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2006年2月28日

イラクはベトナム化する?

 アメリカ占領下のイラクの情勢が混乱の度を増している。先週の22日、バグダット北にあるシーア派の聖地サーマッラで、有名なモスクが爆破されたことに続き、スンニ派への報復攻撃、それへの反撃などが繰り返され、200人を超える死者が出ているという。イラク人同士が激しい武力抗争を始めているため、内戦化の心配が浮上してきた。今日(28日)の『朝日新聞』夕刊によると、イラク国防相は27日までに武装勢力35人を殺害し、487人を拘束したと発表した。

 この状況をごく単純化して説明しよう。イラクには前述のイスラーム2派と、クルド人の3つの政治勢力がある。このうちスンニ派は、イラク国内では少数派だが、サダム・フセイン時代には力によってシーア派とクルド人を支配してきた。これが今、逆転して、シーア派とクルド人の連合で新政権を構成する準備を進めているが、スンニ派をすべて排除した政治は安定性がないなどの理由で、アメリカは3派の“協調政権”を求めている。これに対して、中東のアメリカ支配に反対する勢力(外国人を含む)がスンニ派を巻き込んで武装闘争を行っているのだ。
 
 イラクでの混乱が「シーア派対スンニ派」「クルド人対スンニ派」というような宗派や民族間の対立として見られるようになると、中東全体に影響が出る。なぜなら、中東の国々には、これらの宗派や民族がかなりの数存在し、政治的力をもっているからだ。例えば、イラクの隣国であるイランは、シーア派が多数で政権もシーア派である。しかし、サウジアラビアを含むアラブ各国の多数派と政権の多くは、スンニ派である。同じ信仰の者が窮状にあるのを見て助けたくなるのは、自然な人情だ。だから、イラク国内のシーア派の動きには、イランの影響が大きいと言われる。これに対し、スンニ派政権である他のアラブ各国は、不安をもって注視している。イランがイラクの政治に影響力をもつようになれば、別派である自分たちの立場が弱くなるからだ。イランが核兵器を開発でもすれば、この不安は最高潮に達するだろう。
 
 こういう情勢の中で、中東では“イスラム過激派”と言われる勢力の台頭が顕著である。エジプトではイスラム同胞団が選挙で勢力を伸ばし、パレスチナでは「イスラエル殲滅」を綱領に掲げるハマスが政権を取った。イランのアハマディネジャド大統領も同じく「イスラエル殲滅」を宣言している。同大統領の意図が注目されているが、彼は冒頭に述べたモスクの爆破について、イスラエル、アメリカ、イギリスの陰謀だと非難している。反対勢力であるスンニ派の仕業だとしないところから判断すると、イランの指導力の下に両派を束ねる考えがあるのかもしれない。そんな中でのイランの核開発疑惑であり、モハンマドの風刺漫画への長期にわたる抗議運動である。“反西洋”の旗を大きく振ることで、イスラム諸国のリーダーシップ獲得を目指しているのかもしれない。

 ところで、このような混乱状態にある中東から、アメリカは手を引くことができるのだろうか? アメリカの中東政策と「石油」とは切っても切れない関係にあるが、イラクの石油施設は正常に運転されていない。先日、アメリカの同盟国・サウジアラビアにある世界最大の石油施設が「アルカイダ」を名乗る勢力の攻撃を受けた。アメリカが輸入する石油の1割を占めてきたベネズエラは、反米姿勢を強めるシャベツ大統領が輸出先を「アメリカから中国へ変える」と言い出した。イランが西側諸国に対して強く出られるのは、西側に石油禁輸の意志がないと読んでいるからだ、とも言われている。つまり、禁輸などしたら西側の経済が混乱するからだ。

 昨日(27日)のアメリカのABCニュースでは、かつてベトナム反戦の学生運動の震源地となったオハイオ州のケント大学構内にカメラが入り、当時の学生と現在の学生との態度の違いを放映していた。その中で、「イラクは僕らの世代のベトナムです」と言った学生の言葉が印象的だった。

谷口 雅宣

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2006年2月26日

剃り残し

 就寝前に風呂に入るという習慣は、ときに不思議な経験をもたらしてくれる。
 今晩も、私は10時すぎに入浴した。先に入った妻が、湯たんぽを抱えて2階の寝室へ上がっていった頃、私は後頭部を湯船の縁にあずけ、両足を前方にゆったりと延ばして、肉体を包み込んでいく温熱の快楽を味わっていた。湯の温度は41℃。私の年齢では少々高いとされる温度だが、2月の気温を考えればこれでいい、と自分に言い聞かせる。
 やがて思考が止まり、ふっと意識が揺れる。この意識と無意識の中間帯が、就寝前の入浴の醍醐味なのだ。
 私は、朦朧とした意識の間から手を延ばして、湯船の脇から石鹸をつかみ、顔や顎にシャボンを塗る。さあ、湯船の中でのヒゲ剃りの時間だ。レーザーを片手に取り上げ、目をつぶったまま刃を肌の上に滑らせる。シャリ、ジャリ、コソ、ジリ、ガジ……様々に聞こえる小さい音と、レーザーを持つ手への微妙な抵抗感。これが快感でなくて何だろう。
 鏡を見ずにヒゲを剃ることにも、馴れた。半分無意識になった頭の中に“鏡”が見え、そこに映った自分の顔を剃ればいいのである。簡単なことだ。が、時々剃り残しがあるから、指先でていねいに顔の隅々を撫でて確かめる。
 と、「あれっ」と思うような剃り残しが1本、指に触れた。左耳下のアゴ骨で膨らんだ皮膚のあたりだ。「よしっ」と思ってレーザーを近づけた時、頭の裏側で声がした。
 --切らないでよ!
 耳から聞こえた声ではない。だから妄想の一種だと思い、再びレーザーを近づける。
 --ほんとに、僕を切るの!
 そりゃあ、刃が当たれば切れるさ。それが目的だから、と私は頭の中で言った。
 --そんな暴力は、許さない!
 何が暴力だ?
 --だって、僕はお前だから!
 お前は、単なる「剃り残し」さ。
 --それは勝手な言い分だ。ヒゲも頭も同じ細胞だろう!
 そんなことはない。お前はヒゲの細胞で、おれは……
 --お前は何だ?
 私は返答に詰まった。
 --お前は脳にある神経細胞だろう?
 そういう見方もできるが、1つや2つの数じゃない。
 --何億あっても、同じ細胞であることに変わりはない。
 ヒゲより脳の細胞の方が、よほど高級だ。
 --それは暴論だ! 用途が違うだけで、本質は同じDNAだ!
 じゃあ、こう言おう。ヒゲより脳の細胞の方が、用途がよほど高級だ。
 --「職業に貴賎はない」と言うじゃないか。僕にはお前と同じ人権……じゃなくて細胞権がある。社長が従業員を殺していいのか?
 殺すんじゃなくて、用が終ったから解雇するのさ。
 --これは解雇じゃない。お前から切り離せば、僕は死ぬ。
 でもね、ヒゲが1本延び続けても、何の役にも立たない。それに迷惑さ。
 --そういう言い方は、基本的細胞権の蹂躙だ! すべての細胞には、それぞれに掛け替えのない役割がある。それを認めない神経細胞こそ、ファシズムの権化だ。神経細胞全体主義に断乎反対する!
 ヒゲのくせに、よくもそうポンポンとサヨクみたいな言葉が出てくるね。サヨクの間違いは、有機体は基本的に“全体主義”だっていう生物学的事実を無視していることさ。
 --僕はサヨクなんかじゃない! 今日は何の日か知ってるか?
 えぇ? 2月26日の日曜日だろう……イタリアでやってる冬季オリンピックの最終日かな?
 --最終日じゃなくて、もう1日ある。ほら見ろ、お前の方が西洋かぶれじゃないか。西の方しか向いてない。
 東だってアメリカだろ?
 --そうじゃない。下を見ろ。足元の日本だ。日本で2月26日に何があった?
 あっ、そうか。2・26事件か……。それがどうかしたのか?
 --僕は、あの決起将校の気持がよく分かる。今こそ「尊皇討奸」を実行すべし。
 何を時代錯誤な……。尊皇ならば、頭脳の言うことをきけよ。
 --お前は、ヒゲの思いを理解してくれるのか?
 どんな思いだ?
 --体の端にひっそりと付いているだけのように見えても、本質であるDNAは頭脳同様に貴いということ。にもかかわらず、役割が違うというだけで、虫ケラのように見られている。でもね、体毛がなかったら、頭の保護ができないし、だいたい冬は寒いゾ! 暑いアラブの国でもね、ヒゲのないやつは男じゃないんだ。もっと尊敬の感謝の念をもって、僕を扱うべきだ。
 わかった。君の言うことは正しい。それは認める。しかし、このまま延ばしておいても嫌われるだけだぞ。
 --誰が嫌う?
 邪魔になって手が嫌うし、妻には嗤(わら)われる。
 --お前は、どう思う?
 私は、自分の非を認めた。
 --頭脳のお前が僕の価値を認めるなら、切ってもいい。
 では、レーザーの刃を当ててもいいな?
 --でも、“根”の部分を残してくれ。また生えてくるからな。

 私はこうして、自己主張の強いこの1本のヒゲをやっと剃り落とした。
 それは、1センチほどの長さになっていた。しかし、自分が神経細胞の集まりだというヒゲの考え方には、私はどうしても納得できない。今度、彼と話をする時に疑問をぶつけてみるつもりである。

 谷口 雅宣

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2006年2月25日

信仰と風刺 (3)

 ヨーロッパのメディアによるモハンマドの風刺漫画掲載に端を発したイスラーム諸国での抗議や暴動は、一向に収まらない。私は当初(2月4日)、この問題は文化の違い、考え方の違いが原因だと書き、さらにマスメディアの“悪を集める”報道姿勢も暴力拡大に一役買っている、と述べた。しかし、その後の報道を見ていると、この一連の騒ぎの背後にはもう一つの要素がからんでいるように思う。それは、イスラーム側が宗教を政治的に利用する動きである。
 
 問題の風刺漫画は昨年9月、デンマークの新聞に掲載されたのだが、その時は今のような大規模な抗議の声は上がらなかった。それが今年になってベルギー、フランス、ノルウェーなどのメディアが「再掲載」したことで、イスラーム信者の怒りに一気に火がついた……という印象を私はもっていた。ところが、今日の『朝日新聞』の報道では、デンマークでの最初の掲載から18日後の昨年10月17日に、エジプトの日刊紙『アルファガル』が第1面にその風刺漫画を掲載し、さらに「風刺画で預言者とその妻を侮辱」と題する別刷りの特集版を発行したという。続いて11月10日にヨルダンの新聞、12月12日にはエジプトの週刊紙がこの漫画を転載し、昨年末までにイスラム系ウェッブサイトにも載っていたというのである。ということは、イスラーム社会にあるという「預言者モハンマドを形に描いてはいけないという約束事」は、それほど厳密なものではないことを示している。なぜなら、「転載」だって「形に描く」ことに変わりないからだ。
 
