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2005年11月30日

バイオ燃料が森林浸食?

 地球環境問題の解決には、各国がそれぞれの“国益”を優先してバラバラに対処するのではなく、世界の国々が足並みを揃えて協力することが重要だ--化石燃料に代わる次世代燃料の生産の現状を知って、このことを強く感じる。バイオ・エタノールとかバイオ・ディーゼルなど、サトウキビ、ダイズ、トウモロコシ等の植物を原料として作られる燃料の生産が急速に増えているが、皮肉なことに、このことが途上国の森林破壊に油を注いでいるというのだ。11月19日付のイギリスの科学誌『New Scientist』が伝えている。

 同誌によると、京都議定書などで温室効果ガスの削減を義務づけられている先進諸国は、上記のような次世代燃料の生産に本腰を入れ始めているが、そのことが不本意ながら、ボルネオからアマゾンにいたるまでの熱帯雨林の破壊を助長しているそうだ。なぜなら、これらの“グリーン・エネルギー”に対する新たな需要に応えるために、これまで人間の手の入っていなかった森林が切り開かれて畑となり、ヤシの木やダイズが植えられているからだ。石油の高騰により代替燃料として需要が高まっているだけでなく、EUでは通常の燃料にバイオ燃料を混ぜることを義務づけると共に補助する法律が施行された。またイギリスでは、2010年までに交通や運輸部門で使われる燃料の5%をバイオ燃料でまなかうとの目標を、政府がすでに発表している。こういう動きが、森林破壊の傾向に拍車をかけているようだ。
 
 もっと具体的に言えば、ヤシ油の国際価格が上昇しているが、これが東南アジアでの森林破壊の主な原因になっているという。イギリスに本部のある雨林基金(Rainforest Foundation)のサイモン・カウンセル氏(Simon Counsell)は、ヤシ油のことを「地球上で最も環境破壊的な商品の一つ」と呼び、「我々はまたもや、途上国の環境を傷めつけることによって自分たちの環境問題を解決しようとしている」と言う。ヤシ油の代わりとしてはダイズ油があるが、ダイズ栽培は現在、ブラジルのアマゾン地域に森林破壊をもたらす最大の原因になっているらしい。ドイツでは、バイオ燃料の生産量が2003年のレベルから倍増していて、火力発電所でヤシ油を燃やす計画もあるそうだ。ヨーロッパでは、もともと家庭で栽培するアブラナから採ったナタネ油をバイオ燃料として使っていた。しかし、食用としてナタネ油の需要が増えてくると値段も上がったため、燃料用にはヤシ油とダイズ油に切り替えたという。ヤシ油の値段は、9月だけで1割上昇したそうだ。一方、世界でのバイオ燃料全体の需要は現在、年25%も上がっているという。
 
 市場の価格形成メカニズムだけを指標として燃料用の植物を栽培するのでは、このような矛盾した開発行為は避けられないと思う。森林を「再生可能な」状態に保っておかなければならない。そのためには「自然資本」(自然そのものに価値を認め、資本として扱う)の考え方が重要である。現在の経済制度では、この自然資本が正しく評価されていないことは本欄でも述べた。この考えを世界が早急に導入し、手つかずの森林に正当な値段をつければ、森林を無惨に焼き払ったり、切り倒したりする行為は「元が取れない」として減っていくだろう。これには、世界各国間の協力がどうしても必要なのだ。

谷口 雅宣

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2005年11月29日

ナショナリズムと生命倫理

 韓国のES細胞研究の第一人者、ファン・ウー・ソク教授(Hwang Woo Suk)が世界幹細胞ハブの所長を辞任する考えを明らかにしたことに対し、国民の間から同情と辞任撤回の熱烈な要望が噴き出している。ノーベル賞候補との声も出る“国民的英雄”になっているからか、今回の倫理問題を追究したメディアを批判し、ファン教授の研究を応援するために、自らの卵子の提供を申し出た女性は700人(一部では千人)を超えたという。29日付の新聞各紙が伝えている。
 
 しかし、こういう「世界一を目指そう」というようなナショナリスティックな感情によって、生命倫理の問題をなし崩しにするのは決して望ましいことではない。ファン教授は、研究成果を急ぐあまり倫理的判断を疎かにした部下を、充分監督しえなかった責任をとって辞任したのだ。その倫理的問題を“国民的情熱”によってひっくり返し、「なかったことにする」という前例を作ってしまうと、「韓国という国はいっときの熱情で倫理を無視するところだ」との国際的評価を生むことになるだろう。それこそ、韓国の生命科学の正しい発展にとって大きな汚点を残すことになるだろう。これは、中国で使われた「愛国無罪」のスローガンとも似ていて、さしずめ「愛国皆倫理」とでも呼ぶべきか。知性のないスローガンを、知性の殿堂であるべき先端科学の研究に持ち込んではいけないのだ。
 
