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2005年12月17日

アンビバレンス

 アンビバレンスとは「矛盾する感情」というような意味の英語だ。「アンビ(ambi)」が「2つ」とか「両面」という意味だから、直訳すると「2つの側面をもった感情」ということになり、例えば「好き」なのか「嫌い」なのか分からない感情のように、互いに「矛盾する」という意味になる。のっけから小難しい話になったが、これにはわけがある。東京から沖縄を目指して飛んでいる機上で見た夢が、まさにこのアンビバレンスを私の中で引き起こしたからだ。

 私はイラクの首都・バグダッドにいた。時はまさに現在進行形で、米軍肝いりの新憲法にもとづいてかの国で総選挙が行われた直後のようだった。米国ABC放送の女性キャスター、エリザベス・バーガスが町角に立って、テレビカメラとプロンプターの前で撮影中だった。その現場に私もいた。43歳の彼女はスペイン系の彫りの深い顔で、日光の眩しさに眉をひそめながら、抑揚のある英語でバリバリと口角泡を飛ばしながらしゃべっている。一見、ジュリア・ロバーツ風だが、顔がやや大きく肩幅が狭い。その周囲を大勢のイラク人たちが遠巻きにしている。が、奇妙なことに皆、指を立てて何かの合図をしているようだ。老人も子どもも黒スカーフの女性も、満面笑みをたたえながら天を指差して何かを喜んでいるのだ。
 エリザベスの説明では、生れて初めて民主選挙をした人々が、赤インクに半分ほど浸した人差し指をカメラマンの前で誇示しているのだという。これは、二重投票を防ぐために今回考案された方法で、投票用紙を投票箱の中に入れた人だけが、インク壺に指を突っ込んで色をつけるのである。米軍にとっては二重投票防止策だが、イラク人にとっては「歴史的な第一票を投じた」という動かしがたい証拠なのだった。選挙に反対する武装勢力から見れば、同じ印は「占領軍に協力した証拠」として見られ、へたすると攻撃される危険さえある。にもかかわらず、彼らはその指を高く掲げて新時代の到来を喜んでいるのだった。
 私は「これは文句なくおめでたいことだ」と感じ、うれしかった。が、その一方で、外国の占領下で、しかも自ら起草した憲法ではない憲法にしたがって、周囲で散発的に炸裂する迫撃弾を気にしながら投票することが「民主政治の第一歩」というのは何かおかしい、と感じていた。
 放送用の撮影を終ったエリザベスを取り囲んだ群衆の中に、私もいた。
「みなさん、どうもありがとう」
 と、彼女は周囲を見回し、大きな笑顔をつくる。
「これが本当に民主的な選挙だと思いますか?」
 と、私は列の後方から大声で聞いた。
「もちろん、そうです。70%の人が投票したのよ」
 とエリザベスは私を目で探して答えた。
「しかし、憲法はアメリカ製だ!」
 と私は反論する。
「憲法起草委員会にはイラク人だけしか入ってないわ」
 と彼女は、少し不機嫌そうに答える。
 私は、周囲のイラク人たちに押し出されて、円陣の中央まで出た。
「憲法起草委員会は、アメリカ軍の支配下にあったことは貴女も知ってるだろう?」
 と私は言った。
「私たちアメリカは、独裁者とテロ支援者からイラク国民を守るために軍を送っているのよ。私たちはイラクのために命を張ってるの! アメリカ軍があるから民主的な憲法ができ、民主的選挙ができたんでしょう?」
 エリザベスは、あくまでもアメリカを擁護する。
 そこで、私はこう言った。
「貴女は本当にジャーナリストか? ABCはブッシュの戦争を批判していたじゃないか!」
 すると彼女は眉間にシワを寄せ、唇を突き出して私を指差した。
「あんたはフセイン支持なのね。テロリストの一味ね!」
 それを聞いて、周りのイラク人たちが一斉に私の方をにらみつけた。皆、赤く染まった人差し指を私に向けて突き出している。
「お前は、テロリストだ!」
 と、エリザベスの目の前にいた体格の大きいヒゲづらの男が叫んだ。
「違う。ぼくは日本人の記者だ!」
 と私は怒鳴り返した。
「日本人がそんな立派なヒゲを生やしてるもんか!」
 と、今度は私のすぐ近くにいる子供が言った。
 私があわてて自分の鼻の下に手をやると、ふさふさとした口ヒゲがあるだけでなく、ほほからアゴにかけても、長いヒゲで覆われていた。
 遠くで「あの男を取り押さえろ!」という声がした。
 私は身の危険を感じて、人ごみから抜け出そうと身を翻した。
「テロリストをつかまえろ!」という声が、私を後ろから追った。
 と次の瞬間、私の背中に何か重いものがドシンとぶつかった。
 
