目的は過程を含む
長崎県西海市の生長の家総本山で恒例の秋季大祭(11月21日)と記念式典(22日)が行われた。以下は、記念式典での私の話の概略である--
今年は紅葉が遅いと言われていますが、長崎空港から総本山まで1時間15分ぐらいの道程で、美しい紅葉が眺められるかなと期待してきましたが、残念ながら少し時期が早かったようです。その代わり、天気がとてもよくて空が澄み切っており、大村湾の海の色も深く、青く、たいへん爽やかな風景を楽しむことができました。
空港から本山までは車で1時間15分くらいかかるので、ちょっとした“旅”の感覚を味わうことができます。九州地方からバスでいらした方も大勢いると思うが、その場合はもっと時間をかけて“旅”を味わわれたに違いない。さらに、大村湾を渡って船で来られた方も、また別の風景を楽しまれたことでしょう。そういう意味では、本山が空港から遠いということは、大いに意味があると思う。最近は、何でも効率が優先されて、旅行は目的地に早くつけばいい、仕事は早くすませばいい、連絡はすぐにとれる方がいい、情報は早く入手すべきだ……などの考え方が蔓延しているので、空港の数が増え(佐賀、神戸)、パソコンが普及し、ケータイが人気で、インターネットが盛んに利用されています。それはそれでいい面ももちろんあるが、弊害としては、旅程とか過程、景観や自然の営みなどをじっくり学び、楽しむことができなくなっていることがあります。
現象世界には、どうしても「過程」というものが必要です。しかも、「正しい過程」が必要です。この「過程」を省略して目的に一挙に到達しようとすると、現象顕現の法則を歪めることになるから、目的が正しくても無理が生じて、却って目的とは違う方向に行ってしまうことがある。あるいは、大いなる犠牲をともなってしまうことにもなる。だから、生長の家では、目的と手段を正しく用いることを説いているのである。正しい目的のためには、手段はどうでもいいというのではなく、目的遂行のためには正しい手段を用いなければいけない、と教えています。そうでなければ、いくら目的が正しくても、目的達成の過程で悪い手段を使えば、目的の正しさを手段の間違いが打ち消してしまうことになる。目的のもつ「善」を手段の「悪」が台無しにしてしまうことになるのです。
これをもっと具体的に言うと、生長の家の講習会などの行事に大勢の人を集めることは、正しい目的であることは疑いの余地はない。しかし、その目的のために手段を間違え、単に会場に入る人の数さえ増やせばいいと考え、講話など聞くつもりない出入り業者とか、ホームレスの人などに頼んで「弁当をタダであげるから、券だけ出して帰ってくれ」というような手段を使うことは、間違っている。これによって確かに数字上は受講者が増えるかもしれないが、手段が間違っているから、形だけの受講を勧められた人は「生長の家というのはこんないい加減な団体なのか」と考えるでしょう。それでは、生長の家の逆宣伝になってしまう。今では、こんな運動は行われていないと思うが、昔は残念ながら一部では行われていたようです。
このことは、現在のイラク戦争についても言えると思う。悪政を敷く独裁的指導者をやめさせ、民主主義の政治体制を実現するというのは、確かに立派な目的です。しかし、その目的のために戦争という手段に訴えることは間違っている。正しい「過程」とは言えない。目的が「善」であっても手段が「悪」なる場合は、善が実現せずに、悪が様々なところから現われてくる。我々は今、それを目撃しているわけです。だから、「手段」や「過程」や「手続き」は大変重要で、民主主義が手続きを重視するのもそういう理由からです。これを英語では「due process」(正しい過程、正当な手続き)と呼んでいます。
私はインターネット上で「小閑雑感」という題のブログを書いていることは多くの人はご存知だと思う。そこで最近、「人間の実相が完全円満ならば、どうしてそれが簡単に現象に表現できないのか?」という疑問について2回にわたって書いた。この疑問は、もし人間が神の子であって、実相はすでに完全円満であるなら、それが現象的にも、苦労や努力などせずにすぐに現われて来てしかるべきだろう--という意味です。これを言い換えれば、現象界に神の子の実相を表すためには、「過程」など省略して「目的」に一気に到達するべきだろう、という疑問になる。しかし、現象界での生活は「過程」を正しく歩むためにあるのです。人間の肉体の成長も精神的成長も、一定の段階があって、その段階を順序よく経験しながら、実相の無限を表していく。
それは登山家が山頂をめざすのと似ていて、どんな登山道を選んでもいいけれども、一度選んだ登山道を、ただひたすら自分の足で登るという「過程」を経なければ山頂へは到達できない。途中で別の道へ変わることは原則的にはできないし、ましてや、登山など省略してケーブルカーやロープウェイで山頂へ行くというのでは、そういう人は「登山家」とは言わずに、「乗り物客」と呼ぶのです。過程には目的が隠れているのです。あるいは、目的は過程を含んでいる、と言ってもいい。登山は一見、山頂へ行けば目的を達成するかのように見えるけれども、自分の肉体と頭脳を使って、実際に汗を流し、泥や埃で汚れ、時には雨に当たり、テントで野宿したり、飯盒炊爨をしたり、川や泉の水を飲んだり、仲間と助け合ったり、鳥の声を聴いたり、野草や木々を観察したり……そういう過程を通して、初めて肉体や精神が鍛えられ、友情が育ち、知識や知恵が増し、自然を知ることになるわけです。山頂へ到達するというのは、目的のようであっても、また確かに目的の一つではあるが、登山の過程で得る貴重な体験や経験、副産物を得るための手段であると言ってもいいほどである。それほど、目的と手段は密接な関係にあります。
そのように重要な「過程」が人生である。これを“苦しみ”だと感じる人がいるかもしれないが、逆にそれを“生き甲斐”だと感じる人もいる。生長の家では、「人生の光明面を見よ」と教えられているから、もちろん後者の見方をお勧めしている。また、光明と暗黒は、水と油のようにきっぱりと分かれているのではなく、同じ一つの出来事でも、その人が光明だと思えば光明になり、暗黒だと思えば暗黒になる、そのように観自在の--心しだいで変化することがほとんどである。だから「過程を楽しむ」ことが大切で、そのためには「正しい過程」を通ること、「正しい手段」を使うことが、正しい目的をもつことと同等に大切であるということに是非、留意して、これからも明るく、正々堂々と運動を展開していこうではありませんか。
谷口 雅宣
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