場には、留守中にスズメバチが発生したり、鳥が屋根裏に巣を作るなどしたから、室内はさぞ汚れているだろうと思ったが、案外きれいだった。考えてみれば当たり前だ。標高1200mの土地の冬は、雪と氷に包まれた冷凍冷蔵庫のようなもので、凍結防止のための水抜きもやっておいたから、人間が留守であっても小動物や虫が活躍できる環境ではない。が、それでも小さい白いガやカマドウマの乾燥した死骸がいくつか見つかった。車で走って来た甲府盆地ではウメが満開を過ぎ、ハクモクレンが豪華に咲いていたから、山の上も小さい黄色い花をつけるダンコウバイぐらいは咲いているかと思ったが、花らしいものは何もなく、一面に冬枯れの景色が広がっていた。

KaikoMar06  前回、山荘に来たときに薪を作っておいたのが幸いだった。裏の山林には自然に倒れたカラマツが何本もあって、それを40㎝ほどの長さに伐って丸木のまま屋根の下に積んでおいた。本当はそれを縦に割って薪にするのだが、木の直径が10~20㎝の細いものがほとんどで、そのまま薪ストーブの中に入りそうだったので、労力を省いた。山荘に着いた頃は10℃に満たない気温。大急ぎで細い丸木をストーブに入れ、火を点けた。15℃まで上がるのに2時間ほどかかった。

 昨夕、白いものが空からチラチラ降っているのを見て、風花だと思った。青空が見えていたからだ。しかし、そのうち厚い雲が降りてきて、白いものは本格的な量になって落ちて来た。私たちは山荘内でストーブにあたりながら、時々ロールカーテンを持ち上げて窓外を眺め、デッキに積もっていく雪の厚さを目測した。朝までに「10㎝」あるいは「15㎝」との予測も出た。上ってきた車はスタッドレス・タイヤを履いていたが、それでも雪の急坂を行くには限度があった。天気予報は、その夜「雨」の可能性は言っていたが、雪になるのは予想外だった。

WVilla01  夜中に、雪は雨に変わったようだ。というのは、屋根に積もった雪がガサガサと滑り落ちてデッキに落ちる鈍い音が、布団の中にいながら聞こえたからだ。朝起きて外を見ると、前夜の心配が無用だったことがわかった。雪は、深いところでやっと「5㎝」になる程度で、山肌に黒い土が見えている場所も多かった。朝食前に、ゴム長靴を履いて山荘の周りを歩いてみた。予想していたように、シカの足跡が雪の中に点々としていた。その並び方と方向から判断すると、2~3頭が夜中に山荘近くを歩いたようだった。特徴のあるノウサギの足跡も探したが、残念ながら見つからなかった。
 
Footsteps  冬景色の山林で雪の中に足跡をたどりながら、足跡の主である動物の姿を想い、その動きや生活を想像する--それだけでも、何か心が広がっていくような気がするのだった。

谷口 雅宣

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2006年3月22日

皇室制度の議論を深めよう

 皇室典範改正の問題について私の見解を聞きたいという人が結構いるので、今日は現時点での私の考えを述べようと思う。ご存知の通り、この問題はかなり“政治化”しているので、宗教の立場から発言することは避け、日本国民として知っておくべき常識レベルから考えても、まだまだ未解決の問題があることを述べるに留めたい。
 
 問題の基底には、現在の皇位継承の選択肢が日本の歴史上、類をみないほど狭められているという事実がある。もっと具体的に言えば、皇室典範の第1条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と規定され、第2条は、従来容認されてきた側室から生まれた庶子継承を否定し、第9条では「天皇及び皇族は、養子をすることができない」と定め、さらに第12条には、「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」とある。おまけに、昭和22(1947)年には、昭和天皇の直宮以外の11宮家が廃止されて、合計51人の皇族(男26人、女25人)が一挙に一般国民となった。これで、今日の問題の“種”がしっかりと植えつけられたと言える。

 だから、現在の皇室典範の規定には制度的な欠陥があると言わざるをえず、もし日本が皇室制度を今後も維持していくつもりならば、皇室典範は改正されなければならないだろう。制定当時は「少子化」の問題など予想できなかったかもしれない。が、この傾向がすぐに変わると予測できない以上、今後も皇族の数が減り続け、皇位を継ぐ対象者がやがていなくなる可能性を払拭しておかねばならない。今の秋篠宮のお腹のお子さまが仮に男子であったとしても、この問題はなくなることはなく、解決が後回しにされるだけであるから、制度改正の議論は今しなければならないだろう。

 この制度上の問題に加えて、もう一つ重要な点は、この制度が動き出してからもう60年近くたっているということである。戦後の皇室制度が60年近く存続してきたという事実は、無視できない。その間に、廃止された宮家の人々は普通の市民としての生活を続けてきたし、その家に子や孫が誕生すれば、その人たちも普通の市民として人生の大半を生きてきた。これを「後戻り」させることで問題の解決をはかることは難しいだろう。なぜなら、人間というものは、遺伝子の影響を受けるのと同じくらい大きな影響を、環境(この場合は一般市民としての社会・生活環境)から受けながら性格や人格を形成していくからだ。

 また、重要なことの3点目は、この60年の間に、「現在の皇室制度が国民の間に定着した」ということだ。特に重要なことは、昭和天皇御自身が、それまでの2千年に及ぶ日本皇室の伝統であった非嫡出子の皇位継承を明確に否定されたということだ。歴代天皇の半数近くが側室から生まれた皇庶子であるという事実を考えたとき、昭和天皇のこの御決断は“革命的”と言えるかもしれない。そして日本国民も、この近代的な一夫一婦制による皇室を大いに支持してきたのである。だから、この点でも歴史を後戻りさせることはできないと思う。

 そして最後に、これまであまり話題にされてこなかった「皇族の仕事」の内容についても、この際、議論を尽くすべき時期に来ていると思われる。問題の本質は、「皇室を国民に近づける」という戦後の傾向をさらに進めるべきか、それとも“伝統護持”の名の下に「皇室を国民から遠ざけ」続けるべきか、という選択である。大きなポイントは、基本的人権が完全に保障されない現在のような皇室の仕事を“伝統”として維持することが仮にできたとしても、そのような皇室に嫁す人がいなくなれば、皇室の断絶は時間の問題になるということだ。私は今回、週刊誌『アエラ』(朝日新聞社)の3月27日号に特集された「哀しき天皇制」という記事を読んで、その感を深くしたのである。

 歴史の長いこの国に生まれた我々は、「伝統」という言葉をとかく無批判に受け入れる傾向があるが、伝統の中には尊重されるべきものが多いことはもちろんだが、「士農工商」「参勤交代」「切捨て御免」「晒し首」「仇討ち」「切腹」「男尊女卑」「一夫多妻」「公娼制度」など、現代では受け入れられない制度や習慣、考え方も含まれている。伝統とは実際、それぞれの時代における慎重な取捨選択や新規の工夫によって、一部変更されながら守られてきたものである。だから伝統護持のためには、必要ならば伝統の一部変更を行う勇気も必要だと思う。

 結局、本件に関する私の現段階の意見は、有識者会議の報告書が出たことを好い機会として、「国民全体での開かれた議論をさらに深める必要がある」というものである。

谷口 雅宣

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2006年3月21日

人間不死の信仰を生きる

 お彼岸の中日である今日は、午前10時から東京の生長の家本部会館のホールで春季慰霊祭が挙行された。このお祭りは、生長の家の運動に功労のあった幹部・信徒のうち霊界へ移行された方々の慰霊のために行われる恒例の行事である。秋季と春季の2回行われ、功労者名は立教以来の「霊名簿」に記載され、一人ずつ招霊の後に合祀される。私は主宰者として祝詞を唱え、聖経『甘露の法雨』を読誦させていただいた。

 お祭りの後、遺族代表のお言葉を受けて、大略次のようなご挨拶をした:
 
 今日は皆さん、遠いところからお参りに来て下さいまして、ありがとうございます。
 今年は春の到来が遅く、梅の花は2週間から3週間遅く咲いたなどと言われていますが、最近では寒暖の差が激しいですね。

 一昨日の日曜日は、山梨県甲府市で生長の家の講習会がありましたが、空は晴れていましたが、強風が吹き荒れて大変でした。講習会後に幹部会をやるのですが、その時は、立派な建物の中の一室でしたが、ヒューヒューという強風の音で幹部会での会話が聞こえにくいほどでした。翌日の新聞を読むと、この日は3月としては1937年以来、69年ぶりの強風が吹いたそうです。最大瞬間風速33.4mといいますから、台風並みでした。関東地方ではJR線も地下鉄東西線も一時運休したほどです。

 しかし、日本には「暑さ寒さも彼岸まで」という諺があるように、冬はやがて終わり、春が来ます。山梨県ではモクレンが満開で、ボケも咲いていました。私の家の庭ではレンギョウも咲き始めました。こうして季節が巡っていくことは、自然界の豊かさの表現でもあるわけです。冬には冬でなければ味わえない善さがあり、春には春の善さがあるし、夏にも秋にも、それぞれの季節でなければ味わえないような善さがあり、また厳しさもある。そういう体験を通して、私たちは真・善・美の豊かな表現を知るし、自分でもその表現に参加するのです。そして1年が過ぎれば、また同じ季節が巡ってくる。これが繰り返される。しかし、今年の春は去年の春とまったく同じというのではなく、微妙に違っている。その変化があることがまた味わい深い。
 