 この種の国民感情の盛り上がりについて『ヘラルド朝日』紙は、研究者の間には「非合理」だとの批判があることを伝え、さらに「世界の科学者の信頼を取りもどす助けになるとは思えず、有害でさえある」と書いている。また、11月18日付の科学誌『Science』によると、今回の事件でファン教授のチームから抜けると表明したアメリカ人研究者、ジェラルド・シャッテン教授は、1年前から研究チームの一員として参加しており、今年5月の画期的研究論文に名前を連ねていただけでなく、韓国政府も協力した世界幹細胞ハブの共同設立者でもあった。シャッテン教授は、このチームに入る前にファン教授らが同誌に発表した論文に関して、イギリスの科学誌『Nature』が卵子提供者の中に研究助手がいるとの疑いを記事にしたにもかかわらず、ファン教授の言葉を信じて協力してきたそうだ。その信頼が裏切られたことへの影響は大きいだろう。また、ファン教授との共同研究を考えていたドイツのマックス・プランク研究所のハンス・シューラー教授(Hans Scholer)は、今後、ドイツの役人にファン教授との共同研究を認めてもらうことは難しくなると考えている。その理由は、「もしファン教授が共同研究者に対して嘘を言うのであれば、一般国民に対してはどれほどの嘘を言うだろう」と考えるからだという。
 
 科学の分野で「世界のトップに立つ」ということは、技術力だけで達成できるものではない。現代の科学はあまりにも高度に発達してしまい、かつては宗教や倫理の専門分野だった領域にまで影響を及ぼす力をもっている。現代では、その強大な力を「正しく使う」ことが科学者だけでなく、政治家にも国民にも求められているのである。そして、それができて初めて「世界水準に立った」と言えるのである。また、「嘘を言わない」という倫理基準は、科学の世界においても現に立派に通用している国際基準であることを知るべきである。
 
谷口 雅宣

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2005年11月28日

なぜか手帳ブーム

 世界的に“手帳ブーム”が進行しているらしい。
 今日(11月28日)の夕暮れ時、渋谷のロフトへ行ったら、地下1階の広いフロアーの3分の1以上が、各種手帳とそれを物色する客で溢れかえっていた。12月が近づくと書店や文具店に次年度の手帳が並ぶのは恒例だが、しかし今年は異常に多い。しかも立派な革表紙や布張り(タイシルクなどもある!)で、定価2千~3千円のものが珍しくない。「手帳はタダでもらう」などと思っていた時代が嘘のようだ。

 夢をかなえるための「夢かな手帳」というのが爆発的に売れているらしい。実現したい夢や達成したい目標を手帳に記入して、それに向って自分で立てたスケジュールを手帳に書き込み、自分を励ましながら日々を過ごすためのパーソナル・アシスタントといった感じのものもあれば、超多忙のマルチ人間の時間管理のノウハウを、手帳を通して学ぶことで、何でもバリバリできると謳っているものなど、いろいろだ。手帳の考案者の名前を冠したものも何種類も出ている。コピーライターの糸井重里氏がインターネット上で発行している「ほぼ日刊イトイ新聞」を介して誕生した『ほぼ日手帳』というのは、2002年版からスタートして5年目になる。考案者は日本人だけでなく外国人もいるようだから、世界的にも同様の現象が起こっているのだろう。
 
 私は過去何回か手帳を付けようと試みたことがあるが、長続きせず諦めていた。毎日、その日の出来事や予定を記録するというような細かい作業が多分、苦手なのだ。その代わり、「小閑雑感」シリーズなどを書き、就寝前には簡単なメモ程度の日記をつけている。ところが最近、“旅する手帳”というのに参加した。普通、手帳というのは持ち主が1人いて、その人が最初から最後まで使う。が、この手帳には持ち主がいなくて、多くの人が書き込んでいくらしい。しかも面白いのは、この手帳には「良いこと、楽しいことだけを書く」という条件が付いている。内容は自由で、絵でも文章でも写真でもコラージュでもいいが、記入したら誰か別の人に回して、手帳を埋めていくらしい。もう一つの特徴は、インターネットと連動していることだ。手帳に記入したものをスキャンして主催者に送ると、サイトに掲示してくれる。だから、手元に手帳がなくても、それが誰に渡って、どんな記入があったかがどこからでも分かるという仕組みだ。

 この“旅する手帳”に使われているのは、外国製の革表紙の「MOLESKINE」という、知る人ぞ知る、マニアの多い手帳だそうだ。私も一度それに記入して気に入ってしまい、自分用に大小2冊購入した。今は時々、それを手頃なスケッチブックとして使っている。この“旅する手帳”のサイトを見ると、これと同じ発想のものが、最初はアメリカで始まり、今や全世界を回っていることが分かる。
 
 ところで、昔から生長の家には定価530円の『奇蹟の手帳』というのがある。これは、谷口雅春先生が監修されて昭和54年に初版が発行され、現在第43版というロングセラーだ。この分野でも生長の家は先進的だったのだから、これにさらに工夫を加えれば、現在の手帳ブームに乗って“大化け”する可能性があるのではないか。3500円(革カバーは6800円!)もする『ほぼ日手帳』は昨年7万部を売り、2006年版は10万部に迫る勢いだというのだから……。
 