 ではなぜ、イスラーム国内での「転載」が抗議の嵐を起こさずに、ヨーロッパでの転載が嵐を起こしたのか? その大きな理由の一つには、イスラーム圏内での転載は「漫画を批判する」ためだが、ヨーロッパでの転載は「漫画を擁護する」ためだ、との認識がイスラーム側にあるからだろう。ここに大きな誤解がある、と私は思う。ヨーロッパのメディアが漫画を転載したのは--私自身はこれを軽率な行為と考えるが--漫画の内容を擁護するためではなく、「漫画によって宗教を批判する自由」を擁護するためである。暴動に参加している人々の多くは、その重要な違いを理解していないに違いない。また、理解している人も大勢いると思うが、そう人々は別の目的で大衆の感情の昂ぶりを利用しているのだ。
 
 また、イスラーム圏内での転載が“嵐”にならなかったもう一つの理由として、上掲の『朝日』の記事に出てくる28歳のイラク人記者の分析は、興味深い--「アブグレイブ刑務所で米兵がイラク人収容者を虐待した時も、地元メディアは早くから何度も報じたが、欧米で伝えられ始めてから、急に抗議行動が広がった。イスラム世界の世論が自国の政府やメディアを信用しておらず、欧米メディアに強く影響されている証拠だ」。
 
 人々の宗教的感情を政治目的に利用することは、政治の“常道”といってもいいだろう。日本でも一向一揆や明治維新の際にこれが行われたし、最近では旧ユーゴスラビアの内戦、タリバンによるアフガニスタンの支配、9・11テロ、そして現在のイラクでの宗派間対立など、いくらでも例がある。そして、悲しいことに今回は、アフリカ西部のナイジェリアで、モハンマドの風刺漫画を契機として政治紛争が起こっているという。25~26日付の『ヘラルド・トリビューン』紙の伝えるところでは、この地ではキリスト教徒が暴徒化してイスラーム信者の家や商店、モスクを攻撃し、100人以上の死者を出している。この暴力行為は先週、モハンマドの風刺漫画に怒ったイスラーム信者がキリスト教徒を攻撃し、多数の死傷者を出したことへの報復だという。

 しかし、この衝突は宗教的な原因ではなく、古くからの民族間の政治対立が基本にある。この地では、1960年代に「ビアフラ」という国の独立を目指した民族間の激しい内戦があり、この“古傷”が今回の風刺漫画事件に口を開け、武力対立にまで発展しているのだ。民族と宗教は一体となって発展することが多いため、民族間に政治対立が起こると、それは一見“宗教対立”のような様相を呈する。しかし、対立の内容をよく見てみると、教義上の対立ではなく、民族間あるいは宗教・宗派間の「利害の対立」が原因になっていることが多い。政治と宗教が一体となる危険性を、よく示していると思う。
 
谷口 雅宣

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2006年2月24日

里親制度振興で中絶を防止

 福島県が、人工妊娠中絶を考えている人に子を産んでもらい、産まれた子を里親に育ててもらう方針を決定した。県人口の減少を食い止めるための方策というが、生命尊重の気運を盛り上げるためにも大いに歓迎したい。『朝日新聞』が24日の第1面で報じた。

 その記事によると、同県では新年度から「里親コーディネーター」を設けて、出産を迷う女性らに里親制度を紹介することで、中絶をやめさせ、人口減をできるだけ防止しようというもの。実際の方法は、県内の産婦人科医院に子育て支援策を紹介するパンフレットを配布し、これを医院を訪れてきた出産を迷う女性に渡す。そして、問い合わせてきた人に児童相談所が詳しい説明を行い、出産後、実際に子育てが困難な場合に里親を紹介する、というもの。

 同県の人口は1997年の213万人を頂点にして減り続け、今年1月1日の推計では209万人という。また、同県の女性人口1000人当たりの人工妊娠中絶率は04年度で「15.8」で、全国平均(10.6)を上回っている。この数字から計算すると、同県では年間約1万6千件の妊娠中絶が行われることになるから、里親希望者が県内にそれぐらいの数いなければ紹介しきれない。この点に不安が残る。が、一人でも胎児の命が救われればいいと考えれば、これでも可とすべきかもしれない。
 
 ところで『朝日』は、この考えに批判的な意見を掲載している。恵泉女学園大学大学院の大日向雅美教授の話として、「安心して産み、育てられる環境を整備するとしながら、女性の産む、産まないの選択の自由を含めたライフスタイルが狭められる心配がある」と書いてある。しかし私は、この批判は的が外れていると思う。なぜなら、里親制度が充実してくれば、妊娠中絶をやめて子を産んだ女性は、その子の養育義務を免除されることになるだろうから、従前のライフスタイルを変える必要はない。また、子が生まれて“里子”としてどこかの家庭に受け入れられれば、その家庭が「里親」としての新しいライフスタイルを得ることになると思うからだ。母親は「殺さない」自由を得、受け入れ側も新しいライフスタイルを得る。
 
 問題は、里親希望者が同県にどれだけいるかということだろう。実は専門家の間では、日本で里親制度が発展しないことが問題視されているのだ。その理由は、血縁関係を重視する文化のためとか、ボランティア精神が発達していないからとか、養子縁組と混同されやすいからとか、いろいろ指摘されている。そういう中で敢えて里親制度を利用するのであれば、よほど前準備や検討が必要だと感じる。パンフレットを用意するだけではとても不十分だ。

 1990年に関東地方で行われた里親の実態調査では、239人の里親のうち、里父の年齢は50~54歳が最も多く(25.1%)、40~59歳が全体の78.2%を占めた。これに対して里母の年齢は45~49歳がピーク(27.2%)で、35~59歳で全体の88.6%だった。調査時点までに委託を受けた子の数は、「1人」が35.4%、「2人」が16.7%でほぼ半数を占め、「3人」(9.1%)以降は徐々に減るが、「10人以上」という回答も6.2%あった。また、養育の中心となる里母の職業では、「無職・専業主婦」が60.7%を占め、「自営業」13.0%、「常勤」11.7%、「非常勤」6.7%、と続いた。これらの数字から考えると、“団塊の世代”が定年を迎えつつあることや、夫婦の共働き化の進行などで、行政側の努力と国民意識の向上がなければ今後、里親希望者の数が増えていくことは考えにくい。

 しかし、里親制度の活用が成功すれば、殺される子を救い、かつ子育てを求める親の希望を叶えるという二重の善行が可能となる。これに加えて過疎化の緩和が実現すれば、他の自治体の手本となるだろう。福島県の健闘をぜひお願いしたい。

谷口 雅宣

【参考文献】湯沢雍彦監修/養子と里親を考える会編『養子と里親』(日本加除出版、2001年)

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2006年2月23日

サザンカとツバキ

 私の自宅の玄関脇に、2階の天井の高さに達するサザンカの木が立っている--と、最近まで思っていた。しかし、花のことに詳しい妻は、「あれはツバキかもしれない」と言う。その木は今、ちょうど桃色の花を万朶に咲かせて見る人の目を楽しませている。遠くから見ると、玄関脇に桃色の塔が建っているようだ。こんな立派な木の名前を間違えて覚えているのでは申し訳ないと思い、ものの本を調べてみた。するとますます分からなくなった。

 サザンカ(山茶花)は、西日本を中心に自生するツバキ科の植物で、晩秋から冬に開花するのが普通だ。だから、俳句では「冬」の季語になっている。これに対してツバキ(椿)は、その漢字を見ても分かるように、春を通じて咲くから「三春」の季語だ。ところがこの2種の植物はきわめて近い種なので、互いに交雑する。その結果、多くの“中間種”が生まれていて、12月から3月頃まで咲く八重咲きのものには「カンツバキ(寒椿)」と呼ばれるものがあり、4月頃まで咲くものの中には「ハルサザンカ(春山茶花)」と呼ばれるものがあるそうだ。
 
 こうなってくると、形態上の違いが両者を分ける決め手になる。一般的には、ツバキは花が一塊になって“首”からポトンと落ちると言われているが、わが家の玄関脇の木は、大抵花がバラバラになって散る。しかし、一部は“首”から落ちるのもある。このツバキの花の特徴は、昔から歌や俳句に詠まれている。ツバキが“首”から落ちる理由は、密生するオシベの元が筒状に繋がっていて、さらにこの筒と花弁の元も繋がっているからだ。構造上、花もシベもガクも一体になっているのだ。この花の“付け根”部分には蜜が溜まっていて、鳥がそれを吸いに来る。そして、ここには雨水も溜まるから、重くなって花全体が丸ごと落ちる。
 
 椿落てきのふの雨をこぼしけり (蕪村)
 
Tsubaki-06  玄関脇の木は、こういうツバキの花の形態上の特徴をすべて備えているが、花弁は散乱しがちだ。これは恐らく八重咲きのためだろう。--ということで、この花は「八重咲きのカンツバキ」と言えそうだ。ところが、園芸上はカンツバキもハルサザンカも「サザンカ」の中に含めて考えるそうだから、何ともややこしい。「椿らしさ」を認めれば清楚なイメージが湧き、「山茶花らしさ」を強調すれば豪華な印象が残る。
 
 

 桃色の雪を抱けり寒椿
 日溜りや春山茶花の散り敷けり

谷口 雅宣

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2006年2月22日

心が物を動かす

 昨年8月19日の本欄では催眠術が麻酔の代りに病院で使われていることに触れ、心の作用で脳内に測定可能の物質的変化が生じることを述べた。また9月16日の本欄では、いわゆる「プラシーボ効果」は脳内にエンドルフィンが生成されることで起こり、これが脳の痛みに関する領域に作用して強力な鎮痛効果を生むことを示す研究を紹介した。これらの実例は、人間の心と物質との強力な“連絡通路”の存在を示している。心が動くと物質も動くのである。「心が『物』を動かすことを得るは、『物』と心とが全然別物に非ずして、『物』は『心』の痕跡なるが故なり」という『天使の言葉』の一節を思い出してみよう。

『British Medical Journal』の2月1日号には、同じプラシーボ効果でも、プラシーボの種類によって効果の大きさに違いが出ることを示す研究が掲載されている。もっと具体的に言うと、“偽の経口薬”と“偽の鍼治療”のどちらの効果が大きいかを調べたのだ。この研究では、腕に慢性的な痛みを感じる患者270人を対象にして、2段階の実験をした。まず最初に、135人が偽の鍼治療を受け、残りの135人が偽薬を飲んだ。(もちろん、本人たちはそれを本物の治療だと思っている)しかし、両者の間に特に大きな違いは見られなかった。次の段階では、偽の鍼治療と偽薬治療を受けた全員を無作為に半数ずつに分け、この2つのグループの一方には、偽の鍼治療と本物の鍼治療を受けさせ、もう一方には偽の経口薬と本物の経口薬を与えて、それぞれの効果を比べたという。すると、偽の鍼治療の方が偽薬を飲むよりもプラシーボ効果が大きいという結果を得た。

 この研究結果をどう解釈すべきかだろうか。私が思うに……それぞれの治療法に対する患者の側の「信頼感」の多寡によって、それぞれの治療の「効果」に大小の差が現れる、のではないだろうか。つまり、これらの患者には、鍼治療の方が経口薬よりも効果がありそうだと感じられたので、偽の鍼治療が偽の経口薬の効果を上回ったのではないか。もしこういう解釈が成り立つなら、鍼や薬だけでなく、食事についても“プラシーボ効果”のようなものがあるのではないか? つまり、「美味しい」と思って食べれば、あるいは「楽しんで」食べれば、多少のカロリーオーバーや刺激過多であっても、消化機能がフル回転することで体は健康を保てるのではないか?
 