 人生も、ときどき季節の移り変りに喩えられ、またよく似ています。「青春」という言葉があり、「人生の夏」と言われる時期があります。それは、新婚生活から子育てが終るまででしょうか? その後に来るのは人生の「実りの秋」です。子育てが終ると、人間は仕事や自分を磨く面で充実した収穫期を迎えます。人間はこの時期に、最も生産性が上がるといわれています。そして、静かな「老後」へと移行していきます。この人生の春夏秋冬も、それぞれの季節に独特の善さがあり、味わいがあり、意義があります。
 
 では、その次に来るものは何でしょうか? つまり、一人の人間の人生の冬が過ぎると、その人間はどうなるのでしょうか? ご存知のように、生長の家では「人間の生命は不死である」と説いていますから、“人生の冬”の次には、また春がめぐって来るのです。つまり、人間は生まれ変わるのです。また新しい人生が始まります。しかしその人生は、前回と全く同じというのではなく、肉体も環境も、前のものとは違うものをいただいて、前の人生とは違う体験をするわけです。だから、1つの人生が幕を閉じようとしていることを嘆き悲しむことはない。それは、冬にあって春を待ち望むような気持で過ごすのが、最も適当であると言うことができます。
 
 人間は神の子であって、この地上で無限の表現を行うことで魂を向上させ、神性・仏性の表現を完成させていく。だから物質的、肉体的、金銭的なことは、この1回の表現の過程における一種の“小道具や“大道具”にすぎないわけです。また、1回の“舞台”にも喩えられる。この人生が終れば、それらの道具や舞台は全部捨てていくものです。だから、いつまでも「自分のそばに取っておきたい」と考えて執着してはいけない。そのことは、恐らく多くの人が頭では理解できる。しかし頭で理解できても、なお捨てられないでシガミツイテいる人が多い。すると、人生に「歪み」が出てくるのです。その歪みから苦しみや悩みが生じてきます。だから生長の家では、「人間は本来神の子であって完全円満な本性を有している」ということを伝えて、執着を放つ道へ人々を案内しています。

 人生で出会う人・物・事に執着しないということは、人生に興味を持たないとか、人を愛さないとか、人生を楽しまないということでは決してありません。それは、我々が季節の移り変りの中で、花や天候やスポーツや行事を愛し、盛んに実行しても、いつまでも同じものにしがみつかずに、「また来年がんばろう!」「来年、今年より良い結果を出そう」「来年は、新しくこんな工夫をしよう」などと“次”へ向かって前進するのと同じことです。今シーズンはベストを尽くすけれども、その結果にいつまでも拘らないのです。
 
 そのことを人生の最後に知ることもいいでしょう。しかし、肉体が死ぬ直前になって初めてそれを知るのでは、執着によって生じる様々な人生苦を避けることができない。だから、人間の生命は不死死滅であることと、人間の本性が仏であり、神の子であることを早く、多くの人々に伝えることが、人々や社会の発展と向上に貢献することになります。その運動を、これからも大いに盛んに展開していきたいと、この日に改めて感じる次第です。

 皆さんも、この機会にいよいよ信仰を深めて、人間不死の信仰と執着を放つ生き方を多くの人々にお伝えいただきたいと思います。

谷口 雅宣

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2006年3月20日

ヒト免疫化マウスが誕生

 人間の病気治療の“実験台”としてマウスやラットが使われてきたことは周知の事実だが、動物実験の成功は必ずしも人間への応用を約束しない。それは、人間と動物は(精神的にはもちろんだが)肉体的にも同じでないからだ。例えば昨年10月17日の本欄において、マウスを使った実験で、アメリカの研究チームが受精卵を殺さずにES細胞から神経や臓器等を作ることに成功したことを伝えた。これは、ES細胞研究の主な障害となっていた「受精卵を破壊する」という倫理的問題を解決できる可能性を秘めた重要な研究だが、研究対象がマウスだった点で、あまり大きく騒がれなかった。マウスから人への応用が、それほどスムーズに行かないことを示している。

 そこで、科学者はこの「動物 → 人」への応用をスムーズに行うために、様々の工夫をしてきた。その一つが、人の細胞を動物の体内で培養し、それに対して実験を行うことで研究期間を短縮し、コストを下げる方法だ。このために、科学者は人と動物の細胞が入り混じった混合生物(キメラ)を作製してきた。昨年の4月26日の本欄でその例を挙げたが、過去に於いて人の血液をもったブタ、人の肝臓をもつ移植用のヒツジ、人の脳をもったネズミなどが作られている。また、ブタの心臓など動物の臓器を移植され、今も体内にもっている人間の数は多い。
 
 そして今日(3月20日)付の『朝日新聞』は、九州大学の研究チームが「人の免疫系をもつマウス」を作ったことを伝えている。このマウスは、しかし従来のキメラたちと質的に違うと考えられる。これまでのキメラは、人の組織や臓器の一部を体内にもってはいたが、それに対する拒絶反応を抑えるために、免疫系を破壊されていた。しかし、今回のマウスは免疫系の主要部分そのものが人間のものだから、人の免疫性疾患やガン治療の研究に使えば、人体実験をするのと近い効果が期待できるのである。例えばこの記事によると、ある患者のガン細胞をこのマウスに移植して、抗ガン剤の効き目や副作用を予め調べてから、患者本人へ処方するかしないかを決めることができるらしい。マウスを、患者の体の“延長”として使うということだろう。

 読者はここで、古典的SFである『モロー博士の島』というH・G・ウェルズの作品を思い出さないだろうか。この物語では、生体解剖実験を行ったことで英国を追放されたモロー博士が、追放先の島でブタ、イヌ、サルなどの動物を外科手術によって人間に変える実験を行う。マウスの免疫系を人間のものとすり替えてしまうのと比べると、かなり乱暴な感じがするが、動物を自分の思い通りに作り変えるという点では、あまり違いはないと思う。ウェルズのモロー博士は、しかし作り変えた動物を生かそうとするのに対し、“現代のモロー博士”は、作り変える動物の命を初めから奪うつもりなのだ。ある患者の免疫系をもったマウスは、他の患者の役には立たないから、多分お払い箱だ。動物の死も苦しみも、人間を救うためなら仕方がないと考えているのが分かる。

 これまでの動物実験も皆、同じ考え方で行われてきたのだが、他の動物を人間の目的にだけ利用する技術が進歩することが、人間全体の進歩だと考えるわけにはいかないのである。
 
谷口 雅宣

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2006年3月19日

ブッシュ氏よどこへ行く?

 前回の本欄で、イラク戦争が「対立する双方の誤算から生れた」という側面を検証してみた。これを「迷いと迷いがぶつかり合って生じた」と言い換えるには、必要な情報はまだ不完全かもしれない。しかし、誤った判断から何かを行ったとき、我々個人は普通どうするだろうか。誤りに気づいた時点で、その行動を中止し、その行動によって損害が生じたならばできるだけ償おうとするだろう。それが正直者の行動だ。が、国際政治はそれほど単純ではないのが残念だ。
 
 戦争ともなれば、「ちょっと間違ったからやめましょう」というわけには行かない。すでに2300人もの米国兵士が死亡しており、負傷者の数は米軍だけで1万7000人と言われている。彼らや彼女たちに「あなた方の犠牲は間違いから生れた」などと言って、大統領は次期選挙を戦うことなどできないし、何千人もの兵士やその遺族から一斉に訴訟される可能性もある。選挙どころの話ではない。だから、「後退する」という選択肢は政治家としては存在しないと考えたのだろう、ブッシュ氏は「前へ進む」以外に方法はないと決意したようだ。そして「判断は誤ったけれども、正しい方向に進んでいるのだから、その方向へ国全体を、そして世界全体を導いていこう」というのだ。

 最近のブッシュ大統領の演説の内容を見ると、このような考え方が透けて見えるような気がする。しかし、「判断を誤った」とは言っていない。イラク戦争開始の当初の理由は、①イラクが大量破壊兵器をもち、②テロリストを支援しているということで、この2つは間違っていたのだが、圧政を布くフセイン大統領を倒してイラクを民主化するという“第3の理由”だけを書いて、「そのための戦争だった」との正当化を行っている。間違いを「間違いだった」と言えず、失敗を「失敗した」と言えないのは、「唯一の超大国の大統領」としての面子に執着しているからなのだろうか。しかし、間違いや失敗を糊塗し、その上に築かれる政策は“砂上の楼閣”のような危うさを感じる。

 一国の信じる価値観と相容れない政治形態や支配構造をもつ国の政権を武力で転覆して、自らの価値観に沿った政治形態をその国に導入する。アメリカがアフガニスタンとイラクでやったことは、結局そういうことではなかったか。このやり方について、ブッシュ氏は何の問題も感じていないようだ。それどころか、必要ならば今後もそういう外交政策を継続していくことを暗示している。

 このたび発表された「国家安全戦略」(national security strategy)という49頁の文書には、「我々の世界から圧政を終らせることを最終目標として、すべての国と文化の中に民主的な動きや制度を求め、支援していくのがアメリカ合衆国の方針である」と書かれている。このような目標は、もちろん簡単には達成されない。だから、同文書は現段階を、冷戦が始まった当時の状況になぞらえ、「これは何世代にも及ぶ仕事だ」と言っている。そして、現在の敵はファシズムや共産主義のような世俗思想ではなく、「誇り高い宗教の曲解」(perversion of a proud religion)に基づく新しい全体主義だと宣言している。名指しは避けているものの、これが過激な「イスラム原理主義」と言われるものであることは容易に想像できるだろう。