谷口 雅宣

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2005年11月26日

石油高騰を嘆くなかれ

 本欄ではしばしば「石油の高騰」の問題を扱ってきたが、これを“よいニュース”として捉える見方もあることを述べた。例えば、9月7日の「石油高騰の“効果”は?」という文章では、「地球温暖化の進行を防止する立場から言えば、石油高騰によって消費が減少し、温室効果ガスの排出量が減少することは“望ましい”ともいえる」と書いた。また、中国や東南アジアの国々の中には、補助金によって石油の値段を不自然に下げる保護政策をとってきた国が多い。このことが環境破壊を助長し、次世代エネルギーの開発や産業の発達を妨げてきた側面がある。こういう国々では石油高騰が国家財政に過大な負担をもたらすため、補助金政策を撤廃する動きが生じている。これも“望ましい”効果と言えるだろう。
 
 9月15日の本欄では、石油高騰によって先進国の自動車産業の構造が変化しつつあることを報告した。主力車のガソリンの燃費の良し悪しによって、自動車会社の販売実績に大きな違いが生じてきているからだ。燃費の良い日本車はよく売れ、燃費の悪いSUV等の売り上げはガタ落ちした。このため、世界各国の自動車会社では、日本発のハイブリッド技術を本格的に採用する計画を次々に打ち出している。そして、日本国内では「レジ袋の有料化」が真面目に検討され始めた。私は大いに賛成であり、わが家では原則的にレジ袋は使っていない。この袋は、石油から作るからマズイだけでなく、腐らないから、廃棄後に環境に悪影響を与えているのだ。
 
 レジ袋だけでなく、石油から作られるプラスチックの皮膜は、食品の販売時など様々な場面で利用されてきたが、「石油の高騰」のおかげで、土の中で腐る生分解性のプラスチックを原料とした食品用シートなどが競争力をもってきているという。生分解性プラスチックの食器については11月1日の本欄で少し触れた。しかし、これは「愛知万博」という限られた場所、限られた時期での使用例だ。これに対し、大手食品加工会社や大規模販売店でも生分解プラスチック製品を採用する動きが広がっているらしい。11月23日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。
 
 同紙によると、今年になってアメリカ最大の小売店「ウォールマート」を初め「ワイルドオーツマーケット」その他の小売店、食品会社では「デルモンテ」や「ニューマンズ・オウン・オーガニックス」などが生鮮食料品の包装材にトウモロコシを原料とする生分解性プラスチックを一部使用することに踏み切った。そのおかげで、同プラスチック・メーカーのネーチャーワークス社(NatureWorks)の今年前半の売り上げは、前年対比で200%伸びたという。こういう動きの背景には、石油の値段の高騰だけでなく、一般消費者の地球温暖化の進行への危機感や環境意識の向上があるに違いない。今や「環境にやさしい」というイメージは、製品やサービスのセールスポイントになりえるから、ゼネラル・エレクトリック社やシェブロン、ゴールドマン・サックス、プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)などの大企業も、“環境分野”でのサービスや商品開発に力を入れ始めているそうだ。
 
 例えば、P&Gでは洗剤「タイド」やシャンプー「ヘッド・アンド・ショルダー」の成分の一部を石油製品から植物油に切り替え始めている。ゴールドマン・サックスは22日に、総合的な環境方針を発表して“グリーン企業”の仲間入りをした。また、新規企業の参入の動きも無視できない。コーネル大学理工学部では、今後3年以内に、バクテリアを使って下水処理場からエネルギーを得る過程の商業化を計画している。ニューヨーク州オンタリオ市にあるベンチャー企業「ノーザン・バイオディーゼル」は最近、食料油と生ゴミからディーゼル油を再生する工場を建設する資金を調達した。数年前には、銀行はこの種の計画をバカにしていたそうだが、世の中の潮流が変わりつつあるようだ。

 京都議定書を無視したアメリカ国内においてさえ、上のような動きである。日本国内の動きについては、毎日の新聞紙上でおなじみの通りだ。ただ問題は、このような先進国による化石燃料の使用を減らす動き(A)に対して、BRICs諸国などによる化石燃料の使用の増加(B)が、どのような関係にあるかということだ。「A>B」ならば有効だが、「A<B」ならば今後も温暖化は続くだろう。
 
谷口 雅宣

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2005年11月25日

科学者の倫理性 (3)

 韓国ソウル大学のES(胚性幹)細胞研究チームの倫理疑惑で、さらに一つ問題点が明らかになった。チーム内の研究助手2人から卵子の提供を受けていたことが判明したからだ。このチームの代表者であるファン・ウー・ソク教授(Hwang Woo Suk)は、英国の科学誌『Nature』が1年以上前にこの疑惑を記事にするまでは、そのことを知らなかったらしい。しかし知ってからも、提供者のプライバシーを守るためにこの事実を否定し続けていた。11月24日に行われた記者会見で、ファン教授は研究に使われた卵子の入手方法について嘘を言ったことを認め、先月鳴り物入りで発足した世界幹細胞ハブの所長を辞任する考えを明らかにした。24日と25日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。
 
