剃り残し
就寝前に風呂に入るという習慣は、ときに不思議な経験をもたらしてくれる。
今晩も、私は10時すぎに入浴した。先に入った妻が、湯たんぽを抱えて2階の寝室へ上がっていった頃、私は後頭部を湯船の縁にあずけ、両足を前方にゆったりと延ばして、肉体を包み込んでいく温熱の快楽を味わっていた。湯の温度は41℃。私の年齢では少々高いとされる温度だが、2月の気温を考えればこれでいい、と自分に言い聞かせる。
やがて思考が止まり、ふっと意識が揺れる。この意識と無意識の中間帯が、就寝前の入浴の醍醐味なのだ。
私は、朦朧とした意識の間から手を延ばして、湯船の脇から石鹸をつかみ、顔や顎にシャボンを塗る。さあ、湯船の中でのヒゲ剃りの時間だ。レーザーを片手に取り上げ、目をつぶったまま刃を肌の上に滑らせる。シャリ、ジャリ、コソ、ジリ、ガジ……様々に聞こえる小さい音と、レーザーを持つ手への微妙な抵抗感。これが快感でなくて何だろう。
鏡を見ずにヒゲを剃ることにも、馴れた。半分無意識になった頭の中に“鏡”が見え、そこに映った自分の顔を剃ればいいのである。簡単なことだ。が、時々剃り残しがあるから、指先でていねいに顔の隅々を撫でて確かめる。
と、「あれっ」と思うような剃り残しが1本、指に触れた。左耳下のアゴ骨で膨らんだ皮膚のあたりだ。「よしっ」と思ってレーザーを近づけた時、頭の裏側で声がした。
--切らないでよ!
耳から聞こえた声ではない。だから妄想の一種だと思い、再びレーザーを近づける。
--ほんとに、僕を切るの!
そりゃあ、刃が当たれば切れるさ。それが目的だから、と私は頭の中で言った。
--そんな暴力は、許さない!
何が暴力だ?
--だって、僕はお前だから!
お前は、単なる「剃り残し」さ。
--それは勝手な言い分だ。ヒゲも頭も同じ細胞だろう!
そんなことはない。お前はヒゲの細胞で、おれは……
--お前は何だ?
私は返答に詰まった。
--お前は脳にある神経細胞だろう?
そういう見方もできるが、1つや2つの数じゃない。
--何億あっても、同じ細胞であることに変わりはない。
ヒゲより脳の細胞の方が、よほど高級だ。
--それは暴論だ! 用途が違うだけで、本質は同じDNAだ!
じゃあ、こう言おう。ヒゲより脳の細胞の方が、用途がよほど高級だ。
--「職業に貴賎はない」と言うじゃないか。僕にはお前と同じ人権……じゃなくて細胞権がある。社長が従業員を殺していいのか?
殺すんじゃなくて、用が終ったから解雇するのさ。
--これは解雇じゃない。お前から切り離せば、僕は死ぬ。
でもね、ヒゲが1本延び続けても、何の役にも立たない。それに迷惑さ。
--そういう言い方は、基本的細胞権の蹂躙だ! すべての細胞には、それぞれに掛け替えのない役割がある。それを認めない神経細胞こそ、ファシズムの権化だ。神経細胞全体主義に断乎反対する!
ヒゲのくせに、よくもそうポンポンとサヨクみたいな言葉が出てくるね。サヨクの間違いは、有機体は基本的に“全体主義”だっていう生物学的事実を無視していることさ。
--僕はサヨクなんかじゃない! 今日は何の日か知ってるか?
えぇ? 2月26日の日曜日だろう……イタリアでやってる冬季オリンピックの最終日かな?
--最終日じゃなくて、もう1日ある。ほら見ろ、お前の方が西洋かぶれじゃないか。西の方しか向いてない。
東だってアメリカだろ?
--そうじゃない。下を見ろ。足元の日本だ。日本で2月26日に何があった?
あっ、そうか。2・26事件か……。それがどうかしたのか?
--僕は、あの決起将校の気持がよく分かる。今こそ「尊皇討奸」を実行すべし。
何を時代錯誤な……。尊皇ならば、頭脳の言うことをきけよ。
--お前は、ヒゲの思いを理解してくれるのか?
どんな思いだ?
--体の端にひっそりと付いているだけのように見えても、本質であるDNAは頭脳同様に貴いということ。にもかかわらず、役割が違うというだけで、虫ケラのように見られている。でもね、体毛がなかったら、頭の保護ができないし、だいたい冬は寒いゾ! 暑いアラブの国でもね、ヒゲのないやつは男じゃないんだ。もっと尊敬の感謝の念をもって、僕を扱うべきだ。
わかった。君の言うことは正しい。それは認める。しかし、このまま延ばしておいても嫌われるだけだぞ。
--誰が嫌う?
邪魔になって手が嫌うし、妻には嗤(わら)われる。
--お前は、どう思う?
私は、自分の非を認めた。
--頭脳のお前が僕の価値を認めるなら、切ってもいい。
では、レーザーの刃を当ててもいいな?
--でも、“根”の部分を残してくれ。また生えてくるからな。
私はこうして、自己主張の強いこの1本のヒゲをやっと剃り落とした。
それは、1センチほどの長さになっていた。しかし、自分が神経細胞の集まりだというヒゲの考え方には、私はどうしても納得できない。今度、彼と話をする時に疑問をぶつけてみるつもりである。
谷口 雅宣
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