 アメリカの新保守派と言われるフランシス・フクヤマ氏(Francis Fukuyama)は、『ヘラルド・トリビューン』紙(3月18~19日)の取材に対し、この種の考え方をこう批判する--内情をよく知らない国や社会に民主主義を導入しようとするのは、アメリカ保守主義の基本的考え方に反する。実際、2000年の大統領選挙では、当時のクリントン政権がソマリヤやハイチ、そしてバルカン半島に民主主義導入のための介入をすることを、ブッシュ氏もライス氏も批判したのだ。
 
 私は、いくら勇まし好きであっても、「唯一の超大国」と言われる国の大統領が、世界宗教の一部を相手に宣戦布告するような文書を出すことは決して好ましいとは思わない。「敵を認めれば認めるほど、敵の姿は明らかに現われてくる」という心の法則を伝える方法はないのだろうか。
 
谷口 雅宣

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2006年3月18日

「疑いによる抑止」の限界

 イラク戦争開戦3周年(3月20日)を前にして発行された米軍の報告書の内容が明らかとなり、3月15日の『産経新聞』が伝えている。この中で興味あることは、イラクのフセイン大統領(当時)は当初、アメリカよりもイスラエルの攻撃を恐れていたらしく、それを避けるために大量破壊兵器(生物化学兵器や核兵器)の存在を曖昧にすることで「疑いによる抑止」(deterrance by doubt)を意図していたということだ。ただし、これはイラク戦争開始以前の2002年前半までのことで、同年後半以降は、国連の調査に協力して大量破壊兵器が存在しないことを証明しようとしたが、「イラクが嘘をついていないと納得させることは難しかった」という。ノラリクラリの不誠実な対応にイスラエルに対する戦略的な意図があったとしても、外交には誠実さが重要ということだろう。

 この報告書でもう一つ興味があるのは、フセイン大統領は、アメリカは自国を攻撃しないだろうと楽観していて、万一攻撃されても米軍を撃退できると考えていたらしいことだ。アメリカが攻撃しない理由は、イラクに権益をもつロシアとフランスの反対が強いと考えていたからだが、米軍に勝てると考えた理由はよく分からない。多分、都市でのゲリラ戦は自国に有利と考え、戦争の長期化によって米国内の反戦気運が高まることを期待していたのかもしれない。
 
 このような報告書の分析が細部まで正しいかどうかは不明だが、「戦争は“誤算”によっても起こる」という点は心にとどめておくべきだろう。フセイン氏は、アメリカの意図を大きく読み間違っていたからだ。振り返ってみれば、大東亜戦争開戦時には、日本に大きな誤算があったし、朝鮮戦争やベトナム戦争の時にはアメリカ側にそれがあった。また、湾岸戦争には、イラク側に大きな誤算があったことが分かっている(誤算の内容は省略)。誤算とは、不正確な認識が原因で計画が思い通りに行かないことであるから、一種の“迷い”とも言える。
 
 昨年4月20日の本欄で、私は今回のイラク戦争のアメリカ側の原因として、「2つの迷妄」を挙げた。それは、①イラクが核兵器を含む大量破壊兵器をもち、②テロリストを支援している、と信じたことだった。この2つとも、今では事実でないことが明らかになっている。そして、もし今回の米軍の報告書が正しければ、イラク側の戦争の原因もいくつか明らかになったことになる。それは、①フセイン大統領が、アメリカの“真意”を読み間違ったこと、②フランスとロシアのイラク攻撃反対を過信したこと、そして、③米軍の戦力を過少評価したことだ。これら3つの誤算には、湾岸戦争時の体験が少なからず影響しているだろう。湾岸戦争当時のアメリカ大統領は“お父さんブッシュ”だったが、フセイン氏は“息子ブッシュ”は父に勝らないと考えていたフシがある。また、9・11テロが、ブッシュ大統領を含むアメリカ人全体に与えた影響についても、フセイン氏は過少評価していたと考えられる。
 
 さて、戦略論の側面から見て、興味深い問題がもう一つある。それは、今回の戦争では、大量破壊兵器(WMD)が抑止力として機能しなかったと考えられることである。もちろん、イラクにはWMDは存在しなかった。しかし、アメリカ側は(少なくとも表面的には)それが存在すると考えていたのだから、アメリカに対しては存在したのと同じ効果をもった。が、ブッシュ大統領は「先制攻撃論」を展開して、多くの国の反対を押し切ってイラク侵攻を行ったのである。フセイン大統領の読みは、大間違いだったわけだ。イラクは、イスラエルの攻撃抑止のためにWMDの存在を曖昧にしたが、そのことが却ってアメリカの先制攻撃を誘ったのである。
 
 このことを考えれば、核兵器を含むWMDの抑止力は、アメリカのような超大国を相手にした場合、限定的にしか機能しないことが分かる。つまり、その存在を曖昧にしているのでは、武力で圧倒的に勝る相手からは先制攻撃を受ける危険があるのである。北朝鮮は、イラク戦争でそのことを学んだのかもしれない。だから、イラクのようにWMDの存在を曖昧にせず、「我々は核兵器を持っている」と明確に宣言し、それを使う意志があることもほのめかしている。そして今のところ、北朝鮮の戦略は成功しているようだ。

谷口 雅宣

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2006年3月17日

拝啓、トヨタ自動車殿 (2)

 前略。このたびは御社の「レクサス・ハイブリッド」の発表を新聞紙上で読ませていただき、再びお便り致します。

 小生は昨年7月27日、御社が高級ブランドとしてレクサスをアメリカから日本へ“逆輸入”するとの発表を聞き、地球温暖化防止の観点から苦言を呈した者です。御社が優秀な環境技術をもちながらも、それをフルに活用するのではなく、利幅が広く、かつ温室効果ガスを多く排出する“高級車”の販売で利益を稼ぎ出す方向に進んでおられることを悲しんだ者です。また、御社誕生の地である日本よりも、アメリカでの成功に熱意を示されていることを寂しく思う者です。

 世界企業である御社が、世界一の市場であるアメリカでの販売を日本より優先することは、経営面から考えればきわめて合理的かもしれません。また、御社は営利企業なのですから、利益が出なければ先行投資ができないことは充分承知しているつもりです。しかし、今回の「レクサスのハイブリッド化」には少なからず驚きました。もともと燃費が悪く、需要もさほどない高級車の燃費を多少改善することと、需要の多い中級車の燃費を改善するのとでは、社会と地球環境に及ぼす影響に大きな違いが出ると思います。前者よりも後者の方が、社会や環境への貢献が大きいことは言うまでもありません。
 
 しかし御社は、そんな配慮とは別の理由から今回の決定をされたのでしょうか? 今日(3月17日)の『産経新聞』の分析では、御社は日本でのレクサスの販売が目標の八割と低迷しているため、ハイブリッド化による「低燃費」をセールスポイントに加えることで、目標達成を図るつもりだというではありませんか。これは本当でしょうか? もし本当なら、「日本でのレクサス販売を成功させる」という意地を通すために、環境技術を無理に使ったように聞こえます。御社の環境技術は人類全体にとって貴重なものですから、意地や見栄のためではなく、最も効率的に地球環境保全に役立つように使っていただきたく思います。私の個人的感想を言わせていただけば、日本には最早いわゆる“高級乗用車”は不要です。
 
 その理由を申し上げます。こんなことは「釈迦に説法」の感がしますが、日米間ではガソリンの販売価格に大きな違いがあるからです。日本のガソリンの値段は、米国の政治コラムニスト、トーマス・フリードマン氏(Thomas L. Friedman)が「アメリカ人が次世代ハイブリッド車を要求するようになる」と言っているほどの高水準に、すでにあります。そして日本での調査によると、昨年来の石油高騰によるガソリンの値上げによって、日本のドライバーの多くは運転を控えるようになっています。これに対し、アメリカでは燃費のいい日本車が売れていることは事実ですが、自動車の運転を控える兆候はまだありません。そんな中で、燃費の悪い“高級乗用車”を日本に投入する意義が一体どこにあるのでしょうか?
 
 御社の製品企画部では、今やGMを抜いて「世界一」になろうとしている自動車会社が、ベンツやBMWに匹敵する“高級乗用車”を製品ラインにもたないことを引け目と感じ、今回の決定をされたのかもしれません。しかし、「一流メーカーは、富裕層の優越感を満たす車種を作らねばならない」という従来の考え方は、地球温暖化時代の“意識ある富裕層”に今後も適用できるものでしょうか? ハリウッドの俳優が御社のプリウスを愛用することで社会に自らをアピールする時代です。外部者の身勝手な要求かもしれませんが、「温暖化防止に真面目に取り組むのが一流メーカーだ」という新しい基準を打ち立てることができるのは、御社をおいてほかにありません。それこそが、本当の意味での「世界一の企業」が示す姿勢ではないでしょうか。
 
 最後になりましたが、前回の手紙の中に不正確な表現があり、結果的に御社の御努力を正しく評価しなかったことをお詫び申し上げます。小生は前回、御社が「プリウス」発売(1997年)以降、「クルーガー」と「ハリアー」のハイブリッド化までの期間(昨年夏まで)、日本において「SUV車にハイブリッドの技術を載せることをされませんでした」と書きましたが、これは必ずしも正確でなかったかもしれません。御社は、プリウス後の2003年に「アルフォード」にハイブリッド版を追加されました。アルフォードは「大型ミニバン」に分類されることがあるので「SUV車」でないと考えたのですが、排気量で比べるとクルーガーとハリアーは“3リットル台”で、アルフォードは“2リットル台”の4WD車です。これをSUV車と見れば、小生の表現は不正確ということになります。
 