 同紙の記事によると、ファン教授は「私は仕事と目標達成に熱心なあまり、正しい判断ができなかった」と言い、さらに「もっとゆっくりと考え、すべてのことが国際的基準に合致しているかどうか確認すべきだった。韓国国民と内外の科学界の方々に心からお詫びします」と述べたという。22日の本欄で報じたように、ファン教授のチームの研究で使われた卵子には、協力者一人当たり150万ウォン(約16万5000円)の対価を払って約20人から入手したものもある。研究助手からの卵子入手も合わせて考えてみると、最先端の医療技術の開発に賭ける研究者の情熱が感じられるとともに、科学者といえども“手柄”をたてたい気持が昂じて、倫理的判断を疎かになる場合があることが分かる。
 
 卵子提供の問題点については、拙著『今こそ自然から学ぼう』(2002年、生長の家刊)の中で少し述べたが、その時の卵子提供は「子をもうけるため」のものだった。今回の場合はそうではなく、人クローン胚を作成して、そこからES細胞を得るために卵子を使う。『今こそ……』では、人クローン胚に関して霊魂の問題に触れて次のように述べている--

クローン胚が受精卵を含めた個人の命を犠牲にせずにつくられるとしても、それが肉体製造装置の「胚」としての能力を獲得した時点で、霊魂の関与が始まったと見るべきである。

 これは、人クローン胚は事実上、受精卵と同等に扱うべきだとの考え方である。したがってこれを「大量につくって選別したり、強制的にES細胞に変換されたりする」(p.274)のは好ましくないのである。ES細胞作成のためには、予備分を見込んで人クローン胚を数多くつくっておき、それらから“優秀”なものを少数選別することが考えられる。これは、霊魂と結びつきができたものを他人の道具として利用することである。それが好ましいはずがない。さらに、上記したように、ES細胞作成を目的とした卵子提供は、実質的には卵子の売買となりやすいこと。また、作成された人クローン胚は、子宮にそのままもどせば“クローン人間”になるリスク等を考えれば、隣国・韓国で先行的に進められているES細胞の研究は、誉められるべきことばかりではないのである。
 
谷口 雅宣

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2005年11月24日

目的は過程を含む

 長崎県西海市の生長の家総本山で恒例の秋季大祭(11月21日)と記念式典(22日)が行われた。以下は、記念式典での私の話の概略である--
 
 今年は紅葉が遅いと言われていますが、長崎空港から総本山まで1時間15分ぐらいの道程で、美しい紅葉が眺められるかなと期待してきましたが、残念ながら少し時期が早かったようです。その代わり、天気がとてもよくて空が澄み切っており、大村湾の海の色も深く、青く、たいへん爽やかな風景を楽しむことができました。

 空港から本山までは車で1時間15分くらいかかるので、ちょっとした“旅”の感覚を味わうことができます。九州地方からバスでいらした方も大勢いると思うが、その場合はもっと時間をかけて“旅”を味わわれたに違いない。さらに、大村湾を渡って船で来られた方も、また別の風景を楽しまれたことでしょう。そういう意味では、本山が空港から遠いということは、大いに意味があると思う。最近は、何でも効率が優先されて、旅行は目的地に早くつけばいい、仕事は早くすませばいい、連絡はすぐにとれる方がいい、情報は早く入手すべきだ……などの考え方が蔓延しているので、空港の数が増え(佐賀、神戸)、パソコンが普及し、ケータイが人気で、インターネットが盛んに利用されています。それはそれでいい面ももちろんあるが、弊害としては、旅程とか過程、景観や自然の営みなどをじっくり学び、楽しむことができなくなっていることがあります。
 
 現象世界には、どうしても「過程」というものが必要です。しかも、「正しい過程」が必要です。この「過程」を省略して目的に一挙に到達しようとすると、現象顕現の法則を歪めることになるから、目的が正しくても無理が生じて、却って目的とは違う方向に行ってしまうことがある。あるいは、大いなる犠牲をともなってしまうことにもなる。だから、生長の家では、目的と手段を正しく用いることを説いているのである。正しい目的のためには、手段はどうでもいいというのではなく、目的遂行のためには正しい手段を用いなければいけない、と教えています。そうでなければ、いくら目的が正しくても、目的達成の過程で悪い手段を使えば、目的の正しさを手段の間違いが打ち消してしまうことになる。目的のもつ「善」を手段の「悪」が台無しにしてしまうことになるのです。

 これをもっと具体的に言うと、生長の家の講習会などの行事に大勢の人を集めることは、正しい目的であることは疑いの余地はない。しかし、その目的のために手段を間違え、単に会場に入る人の数さえ増やせばいいと考え、講話など聞くつもりない出入り業者とか、ホームレスの人などに頼んで「弁当をタダであげるから、券だけ出して帰ってくれ」というような手段を使うことは、間違っている。これによって確かに数字上は受講者が増えるかもしれないが、手段が間違っているから、形だけの受講を勧められた人は「生長の家というのはこんないい加減な団体なのか」と考えるでしょう。それでは、生長の家の逆宣伝になってしまう。今では、こんな運動は行われていないと思うが、昔は残念ながら一部では行われていたようです。

