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2006年2月 6日

信仰と風刺 (2)

 ヨーロッパのメディアがイスラーム最高の預言者・モハンマドの風刺漫画を掲載した問題は、シリアとベイルートではついに領事館放火騒ぎにまで発展した。そして、デンマーク領事館を放火から守れなかったレバノンの内相が引責辞任。イスラーム側も問題のこれ以上の拡大を防ごうと、イスラーム諸国会議機構(OIC)を含め、政治家、宗教指導者らが放火を非難する声明を発表した。イラクでは、過激派がこれを利用しようと、デンマーク人の拉致や、デンマークやノルウェーの製品を扱う商店への攻撃などを呼びかけている。

 私は前回(2月4日)、この事件の原因を「文化の違い、考え方の違い」だと書いたが、書き漏らしたことがある。それは、現代のジャーナリズムの問題である。私は昨年5月13日の本欄で、「人が犬に噛みつくとき」と題して今日のメディアが“悪いこと”“稀なこと”“異常事件”に焦点を合わせて報道するクセを批判し、その結果「大規模な事実の歪曲」が行われていると書いた。その歪曲とは、異常事実ばかりが集められ、ニュースで繰り返して放送され、印刷され、インターネット上に掲載され続けることによって、「稀な事実がいつも起こっている」という反事実が定着することだ。これを別の言葉で表現すれば、コトバの力の誤用によって非存在が存在するかのような印象を作り上げること、とも言える。
 
 私がここで非存在と言っているのは、「イスラームは暴力礼賛の宗教である」ということだ。そんな事実は存在しないのに、西側メディアは、イスラーム過激派が暴力事件を起こす時に、あるいはイスラームの教えが暴力に関係する時にだけ報道し、そうでない、平和を望む彼らの毎日の祈りについて、彼らの平和への努力について、また彼らの社会の善い面については、ほとんど何も言わないからである。私は今回の風刺漫画をすべて見たわけではないが、モハンマドを爆弾テロリストに見立てたものだけを取り上げてみても、イスラームについて本を1冊でも読んだ人が描くものとは思えない。それは、「表現の自由」を楯に取って擁護するに値しないものである。

 にもかかわらず、イギリスを除く多くのヨーロッパの国のジャーナリズムが、イスラーム信者が嫌がるであろうことを知りながら敢えてそれを「再掲載」(オリジナルの掲載は昨年9月)したのは、彼ら自身がイスラームの悪い面ばかりを見、取材し、報道してきたことで、「イスラーム信者のマジョリティーは暴力礼賛だ」との印象を持っていたからではないか、と私は疑う。もしそうでなく、イスラームのマジョリティーは暴力反対と考えていながら、イスラームの“聖者”であるモハンマドの頭を爆弾として描いたのだとしたら、それは立派な“名誉毀損”である。「表現の自由」などというのは苦しい弁解だ。
 
 では、イスラーム側の暴動は正当化されるのか? いや、正当化はされないが、ここにもメディアの力が影響している。これも昨年5月29日の本欄で書いたが、「暴力は社会に伝染する」のである。その“伝染病”の媒体になっているのが、現在のメディアのニュース判断なのだ。私は、西側メディアのことだけを言っているのではなく、アルジャジーラやアルアラビアなどのイスラーム側のメディアも、今回の初期のイスラーム側の不満や怒りを克明に報道したことで、それが世界中のイスラーム信者に大きな影響を与えたに違いない。特に、多くのイスラーム国では、若者の人口が多く、しかも多くは失業している。そういう社会的に不安定で血気盛んな人々に、暴力行為を振るう立派な口実を与える結果になることを、イスラーム諸国のメディアが予想しなかったとは思えない。予想しながらやったのであれば、社会的責任の一端は彼らにもある。

 結局、世の中の悪ばかりを探して、それを「懲らしめるため」と言って大きく扱う現在のメディアの手法は、悪い結果を生み出している。悪を認め、悪の情報をメディアが世界中に拡大することで善が訪れることはないのである。昨年6月2日の本欄で言ったように、相手を“悪魔化”して描く行為は戦争への道である。そういう意味では、西側、イスラーム側双方の良識ある人々がもっと声を大にして、相手の“善い面”を讃えることで、事件を早く収集してほしい。

谷口 雅宣

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