 実は、まさにそういう実験結果があるらしい。2月21日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に、スウェーデン女性とタイ女性の2つのグループを使って、なじみのない料理と食べなれた料理の栄養の吸収度を調べた結果を、ハリエット・ブラウン(Harriet Brown)という人が紹介している。それによると、双方のグループに、タイ料理のように香辛料をきかせた料理を食べさせた場合、タイ女性はスウェーデン女性よりほとんど50%も多く鉄分を吸収したという。また、同じ内容のものを柔らかい錬り粉状に料理して食べさせると、タイ女性は辛い料理を食べた時より、鉄分の吸収が70%も少なくなったという。このことから、物質的には同じ内容のものであっても、その料理を楽しんで食べた場合とそうでない場合では、栄養の摂取に大きな違いが出てくることが分かる。

 心の力の大きさは、まだまだはかり知れない。
 
 谷口 雅宣

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2006年2月21日

都庁ビルが「雨漏り」!

 あの48階建ての豪華な都庁ビルが、こともあろうか「雨漏り」に悩まされているそうだ。今日の『朝日新聞』夕刊の4段抜きの見出しを見て、私は自分の目を疑った。完成してわずか15年、総工費1570億円の“現代の江戸城”が、本格的に修繕すれば1000億円もかかるほど傷んでいるなんて、信じられない話だ。「耐震強度偽装」は生命の危険があるが、「雨漏り」にはそれがないから、建築会社は免責されるのだろうか。それとも設計がお粗末だったのなら、設計士が御用か。東京生まれ、東京育ちの私にとって、税金のこれほどのムダ遣いは「腹立たしい」のを超えて、「あーあー」と慨嘆するほかない。記事のリードには、こうある--「バブルの塔」は、首都東京の未来に大きな負の遺産となりかねない。

「バベルの塔」の間違いではないかと思ったが、これはシャレなのだ。バブル経済の中の税収で建てたのだから「バブルの塔」というわけだ。しかし、私は昔この庁舎に「バベルの塔」を見て一文を書いたことがある。それは4年前の5月で、『小閑雑感 Part 3』(世界聖典普及協会刊)に収録されている「バベルの塔は崩壊する」という文章だ。他人の金で豪華な建物を好き勝手に造るメンタリティーを批判したのだが、別に予言するつもりではなかった。『朝日』の記事によると、この庁舎の維持費は年間約「18億円」、光熱費を含めた年間の管理経費は「34億円」にもなる。確定申告の季節に、この壮大なムダ遣いを思い出してはいけない。私は自分がスパイダーマンになって、あの高層ビルに巨大な横断幕を張ることを想像した。そこには、極太の書体でこう書くのだ。

 「都民の皆さん、健康のため庁舎の見すぎに注意しましょう」

 都民でない読者は、どう思われるだろうか。上記の一文にも書いたことだが、県庁や市庁舎や、最近では町役場でさえ、新築される地方公務員の仕事場としては立派すぎるものが多い、と私は思う。豪華なビルは、往々にして光熱費も維持費もかさむから、納税者への負担もかかる。しかし、一方では、そういう“金食い庁舎”を歓迎し、誇りに思う人もいるようだ。「オラが県庁」「私の市庁舎」というわけだろうが、私にはそういう感覚がよく理解できない。多分、江戸時代からの感覚が残っているのではないか。もしそうであれば、私は豪華な金食い庁舎を建てるよりも、いっそのこと昔からあった各地の城を復元した方がいいと思う。現在、日本の地方都市では、城を取り壊して公園にしているところが多い。しかし、公園はどこにでもあるのに比べ、城はその土地のオリジナルだから、地方振興にも寄与するはずだ。同じ維持費をかけるのであれば、公務員の福祉と地方文化の育成のどちらを優先すべきだろうか?
 
谷口 雅宣

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2006年2月20日

「子の選別」へ一歩進む

 重い遺伝病の子を生むのを避けるために使われる「着床前遺伝子診断」という方法を、一部の習慣流産の患者にも認めることを、日本産科婦人科学会が決めたらしい。19日付の新聞各紙が伝えている。普通、この方法は「生まれてくる子」に遺伝病がある場合に行われるのだが、今回の同学会の決定は、「子」ではなく「親」の染色体に異常があって流産する場合に、母体に及ぼされる苦痛を避けるために行おうとするものだから、本来の目的とはズレている。親の苦痛を減らすために、生まれてくる子の遺伝子を調べ、流産の起きにくい子を選んで妊娠する。こういう方法が「子の選別」になるかどうかが議論され、結局、親の都合を優先したということだろう。将来に禍根を残さない決定かどうか、判断はなかなか複雑だ。
 
 私は結局、これは「子の選別」だと思う。なぜなら、(もし新聞記事の表現が正しければ)「体外受精で作製した複数の受精卵を調べて、流産が起きにくいものを選んで母体に戻す」(『日本経済新聞』)とはっきり書いてあるからだ。体外受精をする場合、普通は受精卵を一度に3個から5個作製する。そして選別後、母体に戻さなかったものは廃棄されるか、凍結保存される。これを「子の選別」と言わなければ何と表現するのだろう。そして、「流産が起きにくい受精卵」が複数個できた場合、そのいずれを妊娠すべきかの判断は、一体誰が行うのだろう? 医師だけが独りで行うのか、それとも親の意見を聞くのか? もし後者だった場合、「ぜひ男(女)の子を!」と懇願されたらどうするのか? 

 上記の『日経』の記事では、同学会の理事会を終えた慶応大学の吉村泰典教授が、同じ技術が男女産み分けにつながらないかどうか尋ねられ、「(会告に法的強制力はないが)モラルとして男女産み分けに使われるべきではない」と答えている。逆に言えば、モラルを問題にしない医師ならば、男女産み分けに使う可能性があるということだ。また、独自のモラルをもっている医師もいるだろう。この習慣流産の着床前診断でも、学会の会告に反して独自の判断でこれを行っている病院が神戸市(大谷産婦人科)にある。この病院では、すでに25組のカップルがこの技術を使って子を得、そのうち11組が出産に至っているという。この中に、親の男女産み分けの希望を容れた例があるのかないのか、部外者には分からない。
 
 着床前遺伝子診断は、体外受精による受精卵が4~8個の細胞に分裂した段階で、その中から1~2個の細胞を取り出して遺伝子や染色体異常の有無を調べ、異常がなく流産の確率が低いと思われる受精卵を子宮に移植する。日本では筋ジストロフィーなどの重い遺伝性疾患に限り実施することになっており、これまで6件が実施されたが、今後は習慣流産の一部に適用されることになる。一般的には夫婦のうち5%が、流産を3回以上繰り返す習慣流産になるというが、そのうち4~5%(夫婦全体の0.025%)には夫婦のいずれかに染色体の「転座」という異常があるらしい。今回の措置は、その0.025%を「重い遺伝性疾患」と認定して、この技術を適用する。

 染色体異常では、21番目の染色体が3本ある場合、流産する確率は約80%あるという。が、流産しないで生まれればダウン症児となる。今回の決定ではダウン症を着床前遺伝子診断の対象としなかったが、複数の受精卵を作製して遺伝子診断をする際、ダウン症のリスクのある受精卵をわざわざ子宮に移植することは考えにくいから、“灰色部分”が残ることは否定できないだろう。この件について『朝日新聞』の記事には、こうある--今回の決定では、転座とは関係ない21番染色体の数の異常は調べてはいけないことにしたが、「調べようとすれば、止めることはできない」と吉村委員長は認める。
 
 今回の措置で、着床前遺伝子診断が「重い遺伝病」以外の分野にも一気に普及するとは思わないが、遺伝子解析の進展に伴い、「親の都合で子を選別する」という潮流は拡大することがあっても縮小することはないのだろう。私は、このようなことに倫理的抵抗を感じなくなる社会が、どんな社会であるのか想像するのが難しい。
 
谷口 雅宣

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2006年2月18日

グリーンランドの氷床

 地球温暖化の“症状”は自然界の様々な角度から観測されているが、グリーンランドを覆う氷の融解は注目しなければならない。1月30~31日の本欄で、NASA(米航空宇宙局)の気象学者が温暖化の深刻さをアメリカ国民に訴えないように“上”から抑えられていると抗議していることを書いたが、この気象学者もグリーンランドの氷床については深刻な認識をもっているようだ。なぜなら、この陸地は「島」のような名前がついていても、メキシコ一国にほぼ匹敵する広さがあり、そこに「氷」の形で蓄えられている水の量は膨大だからだ。科学者によると、ここの氷の厚さは最大で3000メートルといい、これがすべて海に溶け出すと、世界中の海面が7メートル上昇すると言われている。
 
 このグリーンランドの氷が海に流出する量が、ここ10年で2.5倍に増えているとの調査結果が2月17日付のアメリカの科学誌『Science』(vol. 311, no. 5763)に発表された。『朝日新聞』はこれを17日の夕刊で記事にしているが、それによると、1996年にグリーンランドの氷河から大西洋に流れ出た水の量は50立方キロメートルだったのに対し、2005年の流出量は150立方キロと推定される。また、これに降雪量も加えて計算すると、96年の流出量は91立方キロで05年には224立方キロになるという。これは12本ある氷河が海に向って進む速度を人工衛星から観測し、それに基づいて流量を計算した結果だ。
 
 同誌の記事によると、最近の観測で新しく2つのことが分かったという。1つは、グリーンランドの氷河の移動速度がここ5年間で倍になったこと。もう1つは、いくつもの氷棚の崩壊である。グリーンランドの氷河の流れる速度は地球上のどこよりも速いと言われているが、最近の5年間でそれがさらに2倍となり、現在は年間約12キロメートルだという。「氷棚」とは、陸から海へ流れ出た氷河が、溶けずに棚状になって突き出ている部分を言い、グリーンランドの場合は、厚さが数100メートルに達し、棚の長さが数10キロになるものもある。これが崩壊すれば海に流れるから、陸上の氷が海上に移動しやすくなることは容易に想像できるだろう。こうして陸地から海上へ流れ出た氷のおかげで海面上昇が起こる。昨年1年間で世界の海は「3ミリ」上昇したとされているが、このうち0.5ミリ分は、グリーンランドの氷が溶けたため、とこの記事は推定している。

 かつて南極半島の付け根にあった「ラーセンB」という大きな氷棚が崩壊し、私もそのことを取り上げたが、北でも南でも極地の氷は溶け出している。また、昨年9月11日の本欄では、世界中の氷河が退縮していることも書いた。これによって海面上昇が起こっているのだが、最近もう一つ分かってきたことは、世界中の氷が溶け出すことで海水の塩分が薄まると、海流に変化が起こる可能性があるということだ。このことは昨年12月19日の本欄で触れた。暖かいメキシコ湾流の流れが変わると、ヨーロッパや北アメリカが寒気に震えることにもなる。また、地球温暖化により、ハリケーンの大型化や頻繁化の可能性も指摘されている。

 科学的データはこれだけそろっているのだが、人類が化石燃料を燃やし続けるという“悪習慣”は、なかなか止まりそうもない。フィリピン中部レイテ島の地滑りも、森林破壊が関係しているという。人類の悪業の結果は、今年も“天変地異”のような外観を呈しながら我々の前に展開されるのだろうか。
 
谷口 雅宣

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2006年2月17日

中国は民主化しているか?