 このことは、現在のイラク戦争についても言えると思う。悪政を敷く独裁的指導者をやめさせ、民主主義の政治体制を実現するというのは、確かに立派な目的です。しかし、その目的のために戦争という手段に訴えることは間違っている。正しい「過程」とは言えない。目的が「善」であっても手段が「悪」なる場合は、善が実現せずに、悪が様々なところから現われてくる。我々は今、それを目撃しているわけです。だから、「手段」や「過程」や「手続き」は大変重要で、民主主義が手続きを重視するのもそういう理由からです。これを英語では「due process」(正しい過程、正当な手続き)と呼んでいます。

 私はインターネット上で「小閑雑感」という題のブログを書いていることは多くの人はご存知だと思う。そこで最近、「人間の実相が完全円満ならば、どうしてそれが簡単に現象に表現できないのか?」という疑問について2回にわたって書いた。この疑問は、もし人間が神の子であって、実相はすでに完全円満であるなら、それが現象的にも、苦労や努力などせずにすぐに現われて来てしかるべきだろう--という意味です。これを言い換えれば、現象界に神の子の実相を表すためには、「過程」など省略して「目的」に一気に到達するべきだろう、という疑問になる。しかし、現象界での生活は「過程」を正しく歩むためにあるのです。人間の肉体の成長も精神的成長も、一定の段階があって、その段階を順序よく経験しながら、実相の無限を表していく。

 それは登山家が山頂をめざすのと似ていて、どんな登山道を選んでもいいけれども、一度選んだ登山道を、ただひたすら自分の足で登るという「過程」を経なければ山頂へは到達できない。途中で別の道へ変わることは原則的にはできないし、ましてや、登山など省略してケーブルカーやロープウェイで山頂へ行くというのでは、そういう人は「登山家」とは言わずに、「乗り物客」と呼ぶのです。過程には目的が隠れているのです。あるいは、目的は過程を含んでいる、と言ってもいい。登山は一見、山頂へ行けば目的を達成するかのように見えるけれども、自分の肉体と頭脳を使って、実際に汗を流し、泥や埃で汚れ、時には雨に当たり、テントで野宿したり、飯盒炊爨をしたり、川や泉の水を飲んだり、仲間と助け合ったり、鳥の声を聴いたり、野草や木々を観察したり……そういう過程を通して、初めて肉体や精神が鍛えられ、友情が育ち、知識や知恵が増し、自然を知ることになるわけです。山頂へ到達するというのは、目的のようであっても、また確かに目的の一つではあるが、登山の過程で得る貴重な体験や経験、副産物を得るための手段であると言ってもいいほどである。それほど、目的と手段は密接な関係にあります。

 そのように重要な「過程」が人生である。これを“苦しみ”だと感じる人がいるかもしれないが、逆にそれを“生き甲斐”だと感じる人もいる。生長の家では、「人生の光明面を見よ」と教えられているから、もちろん後者の見方をお勧めしている。また、光明と暗黒は、水と油のようにきっぱりと分かれているのではなく、同じ一つの出来事でも、その人が光明だと思えば光明になり、暗黒だと思えば暗黒になる、そのように観自在の--心しだいで変化することがほとんどである。だから「過程を楽しむ」ことが大切で、そのためには「正しい過程」を通ること、「正しい手段」を使うことが、正しい目的をもつことと同等に大切であるということに是非、留意して、これからも明るく、正々堂々と運動を展開していこうではありませんか。

谷口 雅宣

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2005年11月22日

科学者の倫理性 (2)

 1週間前の本欄(11月14日)で、ES(胚性幹)細胞の研究でトップを走るソウル大学の研究チームに倫理基準を違反した疑惑が生じていることを書いたが、この研究を支援していた病院理事長、ロー・スン・イル氏(Roh Sung Il)が、協力者一人当たり150万ウォン(約16万5000円)の金銭的対価を払って卵子を入手していたことを、21日に開かれた記者会見で認めた。しかし、もう一つの疑惑--研究助手の女性医師から卵子の提供を受けていたかどうかについては、答えなかった。22日付の『ヘラルド朝日』や『朝日新聞』が報じている。(対価をもらった女性の数は、前者では20人、後者では16人という)
 
 韓国では今年1月から生命倫理法が施行されていて、卵子提供に伴う金銭や利益の供与は禁止されているが、今回の金銭授受は法律施行前だったという。ソウル大の研究チームは、世界で初めて人クローン胚からES細胞を作成したが、このチームの代表者であるファン・ウー・ソク教授(Hwang Woo Suk)は、ロー理事長に提供された卵子を使ってこの研究に成功したのだ。が、金銭の授受については知らなかったという。ロー氏によると、この研究のために必要な数の卵子を入手することが難しかったので、卵子提供者にいくらかの対価を払わざるを得なかったという。ロー氏は、「難病の治療法を見つけるという人類の大きな夢の一つを実現する道を切り拓きたいと願い、この難しい決定をした」と涙をこらえながら語ったそうだ。