 御社におかれては、今後も環境技術をさらに磨き、フルに生かして、温暖化防止に取り組む“先行メーカー”として益々発展されますことを、影ながら期待しています。そして、RAVクラスのハイブリッドSUVを是非、早期に発売してください。

谷口 雅宣

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2006年3月15日

カプチーノで「ありがとう」

 今春から東京で大学生活を始めるため、甥とその母(妻の妹)が伊勢から上京していた。今夜は、彼の入学祝いということで、お台場のホテルでささやかな夕食会を催した。東京湾に臨む窓辺の席からは、ブルーライトで薄化粧したレインボー・ブリッジが大きく見え、その下方で、赤提灯を満載した屋形船が何艘も漂っている。遠景には、ワイヤーフレームのような輪郭を光らせた高層ビル群が並ぶ。東京という街は、やはり昼よりも夜が美しいとの感を強くした。

 妻は5人姉妹の長女で、今回上京した義妹は上から4番目である。彼女は、私たち夫婦が横浜で新婚生活をしていた頃、近くに住んでいて行き来していた。また彼女が結婚した後も、私たちの子供が旅行ができるほど大きくなると、休暇中に伊勢で預かってもらったり、それぞれの子が18歳になった時、自動車の運転免許の取得でお世話になっていた。そして、私たちの末娘は今春、21歳で学校を卒業した。義妹の子供は2人いて上が女、下が男だが、その2番目の子がもう大学に行く年頃になったのである。この彼は、私たちの方で預かったことも何回かある。そんな時は、後楽園遊園地や横浜のラーメン博物館などへ連れて行ったものである。彼は今、見上げるような身長180㎝の茶髪青年となり、腰から抜け落ちそうなジーンズをはいている。光陰矢の如しである。

「地中海料理」を出すレストランで、魚介を中心とした食事をゆっくりいただいた。平日のためか店内の客はまばらで、静かな時間を過ごせた。最後のデザートには、義妹と甥は紅茶を注文し、妻はカプチーノ、私は普通のコーヒーを選んだ。紅茶とコーヒーが先に出され、私たちは妻の頼んだカプチーノの到着を待った。
 数分後に、ウェイトレスがそれを持ってきたが、妻は何を思ったのか、
「Oh, thank you!」
 と、大きな声で礼を言った。
 私は、「何を気取って……」と彼女の反応を疑った。いくら英語を話すからといって、日本のホテルで日本人の店員に向って英語で言う必要はない。アルコールも飲んでないのに酔っ払いのようだ、と思ったのである。
 そのウェイトレスは、目を光らせて
「ありがとうございます」
 と言ってから、私たちのテーブルから去っていった。
 
 義妹と甥は、しかし妻のキザな言葉に抗議や批判をしなかった。私も、それを口にするほどではないと思い、デザートを食べながらコーヒーを啜っていた。妻は、なぜかカプチーノになかなか口をつけない。私は、自分のコーヒーが半分ほどなくなってから、妻のカプチーノを要求した。私たちは、よくこういうことをする。味や香りを2倍楽しもうというわけだ。

 目の前に来たカプチーノのカップを見て、私は驚いた。口まで白い泡が盛り上がっているのは普通のカプチーノと同じだが、その泡の表面にチョコレート色の模様が浮き出している。それを見ると「Thank you.」という英字が読め、その後にハートのマークが2つ並んでいるのである。私はこの時やっと、妻の奇矯な行動の理由を了解した。
 
「料理は口と目で食べる」とはよく言うが、こういう演出に遭遇したのは今回が初めてである。私たちは、コーヒーカップのあの狭い円形の中に、どうやって文字を浮かべるかを議論しながら、その店を後にしたのである。
 
谷口 雅宣

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2006年3月14日

ボストン通りの店 (3)

 白木の扉から奥へ入ると、そこは細長いL字型のテーブルが高い位置に設置され、鮨屋のカウンターのような店になっていた。先客が3~4人いて、止まり木式の椅子の上で何かを箸でつついている。私は、その後ろの狭い通路を体を横にして通り抜け、椅子の一つに上った。
 襷がけをした女主人がもう目の前にいて、暖かいおしぼりをくれた。
「何にしましょうか?」
 私はおしぼりで手を拭きながら、周囲を見回した。一杯飲み屋といった雰囲気であるが、インテリアを白木と同じ色で統一してあって清潔感がある。その明るい色の店内の要所要所には、猫の絵や、写真、置物があった。
「櫃まぶし、あります?」
 私は、もう決めていた食事の名前をメニューも見ずに言った。
「それは、あります」と、女主人は自信ありげに言った。そして、
「お飲み物は?」と言いながら、白い厚手の和紙のメニューを目の前に滑らせた。
 それを手にして、私は驚いた。表紙の中央部に1匹の黒猫の模様が押してあるデザインはよかったが、中を開くと、猫にまつわる飲み物ばかりが写真入で並んでいた。マタタビ酒、ねこまた焼酎、猫ボトルのビール、猫ラベルのワイン、キーウィーのリキュール……。顔を上げると、女主人が目を光らせて笑った。
「うちは猫のお店なんです。お嫌いですか?」
「いや別に……」
 私は返事に困っていた。嫌いではないが特に好きでもない。道端で猫に遭えば、撫でる時もあれば追い払う時もある。猫は猫で、人間は人間だと思っている。
「インターネットで猫好きの仲間と騒いでいるうちに、お店を作ろうってことになりましてね……」
 と、女主人は笑う。
 私はそれで合点した。看板や広告など出さなくても、ネット仲間がたくさんいれば営業は成り立つのだ。しかし、私は猫のお酒など飲んだことがなかった。
「こういうの、飲んだことないんですが……」
 と私は言った。
「ビールもワインも、中身は普通のものですよ。ボトルの形やラベルのデザインだけが猫なんです」
 と女主人は言う。
「ワインで何か推薦してもらえませんか?」
 と、私はおずおずと訊いた。
 女主人はこっくり頷くと、冷蔵庫を開けて青い小瓶を1本取り出し、
「これ、いい猫でしょう?」
 と言いながら、それをコトンと私の前に置いた。
 500ミリリットル入りのワインの小瓶で、尻を突き上げた黒猫がラベルの中で踊っていた。
「これは有名なドイツ・ワインで、ツェラー・シュヴァルツェ・カッツ。“村の黒猫”っていう意味です」
 よどみないドイツ語の発音に、私は思わず女主人の顔を見た。とんがった顎が自慢気だ。

CatWine 「どうして猫がワインなんです?」
 そう言ってから、私は自分でも妙な日本語だと思った。しかし彼女は、質問の意味を了解したようだ。
「ヨーロッパでは、猫には魔力があると見なされていて、黒猫の座った樽のワインがいちばん美味しいんですって」
 女主人は顔を紅潮させている。私は、何か気まずくなってきた。
「じゃあ、それでいいです」
 会話を切り上げるために、私はそう言って女主人から目を逸らした。
 ここはマニアの店なのだった。私のような部外者が入り込んではいけないのかもしれない。が、注文してしまったからには、すぐには帰れない。腹をくくるしかなかった。私は、女主人が注いでくれたワイングラスを手に持って、鼻に近づけてみた。フルーティーなモーゼルワインの香りがした。口に含むと、甘口の当たり前のワインだ。猫の味などしない。女主人は店の奥にいったん消えてから、再び姿を現すと、私の前に小鉢を置いた。
「サルナシの胡麻和えです」
 私は「へぇー」と思った。サルナシはキウィーの原種で、日本の山にも生えているマタタビの近種だ。食べてみるとその甘酸っぱさが胡麻の香りとよく調和している。なんとなく猫になりそうな気分だ。
 女主人は、私がさほど猫に興味がないのを看て取ったのか、先客の前へ行って食器を拭きはじめた。
 私は、店内に飾られた猫の写真や置物をしげしげと見ていた。その中に、黒猫が絡みついたデザインの緑色の瓶がある。先客の一人は、それと同じものを手で弄んでいた。
 気がつくと、その隣の中年女性の膝の上には毛足の長い猫が載っている。
「あぁ、猫だなぁ……」
 と、私はため息をついた。
 猫は人に飼われたり、媚びたりするだけでなく、そのイメージだけで人間を陶然とさせている。猫はこの魔力で人間を惹きつけ、多くの生物種が絶滅する中でも子孫を着実に殖やしてきたのだ。
 そんなことを考えていると、目の前のワイン・ラベルに描かれた猫の顔が、女主人の顔と限りなく重なってくるのだった。
 
 谷口 雅宣

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2006年3月13日

ボストン通りの店 (2)