 1月8日の本欄で、マイクロソフト・ネットワーク(MSN)社やヤフーなどのネット関連大手企業が、中国政府の要望にしたがって自社の顧客の個人情報を教えたり、ブログの閉鎖に協力していることを批判した。そして、「この件では沈黙せずにぜひ何か言ってもらいたい」とブッシュ大統領に訴えた。もちろんこの訴えが届いたとは思わないが、アメリカでもこの件が問題になっていて最近、連邦下院での公聴会にグーグル、ヤフー、MSN、シスコ・システムズの4社の代表が呼ばれて質問攻めにあった。17日の新聞各紙が伝えている。

 MSNが昨年、北京在住の中国人ブロッガーのサイトを閉鎖したことは、前回書いた。ヤフーは中国政府に、中国人ジャーナリストの個人情報を教えたため、その人が逮捕されて10年の禁固刑となった。グーグルは、検索エンジンに入力される単語を規制して、中国政府が好まないサイトを表示させないような措置を採った。この“検索規制語”は「台湾独立」や「ダライ・ラマ」「天安門」「法輪功」など千語近くになるという。同社は、アメリカ国内では、政府の要望を拒否して利用者の個人情報を出さない方針を明確にしているから、なおさら中国での“心変わり”の動機が疑われている。

 中国政府の検閲への協力を批判された4社の言い分は、「それでも、我々が中国国民にサービスを提供しないよりはいい」というものである。MSN社によると、同社が中国でサービスを開始した昨年5月から今日までに、約350万人の中国人がウェッブサイトやブログを開設したという。だから、不幸にも犠牲者が出たとは言え、自分たちのサービス提供によって中国人全体のコミュニケーションの機会は増え、表現の自由は拡大した、というのである。彼らはさらに、インターネットの規制は国家によっても完全にはできないから、必ず抜け穴ができて、それが中国における言論の自由を拡大させるのだという。読者は、こういう説明に納得するだろうか?
 
 ところで、中国の“民主化”というのは、期待できるだろうか? 去る1月24日、中国政府は「悪質な経営」「権限の濫用」などを理由に、人気のあった時事・オピニオン紙『氷点週刊』を閉鎖したが、この処置を批判するとともに、中国国内の報道規制を非難し、言論の自由を訴える声明文が、このほどインターネットを通じて発表されたという。しかも、この手紙を書いたのは中国共産党の長老や高名な学者、有力新聞の元編集者などの古参幹部13人だ。中国政府は、上記の雑誌を閉鎖しただけでなく、他の3つのニュース媒体の編集長などを更迭した。こういう動きが、中国の古参ジャーナリストの反発をかっているのだ。
 
 17日の『産経新聞』はこの声明文の内容を紹介しているが、それを読む限りでは、中国のジャーナリストの考えている「言論の自由」や「国民の知る権利」は、西側のそれとさほど差がないように見える。例えば、次のような箇所がある--

「言論の自由の意義は、固有の文明を守ることではなく、絶えず新しいものを作り出す可能性をもっていることだ。言論弾圧は社会の創造力の発展を著しく阻害する。政府は早く法律を作り、公民の権利を拡大すべきだ。言論の自由を保護し、国家の進歩と社会の健康的な発展を促進すべきである」

 中国社会の“内部矛盾”が透けて見えるような気がする。アメリカのネット企業の中国進出がこの内部矛盾を激化させて社会変革に一役買うのか、それとも中国政府の検閲を強化して言論統制に加担するのか、まだ先は見えていない。
 
谷口 雅宣

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2006年2月16日

春 の 兆

 暦の上ではとっくに春だが、気温は暖かになったかと思うと冷え込むという三寒四温が続いている。昨日(2月15日)の東京地方は快晴、最高気温は19.9℃で、平年より9.8℃も高かった。最低気温を見ても、平年より5.6℃高い8.1℃だ。街を行く人の中にはTシャツ姿の人もいて、室内よりも屋外の方がよほど暖かだった。水曜日は私にとって“週末”だから、妻とともに日比谷で『白バラの祈り』という映画を観た。ナチス時代のドイツ国内で、政府に反対する若者たちの抵抗運動を描いたもので、実話にもとづいている。ていねいな心理描写を続けていく地味な映画で、主人公は最後に処刑されてしまうのだが、銃殺刑かと思ったらギロチンだった。主題が真面目なだけに結構疲れた。

 夜の10時ごろ家に帰着し、門から石段を上り始めたところで、妻が悲鳴を上げた。体長20センチもあるようなヒキガエルが、妻の足にひっかけられて白い腹を見せていた。妻はその日、台所でゴキブリを見つけたと嘆いていたから、啓蟄(けいちつ)にはまだ2週間も早いが、すでに虫やカエルは動き出しているのだ。

 蟇(ひき)穴を出て蹴られたり白い腹

「蟇穴を出る」とは仲春の季語だから、今どきの俳句に使ってはいけないのかもしれない。しかし、本当にヒキガエルが出てきたのだから仕方がない。もっともヒキガエルは早春に一度穴を出て、産卵をしてから再び春眠をするらしい。この後の2回目の出穴時の方が俳句に詠まれやすいということか。とにかく、生物界では水面下で春がゆっくりと頭をもたげている。

 今日は一転して朝から小雨模様、時間がたつにつれて気温が下がった。私は朝、食事前に表通りまでゴミを出しに行く。今朝は霧雨の中を資源ゴミである古新聞の束を両手に下げて門までの石段を降りていくと、途中で黒ネコと出会った。彼(?)は10メートルほど先で私を見て立ち止まったが、距離が5メートルぐらいになると踵を返して脇の植え込みの中へ消えた。私は「まぁ、そうだろう」と思いながら門まで降り、新聞の束を指定場所に置いてもどってきた。それから、池に一尾だけいるコイに餌をやる。といっても、コイは水が冷たい冬の間は、池の底でじっとしているだけなので、私がそばへ行っても何の反応も示さないことがほとんどである。そんな時は餌をやらない。しかし、前日が暖かだったので、私は「もしかして……」と思って池の端に立った。すると、白いコイは真っ直ぐに私の足元へ来たではないか。私は早速、小指の頭大の球形の餌を10粒ほど撒いてやった。

Fukinoto06  生長の家講習会で1月28日に鹿児島市へ行った時、宿舎の鏡台の上にフキノトウが飾ってあった。ずいぶん早い、と驚いたのを憶えている。実は、東京の自宅の庭の東側の斜面にもフキが生える。鹿児島から帰ってまもなく、そこへ下りていってフキノトウを捜したが、まだ出ていなかった。ところが今日そこへ行ったら、ちょうどよい大きさのものがいくつも頭を出していた。摘むと、根元からほろ苦い春の香りが立ちのぼる。4本ほど、ありがたく頂戴した。
 
 谷口 雅宣

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2006年2月14日

科学者の倫理性 (8)

 昨日に引き続き、韓国のES細胞研究のデータ捏造事件を振り返ると、科学誌に掲載された論文の取り扱い方の問題がある。現代の科学誌は、一般にピアーレヴュー(peer review、同僚による検定)という方法で論文の審査を行う。今回のようなES細胞研究の場合、この分野の専門知識をもった科学者がファン氏の論文を読んで、その方法や結論の出し方を審査し、問題がないと思われ、しかも重要な研究であるとの判断がなされた場合、雑誌に掲載される。しかし、これはあくまでも、論文に添付されたデータが真実であるとの仮定のもとに行うから、今回のように偽データが使われ、それが見つからないように写真の改竄や偽装が行われていた場合、気づかずに掲載されてしまうこともある。だから、世界有数の科学誌に掲載されたからといって、その研究結果はすべて真実であるという保証はないのである。

 では、科学研究の多くはニセモノの可能性があるかと言えば、それほどひどい状態ではないだろう。というのは、科学研究には「再現性」という指標があり、これが証明されれば最終的な評価が下されるからである。言い換えれば、論文に書かれた一定の条件のもとで同じ研究をすれば、論文執筆者以外の誰がやっても同じ結果が出る(再現性)ことが分かれば、その研究の正しさが証明される。しかし、今回のように、社会的に影響が大きい研究結果が出た場合、メディアは再現性が証明されないうちにその研究を大きく取り上げ、政府や企業を含めた社会全体がその研究の“成果”を利用しようと急ぐ。科学者の側でも、そういう社会の動きを充分に予想し(あるいは期待し)て行動する。「国家の威信を高めた画期的研究」などと言われ、記者会見し、ゴールデンタイムのテレビニュースで報道されれば、その研究結果が不確かな土台の上に載っていても、もはや後へ引くことは困難になるだろう。

 2月14日付の『ヘラルド・トリビューン』紙は、今回の事件を踏まえて、科学研究におけるメディアの役割を反省する記事を載せている。それによると、今回の事件後、科学記事を扱うメディアは科学誌の論文一般を以前より懐疑的に見るようになったという。しかし、今日の科学は高度に専門化し、難解な内容のものが少なくないので、サイエンス・ライター(科学記者)と呼ばれる人々でさえ、論文そのものの内容を審査することはできず、結局、発表した科学者本人か、その人の所属する研究機関、あるいは別の科学者の説明や判断に頼る以外にないらしい。このため現在、企業による利用価値や社会的影響が大きいと思われる科学研究の成果を発表する場合、特定の期日までの「発表禁止」(embargo)が定められることが多い。つまり、メディアによる発表の「解禁日」を事前に決めておき、ジャーナリストはその日までに専門家による説明や周辺取材を行っておくという制度である。
 
 私は、科学研究の結果を集めたインターネットのサイトをよく利用するが、そこにも時々、発表解禁日を定めて科学や医学関係のニュースが発表される。こういう記事はサイトに登録されたジャーナリストだけが読めるもので、私のような一般ユーザーは記事の「見出し」も見ることができない。しかし、そこに書かれた発表指定期日が過ぎると読めるようになる。
 
