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2006年1月 6日

恩 返 し

 その人からの贈答品は、もう何回来ただろうか?
 --と幸子は思った。
 幸子は結婚以来、20年以上も到来物をノートに几帳面に記録している。もちろん、差出人の住所、氏名も書き込む。そしてきちんと礼状を書く。夫に言われたわけではなく、自ら買って出た仕事だ。それによって、あまり社交的でない夫の印象を和らげることができれば、と考えたのである。
 夫が出世するにつれて、到来物のリストは長くなった。ところが、夫が転勤になったもう5年ほど前から突然、知らない女性の名前で、米や紅葉饅頭などが年3~4回届くようになったのである。
 夫はその女性を知っていると思い、尋ねたことは何度かある。が、「知らない」というばかりだ。あまり追及しても逆効果と考え、近頃は「○○が来ました」と報告するだけにしていた。
 夫はその報告を聞くと、「そう」「ふーん」「また?」などと無感動な返答をするのだった。
 柏尾夕美。
 --それが差出人の名前である。
 手紙でも添えてあれば何かの手掛かりになる、と思う。しかし、宅配便で品物だけが届く。差出人の住所は大阪・住吉区で、住居はアパートかマンションのように「204号」と部屋番号が書いてある。礼状は、宛先人不明で返ってきたことはない。ということは、仮名ではなく実在の人物なのだ。もちろん、幸子の旧友や知り合いの中に「柏尾」姓も「夕美」という名前も思い浮かばない。ひょっとして結婚前に勤めた会社の同僚、樫尾さやかか、とも思ったが、本人は結婚して「尾藤」姓に変わっていることが判明した。
 子育てが終った幸子にとって、子供のこと以外で自分の周りに未整理の問題があるのはいやだった。だから、柏尾夕美のことも、早く疑問を晴らしてしまいたかった。喉の奥に刺さった魚の小骨のような状態から、もう解放されたかった。
 何事もスッキリさせたい。
 --こういう気持は、もしかしたら「母の死」と関係しているかもしれないと幸子は思う。彼女は最近、自分がそろそろ母親が死んだ時の年齢に近づいている、と感じていた。
 幸子の母、珠樹は54歳で亡くなった。軽自動車を運転中の出会い頭の衝突で、相手は大型トラックだった。幸子は当時まだ19歳だったから、ショックが大きかった。人生の先輩である母親から、もっといろいろのことを学びたいと思っていた矢先の出来事だった。珠樹は、臓器提供の意思をドナーカードに示してあったから、脳死段階で臓器は諸方へ散逸した。
「散逸した」という言い方は正しくないかもしれない、と幸子は思う。しかし、娘にとって、母親の体がまだ温かいうちに解体されて、臓器が部品のように外されて持ち去られたと思うと、それは「略奪」でなければ「散逸」だった。幸子は、母の死に目に逢えなかった。ちょうど大学のクラブの合宿で、長野県の高原に行っていたからだ。だから、棺桶の窓から見える無表情の白い顔の母が、臓器を取り去られた後であることを知って、口惜しかった。母が臓器提供の意思表示をしていたことを、怨みに思ったほどだ。自分の子どもにはこんな思いを決してさせまい、と幸子はその時思った。
 幸子が柏尾夕美に手紙を書こうと決意したのは、だから決して思いつきなどではない。心に刺さった“魚の小骨”を抜くためには、その“骨”に直接当るほかない、と考えたからだった。

 柏尾夕美からの返事は、なかなか来なかった。が、半年もたった頃、分厚い手紙が彼女の名前で届いた。詳しい内容は省略するが、手紙の主は30歳の独身女性で、贈物は夫のためではなく、幸子自身へのものだった。宛先を夫の名前にしたのは、それが礼儀だと思ったかららしい。そして、いつも「幸子」の名前の礼状を待ちわびていたという。理由は、「貴女のことを母親のように感じていたから」と書いてあった。
 柏尾夕美の母親は、幸子の母、珠樹の心臓を移植して立ち直ったという。しかし数年後、夕美を産むときにうつった感染症が原因で、死亡した。免疫系が弱っていたようだ。夕美は成人後その事実を知り、自分が生まれたのは死んだ母親に心臓をくれた人のおかげだと考え、苦労して提供者を探し出したという。
「お会いしたいと思いましたが、片思いなので……」
 と、その手紙は結んでいた。

谷口 雅宣

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