 ボストン通りの商店街は、電燈をともし始めていた。
 ここには歩道の上を覆う雨よけの屋根はないが、ところどころに鮮やかな色の庇を出した店がある。それは中国料理店だったりイタリア料理店だったりするのだが、焼き鳥屋や居酒屋、惣菜店、鮨屋、旅行社、不動産屋、コンビニ店などと並んでいても、浮き立って見えないところが不思議である。昔からそこにある店だからだろうか。
 私は、そういう店の前を通りながらも、目はあの無看板、無広告の店に向いていた。とりあえずそこへ行ってみて、そこが飲食店でなければ別の店に入ればいいのである。
 100メートルほど歩いて、その店の前に来た。白っぽい壁が目立つ一見民家風の家で、縦方向に細かい木の桟が入った玄関を中心に、シンメトリーの構造になっている。左右対称なのだ。玄関の左右の脇にそれぞれ1本ずつ鉢に入った大形の観葉植物が置いてある。そして、暖簾には本当に何の文字も書いてなく、下げられた位置が普通より高い。これだと、暖簾を気にせずに出入りできるはずだった。
 思い切って、引き戸を開けてみた。
「こんばんは……」
 と言いながら、店内に一歩踏み込む。やはりそこは普通の民家の玄関だと思った。靴脱ぎ用の石と、一段高くなった上がり框が見えたからだ。その先には屏風が立ててあった。
「失礼しました」
 と言って踵を返したとき、
「どうぞお上がりください」
 と、女性の声が言った。
 振り向くと、40代前半と思われる女性が着物姿で立っていた。目立たない化粧で、商売人とは思えない。
「あのぉ、食事できるところかと思ったんですが……」
 と、私は半分逃げ腰で言った。
「あぁ、できますが、種類は多くありませんよ」
 と、その女性は膝を畳につきながら言った。そして、「どうやってここを?」と訊いた。
 私は返答に困り、
「はぁ、何となく雰囲気がよかったんで……」
 と、口から出まかせを言って笑顔を作った。
「あら、そうですか」
 と言って、女主人らしきその女性は口元を緩ませた。
 私は意を決して、靴脱ぎの上に立った。するとその女性は、
「お店は、あちらからお願いします」
 と言って、玄関の脇の方を手で示した。
 そこには、人ひとりがやっと通れるような細長い白木の扉がついていた。普通の住宅の一部を改造して飲食店にしてあるようだった。
 
谷口 雅宣

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2006年3月12日

ボストン通りの店 (1)

 私はその日の夕方、金山駅前にあるホテルの4階の窓辺に立って薄暮が近づく街を眺めながら、夜の行動計画を練っていた。
 名古屋のこの界隈に来たのは初めてである。金山駅は、JR東海道本線、中央本線、名鉄名古屋本線、そして地下鉄名城線の4本が乗り入れる大きな駅だ。しかし、「名古屋の副都心」と言われるわりには、人通りが多くないように感じられた。多分、東京の新宿駅と比較してそう思うのだ。
 私が眺めている駅前通りには、飲食店の看板が多く見える。まだ6時前だったから、赤や緑や黄色の文字が並ぶそんな店には、人は多く入っていないようだった。二人連れの若者が多いのは土曜の午後だからだろう。が、そんな中に混じって、ジャンパーに野球帽や鳥打帽姿の中年男性が、何人もやや前のめりの姿勢で早足で駅に向う。ひと仕事終えた人が家路につく、という雰囲気である。
「何の仕事だろう」
 と思いながら、私はそんな人たちを目で追っていた。
 と、そのうちの一人が飲食店街の外れまで行ったところで、そこの店の中にスルリと消えた。
「そうか、もう食事時か……」
 と思って、私は時計を見た。5時48分である。夕食にはまだ早いが、早すぎるというほどでもない。私は自分の腹の空き具合を確かめた。せっかく名古屋へ来たのだから、東京でも食べられるようなものは選ぶまい、と思った。鳥の手羽先、きしめん、鰻の櫃まぶし……などの言葉が浮かんで来る。それと共に空腹感が腹の奥から持ち上がってきた。
 視線をふと別の方向に移すと、どの店からも離れた道路沿いに、標識のような横長の看板を見つけた。
「ボストン通り」
 と書いてある。妙な名前だ、と私は思った。
 駅周辺を歩いていたときに「大津通」「伏見通」「東桜通」などと書いた看板を見て、伝統を感じさせる風情のある名前だと思ったのだが、この名前は何だろう。東京の原宿には若者の気を惹くためか、「ラ・フォンテーヌ通り」とか「ブラームスの小径」などという名前をつけた路地がいくつかある。また、明治神宮の表参道に「シャンゼリゼ」と命名した時期もあったが、これは余りにみっともないので後に廃止された。名古屋の人も似たような病気に罹っているのだろうか。
 そんなことを考えながら、再び窓外を行く人の動きを目で追い始めた。と、あの中年男が消えた店から、男が一人出てくるのが見えた。今度は帽子をかぶっておらず、店の前に停めてあった自転車にまたがったから、別人に違いない。この店はいったい何の店かと思って周囲を見たが、看板が見当たらない。それどころか、品書きや料理のサンプルを並べる棚、扱っているビールや酒の銘柄をあしらった広告灯など、普通の飲食店にあるはずのものが何もないことに気がついた。そこが飲食店らしいことを示すものは、くぐり戸の上に掛けてある無地の白っぽい暖簾だけなのだった。
「暖簾があっても、飲食店とは限らない」
 と思う。
 その時、青いボンゴ車が店の前に来て、半分歩道に乗り上げるようにして停まった。中から、夫婦者らしい中年の男女が出て来て、店の中に消えた。女の方は、何かの小動物を小脇に抱えているように見えた。
 私の頭の中は疑問符で埋まってしまった。
 看板も出さず、広告も行わない場所に人が出入りする場合、そこは普通の民家である。それなら、まるで商店のように暖簾が出ているのはなぜか? また、自転車で人が来て、満足気な顔で帰っていくのはなぜか? 看板や広告がなくても、充分な数の客が来るということか? それとも大っぴらに営業できない理由でもあるのだろうか?
 私はもう、その店に行くことに決めていた。食欲ではなく、好奇心がそう命じていた。

 谷口 雅宣

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2006年3月11日

本来の自然とは?

 生長の家の講習会のため、午後から名古屋へ向った。東京駅からの新幹線の中で車内誌『ひととき』3月号をパラパラと見ていると、植物生態学者の宮脇昭氏のインタビュー記事が載っていた。この人は、知る人ぞ知る“日本のワンガリー・マータイ”と言うか、年齢的にはマータイ氏の先輩格に当る77歳のスーパー老人で、世界中を植林して回っている。若いころドイツに留学して、ラインホルト・チュクセン教授から「潜在自然植生」という概念と、それを見究める目を徹底的に学んだ。そして、これを世界中に復活させる活動に身を粉にして--というよりは、喜び勇んで--励んでいる人である。
 
 人類は太古の昔から、生活や経済活動に利用するために草や木を植えてきたが、それらの植物は、もともとその土地になかったものでも、人間が手をかけることで成長し、大木にもなる。しかし、その土地の気候や地質、風土、地形、他の生物との関係などで、本来その土地に生きてきた植物の方が、“外来”で人間が植えた植物よりも気候や地形に適しており、他の生物との共生に優れ、かつ強い。これは1種類の植物だけに言えることではなく、昔からそこに生き続けてきた植物集団全体について言える。この本来の植物集団全体のことを「潜在自然植生」と呼ぶのである。

 それがなぜ「潜在」かというと、人類が太古の昔から森を利用してきた過程で、ほとんどの森林や草原は人間の好みに作り変えられてしまっていて、本来の植生は残っていないか、残っていても隅や陰に追いやられてしまっているからだ。表面に現われずに「潜在」しているというわけだ。しかし、その土地本来の植生の方が安定的であり、かつ動物や菌類とも共生的だから、潜在自然植生に属する植物を植えることで、土地は安定し、維持コストも最小となり、人間にも最大限の恩恵を与えることになる--そういう考え方である。だから、世界各地へ行って、その土地の潜在自然植生に属する植物を植えることは、人間を含めた生態系全体に恩恵をもたらすことになる。
 
 宮脇氏の言葉を借りれば--

「人間の都合で出来た人工の林は、根が浅くて倒れやすいから地震にも台風にも弱くて、土砂崩れが起きる。保水機能も浄化機能も低い。虫がつきやすいし、枯れれば火事が心配になる。もともとその土地のものではないから、人が手を入れて維持しなければならないんですよ。手をかけなくなると問題が生じてくる」(同誌、pp. 40-41)

「潜在自然植生」の考え方は、生長の家で説く「実相」と何となく似ている。が、当然ながら同じではない。一方は、植物生態学の概念であり、他方は宗教や哲学上の概念である。しかし、双方とも「見せかけの存在」と、その奥にある「本物の存在」を区別して扱うところが似ている。「仮の相(すがた)」の背後に「本来の相」の存在を信じるのである。そして、「本来の相」である潜在自然植生が顕在化すれば、そこには人間を含めた生物相互が共生する安定的な環境が実現する、と考えるのである。

Nagoya0603  ところで、名古屋市では金山駅前の30階建てのホテルにチェックインし、22階の部屋に泊まった。窓からは名古屋市内が広々と一望できるが、東京に輪をかけて緑が少ない灰色一色のビル群の間を、道路が縦横に交錯する。気温上昇の影響なのか、遠景はスモッグで霞んでいた。宮脇氏に言わせれば、こんな土地にも潜在自然植生はあるのである。これを再生させる契機になるのが「鎮守の森」だと同氏は言う。神社には、その土地にもともとあった木や草が残されていることが多いから、そこの植生を維持し、周囲に拡大することで、その土地本来の自然が再び立ち上がる--地球温暖化による「ノアの洪水」が来る前に潜在自然植生が復活すれば、我々はひょっとして「エデンの園」に復帰できるのだろうか。

 私は、宮脇氏に訊きたいことが一つある。それは、地球温暖化による気候変動が起こりつつある今、「潜在自然植生」の概念が維持できるかどうかということである。つまり、この概念は「その土地本来の気候」の存在を前提としているのだから、気候変動が起こればそれが崩れる可能性が出ると思うからだ。東京でパイナップルが育つようになれば、武蔵野の原野の復活は難しいだろう。そうなる前に、打つべき手はすべて打つことが必要だ。
 
谷口 雅宣

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2006年3月10日

人類は進化する?