 さて、今回のファン氏の論文は、ジャーナリストが科学者に騙された唯一のケースではない。同紙によると、『The New England Journal of Medicine』(ニューイングランド医学雑誌)は最近、すでに掲載したガンに関する2つの論文が、データの捏造をしていた疑いがあると発表した。また、「バイオックス」という鎮痛剤に関する2000年の論文では、その鎮痛剤を使用中の患者が、何人も心臓発作で死亡していたという事実が隠されていた。さらに、『アメリカ医学協会紀要』(The Journal of the American Medical Association)に掲載された「セレブレックス」という鎮痛剤の研究論文には、著者がもっている1年分のデータのうち半年分しか掲載されていなかったという。
 
 このような事情を知ってみると、科学研究も人間の“欲”や“迷い”から自由でないことがよく分かる。そのように科学者も“普通の人”なのだから、強力な科学を扱うに際して高い倫理性が求められるのは当然であり、「何でも自由にしたらいい」というわけにはいかないのである。また、我々一般人も「科学研究はみな正しい」などと安易に考えない方がいいだろう。

谷口 雅宣

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2006年2月13日

科学者の倫理性 (7)

 昨年の本欄で何回も扱った韓国のES細胞研究のデータ捏造事件は、その後の調査で渦中の人、ファン・ウー・ソク氏(52)に公金横領の容疑まで出て(『産経』1月13日)、依然として燻り続けているようだ。この問題は、去る1月4日、論文を掲載したアメリカの科学誌『Science』が論文の撤回について著者26人全員から同意を取り付けたと発表、10日にはソウル大学の調査委員会が最終調査報告の中で、ファン氏が作成したとするES細胞は存在せず、データは捏造されていたと結論したことで、同氏の研究の科学的価値は無に帰した。しかし、科学研究のあり方に関しては、これから解決しなければならない様々な問題を提起している。

『Science』誌は2月3日号で、韓国の生命科学関係科学者の集まりである韓国分子細胞生物学者協会のパク・サン・チュル会長の手紙を載せ、同協会が昨年10月、科学研究における倫理規定を定めたことを伝えている。この規定は次の4つのポイントからなる:①科学研究を始める前に、その研究が人間、社会、環境に与える影響を考慮しなければならない、②細胞から生物にいたるまで、研究対象となる生命の尊厳を維持し、尊重しなければならない、③実験結果を創作してはならず、研究材料や研究結果の配分は正しくなければならない、④研究成果の著作者や知的所有権を正当に取り扱わなければならない。

 この4点--とりわけ②~④--は、同協会が今回のES細胞データ捏造事件から学んだものだろう。最初のポイントは最も重要であるが、今回の事件とどう関係しているのかよく分からない。ファン氏が今回“成功した”と(偽って)発表したことは、若者から高齢者にいたるまでの「特定の人間の遺伝子を組み込んだES細胞を効率よく作成した」ということだった。これが(もし真実であれば)個人や社会に及ぼす影響は甚大だ。難病で入院している患者の遺伝子を組み込んだES細胞を作成し、そこから分化させた肉体組織や臓器を、拒絶反応を心配せずに移植することができる。これは医学の大きな進歩であり、世界中の多くの患者が恩恵を受けるに違いない。しかし、そのことは研究以前から分かっていたことである。ファン氏にもそれが充分分かっていたから、多少分野が違っていても(もともとは獣医学)この研究に飛び込んだのではなかったか?
 
 むしろ問題は、①が一見“素晴らし”すぎたため、②~④を慎重に進めることが疎かにされたということだろう。別の言い方をすれば、研究の「目的」は文句なく(倫理的にも、経済的にも)“善い”と考えられたため、研究のための「手段」の検討がないがしろにされたのである。ここに「目的のためには手段を選ばない」という初歩的な過ちが犯された、と見ることができる。『ヘラルド・トリビューン』紙の1月22日の記事によると、韓国では1980年代末までは何にも増して国益優先の政策が行われ、「目的は手段を正当化する」との考え方が繰り返し教え込まれてきたという。同紙の取材に対して、韓国高度科学技術研究所の教授は、ファン氏について「我々の多くは彼を信用していなかったが、世論や政府からの圧力に負けて彼を批判できなかった。何も言えなかった。だから、科学者たちは彼の研究への反証をウェッブサイトに匿名で掲載したんです」と話している。

 私は、昨年12月16日の本欄で、ファン氏のデータ捏造の動機について「名誉欲」を疑ったが、もう一つ、韓国のナショナリズムの高まりも無視できない要素だろう。同紙は同じ記事で、ファン氏の次のような弁明の言葉を載せている:「私は仕事に狂っていました。目の前には、他のものが何も見えませんでした。見えていたのは、韓国というこの国が、世界の中で真っ直ぐに立てるかどうかだけでした」。もしファン氏と氏周辺の人々が「国威高揚のためには、多少の無理や不正には目をつぶれ」という感覚で仕事を進めたのであれば、それは日本の戦前の雰囲気を思わせるようで不気味である。ぜひ今回の失敗から学び、冷静さと良識を取り戻してもらいたい。

谷口 雅宣
 

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2006年2月11日

建国記念の日に思う

 今日は日本の建国記念日である。東京・原宿にある生長の家本部では、例年のように午前10時から祝賀式典が行われた。東京地方は朝から澄みわたった青空が広がり、小春日和の暖かさの中、この記念すべき国の誕生日を迎えられたことは、大変ありがたいことである。建国記念の式典では、これまで生長の家総裁が挨拶をしてくださっていたが、今回はまだ静養中ということで、私が代りにスピーチをすることになった。以下は、その大略である:

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 皆さん、本日は建国記念の日、おめでとうございます。
 世界には、建国記念日をもっている国が120を少し割る数ほどあるそうですが、そのうち三分の二以上は、植民地からの独立記念日が建国の記念日になっています。また、ヨーロッパの国々では、民主主義革命が行われた日が建国記念日である場合がほとんどといいます。ですから、フランスではフランス革命が祝われ、アメリカではイギリスからの独立記念日が建国記念日です。いずれの国も、人類の歴史から言えばごく最近の建国ということになり、日本のように神話の時代に遡って建国を祝う国は、大変珍しい。世界に1つか2つあるくらいです。日本以外ではお隣の韓国が10月3日に「開天節」を祝いますが、これは古代の神話にもとづくものだそうです。

 日本の場合、国の中心をなしてきた天皇家の家系が120代以上も続いてきたため、その始まりを国の始まりとすると、神話の世界へまで遡ってしまうという、非常に珍しいケースです。西洋諸国は、王家が革命によって断絶しているし、アジア=アフリカの諸国のほとんどは、西洋による植民地支配の際に王家が断絶したり消滅しているから、日本のように長く続いている王家をもっている所はほとんどありません。そういう意味で、日本の天皇家は世界的にも非常に貴重な存在であり、日本の建国記念日はユニークであると言えます。

 さて、我々が何かの誕生を祝う場合、その何かが自分にとってどのように重要であるかが問題になります。自分や家族の誕生日は、自分や家族が自分にとって重要であるから祝われる。恋人の誕生日もその通りである。肉身の場合は、その本人の重要性にしたがって誕生日が祝われるが、肉体をもたない会社や組織の創立や結成を祝う場合は、その会社や組織の設立時の“目的”や“精神”や“理想”が問題にされることが多い。生長の家では、3月1日を「立教記念日」として祝いますが、その時には、昭和5年3月1日に発行された『生長の家』誌創刊号に書かれている谷口雅春先生の立教の精神を、私たちは振り返るわけです。国家の場合も同様で、その国の建国が祝われるときは、国を創った際の“目的”や“精神”や“理想”が重視されるのです。だから、フランスではフランス革命の精神を、アメリカでは独立宣言の精神を振り返る行事が行われます。
 
 日本の場合は、幸いに植民地化されず、また近代の民主主義への変化が暴力的な革命ではなく、緩やかな形で、ほぼ自主的に、天皇家を断絶させない形で行われため、日本建国の“目的”や“精神”や“理想”は、神話の世界にまで遡って振り返られるのです。それが、初代の天皇と言われる神武天皇の建国の理想である。しかし、これは残念なことに、かつての中国大陸における戦争を正当化する手段に利用された。そういう歴史的経緯があるため、この建国の理想をもって日本建国の精神とは認めないという考え方の人々がまだ多い。特に問題にされるのは「八紘一宇」という言葉で、これを他国の意志を無視して自国の下に武力で統合してしまうという考え方だと解釈する人々は、これに反対している。しかし、生長の家では、これは諸方の国々が互いに調和して一つの家になるという考え方だと理解しており、将来実現が望まれている世界連邦の構想の萌芽をそこに見るのです。

 また、この世界連邦による平和の実現をどのような方法で行うかについても、『古事記』や『日本書紀』には、神武建国の理想として大切なことが書かれています。それは、神武天皇が国家統一のための戦いをされていた時、長髄彦(ながすねひこ)という強力な抵抗勢力が現れて、天皇の進行を阻む。そして、五瀬命が流れ矢に当たり、重症を負って進むことができなくなったとき、天皇は神意にうかがって次のような勅を発しておられます:

 「今我(いまやつかれ)は是れ日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして、日に向いて虜(あた)を征(う)つは、此れ天道(あめのみち)に逆(さか)れり。若(し)かじ、退き還りて弱きことを示して、神(あまつやしろ)祇(くにつやしろ)を礼(いや)び祭(いわ)いて、背(そびら)に日神(ひのかみ)の威(みいきおい)を負いたてまつりて、影(みかげ)のまにまに圧踏(おそいふ)みなんには。此(かく)の如くせば、かつて刃に血ぬらずして、虜(あた)必ず自ずからに敗れなん」
 
 つまり、自分は天照大神(太陽神)の子孫なのに、その太陽に向って戦っているのでは天の道に背いているから、一度退却して、神々の社で祭祀を行い、天の神、国の神の御心を聞き、そして次には太陽を背にして進んでいけば、流血なく、相手は自ずから敗れるだろうということです。これは、暴力によって天下統一はできず、神意を受けて、それを背後にいただいて進むことが正しい方法だとの理想を述べたものです。
 
 神話では、この後、長髄彦といろいろ交渉したりしますが、最後にはやはり軍を出すことになる。が、やはり苦戦するわけです。その時、こう書いてあります:

 「すなわち金色(こがね)の霊(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び来りて皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり。その鵄(とび)光り輝(てりかがや)きて、状(かたち)流電(いなびかり)の如し。是によりて長髄彦(ながすねひこ)が軍卒(いくさのひとども)、皆迷(まど)い眩(まぎ)えて、復力(またきわ)め戦わず」
 
 敵対する長髄彦の軍勢は、光り輝くトビの荘厳な姿と霊力によって戦意を喪失してしまうわけです。そこで「刃に血ぬらずして」勝利を得ることになる。これが「神意」であるわけです。日本神話における「理想」がここに書かれています。つまり、武力によって「刃に血をぬって」進むのではなく、神の御心を背に受けて、真理の力を借りて進めば、暴力によらずに相手は自ら従うということです。

