ナショナリズムと生命倫理
韓国のES細胞研究の第一人者、ファン・ウー・ソク教授(Hwang Woo Suk)が世界幹細胞ハブの所長を辞任する考えを明らかにしたことに対し、国民の間から同情と辞任撤回の熱烈な要望が噴き出している。ノーベル賞候補との声も出る“国民的英雄”になっているからか、今回の倫理問題を追究したメディアを批判し、ファン教授の研究を応援するために、自らの卵子の提供を申し出た女性は700人(一部では千人)を超えたという。29日付の新聞各紙が伝えている。
しかし、こういう「世界一を目指そう」というようなナショナリスティックな感情によって、生命倫理の問題をなし崩しにするのは決して望ましいことではない。ファン教授は、研究成果を急ぐあまり倫理的判断を疎かにした部下を、充分監督しえなかった責任をとって辞任したのだ。その倫理的問題を“国民的情熱”によってひっくり返し、「なかったことにする」という前例を作ってしまうと、「韓国という国はいっときの熱情で倫理を無視するところだ」との国際的評価を生むことになるだろう。それこそ、韓国の生命科学の正しい発展にとって大きな汚点を残すことになるだろう。これは、中国で使われた「愛国無罪」のスローガンとも似ていて、さしずめ「愛国皆倫理」とでも呼ぶべきか。知性のないスローガンを、知性の殿堂であるべき先端科学の研究に持ち込んではいけないのだ。
この種の国民感情の盛り上がりについて『ヘラルド朝日』紙は、研究者の間には「非合理」だとの批判があることを伝え、さらに「世界の科学者の信頼を取りもどす助けになるとは思えず、有害でさえある」と書いている。また、11月18日付の科学誌『Science』によると、今回の事件でファン教授のチームから抜けると表明したアメリカ人研究者、ジェラルド・シャッテン教授は、1年前から研究チームの一員として参加しており、今年5月の画期的研究論文に名前を連ねていただけでなく、韓国政府も協力した世界幹細胞ハブの共同設立者でもあった。シャッテン教授は、このチームに入る前にファン教授らが同誌に発表した論文に関して、イギリスの科学誌『Nature』が卵子提供者の中に研究助手がいるとの疑いを記事にしたにもかかわらず、ファン教授の言葉を信じて協力してきたそうだ。その信頼が裏切られたことへの影響は大きいだろう。また、ファン教授との共同研究を考えていたドイツのマックス・プランク研究所のハンス・シューラー教授(Hans Scholer)は、今後、ドイツの役人にファン教授との共同研究を認めてもらうことは難しくなると考えている。その理由は、「もしファン教授が共同研究者に対して嘘を言うのであれば、一般国民に対してはどれほどの嘘を言うだろう」と考えるからだという。
科学の分野で「世界のトップに立つ」ということは、技術力だけで達成できるものではない。現代の科学はあまりにも高度に発達してしまい、かつては宗教や倫理の専門分野だった領域にまで影響を及ぼす力をもっている。現代では、その強大な力を「正しく使う」ことが科学者だけでなく、政治家にも国民にも求められているのである。そして、それができて初めて「世界水準に立った」と言えるのである。また、「嘘を言わない」という倫理基準は、科学の世界においても現に立派に通用している国際基準であることを知るべきである。
谷口 雅宣
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