 私は機上の椅子に縛られたまま目を覚ました。搭乗機はたった今、那覇空港に着陸したところだった。
 
谷口 雅宣

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コメント

私も、今回のイラク民主選挙については、同様のアンビバレンスを感じます。

たしかに一方では、民主主義、あるいは自由民主主義の実現は、素晴らしいことなのかもしれません。米ハーバード大のジョゼフ・S・ナイ・ジュニア教授によると、民主主義だからといって必ずしも平和的であるとは限らず、民主国家といえども戦争に訴えることはあるにせよ、単なる「民主主義」ではなく、それが「自由民主主義」である場合、その自由民主主義の国同士の間では、少なくともこれまでのところ戦火を交えた例はないそうです(『国際紛争:理論と歴史[原書第5版] 』有斐閣、2005年、61-63ページ)。

だとすると、今回イラクに、欧米のいわゆる先進諸国における共通の政治理念たる「自由民主主義」の実現が図られていることは、世界平和の観点からも、喜ばしいことだと言えるのかもしれません。

しかし……とやはり考え込んでしまいます。というのも、今回のイラクに対するアメリカのやり方は、そのフセイン政権の転覆の仕方からも明らかなように、あまりにも暴力的・強引なものだからです。

もしも、米ブッシュ政権が「自由民主主義は世界に普及されるべき普遍的な政治理念であり、それを世界に広めるのがわれわれの使命である」という信念を持っており(いわゆる「マニフェスト・デスティニー」)、いつの間にか、それがあまりにも教条的なものへとなってしまっているとしたならば、そしてそのためには「暴力の行使もやむなし」と、「目的が手段を正当化する」とさえ考えられてしまっているとしたならば、それは皮肉にも、かつてマルクス主義が陥ったのと同様の落とし穴に、アメリカも陥ってしまうのではないかとさえ、懸念しています。

かつてマルクスの唯物史観において唱えられた歴史法則が、後進国ロシアへと適用されたとき、法則の貫徹のためにマルクスも認めていた暴力の「助産婦的役割」のみならず、レーニンやスターリンによって暴力の「創造的役割」が強調されるようになり、法則の支配の先取りとして、暴力が助産婦から産婦そのものへと転化した、と言われております(猪木正道『独裁の政治思想 三訂版』創文社、2002年、48-50ページ)。要するに、社会主義の普遍的な実現があまりにも教条的に信じられてしまったが故に、現実をそれに合わせるために、暴力の行使が正当化されてしまった、というわけです。

現在のアメリカも、もしかすると、そのような落とし穴に陥ろうとしているのではないか…というのは、考えすぎでしょうか?

山中 拝

投稿: 山中 | 2005年12月20日 05:51

山中さん、

 「暴力の助産婦的役割」ですか……。
 面白い表現があるんですね。助産婦さんにとっては、きわめて不本意な表現でしょうが……。

 フセイン裁判、どうなるんでしょうか。

投稿: 谷口 | 2005年12月23日 12:11

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