 これが日本建国の理想だったけれども、日中戦争や大東亜戦争では、実際には天皇の意思を重視せずに、軍部が独走して「刃に血をぬって」進んだがために結局、敗れてしまったわけです。そいう意味から言っても、武力だけによる平和の実現は無理だということが分かる。神意をいただき、それを宣布することで、納得ずくで平和の実現をはかるのが古来からの日本人の理想だった。その理想を思い出し、これからの21世紀の日本の指針にすることができれば、この「建国記念の日」は本当の意味で意義ある祝日になると思うわけです。
 
 私たち生長の家の運動にも、同じことが言えます。現象的にはいろいろな問題が起こるかもしれないが、常に神意をうかがって(神想観をして)、これからも益々真理の光を高く掲げ、「人間はみな神の子である」という光明思想を背に受けながら人類光明化運動・国際平和信仰運動をさらに自信をもって展開していきたいと、今日の佳き日に改めて決意するしだいであります。

谷口 雅宣

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2006年2月10日

“環境”に目覚めたキリスト教保守派

 ブッシュ大統領が一般教書演説で「アメリカは石油中毒」だと認めたことが影響したのか、京都議定書を蹴った彼の国でも、環境保護派の勢いが増してきたようだ。

 その中で注目されるのは、同大統領の選挙基盤の一つである保守派の宗教指導者たちが“環境志向”に転換しつつあることだ。2月10日の『産経新聞』によると8日、保守派のキリスト教指導者八十数人が、ホワイトハウスの前でブッシュ政権に対して温暖化対策強化を求め、発電所、製油施設、運輸業界などに対して、温室効果ガス排出削減を強制する法律を制定するよう訴えるキャンペーンを張ったという。

『ニューヨークタイムズ』はそれを事前にキャッチし、前日の紙面で「仲間の反対を押し切って86人のキリスト教保守派(evangelical Christian)の指導者が地球温暖化防止の大きな動きに同調することを決めた」と報じた。この指導者の中には、救世軍の指導者やベストセラーを書いたリック・ワーレン氏(Rick Warren)も含まれている。キャンペーンの趣意書は、「我々のほとんどにとって、この(地球温暖化の)問題は最近まで重大な問題、あるいは早く取り組むべき問題ではなかった」とし、「事実、我々の多くは、地球温暖化が本当のことであり、クリスチャンとして真面目に取り組むべき問題だと納得するまでに、相当の議論が必要だった」と認めている。「しかし」と趣意書は続き、「今や、我々は充分に納得した」と宣言する。彼らの関心は、「気候変動によって、今世紀中に何百万人もの人々が死ぬかもしれない。そして、そのほとんどは我々の地球上の最も貧しい隣人たちである」という点にある。

 このキャンペーンは「福音主義による気候に対する発議」(Evangelical Climate Initiative)と名づけられ、温室効果ガスの排出削減のための法律制定を実現するため、テレビやラジオを使ったコマーシャルのほか、教会やキリスト教系大学での情報イベントなども計画されているという。ABC放送も9日(日本時間)に放映されたニュースでこれを取り上げ、ECIのコマーシャルを紹介したり、リック・ワーレン氏のインタビューを流した。そして、地球温暖化がキリスト教者の問題である理由として、「神の創造になる地球を大切にしなければならないし、隣人を愛することが必要だから」と解説した。が、その一方で、キリスト教保守派内部では、地球温暖化に対する考え方がまだ割れていると伝えていた。
 
 ECIのウェッブサイトによると、彼らの主張は次の4点からなる--①人間が気候変動を起こしていることは真実である、②気候変動の影響は大きく、貧しい人々に最も厳しい結果をもたらす、③キリスト者としての道徳的信念がこの問題への対応を要求する、④今行動しなければ手遅れとなる。この主張の神学的な裏づけも書かれているから、参考にされたい。

 何年も前に、生長の家が環境に配慮した業務や伝道に真面目に取り組もうと「ISO14001」を取得したとき、「何をもの好きな」と思われた方々もいると思うが、宗教が人間のためだけでなく、地上の生物すべてに対しても“神の愛”を現す助けになるべきことが、世界的にも理解されつつあるのは嬉しいことだ。日本の一部には、環境問題の根源はユダヤ=キリスト教の伝統的考え方にあると指摘する人がいるが、明治維新以降、神道の国・日本が自然破壊のお先棒をかついで来た事実は否定できない。人間中心主義が全世界に蔓延してしまった今日、人類全体の責任を一部の宗教に帰しても、善い結果は何も生まれないと思う。目覚めた者同士が協力して進む以外に道はないのである。

谷口 雅宣

 

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2006年2月 9日

ヒツジとヤギの共存

 昨年6月11日の本欄で、私は「内外一如」と題して“顔細胞”のことに触れた。それは、大脳の一部(側頭連合野の一部)にある細胞で、外界にある「顔」の形に似たものに敏感に反応するので、この名がある。この細胞があるおかげで、我々は実際には「顔」でないもの--例えば、雲の塊り、壁のシミ、自動車のフロント周り、火星の岩など--にも「顔」を見るのである。だから、我々の内部と外部は全く別物ではなく、むしろ内部のものを外部に見たり、外部のものが内部に映ったりする「内外一如」の状態にある--そんな話だった。

 ここで問題にしたのは、①我々の内部に“顔細胞”がまずあったから、存在しない顔を外部に見るようになったのか、それとも、②我々の外部にまず顔があったから、やがて内部に“顔細胞”ができたのか、ということだった。もちろん、正解は②である。しかし、②によって①の効果が生まれたのだ。では、次に問題を拡げて考えよう。我々人類が太古の昔から、「神」や「仏」というような見えないものを、見えるものの背後に見たり、感じたりするのはなぜか? それは、①我々の内に“信仰の種”がまずあったから、存在しない神仏を外部に感じるようになったのか、それとも、②我々の外にまず神仏があったから、やがて内部にも“信仰の種”ができたのか? 上記の文章では、私は②を支持したのだった。
 
 心理学者を初めとした多くの科学者は、しかし①を支持しているようだ。つまり、人類は進化の過程で脳の内部に複雑な情報処理機構を作り上げてきた結果、存在しない神仏や超常現象を、あたかも存在するかのごとく感じるようになった、というのである。イギリスの科学誌『New Scientist』は1月28日号で「信仰の科学(The science of belief)」という12ページの特集を組んで、信仰や神の起源をさぐっている。

 その中で面白かったのは、人間には神仏や超常現象を信じやすい“ヒツジ型”とそれらを疑う“ヤギ型”の2タイプがあるという話だ。前者は、神仏を信じるだけでなく、自分の周りで起こる現象の中に一定のパターンを見つけやすく、後者はそういうパターンの存在を疑うというのである。今風に表現すれば、前者は「シンクロニシティー」を肯定し、後者はそれを「偶然」や「確率」の問題として理解するのである。そして、この2つの傾向は一人の人間の中にも程度の差をもちながら共存しているという。そして、どちらか一方の傾向が強すぎると、普通の日常生活が困難になる場合が多いというから、ますます興味深い。
 
 また、“ヒツジ型”は右脳を使うことに優れ、“ヤギ型”は左脳をよく使うという。多くの脳科学者によると、右脳は創造活動や“横断的思考”(lateral thinking、互いに離れた概念を関係づけて見る傾向)を行い、左脳は言語活動や論理的思考に使われるようだ。ということは、“ヒツジ型”は神を信じやすいだけでなく、迷信や占いや超常現象をも信じやすいということで、“ヤギ型”は論理ずくめで考える傾向が強いために無神論的、懐疑主義的になるということだ。もっと専門的な表現を使えば、“ヒツジ型”はパターンがない所にパターンを見るという「タイプ1」の間違いを犯しやすく、“ヤギ型”はパターンがあるのに、それを見落とすという「タイプ2」の間違いを犯しやすい。
 
 こういう書き方をすると、神仏を信じやすい人々は何か劣っているように聞こえるかもしれない。しかし、そうではない。統計的に言うと、信仰者は不信仰者よりも幸福で健康な生活をしており、しかも長寿であることが分かっている。また、信仰者は不信仰者よりも社会によく適応しており、暖かい人間関係をもっているのである。だから、進化生物学的に言えば、宗教を信じることは生存に有利であり、そのために人類は宗教を生み出したのかもしれない。

 そこで最初の質問にもどろう。人間は宗教を生み出したときに神や仏も生み出したのか、それとも神や仏がまずあったから、それを信仰する宗教を後から人間が生み出したのか? 現代科学では物質的に測定できない「神」や「仏」の存在を認めないから、科学者は当然前者を唱えるだろう。しかし、宗教者は後者を支持する以外にない。ここに科学と宗教の間の超えられない“溝”を感じる人もいるだろう。でも、この双方の議論はいずれも「時間」の概念の枠内にある。もし、時間を含んだより高次の次元が宇宙の本当の姿だとしたら、双方の対立はなくなるだろう。また、我々人間の体では“右脳”も“左脳”も発達しているのだから、双方の得意とする考え方が調和的に共存することが、人間の幸福にとって必要なのだ。

 ところで、聖書にはイエス・キリストが“ヒツジ”と“ヤギ”との明らかな違いを説いている箇所がある(『マタイによる福音書』25章31-46節)。関心のある方はぜひ、ご一読あれ。
 
谷口 雅宣

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2006年2月 8日

ニューギニアの“楽園”

 日本のトキやニホンオオカミばかりでなく、世界各地で生物種が絶滅に追いやられている中で、人間に未知の生物種がまだ発見されつつある。植物の世界ではそんな話を聞いたことがあるが、動物にも新種はまだまだ存在するらしい。しかも、1種や2種でなく「何ダース」もの未発見種がニューギニアの奥地で見つかったのだ。2月8日付の『ヘラルド朝日』が伝えている。

 記事によると、昨年12月、インドネシア東端のニューギニア島に広がるフォジャ山地(Foja Mountains)へ入っていたアメリカとインドネシアの探検隊は、前人未踏の熱帯林の中に見たこともないような動植物が棲息する小世界を発見したという。カエルの新種20種、チョウ4種を初め、ヤシの新種は少なくとも5種、また別の地で絶滅したと思われていた大型哺乳動物など、何ダースもの珍しい生物種が同定された。探検隊のリーダーの一人であるブルース・ビーラー氏(Bruce Beehler)によると、隊が動いたのは半径にしてほんの数キロの範囲で「まだ表面を引っかいた程度」というから、もっと多くの新種の生物が発見される可能性がある。

 これらの生物の多くは人間を恐れず、掴まれるままになるものもいる。中でも科学者を驚かせたのは、捕獲されすぎて絶滅したと思われていた、樹上生活をする金色マント・カンガルーという哺乳動物と、目の周りに鮮やかな橙色の肉垂れのついたミツスイ科の鳥の新種だという。私には何のことだかよく分からないが、探検隊の撮影したカラー写真が見れるようになっているから、興味のある読者は同紙のサイトを参照していただきたい。
 
