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2006年1月29日

隼 人 塚

 鹿児島県で行われた生長の家講習会の後、隼人塚というところへ寄った。ここは、大正10年に国が遺跡として指定したところで、『古事記』や『日本書紀』に記された古代の南九州の住民「隼人」の反乱に関係があるとされている。発見当時は、高さ3mの丘の上に多重石塔3塔、四天王石像4体が、一部傾いて土に埋まり、あるいは欠けた形で立っていたそうだ。それを平成10~11年に補修して、今は小ぎれいな公園の中に当時の面影を残しながら皆、正しく上を向いて立っている。
 
「薩摩隼人」という言葉があるから、私は「隼人」とは鹿児島県の男性の別称だろうくらいに思っていた。しかしこれは間違いで大昔、九州地方に住んでいた部族のことだ。日本の文献に最も古く「隼人」の文字が現れるのは『古事記』(712年成立)と『日本書紀』(720年成立)で、海幸山幸の神話にある兄の海幸彦のことを「隼人族の祖先」だと紹介してある。この物語では、ホオリノミコト(山幸)が兄のホデリノミコトを服従させて皇室の系譜を継ぎ、ホデリノミコトは隼人族の祖先となって代々朝廷に仕えたということになっている。

 しかし実際は、隼人族の一部は朝廷に服従して「畿内隼人」として近畿地方に移住させられたりしたが、九州南部には依然として朝廷に従わない隼人族がいて、薩摩国設置(702年頃)や大隈国設置(713年)の際に反乱し、さらに養老4年(720年)に大きな反乱を起こしている。この最後の戦いは「隼人の乱」と言われ、1年半にわたって戦われ、朝廷方の1万人の追討軍に対して、首を切られたり捕虜にされた隼人族は1400人余にのぼったというから、かなり熾烈な“部族解放戦争”だったことが窺われる。

 隼人塚は、これらの戦いの際に死んだ人々の霊を慰めるために造られたという説がある。この場合は、建立時期は和銅元年(708年)ごろということになるらしい。しかし、この塚に建てられた石塔などの形態が大隈国国分寺跡にある六重塔に似ていて、後者に彫られた年号が康治元年(1142年)であることから、この頃に造られたという説が後に唱えられた。これだと平安末期の建立ということになる。このほか、「寄せ集め説」とか「移転説」もある。前者は、明治初年の廃仏毀釈で破壊された石塔や石像を、その後付近から寄せ集めたものという説。後者は、天保年間に書かれた『三国名勝図会』に国分市の重久にあると記された隼人塚が、ここに移転されたという説だ。とにかく、建立の目的や時期は正確には不明だ。(これらの記述は、隼人町立隼人塚史跡館提供の資料による。この資料では、塚の建立は「約850年前」となっていた。)

Hayato  隼人塚史跡館を出て、隼人塚まで足を運んだ。3基の五重の塔よりも、塚の四隅に立っている甲冑姿の四天王の石像に惹かれる。4体すべてが甲冑を着ているのは珍しいそうで、それだけかつての戦いの激しさを想像させる。石像のあちこちが壊れて失われている姿が、逆にリアルである。現代の戦争でも、最後は白兵戦だ。
 
 寒風に矢尽き佇む隼人かな
 
谷口 雅宣

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