 アメリカではこの4月に、卵子提供の際の対価として実費以外のものを禁止すべきとの方針をアメリカ科学協会が発表しているが、強制力のある法律はまだない。ロー氏によれば、支払った金額は、卵子を採取する際の不快や不安、通常の仕事ができなくなることへの代償だという。しかし、韓国のMBC放送は、研究に使われた卵子の一部は、借金を抱えた女性が金銭目的で提供したものだと報じ、提供する卵子が何の目的に使われるのか知らなかった女性もいると報じている。
 
 私は、世界に先駆けて生命倫理法を制定実施した韓国は立派だと思う。それがたとえ、再生医療の分野で世界一を目指すという野心にもとづくものであったとしても、一定の法的基準を世界に提供するという大きな貢献をしていると思う。しかし、アメリカでは何年も前から、代理母や卵子提供が、相当な対価を伴って行われていることを考えると、実効性という面では疑問が残る。例えば、韓国国内で入手できないときは、アメリカで入手すればいいということにならないだろうか? インターネットを介した海外の提供者との授受はどうなるのか? こういう問題は、多国間の合意によって解決の方向へ向うのだと思う。時間はかかると思うが、世界共通の倫理基準の策定が求められているのである。

谷口 雅宣 拝

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2005年11月20日

タミフルの副作用

 鳥インフルエンザ・ウイルスの変異による人間への感染と大流行の可能性について世界中が対策に追われている中で、治療薬として有望視されている「タミフル」の子供への副作用の問題が浮上してきた。アメリカの食品医薬品局(FDA)が17日にまとめた報告書には、日本での死亡例が大きく取り上げられたが、薬の服用と死亡との間の因果関係については「現時点では因果関係があると結論付けることはできない」との見解が示されているという。19日付の『産経新聞』が伝えている。
 
 しかし、死亡例のすべてが日本人であり、死亡しなくとも異常行動や幻覚、意識障害などがあったというのは気になるところだ。記事によると、厚労省は昨年6月に出した医療品・医療用具等安全情報の中で、タミフルの重大な副作用として精神・神経症状を挙げているというから、因果関係を認めているのかと思った。しかし、記事に載っている同省の安全対策課長の話では「厚労省としても、タミフルの安全に重大な懸念があるとは認識していない」という。これは分かりにくい言い方だ。結局、薬の服用と精神・神経症状の間には因果関係はあっても、そういう症状と死亡との間に因果関係があるとは言えない、ということだろう。言い方を変えれば、薬の副作用で神経障害が起こることがあっても、それが必ず自殺を惹き起こすとは言えず、したがって「重大な懸念」はないということか。
 
 日本人の死亡例が多いことの理由については、19~20日付の『ヘラルド朝日』紙の分析が参考になる。その原因の一つは、世界でのタミフルの使用のほとんどは日本国内だからかもしれないという。同紙によると、これまで未成年者に出されたタミフルの1300万回の処方のうち、実に1160万回(89%)が日本で行われているというのだ。日本でこれほど使われている薬だから、ごく稀に副作用があるとしても、それは最初日本に出るというわけだ。また、もう一つの可能性としては、日本の医師は、インフルエンザ患者を診察する際、インフルエンザそのものの影響で起こる脳の異常によく気がつく傾向があるのだという。そういう患者が(処方が頻繁に行われているから)たまたまタミフルを服用していることがあり、そういう場合には、実際は副作用でなくても副作用のように見えるというわけだ。これに対する製薬会社の言い分は、これまでに子供の死亡が起こった確率を計算すると100万回に1回であり、この率なら薬を服用しないで子供が死ぬ確率より高くないから、特に心配することはないのだそうだ。
 
 「タミフル」は商品名だが、一般の名前は「リン酸オセルタミビル」といい、1996年にアメリカで開発され、大手製薬会社「ロシュ」が99年から発売。日本では中外製薬が01年から輸入・販売しているそうだ。この薬はウイルスの表面にある蛋白質に作用して、細胞内で増えたウイルスが外へ出るのを妨げる働きをするらしい。ウイルスは、それ自身では生存できないが、細胞の中へ入り込んで寄生生活をするものだから、細胞の外へ出られなくなれば増殖が止まることになる。発症後48時間以内に服用を始めれば、ウイルスの増殖を抑えて症状が緩和することが期待されている。

 私は、今回の鳥インフルエンザとの関連で初めて「タミフル」という薬の名前を耳にした。が、上に書いたような日本での使用の多さを考えると、この薬を服用したことのある人はきっと多いに違いない。日本人(あるいは日本人医師)が、それほど薬好きであるとは知らなかったので驚いた。日本列島はこれから本格的な冬に入るが、渡り鳥が来るのはいいが、鳥のウイルスが人間への感染力をもたないことを願うものである。

谷口 雅宣

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2005年11月18日

イラク戦争は間違っていた?