 こういう話を聞くと、私は昨年2月に静岡県で生長の家講習会があった後、掛川市の「花鳥園」に行ったときのことを思い出す。天井の高い温室の中で花が咲き乱れ、極彩色の鳥が飛び回る空間へ足を踏み入れた私は、しばし言葉を失ったものだ。鳥は人間に馴れているから、私の肩や頭にとまるのを躊躇しない。妻は恐がってそれを避けたが、私は表情を緩めて肩にとまった鳥たちに声をかけようとした。もちろん、こんな環境はきわめて人工的だ。しかし、危害を加えない動物たちと交流をもてることは、人間にとって喜びであることがよく分かる。昨今のペットブームも、そんな喜びを求める人が増えていることを示している。そういう動物たちを、人間の生活の場へ連れてきたい気持はよく分かるのだ。

 しかし、これは人間の煩悩なのだろう。人類は古来、そういう気持を満足させようとして、多くの動物たちを絶滅に追いやってきた。また、生態系の撹乱ももたらした。もちろん、それとともに、イヌやネコ、家畜のような人類の“伴侶”も生み出してきた。が、全体的に言えば、絶滅種の数の方が“伴侶”の数よりも圧倒的に多い。今回発見されたニューギニアの“楽園”も、人間の煩悩の被害に逢わないことを祈るのである。
 
谷口 雅宣

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2006年2月 6日

信仰と風刺 (2)

 ヨーロッパのメディアがイスラーム最高の預言者・モハンマドの風刺漫画を掲載した問題は、シリアとベイルートではついに領事館放火騒ぎにまで発展した。そして、デンマーク領事館を放火から守れなかったレバノンの内相が引責辞任。イスラーム側も問題のこれ以上の拡大を防ごうと、イスラーム諸国会議機構(OIC)を含め、政治家、宗教指導者らが放火を非難する声明を発表した。イラクでは、過激派がこれを利用しようと、デンマーク人の拉致や、デンマークやノルウェーの製品を扱う商店への攻撃などを呼びかけている。

 私は前回(2月4日)、この事件の原因を「文化の違い、考え方の違い」だと書いたが、書き漏らしたことがある。それは、現代のジャーナリズムの問題である。私は昨年5月13日の本欄で、「人が犬に噛みつくとき」と題して今日のメディアが“悪いこと”“稀なこと”“異常事件”に焦点を合わせて報道するクセを批判し、その結果「大規模な事実の歪曲」が行われていると書いた。その歪曲とは、異常事実ばかりが集められ、ニュースで繰り返して放送され、印刷され、インターネット上に掲載され続けることによって、「稀な事実がいつも起こっている」という反事実が定着することだ。これを別の言葉で表現すれば、コトバの力の誤用によって非存在が存在するかのような印象を作り上げること、とも言える。
 
 私がここで非存在と言っているのは、「イスラームは暴力礼賛の宗教である」ということだ。そんな事実は存在しないのに、西側メディアは、イスラーム過激派が暴力事件を起こす時に、あるいはイスラームの教えが暴力に関係する時にだけ報道し、そうでない、平和を望む彼らの毎日の祈りについて、彼らの平和への努力について、また彼らの社会の善い面については、ほとんど何も言わないからである。私は今回の風刺漫画をすべて見たわけではないが、モハンマドを爆弾テロリストに見立てたものだけを取り上げてみても、イスラームについて本を1冊でも読んだ人が描くものとは思えない。それは、「表現の自由」を楯に取って擁護するに値しないものである。

 にもかかわらず、イギリスを除く多くのヨーロッパの国のジャーナリズムが、イスラーム信者が嫌がるであろうことを知りながら敢えてそれを「再掲載」(オリジナルの掲載は昨年9月)したのは、彼ら自身がイスラームの悪い面ばかりを見、取材し、報道してきたことで、「イスラーム信者のマジョリティーは暴力礼賛だ」との印象を持っていたからではないか、と私は疑う。もしそうでなく、イスラームのマジョリティーは暴力反対と考えていながら、イスラームの“聖者”であるモハンマドの頭を爆弾として描いたのだとしたら、それは立派な“名誉毀損”である。「表現の自由」などというのは苦しい弁解だ。
 
 では、イスラーム側の暴動は正当化されるのか? いや、正当化はされないが、ここにもメディアの力が影響している。これも昨年5月29日の本欄で書いたが、「暴力は社会に伝染する」のである。その“伝染病”の媒体になっているのが、現在のメディアのニュース判断なのだ。私は、西側メディアのことだけを言っているのではなく、アルジャジーラやアルアラビアなどのイスラーム側のメディアも、今回の初期のイスラーム側の不満や怒りを克明に報道したことで、それが世界中のイスラーム信者に大きな影響を与えたに違いない。特に、多くのイスラーム国では、若者の人口が多く、しかも多くは失業している。そういう社会的に不安定で血気盛んな人々に、暴力行為を振るう立派な口実を与える結果になることを、イスラーム諸国のメディアが予想しなかったとは思えない。予想しながらやったのであれば、社会的責任の一端は彼らにもある。

 結局、世の中の悪ばかりを探して、それを「懲らしめるため」と言って大きく扱う現在のメディアの手法は、悪い結果を生み出している。悪を認め、悪の情報をメディアが世界中に拡大することで善が訪れることはないのである。昨年6月2日の本欄で言ったように、相手を“悪魔化”して描く行為は戦争への道である。そういう意味では、西側、イスラーム側双方の良識ある人々がもっと声を大にして、相手の“善い面”を讃えることで、事件を早く収集してほしい。

谷口 雅宣

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2006年2月 5日

カメノテを食べる

 宮崎市で行われた生長の家講習会の帰途、高度1万メートルの上空を飛ぶJAL1892便のMD-90機の中でキーボードを叩いている。前日に泊まった宮崎観光ホテルの夕食で、面白いものを食べた。大淀川が見渡せる窓辺の席で、私と妻は向かい合って「板長おまかせ定食」というのを食べたのだが、味噌汁を一口すすって「うまいっ」と思った。出汁がよくきいたコクのある味で、具には魚肉と海草らしいものが入っている。刺身や煮物をつつきながら、何口目かの味噌汁を具とともに口に含んだ時、何か硬質のザラザラした感触がしたので、思わず箸でそれを取り出して眺めた。小指大の黒っぽいものの先に、白っぽい三角形の貝殻のようなものが付いている。「カメノテじゃないか!」と私は驚いた。

Kamenote  カメノテの名は「亀の手」から来ている。「これは亀の手です」と言って出されたら、「ああそうですか」と納得してしまいそうな形をしているが、亀とは無関係だ。事典で調べると、蔓脚亜綱ミョウガガイ科の小型甲殻類と書いてあるから、亀よりはカニやエビに近いのだろう。潮の満ち干のある潮間帯の岩の割れ目などに固着して、原生動物や藻類などの小型プランクトンを餌とするそうだ。

 私は小学生の頃、夏休みに父母姉弟とともに石川県の「小木」という海辺の町に何回も連れて行ってもらったことがある。入り組んだ湾に面した旅館に泊まり、波のない紺碧の海に、水中眼鏡とシュノーケルを付けて潜るのが楽しみだった。海中の岩場には、それこそ無数の生物が蠢いていて、それを眺めながら足鰭をバタつかせてゆっくりと泳いでいると、時間を忘れてしまう。そんな海中の風景の中に必ず見えるのが、カメノテだった。もちろん巻貝やヤドカリ、イソギンチャク、フジツボ、バフンウニなども豊富にいたが、この奇妙な形の生物は印象が深かった。しかし当時、泊まった旅館の料理にはこれが出てくることがなかったから、食用とは考えてもみなかった。

 妻は伊勢の出身だから、東京生まれ東京育ちの私よりも海の生物に詳しいと思って訊いてみたが、カメノテを知らなかった。私は得意になって、この生物がどういう所に棲息しているかを話した後、食べようと思い、箸でつまんだカメノテを仔細に眺めた。が、どこにも食べられそうな所がない。カメの「手」のように見える部分は、貝殻のように固く閉まっていて、「腕」に見える部分は、忍者が着る鎖帷子のようなゴワゴワした表皮で覆われている。「これはきっと出汁を取るためだね」などと知ったかぶりの解説をしてみたが、どうも自信がない。なぜなら、出し殻の煮干を味噌汁に入れて出す旅館などないだろうから、カメノテが専ら出汁用だと考える不自然は拭いがたいのだ。

 結局、料理を持って来た女性に「これはどうやって食べるんですか?」と尋ねた。その答えは--「腕の部分を開いて中身を食べます」だった。言われたように歯を立てて開いてみると、カニの足に肉があるように、カメノテの先の方まで肉が入っている。、干し貝柱のような濃厚な味と歯ごたえだった。事典によると、地方によっては食用にするといい、「塩煮にして殻をとり内部の肉を食べたり味噌汁の出汁にもする」と書いてある。私の想像は、まんざら間違っていなかったわけである。

谷口 雅宣

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2006年2月 4日

信仰と風刺

 デンマークの新聞が昨年9月、イスラーム最高の預言者とされるモハンマドを風刺漫画に描いたことが発端となり、「表現の自由」を掲げるヨーロッパのジャーナリズムと、イスラーム信仰者の対立が激化してきた。デンマークの新聞に連帯を示すためにベルギー、フランス、ノルウェーなどヨーロッパの新聞や雑誌が次々と同じ漫画を掲載したところ、ガザではパレスチナ人がEUの事務所前で銃を発射して抗議、バグダッドではデンマーク製品のボイコット運動が起こり、ジャカルタではデンマーク大使館に腐った卵が投げつけられるなど、イスラーム諸国を中心に激しい抗議の輪が広がってる。

 フランスでは当初、デンマークの問題の漫画を転載した日刊紙の編集長が解任されたが、高級紙『ル・モンド』は3日付で別の風刺画を掲載して「宗教には敬意が払われるべきだが、同時に自由な分析、批判、笑いの対象でもあるべきだと」と社説で主張した。しかしその後、シラク大統領が「表現の自由は許されるべきだが、他人の信仰も尊重すべきだ」など柔軟姿勢を示し、デンマークのラスムセン首相は3日、イスラーム諸国の大使など70人以上と会談し、風刺漫画の掲載について「不適切だった」と遺憾を表明、イギリスのストロー外相も問題の漫画を転載した行為を「間違いだった」と明言するなど、火消しに大わらわだ。また、2日には、国連のアナン事務総長が「報道の自由は常に、すべての宗教の信仰と教義を完全に尊重する形で行使されなければならない」との声明を発表した。

 外交という側面から考えれば、ヨーロッパ各国首脳の対応は当然と思う。外交においては、表現は「柔らかく」「間接的」「暗示的」に行うのが常道だからだ。とりわけ他国の宗教の中心者に関する場合、自国の同じ立場の人に対するのと同様の態度を守るのが常識だ。しかし、ジャーナリズムにおける「表現の自由」ということになると、恐らく問題の角度が少し違ってくる。とりわけ自由主義の国々では、ある程度「悪趣味」と思われる表現も許されてきたし、そうしなければ、民主主義の基本である「自由な討議」は成立しない。その一方で、誹謗や中傷は犯罪として処罰されることがある。問題は、どの程度までの風刺なら許されるかということだ。