 前回は、人間の環境への適応について触れたが、生物の生存の可否にとって、環境と同じぐらいに重要なのが遺伝的素質である。人間の環境への適応性は「脳」という臓器の発達によるところが大きいが、その脳は遺伝的な原因が環境の力に“選択”されて現在のような発達を遂げたと考えられる。そこで大きな疑問が湧いてくる。それは、人類は遺伝的に進歩しているかどうかだ。今の人類であるホモ・サピエンス・サピエンスは、先行した人類であるクロマニヨンやネアンデルタールとは脳の大きさや構造などが違うことが分かっているが、今の人類においても、さらに進化する余地が残されているのかどうか。あるいは、進化しつつあるのかどうかという問題は、考えてみる価値はあると思う。なぜなら、それは人類がコンクリートとアスファルトで固めた都市を超えたものを生み出せるか否かという前回の疑問とも関係しているからである。

 こんな疑問に答えるかのように最近、科学者が興味ある研究結果を発表した。それによると、人類は過去1万5千年から5千年の間に、ヒトゲノム中の700箇所で変化が起こっているというのである。これらの変化は、味覚や嗅覚、消化機能、骨格、皮膚の色、そして脳の機能に関するものらしい。そして、こういう変化の多くは、人類が狩猟・漁労・採集による生活を捨てて、5千年前ぐらいに農業を営むようになったことと関係している可能性があるというのである。3月8日付の『ヘラルド・トリビューン』紙が伝えている。
 
 もしこの研究結果が正しければ、人類はまだ進化の途上にあり、将来さらに進化する可能性があることになる。心理学、社会学、政治学などの社会科学の分野では、人間の本性は一定だとの前提が暗黙裡にあることが多い。例えば、戦争は“人間の本性”(human nature)にもとづくという考え方が昔からあり、したがって戦争を避けるためには、この“本性”を満足させる一種の“代償行為”--格闘技やスポーツ、狩猟など--を社会が用意する必要がある、などと考えるのである。いわゆる“現実主義者”がこの種の考え方をすることが多く、それが宗教の領域に反映されたものが“原罪”の考え方や“罪悪甚重の凡夫”説と考えられる。簡単に言えば、「人間はいつの時代にも変わらない」という立場だ。

 ところが、今回の研究結果が正しいとなると、環境の側から人間の進化の方向に“圧力”をかけることができることになる。言い換えると、変貌する環境に対してうまく適応できた人間の遺伝子が後世に引き継がれることで、人間はもっと変化することができるということだ。今までの社会科学は、生物学や進化論とは比較的没交渉で発達してきたから、こういう考え方が生まれなかったが、よく考えてみれば、他の生物は皆進化してきたのだから、人類の進化も当然のことかもしれない。しかし、一体どんな方向に進化するのだろう。それを今の時点で占ってみることはできるだろうか? また、そういう人類の進化を促すほどの環境の変化とは、何だろうか?

 私は、地球環境問題が人類進化の契機となる可能性は充分あると思うのである。しかし、そのためには、聖書にある「ノアの箱舟」のような悲劇が起こることを怖れる。つまり、大勢の人類に大変な犠牲が生じた結果、残された少数の人間が新しい考え方にもとづいて“新人類”としての生活を始める--そういう事態にならないことを切に希望するのである。
 
 私があまりにも悲観的だと読者は言うだろうか。しかし、北朝鮮やイラン、イラクでの出来事や、エイズなどの感染症の蔓延、化石燃料をめぐる昨今の大国のエネルギー争奪の動きなどを見ていると、地球環境の危機を見て見ぬふりをする人間の方が、その防止に真剣に取り組む人の数よりも圧倒的に多いような気がして仕方がないのである。快適な都市の生活から離れられない自分も、ひょっとしたら“絶滅危惧種”の一人なのかもしれないが……。

谷口 雅宣

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2006年3月 9日

大都会を走る

 休日だったので、久しぶりに東京都内を運転した。仕事で出張の際も、東京駅や羽田空港の間をよく往復するが、この時は自分で運転せずに、車内では読み物をしていることがほとんどだ。だから、外の風景をじっくり眺めることは少ない。しかし、自分でハンドルを握りながら、コンクリートとアスファルトで塗り固められた都会の道を走っていると、「人間はトンデモナイものを作り上げて、その中でよくもまぁ嬉々として生活しているなぁ~」と嘆息してしまう。そんな嘆息の対象の中に私自身も含まれることは、言うまでもない。私は、こういう都会生活を決して嫌っていないのだが、よくもまぁこれだけの量の石灰質を空高く積み上げ、また地下深くにまで塗り込んだと思うのである。
 
 サンゴという動物(植物ではない)は、8本の触手のあるポリープ(サンゴ虫)が雌雄の交配なしに殖えていき、木の枝のような殻を作り上げていくらしい。この殻は、ご存知のように宝飾品として利用される堅い有機質で、主成分は炭酸カルシウム(CaCO3)である。つまり、ポリープが海中の炭素を固定したものだ。海中の炭素は、大気中にあった二酸化炭素から来ていると考えられるから、サンゴの繁殖は地球温暖化の防止に役立っている。サンゴ以外の貝類の殻、有孔虫、石灰藻も炭酸カルシウムを多く含むから、同じような役割をしている。この炭酸カルシウムが「石灰石」だ。また「石灰岩」と呼ばれるものは、石灰質の殻をもつ生物の死骸が堆積してできた岩で、炭酸カルシウムが重量の半分以上を占めるものを言う。これらはもともと、生物の作用により大気中の二酸化炭素から作り出されたものだ。

 そう考えると、石灰を塗り固めてできた都会は、人工的な空間の“極致”のように感じられるが、人間の力だけではできなかったことが分かる。アスファルトの原料である原油も太古の生物の死骸がもととなっているし、コンクリートの主原料であるセメントは石灰石で、これまた生物の炭素固定作用のおかげで作られたものだ。そんなことを思いながら、大都会のビルの谷間を延びる高架式道路の上を走っていると、そこは無味乾燥な人工構造物などではなく、海中のサンゴ礁に匹敵するような複雑な“自然”の一部であり、ハンドルを握る自分は無数のサンゴ虫の中の一匹であるかのような錯覚にふと陥る。ただし、サンゴ虫と人間との違いは、前者が自分の行動を意識的にとらえることがないため、自分を超えられないのに対し、後者は自分を意識することで行動を制御する力を有し、行動の結果から次の行動を変えることができる点だ。
 
 人類が地球上の多様な環境に適応して生きてこられた理由が、そこにある。しかし今や、64億とも65億とも言われる数に達した人類は、地球環境問題に直面して、本当の意味で、この適応能力が試されているのだと思う。海中のサンゴは、自らが繁栄しながら、無意識にではあるが「サンゴ礁」という生物多様性の宝庫を作り上げる。これに比べ人類は、自らが繁栄を目指して意識的に作り上げた「都会」の中で、生物多様性を急速に減退させながら、毎日の仕事に肉体と精神をすり減らし、自分の孤独と戦う。これがかくも多様な環境に適応することができた人類の行き着く先とは、私にはとても思えないのである。もしそうなのであれば、人類には本当の意味での適応能力はないのである。
 
 人間が自然を力ずくで征服しようとする方法が本当の意味での「適応」ではないことに、多くの人々が気づきつつあるゆえんである。
 
谷口 雅宣
  

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2006年3月 7日

悪を放置するのか? (2)

 前回の結論--悪は人間の心の中にある--は、その言葉だけを取り出して眺めてみると、誤解される余地がある。その誤解とは、悪が人間の中にあるのであれば、人間は「神の子」ではなく「悪の子」ないしは「罪人」と言えるのではないか、と考えた場合である。前回の説明を注意深く読んだ人はそんな解釈はしないと思うが、この点を明確にしておくことは必要かもしれいない。私の言う意味は、「悪を悪として感じる原因は、人間の心の中にある」ということである。前回も触れた「釈迦と悪魔」という文章には、この「悪を感じる原因」のことを「悪さの量り」という言葉で表現している。また、この反対に「善」を感知するもののことを「善のセンサー」と表現している。
 
 この2つの“測定器”は、本質的には同じものと言っていい。それはちょうど、「同じ幅の目盛が入った長い物差し」のようなもので、物差しの上の数値には「正の値」もあれば「負の値」もあるというわけだ。単純化して書けば、こんな感じだろうか……
 
 ----+----+----+----+----+----+----+----+----+----
      -20    -15    -10    -5      0      5      10     15     20

 私たち人間は皆、こういう善悪を測る“物差し”を心の中にもっていて、周囲で起こる様々な事象や現象に、この物差しを当てて測るのである。そして、「これはすごく善い」とか「これはちょっと悪い」とか「これは善でも悪でもない」……などと評価する、と考えられる。
 
 問題は、この“善悪測定器”が各人バラバラである場合が多いことだ。前回は、「コップに水が半分入っている状態」を例に引いた。これをプラスの価値として見る人と、マイナスに捉える人がいるだけでなく、同じ人間でも、喉が渇いている時とそうでない時とでは、評価が違う傾向があるから、やっかいだ。もっと大がかりな例を出すと、先日、ブッシュ大統領がパキンスタンを訪問した際、反米デモが起きたことが報道されていたが、この中に「ブッシュはテロリストだ!」と書いたプラカードがあった。我々日本人の立場では「ナンデそうなるの?」と不思議に思うが、アフガニスタンに続いてイラクの政権が米軍の武力で転覆させられ、ミサイルやロケット砲で戦闘員以外の数多くの人々が殺されたことを身近に感じているイスラームの人から見れば、そういう言葉が自然に出るのかもしれない。彼らは、「ブッシュは悪だ!」と言っているに等しい。そして、ブッシュ大統領から見れば、一部のイスラーム過激派の勢力が「悪」そのものに見えるのだ。
 
