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2005年11月13日

実相の表現は簡単?

 千葉県千葉市の幕張メッセで行われた生長の家の講習会で、65歳の男性からこういう質問をいただいた--「人間は神の子であり、実相は完全円満で、迷いは無いとすれば、いとも簡単に実相の完全円満さを現象界に表現できてよいはずなのに、なぜできないのでしょうか?」。この日は1万人以上の受講者が参集してくださり、質問も20近く出されたため、私の答えには時間的制約があった。できるだけ分かりやすく答えたつもりだったが、数分の説明では意を尽くしたとはとても言えないので、この場を借りて若干、補足したいと思う。
 
 生長の家では、実相と現象というものを峻別する。「実相」とは、本当にあるものの本当の姿のことを指す。「現象」とは、人間が感覚を通じて認識したものである。この両者の別は、哲学では「認識論」と呼ばれる分野で昔から盛んに論じられてきたので、詳しくは説明しない。が、人間についてごく簡単に言えば、人間の肉体や精神の状態は現象であって、実相ではない。なぜかといえば、人間は肉体的にも精神的にも変化するからである。肉体が成長したり老化することは自明であるが、精神もまた幼い状態から次第に分別がつき、やがて老成するのが普通だ。このような「変化」は、人間の一時的状態であり、人間の“本質”ではなく、外面であり、外貌である。

 あるものが「A」という状態から「B」という状態に変化した場合、そのものの“本質”は、AにもBにも共通するところの「変化しないもの」である。そう考えた場合、人間は肉体(物質)的には100%変化する。つまり、肉体を構成する物質分子は成長の過程で100%入れ替わる。だから、人間の本質は物質ではなく、肉体ではない。人間の精神について考えた場合も、同様のことが言える。では「変化しないもの」とは何かと考えれば、それは「自分がここにある」ということである。もちろん、その意識は睡眠中や記憶の中断によって途絶えることがあるが、しかし、それは「意識が途絶えた」のであって、「自分が途絶えた」のではない。その自分はまた、「完全」とか「円満」という概念を理解している。意識的に理解していない場合でも、「不完全」や「争い」に直面したとき、それが自分の求めていないものであることに気づくのである。

 このことから分かるのは、人間の本質は物質でなく、肉体でなく、円満完全な“神の子”だということである。なぜそこに「神」が出てくるかというと、生長の家では「神」とは本当に存在するものの第一原因者であるからだ。我々が存在するためには、我々を創造した第一原因者が存在しなければならないのである。そして、我々にもし“本質”があるとするならば、それは第一原因者から来ているのである。即ち、円満完全なるものを我々が希求するのは、「円満」や「完全」を我々が勝手に作ったのではなく、我々の原因である神が存在ましまし、その神が円満であり完全であるからである。結局、我々人間は、神を求めているのである。
 
 少し思弁的な記述になってしまったが、以上が、人間が神の子であることと、完全円満であることのごく簡単な説明である。ここで強調したいのは、生長の家で「人間は神の子」で完全円満だというのは、実相のことを指すのであり、今の我々が肉体的に完全だったり、精神的に常に円満であることを意味しない。また、「迷いは無い」というのも実相のことである。現象身としての我々は、食堂のメニューを見ても迷うのである。だから、人間が実相に於いて完全円満であることと、現象に於いて完全円満が表現されていることとは、意味が違うのである。

 ここまでの思考について来てくださった読者は、冒頭の質問が、実相と現象の区別をはっきりしていないことに気がつかれると思う。この質問は、基本的に「人間の実相が完全円満ならば、どうしてそれが簡単に現象に表現できないのか?」という内容である。私が講習会でした答えは、「表現」というものは困難を伴うことで初めて達成されるし、それによって多くの人々と表現の成果(喜び)を共有することができる、ということだった。この点の説明は、後日に譲ろう。

谷口 雅宣

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