 イラク戦争開始をめぐるアメリカ国民の疑念がどんどん拡大している。今朝、NHKの衛星放送で流された米ABCニュースは、イラク戦争開始に際し、ブッシュ政権が情報操作を行ったと批判した上院議員に対して、チェイニー副大統領が「この町(ワシントン)で流された最も不正直で非難されるべき攻撃の一つだ」と声を荒げる様子を大きく映し出した。アジアを訪問中のブッシュ大統領も、記者会見でイラク戦争への反対意見の増大を尋ねられると、「戦争を政治に利用することは無責任だ!」との発言を繰り返していた。開戦時の情報操作だけでなく、開戦後の捕虜虐待や汚職などのスキャンダルが次々と明るみに出てきている昨今、ブッシュ政権はもっぱら守勢に回っている感がする。
 
 そんな時に、アメリカの指導者層の大半は、今や「イラク戦争は間違っていた」と考えるにいたっているとの世論調査の結果が発表された。プー調査センター(Pew Research Center)による調査を『ヘラルド朝日』紙が11月18日付で伝えた。
 
 それによると、一般国民の間ではイラクへの武力行使の決定を「正しかった」と考える人は48%で、「間違っていた」と考える人(45%)より多い。しかし、①軍関係者、②州や地方政府の役人、③ニュースメディア、④治安関係者、⑤宗教指導者、⑥外交関係者、⑦学者や研究機関、⑧科学者とエンジニアの8つの範疇に入る人々は、この番号が大きくなるにしたがって「イラク戦は間違っていた」という意見が増加していくというのだ。実際の数値を並べると--①47%、②59%、③71%、④72%、⑤72%、⑥77%、⑦78%、⑧88%、である。また、アメリカは以前に比べて国際的尊敬を得られなくなっていると考える人は、全体の三分の二いて、その理由がイラク戦争にあると考える人は、一般国民では77%、指導者層では88%であるとの結果も出た。
 
 この調査は、一般国民の2006人と指導者層の520人を対象にして、今年の9月5日から10月31日までに行われたもの。調査の全結果は、このサイトで見られる。

 本欄と長く付き合ってくださっている読者ならご存知だが、私はこの戦争にずっと批判的である。戦争そのものを人間の「迷いと迷いのぶつかり合い」だと考える宗教的立場からは、当然そうなる。しかし、9・11を経験したアメリカ人が、何かを“敵”と見定めて報復行動をとらなければおさまらないという心情は、マンハッタンでの生活経験のある私には充分理解できる。問題は、ぶつかり合っている“迷い”がどういう迷いであるかが、混沌として判別しがたい状態にあることだろう。この戦争は、様々な原因がからみ合って起こっていると思うが、その中で無視できないのは「石油をめぐる利権」と「パレスチナ国家」の問題である。表面的には宗教上の信念の衝突のように見えているかもしれないが、この2つの問題が存在しなかったならば戦争までする必要はなかっただろう。そして今、この2つの問題が解決したならば、戦争は急速に終息するだろう。もちろん、この2つの問題は政治問題である。
 
 もう宗教を政治に利用することはやめようではないか。
 
谷口 雅宣、

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2005年11月17日

クリスマスは冬至祭?

 今年もクリスマスが近づいてきたが、町の美しい電飾や商店の飾りつけを見ると、この西洋伝来の行事が日本人に見事に受け入れられている有様は、驚くばかりである。しかし、だからと言ってキリスト教を日本人のマジョリティーが信じているのではなく、盆や正月と同じような「年中行事」としてクリスマスを祝うということは、しばしば指摘されている通りである。ある宗教が文化や時代を超えて広く伝播し、多くの人々に受け入れられるためには、発祥地の習慣や、発祥当時の決まりごとに修正を加え、伝播地の文化を取り入れたり、時代の要請に合わせて教説の展開を変更することがある。私は、このことを拙著『信仰による平和の道』(2003年、生長の家刊)の中で概括的に述べたが、クリスマスがそのような“修正”や“変更”の結果生まれたものの一つだとは知らなかった。

 私は、幼稚園からキリスト教系の学校で学んでいたから、クリスマスをイエス・キリストの誕生日として祝うことは“当たり前”のことだと思っていた。しかも、聖書には誕生物語が書かれていて、それを模倣して行うクリスマス・ページェントにも出演したし、ページェントでの音楽をバイオリンで演奏したこともあった。だから、キリスト教の信者は、例外なくクリスマスをイエスの誕生日として祝うものだと信じて疑わなかった。ところが、ものの本やインターネットを調べると、クリスマスとは「4世紀の初頭に不敗太陽神の祝祭から借用したキリスト教の祝祭」などと書いてある。そして、ローマ教会がクリスマスを公式行事として祝い始めたのは紀元後336年頃からだというのである。つまり、イエスが磔刑になってから300年以上も、初期キリスト教やカトリック教会ではクリスマスは祝われてこなかったのである。