 こういう場合、いったいどちらが「善」でどちらが「悪」なのだろう? あるいは、もう少していねいに質問すれば、どちらが「より善く」て、どちらが「より悪い」のだろう? この質問への答えは、答える人によって違うだろう。なぜなら、心の中にある“物差し”は各人によって違うことが多いからだ。このように考えてくると、「悪と戦う」ことや、「悪を退治する」ことが、この世から悪を消すことにつながると考えるのは、単純すぎるということが分かってくる。

 言語や文化が共通した一国内にあっては、人々の心の中の善悪測定の“物差し”も似通ってくる。道徳や法律や倫理は、そういう共通した“物差し”の上に成り立っている。しかし、そんな共通の物差しがある場合でも、前回取り上げた「A氏」を裁判官が「悪」だと認めて彼を死刑に処せば、「悪」はなくなるのだろうか? 私は、A氏の肉体は消えても「悪」がなくなるとは思えない。また、別の条件下で、“物差し”が一部狂ったX氏やY氏が現われて、悪事を働くことになるのだと思う。
 
「では、悪を放置しておくのか?」と、読者は再び問うだろうか。私は、「悪」という実体はないと言っているのだ。実体のないものは、放置するもしないもないのである。そこにあるのは「悪」ではなくて、我々がある事件や人物に対して、心の“物差し”を当てた時に「負の値」を示した--という「状態」があるだけである。この“物差し”の当て方を変えたならば、同じ「状態」であっても、負の値を示さない(つまり、悪いと思わない)かもしれないのである。こうして、「心によって悪が消える」という魔法のような可能性が生まれてくる。

谷口 雅宣

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2006年3月 5日

悪を放置するのか?

 大阪城ホールで行われた生長の家の講習会の午前の講話で、「悪と戦う」ということは実相に於いては非存在の悪を心で認めることになるから、好ましくないという話をした。すると、質疑応答時の質問の中に、「生長の家は悪を放っておいて良いという事ですか?」と疑問を投げかけるものがあった。そのほかにも、「悪は退治しないと滅ばないんじゃないかと思う」とか「仮の姿とはいえ表れているのだから、具体的解決法を提示すべき」とか「悪が現われなければ善が出ないという事か?」など、いくつも質問が出された。これらの質問の中には誤解もあったので、午後の講話の時間には私の言葉の意味を説明し直したうえで、生長の家では「悪を放置」するのではなく、「本来非存在」である悪を本来の無に帰するために「善を行う」ことに力を入れる、という点を伝えた。

 善と悪の問題は、宗教上も哲学上も大変奥が深く、難しい問題でもあるので、数十分の話で的確充分な回答ができるものではない。そこでこの場を借りて、補足を試みることにした。もちろん、このような場での充分な説明が可能かどうかの問題があることは承知のうえだ。
 
 まず「悪はどこにあるか?」について考えてみよう。かつて「オウム真理教」と呼ばれた宗教団体の教祖、A氏が、いま刑事被告人となって裁判を受けている。ではA氏は悪だろうか? そう訊かれたならば、私は「A氏は人間である」と答えるだろう。「では、彼は悪くないのか?」と訊かれたならば、「もちろん、悪い行為をした」と答える。「悪い行為をした人間は、悪ではないか?」と訊かれれば、「行為が悪であっても、それを実行した人が悪そのものということにはならない」と答えるだろう。「何をまどろっこしい!」と読者は腹を立てるだろうか?

 私が言いたいことは、「悪い行為」「悪い人」「悪い病気」などはあったとしても、「悪そのもの」や「悪という実体」がどこかに厳然として存在するのではない、ということである。だからもちろん、よく“悪の権化”と見なされる「悪魔」などは存在しない。このことは、本欄の前身である『小閑雑感 Part 3』の中で、「釈迦と悪魔」という対話形式の文章などに表現したことがある。興味がある方は、そちらを参照されたい。

 さて、A氏が「悪そのもの」でないとしても、「戦争は悪ではないか?」と読者は問うかもしれない。私は「戦争は悪い」という言葉に100%、いや200%賛成するが、戦争という実体の存在を認めない。つまり、戦争というものは、一定の空間上の容積や質量をもった物質的存在ではないということだ。戦争はそういう“実体”ではなくて、“状態”である。実体として存在するのは、戦車や戦闘機やクルーズ・ミサイルや兵士や空母やイージス艦やレーダーや将軍や弾薬や核兵器……などだ。しかし、これらはすべていわゆる“平和”の時にも存在する。平時には軍事演習もあるのだから、ミサイルが空を行き交っても、迫撃砲弾が飛んでいても、そのこと自体が「戦争」ではないし「悪」でもない。これらの兵器や装備は「悪の媒体」となることもあるが、「善の媒体」としても機能する。例えば、自衛のために使われたり、国連の制裁措置の一環として使われたり、あるいは国威を示すためのデモンストレーションとしても使える。

 ということは、我々が普通に「善」とか「悪」と言う場合、それは、ある「状態」に対する評価である場合がほとんどなのである。よく言われることは、コップに水が半分入っている状態を見て、ある人はそれを「半分しかない」と否定的に評価する一方、別の人は「半分も入っている」と肯定的に評価する。これと似たようなことを、我々は善悪を判断する時にも行う。先に挙げたA氏の行為でさえ、日本の大多数の人は「悪い」と評価することは疑う余地はないが、地下鉄サリン事件などの実行犯となった信者や教団幹部は、その当時、命令された行為を「善い」と信じて(あるいは信じようとして)実行したことが分かっている。
 
 こういう諸々の事実を考えてみると、「悪」なるものは実体としては存在せず、それは評価する人の心に生じる否定的な力(拒絶感)を、外部に投影したものであることが分かる。したがって、「悪はどこにあるか?」との問いに対しては、「人間の心の中にある」と答えることができるだろう。

谷口 雅宣

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2006年3月 4日

梅林を歩く

 東京は久しぶりの清々しい晴天である。気温は10℃とまだ寒いが、春の訪れは否定しようもない。空気が柔らかく、そこはかとなく花の香りを含んでいる。この「花」の中には、ツバキやスイセン、ジンチョウゲなどの目で楽しめる花だけでなく、スギなどの「目に楽しめない」花も含まれるようだ。天気予報には、このスギ花粉情報が盛り込まれるようになった。

 昨日の午後、ジョギングで神宮外苑まで足を延ばし、バッティング・センターの前でストレッチをしていた時、薄茶色の乾いたイモムシのようなものがアスファルトの上で潰れていた。啓蟄にもならないのにイモムシがいるはずがないと思い、よく観察してみると、これがどうも“スギ花粉”の発生源らしい。私はその時、大きなヒマラヤスギの根元で脚を伸ばしていたのだが、注意して見回すと、同じ“乾燥イモムシ”が周囲にはいくつも落ちている。手で曲げると簡単に崩れ、中から薄茶色の粉が出てくる。季節から考えて実や種ではないだろうから、このイモムシが花であり、花から出る粉は「花粉」に違いなかった。

 ところで、私の自宅2階の寝室からは、庭の紅梅がよく見える。七分咲きぐらいで、花びらの隅々まで朝日をいっぱいに浴びて嬉しそうだ。今日は、翌日に生長の家の講習会が開かれる大阪へと出発する。寝室で旅支度をしながら紅梅の花を眺めていると、気分も晴れやかになる。その可憐な花びらの桃色は、1枚の花びらの中心部が一番濃く、周縁に向うにつれて薄くなっていることに気づく。それらが5枚合わさり、中心から白い毛先のような繊細なオシベを何本も伸ばしている姿は、小さい花ながら結構豪華である。

PlumBlo01  午後からは、生長の家講習会のために大阪へ飛んだ。宿舎は、講習会場となる大阪城ホールのすぐ近くだったから、日が出ているうちに、と妻と連れ立って大阪城公園の梅林へ向った。今春、日本各地で花の開花が2週間ほど遅れていると聞いていたが、東京の庭で七分咲きなのだから、若干南に位置する大阪なら……と淡い期待をしていたのが、的中した。公園に植えられた数多くの木の半分ほどが、花を付けていた。とにかく種類が多いのが有り難い。固い蕾のものから満開に近いもの。白い花も薄桃色、濃桃色のもある。天に向って枝を伸ばしたものも、傘を思わせる枝垂れ梅もあった。そういう花を讃えながら、妻と2人でゆっくりと公園をそぞろ歩く。時間は短かったが、贅沢な気分を味わえた。
 
 数々の梅花讃えて日暮れかな
 
PlumBlo02

 最後に付け加えると、ヒマラヤスギの花粉は厳密に言うと“スギ花粉”ではない。なぜなら、この木は日本語の呼称だけでなく、英語でもヒマラヤン・シーダー(Himalayan cedar)とかインディアン・シーダー(Indian cedar)といってシーダー(杉)の名があるにもかかわらず、生物学の分類ではマツ科に属するからだ。

谷口 雅宣

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2006年3月 3日

“石油中毒”を克服しよう

 2月3日の本欄で、ブッシュ大統領が一般教書演説の中で「アメリカ人は石油中毒」と言った背景をさぐり、そこには次世代ハイブリッド車の技術開発が進んでいることを述べた。また2月10日では、アメリカの“キリスト教右派”と呼ばれる人々の間にも「環境保護」を真面目に考える人々が増えていることを書いた。石油の高騰が続けば“石油中毒”を克服しようとする人が増えることは当然で、大いに歓迎したい。

