クリスマスは冬至祭?
今年もクリスマスが近づいてきたが、町の美しい電飾や商店の飾りつけを見ると、この西洋伝来の行事が日本人に見事に受け入れられている有様は、驚くばかりである。しかし、だからと言ってキリスト教を日本人のマジョリティーが信じているのではなく、盆や正月と同じような「年中行事」としてクリスマスを祝うということは、しばしば指摘されている通りである。ある宗教が文化や時代を超えて広く伝播し、多くの人々に受け入れられるためには、発祥地の習慣や、発祥当時の決まりごとに修正を加え、伝播地の文化を取り入れたり、時代の要請に合わせて教説の展開を変更することがある。私は、このことを拙著『信仰による平和の道』(2003年、生長の家刊)の中で概括的に述べたが、クリスマスがそのような“修正”や“変更”の結果生まれたものの一つだとは知らなかった。
私は、幼稚園からキリスト教系の学校で学んでいたから、クリスマスをイエス・キリストの誕生日として祝うことは“当たり前”のことだと思っていた。しかも、聖書には誕生物語が書かれていて、それを模倣して行うクリスマス・ページェントにも出演したし、ページェントでの音楽をバイオリンで演奏したこともあった。だから、キリスト教の信者は、例外なくクリスマスをイエスの誕生日として祝うものだと信じて疑わなかった。ところが、ものの本やインターネットを調べると、クリスマスとは「4世紀の初頭に不敗太陽神の祝祭から借用したキリスト教の祝祭」などと書いてある。そして、ローマ教会がクリスマスを公式行事として祝い始めたのは紀元後336年頃からだというのである。つまり、イエスが磔刑になってから300年以上も、初期キリスト教やカトリック教会ではクリスマスは祝われてこなかったのである。
千葉大学助教授の保坂高殿氏は、『ローマ史のなかのクリスマス』(2005年、教文館刊)の中で、この“クリスマスの起源”の問題を詳しく論じている。それによると、クリスマスの起源については「異教起源説」と「教会起源説」の2つがあり、保坂氏は前者を採用して次のように推論する:
「2世紀中葉以降広く伝播し始めた太陽神信仰は徐々に定着しつつ4世紀初頭には興隆を極め、異教民衆のみならず一部の--というより過半数の--キリスト教徒をも引きつけていたため、ローマ教会指導者は(…中略…)異教祝祭への参加事実に非常な危機感を覚え、一つの興味深い対策を講じることとなる。キリスト教徒を異教神殿から取り戻すための措置として教会は独自の祝祭を太陽神祭と同日の12月25日に挙行したのである」。(p.63)
保坂氏によると、「太陽神」とはもともとシリアで信仰されていた神で、3世紀前半にローマ皇帝エラガバルスがこれを輸入してローマの国家神とした。この評判が悪かったのか皇帝死後、元老院の決定で廃止されたが、その半世紀後に再び皇帝アウレリアヌスによって導入され、神殿を国費で建設し神官も国で雇うことになったらしい。この太陽神の祝祭が1年に1回、12月25日に首都ローマで挙行されていた。太陽神の導入以前は、この12月25日はユリウス暦(前46年制定)の「冬至」に当っていたから、ローマ人は「冬至」を「太陽神祝日」とし、それをさらに「キリストの誕生日」に変更したということになる。上記の説によると、その理由は、太陽神信仰が人気を博してキリスト教徒を引きつけていることに危機感を感じたローマ教会指導者が、太陽神の祝日を“ハイジャック”するためである。言い換えれば、その日をキリスト教の重要な祝日にして行事を行えば、キリスト教徒が太陽神の祝祭に出ることができなくなるから、というわけである。
ことの真相は不明だが、聖書はイエスの誕生日を特定しておらず、その後の研究でもイエスの誕生日や誕生場所は不明であり、初期のキリスト教徒が12月25日を祝った形跡はないのである。そうであれば、クリスマスは後世の人間が様々な文化的習慣や行事を「イエス」という宗教的指導者のイメージに合わせて“再生”させた祝日と言えるだろう。キリスト教の立場から言うと、クリスマスとは、イエスとイエスの教えを、伝播地の文化や習慣を取り入れて再構成した祝日である。つまり、ユダヤ教を基盤とするキリスト教が、異教文化を受容したのである。それが何千年も世界中で祝われてきたという事実を考えると、宗教における文化や習慣の重要性を改めて感じる。
谷口 雅宣
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