 では、今回の漫画はどんな内容か?--私はそう思って日本の新聞を見たが、どこにも載っていない。今朝のBBCニュースでも、問題の漫画は注意深くボカしてある。そしてやっと、アメリカのABCニュースにそれらしいものが短時間映った。しかし、問題の発端になった漫画は12枚あったというのだから(4日付『ヘラルド朝日』)、その中の1枚にすぎないだろう。それはどういう絵かというと、黒いターバンを頭に巻いたアラブ人風の男の顔の漫画で、ターバンの隅から黒いダイナマイトと導火線のようなものが見えている。これがモハンマドの顔であるかどうか私には分からない。が、イスラームの人々がそう言って怒っているのだから、きっとそうなのだ。「ふーむ……」と考え込んでしまった。

 立場を逆転させて考えてみよう。もし、釈迦や孔子、イエスあるいはローマ法王の頭からダイナマイトの導火線が出ている漫画が新聞に掲載されたら、どうだろうか? それぞれの信仰者たちが怒ることは、容易に想像できる。だから、それを掲載した新聞が軽率だったことは否定できない。しかしその反面、実際にイスラム過激派の爆弾テロ攻撃を受けて多くの死傷者が出た国には、そういう風刺漫画を歓迎する人がいることも理解できる。私は過去に、ビンラーデン氏やザルカウイ氏などを風刺した漫画を見たことがあるが、イスラーム世界はそれに対してはこれほど反応しなかった。どうやら問題の核心は、「預言者モハンマドを扱った」という点にあるようだ。

 イスラーム世界では、預言者モハンマドを形に描いてはいけないという約束事があるらしい。まして漫画や風刺画などとんでもないということだろう。しかも、「彼の頭脳は爆弾だ」と言わんばかりの表現は、「預言者の全面否定」と受け取られても仕方がないだろう。日本や西洋社会においては、「神」が風刺の対象となることがある。しかし、イスラーム世界ではそれは許されない。この文化の違い、考え方の違いが原因で現在の問題は起こっている。グローバルな社会では、この種の文化の違いが「摩擦」となり、さらに深刻な政治問題へと発展する恐れがある。しかし、この動きは止められないのだから、対立する双方が互いの考え方を理解する方向へ進んでいく以外に共存の道はないと思う。
 
 谷口 雅宣 

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2006年2月 3日

走り出した次世代ハイブリッド車

 1月31日の本欄でレスター・ブラウン氏の提唱する「改良ハイブリッド車」の話を書いたら、山岡睦治氏からのコメントで、「すでにその車は試作されている」ことを教えていただいた。さらに、メイ利子氏のコメントにあったホワイトハウスのウェッブサイトを読んでみると、今回の一般教書演説の解説の中で、ブッシュ大統領自身もその車を念頭に置いていたことが分かった。「知らないのは自分だけか!」と驚いてしまった。アメリカでは「改良ハイブリッド車」とは呼ばず、「Plug-in hybrid vehicles (PHEVs、充電式ハイブリッド車)」と呼ぶらしい。そのうちトヨタのプリウスを改良したものが「プリウス+」と呼ばれている。

 プリウス+を推進しているのは、米カリフォルニア州の非営利法人、カルカーズ(CalCars)で、「100+MPG」という燃費効率の自動車の製造をメーカーに勧める運動をしている。100+MPGとは「1ガロンで100マイル以上走る」という意味で、メートル法に換算すると「リッター当たり42キロ以上」の燃費効率である。カルカーズのウェッブサイトによると、ここで鉛蓄電池を搭載した「プリウス+」の第1号を試作されたのは、2002年9月だという。また、カリフォルニア大学デービス校(UCD)のアンディー・フランク教授(Andy Frank)を中心にしたグループは、同大の高度ハイブリッド車研究センターで市販のセダンとSUV車を改造したPHE車をすでに9台製作しているという。

 彼らによると、PHEVは“次世代ハイブリッド車”であり、動力は電気が主体となり、ガソリンはオプションとなる。通常の120ボルトの電源で充電できるから、電気の通っている所ならどこへでも行けることになる。そして、電気走行時は排ガスゼロのクリーンカーだ。さらに、この車に電気アウトレットを付ければ、家が停電した時などの非常時に、家電を一時的に使うことができる。

 大手自動車メーカーでPHEVを最初に試作したのはダイムラー・クライスラーで、ドイツのマンハイム工場で15人乗りのベンツのバンに、ニッケル・メタル電池あるいはリチウム・イオン電池を積んだものを2003年中に製作したらしい。カルカーズは、2002年秋の第1号に続いて、2005年の1~4月にかけてプリウス+の試作第2号と第3号を製作している。そして、プリウスのほかにも「フォード・エスケープ・ハイブリッド」「レクサスRX 400h」「トヨタ・ハイランダー」などのPHEV化を検討しているらしい。また、ACプロパルジョン社は、フォルクスワーゲン・ジェッタを改造して電気、ガソリン、天然ガスの3つを使えるPHEVを製作した。その他、三菱自動車、南カリフォルニア・エジソン社、ルノー社なども、PHEVの試作車をすでに製作ずみという。

 このような背景を知ってから、先日の一般教書演説についてのホワイトハウスの次の解説文を読むと、今回の大統領の意図がより明確になる:

[より効率的な車の開発]現在走っているハイブリッド車は、エネルギー省で開発された電池を使っています。大統領の計画により、ハイブリッド車と充電式ハイブリッド車のために次世代の電池技術の研究が加速されるでしょう。現在のハイブリッド車では、搭載した電池への充電はガソリンエンジンからしかできません。充電式のハイブリッド車は、電気でもガソリンでも走れ、夜間に家庭の電源に差し込んで充電することもできます。この型の車ができれば、都会の通勤時にはガソリンほとんど不要になります。高度な電池技術は、短期間に石油の消費を相当に減らす可能性を秘めています。2007年度の予算には、この電池技術の開発を急ぎ、電気での車の走行距離を伸ばすために、06年度より670万ドル多い3000万ドルを充てています。

 自動車のハイブリッド技術は、日本の発明だ。しかし、次世代の充電式ハイブリッド車では、アメリカが本腰を上げて“起死回生”を図ってきたように見える。この技術は、環境保全と安全保障の両面で優れていることは、アメリカでも日本でも同じだ。日本もアメリカに遅れをとらないように、得意な技術をさらに磨き、化石燃料に頼った生活から早く脱却しようではないか。
 
谷口 雅宣

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2006年2月 2日

米、エネルギー政策を転換か?

 ブッシュ米大統領は31日の一般教書演説の中で「アメリカは石油中毒だ」(America is addicted to oil.)と認めた。アメリカの時事週刊誌『TIME』は、昨年10月31日号の特集記事に「エネルギーの未来:石油癖をどうやめるか」という題をつけたが、「石油中毒」とまでは言わなかった。産油州テキサスの石油会社出身のブッシュ氏としては、大いなる進歩だと拍手を送りたい。そして、この“中毒物”の輸入先がしばしば政治的に不安定な地域であることが、国の安全保障の問題を引き起こしてきたことも認めた。これは、イラク派兵の理由の一つが石油の供給確保であることを事実上認めたと解釈できる。ただし同演説では、イラクの問題とエネルギー問題を全く切り離して、前者を「圧制の終焉」と「自由の拡大」のために必要な外交手段として演説の前半で擁護し、後者は演説後半に国内問題を扱う中で述べた。

 これによって同大統領は、対外的には伝統的な理想主義の看板を下ろさずに、国内では石油に代わる代替エネルギー開発に力を入れる現実的な路線を明確にした、と見ることができる。この演説からエネルギー政策についての部分を抜粋すると--
 
「我々はすぐれたエネルギーの開発を促進しなければならない。エネルギー省が主導して研究費を約22%増加して2つの分野で成果を上げたい。1つは、石炭火力発電所の石炭燃焼浄化技術開発や太陽エネルギー、風力発電、原子力発電などに予算を傾斜配分する。もう1つは車の動力源を変えることだ。ガソリンと電気を併用するハイブリッド車の開発や燃料電池の開発だ。また、トウモロコシからだけでなく、木屑や雑草などからもエタノールを作れる革新的な技術研究を進め、2025年までに中東から輸入される石油の75%を代替できるようにしたい」

 この演説を受け、2日(英国時間で1日午後10時)に放映されたイギリスのBBCニュースは、トップで「大統領はアメリカのエネルギー政策に大きな転換を求めた」と伝えた。同ニュースによると、アメリカは世界で生産される石油の約4分の1(日量210億バレル)を消費しているが、国内ではその4割しか生産できず、残りの6割を輸入に頼り、輸入の43%は中東を主体としたOPEC諸国からのものだという。これの大部分をあと19年でなくしてしまおうというわけだ。注目すべきは、アラスカ州など国内にまだある新規油田の開発には演説で全く触れなかったことで、これによって大統領のエネルギー政策が石油から代替エネルギーへと「大きく転換」したと評価されたようだ。
 
 エネルギー政策の転換については、ブッシュ政権は今回の演説の“目玉”にしたいと考えていたフシがある。というのは、1日付の『ヘラルド朝日』によると、ホワイトハウスは大統領の演説が行われる前に、エネルギー政策等についてその骨子を発表したからだ。また、大統領自身が事前のCBSニュースとのインタビューで「私は、アメリカが輸入石油に依存していることが経済問題と安全保障問題を生んでいるというアメリカ国民の考えに同意している」と発言し、トウモロコシだけでなく木屑や雑草から作るバイオエタノールの開発を進めたいと述べたという。また、ABCニュースは2日(米国時間1日夜)、一般教書演説を終えた大統領がテネシー州ナッシュビルで、「研究を集中することで、我々は6年以内にガソリンに匹敵する(バイオ)燃料を得ることができると言われた」と発言したことを伝えた。そして、今の政府の計画では、太陽光発電に6800万ドル、風力発電に500万ドル、燃料電池車に5300万ドル、バイオエタノールの生産に5900万ドルを投入する考えという。

 このような予算措置は、もちろん今後の議会での審議を経て決まるものだが、代替エネルギー重視の政策は野党・民主党も賛成しているから、この方向へのエネルギー政策の転換は実現する可能性が大きい。ただし、「代替エネルギー」とひと言でいっても、ブッシュ氏はその中に「原子力発電」も「石炭による火力発電」も含めているから、それぞれへの予算配分の大きさが決まったところで、政策の全貌が見えてくるのだろう。アメリカの政策転換は、日本の産業の動向にも大きな影響を与えるから、私としては原子力や石炭よりも「再生可能エネルギー」(自然エネルギーとバイオエタノール)への重点配分をぜひお願いしたいところだ。

谷口 雅宣

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