 今日(3月3日)の『産経新聞』は、同国の有力情報誌『コンシューマー・レポーツ』が、7日発売の自動車特集号で2006年の総合評価ランキングを発表し、取り扱った10部門のすべてで日本車をトップに選んだことを伝えている。そして同国での2月の新車販売台数を見ると、トヨタ、ホンダ、日産の3社が2月としては過去最高となったのに対し、GMとフォードは前年同月を下回った、とも書いている。長期化している石油高とイラク戦争等が、アメリカ人の行動をジワジワと変え始めているようだ。
 
 そんな中で、同国の政治コラムニスト、トーマス・フリードマン氏(Thomas L. Friedman)は、2日付の『ヘラルド・トリビューン』紙でガソリン税の値上げを主張している。石油高騰の中なのに、ガソリンの値段をさらに1ガロン3.5~4ドル(1リットル92セント~1ドル5セント)の水準まで上げるために、税率を上げろというのである。値上げが望ましい理由は、そこまでガソリンが高くなれば、バイオ燃料を使った次世代の(充電式)ハイブリッド車を消費者が要求するようになるから、という。しかし、昔から相当高率のガソリン税を導入している日本では、現在のガソリンの値段で、すでにフリードマン氏の勧める高額水準に達している。ところが、バイオ燃料にも次世代ハイブリッド車にも、熱心な“お呼び”はかからない。これは、どう考えたらいいのだろう?
 
 フリードマン氏によると、最近のニューヨークタイムズ/CBSニュースによる世論調査では、アメリカ人は「石油中毒は悪い」ということを知っているだけでなく、「正しい文脈の中で」問われれば、ガソリン税の値上げも容認する態度を示したという。同じ調査では、対象となった人の60%(共和党支持者の三分の一を含む)は、ブッシュ大統領の現在のエネルギー危機への対処の仕方に不満であり、87%の対象者は、大統領は自動車メーカーにもっと燃費のいい車の生産を義務づけるべきだ、と答えたという。ところが、単純ストレートに「あなたはガソリン税の値上げに賛成ですか?」と訊くと、85%が「反対」と答え、「賛成」はわずか12%だったそうだ。
 
「正しい文脈の中で」という点が、重要である。「海外の石油への依存度を下げるために」ガソリン税を値上げするのであれば、調査対象者の55%は賛成し、37%は反対だったという。また、「地球温暖化を緩和するため」であれば、59%が賛成し、34%が反対したという。だから、彼はこの2つの目的を明示して今、ガソリン税の値上げを実行すべきだという。彼によると、エネルギー問題は、今や9・11や“テロとの戦争”をも凌駕する戦略的重要問題だという。「環境・資源・平和」の問題は互いに密接につながっている、という私の主張と一致している。

 私はしかし、ブッシュ大統領が本気になってこの問題に取り組むという気がしない。1日に放映されたABCニュースでは、インドを訪問する直前の大統領に同局のキャスター、エリザベス・バーガス氏がインタビューしていたが、大統領はブッシュ家の偉大さを自慢顔で話し、「私の故郷はテキサスだよ」と目を細めていた。そのこと自体は何も問題ないのだが、テキサス州の経済が石油産業で成り立っており、ブッシュ家が“石油王”の家系であることを考えると、「石油から代替エネルギーに乗り換える」政策を彼が本気で遂行するとは思えないのである。もしそれができたならば、彼の名はきっと歴史に残るのだが……。
 
谷口 雅宣

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2006年3月 1日

自然への愛

 今日から3月である。3月1日は生長の家の立教記念日なので、午前10時から東京・原宿の本部会館ホールで「立教77年 生長の家春季記念日祝賀式」が行われた。以下は、この式典で私が行ったスピーチの概要である:

 3月からは春ですが、このところ寒い日が続いています。昨年の12月初めごろ、気象庁は今年は暖冬だとの予測を出しましたが、そのすぐあとで、日本各地で雪が降り出し、積雪量の史上最高記録が次々と打ち立てられました。地球温暖化に伴い、世界中で従来の気候や気象のパターンとは違った現象が現われてきています。それで気象の予測が困難になってきているのです。

 生長の家では、この地球温暖化をできるだけ防ごうと熱心に取り組んできていますが、これは単なる環境保全運動ではなく、宗教的に言えば「自然をどう愛するか」という問題であります。現在の地球規模の環境問題が示しているのは、我々人類が「自然を正しく愛していない」こと。その歪みが拡大してきていることを示しています。

 今日の立教記念日は、谷口雅春先生と輝子先生のご努力で『生長の家』誌の創刊号が発行された日であることは、すでに皆さん充分ご承知のことですが、この記念すべき創刊号に谷口雅春先生が「三種の愛」について説かれている所を、ご紹介したいと思います。この雑誌の28ページから引用します。
 
 「愛せよ。少しも求めずに愛せよ。これが愛の秘訣である。
  こんなに愛してやっているのに相手はこうだと批難するな。呟くな。
  愛は、その結果がどうなるからとて愛するのであってはならない。
  愛すること、そのことが神の道だから愛するのだ。
  愛すること其のことが幸福だから愛するのだ。
  結果をもとめた愛は必ず不幸に終る。」
  
 こう書かれてから、先生は「愛には3つの段階がある」と次のように説かれます。
 第1段階の愛--これは愛の結果の利益を予想して愛するのだから「功利的愛」であり、結局のところ「自己愛」である。
 第2段階の愛--これは相手が喜んでくれるから愛する、という段階で、功利的ではないが、相手からの認知が必要な愛であり、「求める愛」「特定の他者への愛」と言うことができます。
 第3段階の愛--これは報いや認知を求めない、自分を抜けきった愛で、「無私の愛」「無償の愛」「全体への愛」と呼ぶことができます。
 
 人生は、愛することを学ぶ場で、第1段階の愛から始まり、第2、第3へと進むことで「神の子」の実相が現れてくる喜びを体験するところに意義があります。人類全体も、このような愛の学習を歴史を通して行っているのです。私たちは皆、春が来て花が開けば嬉しく、明るい気分になります。自然を愛しているのです。でも、その愛し方に問題はなかったか。これを反省し、正しく愛すべきことを学んでいく過程にあります。

 例えば、「花を愛する」という場合は、①自然の場から取ってきて、花瓶に差す、という方法がありますが、これは「自分のために美しいものを取っておく」のですから、第1段階の愛です。花のついた枝を切って持ってくれば、植物にはいい迷惑です。次に、②庭に植え、あるいは植木鉢で育てる、という方法がありますが、これは一方で植物のためになるのですが、他方では「自分のためになる」ことを期待して育てるのですから、まだ第2段階の愛であり、「特定の他者への愛」と言えます。「特定の他者」という意味は、例えばサクラが咲いてお花見をする場合では、サクラの木の下にビニールシートを敷いて、大勢の仲間と一緒に酒を飲んだり、食事をしたりする。その間、サクラ以外の植物や動物のことなど忘れている。花見が終って弁当ガラなどのゴミを捨てていけば、自然の中から自分に都合のいい「特定の他者」を選び出して、それだけを愛している。その特定の自然物から「求める愛」であるということになります。
 
 これらに対して③そのまま自然界でそっと鑑賞する、という愛し方があります。また、自分に何か利益が及ばなくても、自然界の繁栄のために手を尽くすというのも、愛することです。そして、花が咲いている時だけ愛するのではなく、常に、すべての生物に、山や川もすべて含めて自然をそのまま慈しむようになれば、これは第3段階の愛に近づいていきます。
 
 我々は今、「特定の他者に対する愛」が昂じると、問題が出てくることを学んでいるのではないでしょうか。例えば、鳥インフルエンザを考えてみましょう。これは、去年から今年に入って、世界各地で致死性の高い種のウイルスに感染した鳥が発見されています。野生の鳥が渡りをする際に、人間の飼っている家禽類にウイルスを感染させていると思われます。しかし、このウイルス自体は、昔から鳥類に寄生しているのに、これまでは特に深刻な問題とはならなかった。それがなぜ今、世界各地で大問題になっているのでしょう。これは、予測される被害が莫大なものになるからです。その一つの原因は、現代の家禽の飼育は、牛や豚と同様に、自然界を改変し、狭いところに多くの鳥を囲って育てる方法をとっています。そのことによって、短時間のうちに大量の鳥にウイルスが感染することになる。言わば人間にとって、食用として価値のある「特定の種に偏重して愛している」わけです。この愛が「執着の愛」であるために、自然界を破壊し、さらに人間にも被害を及ぼすのです。
 
 愛とは、自他一体の実相を現わすことです。第3段階の愛は、それを最も明らかに実現させます。自他一体であれば、「他」のある所に「自」もあるのですから、人間の近くへ無理矢理もってくる必要はない。自然そのままの所にあっても、自分の意識が延長して「それと一体である」と感じるのです。人工的状態にもってこないと一体感を感じないのでは、自然との自他一体でなく、一種の奪う愛、執着の愛です。地球環境問題を考えることは、そういう歪んだ愛の修正を考えることでもあります。結局、我々がこの世界で学ぶことは、「すべては一体である」ことを実生活で体験することが、我々にとって本当の喜びだと知ることです。

 それでは最後に、私のウェッブサイトに掲載している祈りの言葉の中から、「“すべては一体”と実感する祈り」というのを紹介したいと思います。では、瞑目合掌をお願いいたします。

谷口 雅宣

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