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2006年3月 7日

悪を放置するのか? (2)

 前回の結論--悪は人間の心の中にある--は、その言葉だけを取り出して眺めてみると、誤解される余地がある。その誤解とは、悪が人間の中にあるのであれば、人間は「神の子」ではなく「悪の子」ないしは「罪人」と言えるのではないか、と考えた場合である。前回の説明を注意深く読んだ人はそんな解釈はしないと思うが、この点を明確にしておくことは必要かもしれいない。私の言う意味は、「悪を悪として感じる原因は、人間の心の中にある」ということである。前回も触れた「釈迦と悪魔」という文章には、この「悪を感じる原因」のことを「悪さの量り」という言葉で表現している。また、この反対に「善」を感知するもののことを「善のセンサー」と表現している。
 
 この2つの“測定器”は、本質的には同じものと言っていい。それはちょうど、「同じ幅の目盛が入った長い物差し」のようなもので、物差しの上の数値には「正の値」もあれば「負の値」もあるというわけだ。単純化して書けば、こんな感じだろうか……
 
 ----+----+----+----+----+----+----+----+----+----
      -20    -15    -10    -5      0      5      10     15     20

 私たち人間は皆、こういう善悪を測る“物差し”を心の中にもっていて、周囲で起こる様々な事象や現象に、この物差しを当てて測るのである。そして、「これはすごく善い」とか「これはちょっと悪い」とか「これは善でも悪でもない」……などと評価する、と考えられる。
 
 問題は、この“善悪測定器”が各人バラバラである場合が多いことだ。前回は、「コップに水が半分入っている状態」を例に引いた。これをプラスの価値として見る人と、マイナスに捉える人がいるだけでなく、同じ人間でも、喉が渇いている時とそうでない時とでは、評価が違う傾向があるから、やっかいだ。もっと大がかりな例を出すと、先日、ブッシュ大統領がパキンスタンを訪問した際、反米デモが起きたことが報道されていたが、この中に「ブッシュはテロリストだ!」と書いたプラカードがあった。我々日本人の立場では「ナンデそうなるの?」と不思議に思うが、アフガニスタンに続いてイラクの政権が米軍の武力で転覆させられ、ミサイルやロケット砲で戦闘員以外の数多くの人々が殺されたことを身近に感じているイスラームの人から見れば、そういう言葉が自然に出るのかもしれない。彼らは、「ブッシュは悪だ!」と言っているに等しい。そして、ブッシュ大統領から見れば、一部のイスラーム過激派の勢力が「悪」そのものに見えるのだ。
 
 こういう場合、いったいどちらが「善」でどちらが「悪」なのだろう? あるいは、もう少していねいに質問すれば、どちらが「より善く」て、どちらが「より悪い」のだろう? この質問への答えは、答える人によって違うだろう。なぜなら、心の中にある“物差し”は各人によって違うことが多いからだ。このように考えてくると、「悪と戦う」ことや、「悪を退治する」ことが、この世から悪を消すことにつながると考えるのは、単純すぎるということが分かってくる。

 言語や文化が共通した一国内にあっては、人々の心の中の善悪測定の“物差し”も似通ってくる。道徳や法律や倫理は、そういう共通した“物差し”の上に成り立っている。しかし、そんな共通の物差しがある場合でも、前回取り上げた「A氏」を裁判官が「悪」だと認めて彼を死刑に処せば、「悪」はなくなるのだろうか? 私は、A氏の肉体は消えても「悪」がなくなるとは思えない。また、別の条件下で、“物差し”が一部狂ったX氏やY氏が現われて、悪事を働くことになるのだと思う。
 
「では、悪を放置しておくのか?」と、読者は再び問うだろうか。私は、「悪」という実体はないと言っているのだ。実体のないものは、放置するもしないもないのである。そこにあるのは「悪」ではなくて、我々がある事件や人物に対して、心の“物差し”を当てた時に「負の値」を示した--という「状態」があるだけである。この“物差し”の当て方を変えたならば、同じ「状態」であっても、負の値を示さない(つまり、悪いと思わない)かもしれないのである。こうして、「心によって悪が消える」という魔法のような可能性が生まれてくる。

谷口 雅宣

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コメント

先生の講習会のお話を是非聞きたかったです。実は昨日、『生命の実相』第11巻を読んでいたら、エホバが「カイン(悪の象徴)を殺すものは七倍の罰を受けん」という創世記の説明がありました。「テロリズムで互いに破壊し合ったならば、かえって七層倍の困難な時代が来る」という予言的内容に関するものです。「悪」を存在の前提とする戦いから、「悪」を状態としとらえ、それを克服する努力が大切と言うことを実感します。

話が飛躍するように聞こえるかもしれませんが、先日読んだ「What's Your Excuse?」By John Foppe(http://www.johnfoppe.com/ )
 という本があります。フォッピーさんは生まれつき両腕がないのですが、自分を障害者である、不完全な状態であるとは考えないで、コンディションとして自分の状態をとらえています。{「腕がないからピアノが弾けない」=「ピアノが弾けないのは腕がない人」とはならない}というような論法で、各自それぞれ経済、環境等コンディションが違うように、彼も他の人と較べ腕がないという違いだけ、と書いていました。そしてすべての人は神の子であるとも書いてありました。「状態」は努力によっていくらでも変わっていくものと思います。

川上真理雄 拝

投稿: Mario | 2006年3月 8日 02:43

川上さん、

>>{「腕がないからピアノが弾けない」=「ピアノが弾けないのは腕がない人」とはならない}というような論法 <<

 いいポイントですね。
 「イスラム教徒がテロをした」=「テロリストはイスラム教徒」とはならない、というわけですね。

投稿: 谷口 | 2006年3月10日 16:10

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