 千葉大学助教授の保坂高殿氏は、『ローマ史のなかのクリスマス』(2005年、教文館刊)の中で、この“クリスマスの起源”の問題を詳しく論じている。それによると、クリスマスの起源については「異教起源説」と「教会起源説」の2つがあり、保坂氏は前者を採用して次のように推論する:
 
「2世紀中葉以降広く伝播し始めた太陽神信仰は徐々に定着しつつ4世紀初頭には興隆を極め、異教民衆のみならず一部の--というより過半数の--キリスト教徒をも引きつけていたため、ローマ教会指導者は(…中略…)異教祝祭への参加事実に非常な危機感を覚え、一つの興味深い対策を講じることとなる。キリスト教徒を異教神殿から取り戻すための措置として教会は独自の祝祭を太陽神祭と同日の12月25日に挙行したのである」。(p.63)
 
 保坂氏によると、「太陽神」とはもともとシリアで信仰されていた神で、3世紀前半にローマ皇帝エラガバルスがこれを輸入してローマの国家神とした。この評判が悪かったのか皇帝死後、元老院の決定で廃止されたが、その半世紀後に再び皇帝アウレリアヌスによって導入され、神殿を国費で建設し神官も国で雇うことになったらしい。この太陽神の祝祭が1年に1回、12月25日に首都ローマで挙行されていた。太陽神の導入以前は、この12月25日はユリウス暦(前46年制定)の「冬至」に当っていたから、ローマ人は「冬至」を「太陽神祝日」とし、それをさらに「キリストの誕生日」に変更したということになる。上記の説によると、その理由は、太陽神信仰が人気を博してキリスト教徒を引きつけていることに危機感を感じたローマ教会指導者が、太陽神の祝日を“ハイジャック”するためである。言い換えれば、その日をキリスト教の重要な祝日にして行事を行えば、キリスト教徒が太陽神の祝祭に出ることができなくなるから、というわけである。

 ことの真相は不明だが、聖書はイエスの誕生日を特定しておらず、その後の研究でもイエスの誕生日や誕生場所は不明であり、初期のキリスト教徒が12月25日を祝った形跡はないのである。そうであれば、クリスマスは後世の人間が様々な文化的習慣や行事を「イエス」という宗教的指導者のイメージに合わせて“再生”させた祝日と言えるだろう。キリスト教の立場から言うと、クリスマスとは、イエスとイエスの教えを、伝播地の文化や習慣を取り入れて再構成した祝日である。つまり、ユダヤ教を基盤とするキリスト教が、異教文化を受容したのである。それが何千年も世界中で祝われてきたという事実を考えると、宗教における文化や習慣の重要性を改めて感じる。
 
谷口 雅宣

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2005年11月16日

実相の表現は簡単? (2)

 11月13日の本欄に引き続いて、この問題を考えてみよう。ここでの疑問は、「人間の実相が完全円満ならば、どうしてそれが簡単に現象に表現できないのか?」である。そして、私の答えは--「表現」というものは困難を伴うことで初めて達成されるし、それによって多くの人々と表現の成果(喜び)を共有することができる、というものだ。

 「表現」という言葉は、「内面的・精神的・主体的なものを表情・身ぶり・言語・芸術作品などにより形象化すること」(『新潮国語辞典』)を意味する。つまり、形になっていないものを何らかの媒体を使って形にすることである。現象世界に存在するものはすべて、時間の経過にともなって変化する。このことは、前回述べたとおりである。我々が頭脳で考えられるもののうちで最大のものは恐らく「宇宙」である。この宇宙でさえ、それ自体が一定の大きさのものでなく、人間の想像を絶する速度で膨張しつつあるという。だから、その「宇宙」という現象世界の中にあって、変化しないものはないのである。「変化する」ということは、一定の形にとどまらないのであるから、本当の意味では「完成」していない。だから不完全である。したがって、我々が現象としてとらえる宇宙の中のすべてのものは「完全円満」ではない。
 
 それならば、我々人間はいったいなぜ「完全」や「円満」などを求めるのだろうか? 人間が現象宇宙の中に生まれてこのかた、「完全なもの」や「円満なもの」を見たり聞いたり、経験したりすることが一度もなかったならば、我々が「完全」や「円満」を求めるどころか、そういう概念を頭の中に思い浮かべることができることさえ、説明不能である。しかし、現実の人間は、「完全」や「円満」をあらゆる方面に求めている。それは例えば、「壊れない建物」とか「強靭な肉体」とか「不死の命」とか「スーパーヒーロー」とか「最速の航空機」とか「最強の軍隊」とか「最高の栄誉」とか「最高の富」とか「最高の品質」などである。また、それは例えば「幸福な結婚」とか「家庭の調和」とか「理想社会」とか「恒久平和」などである。
 
 このように考えると、現象世界に初めから存在しない「完全」や「円満」に限りない魅力を感じ、それを追い求める我々人間は、まったくの愚か者か、あるいは現象世界以外から来た存在であるかのいずれかであると言えないか? 私は、人間は後者であると考える。では、人間はどこから来たのかと問われれば、それは「本当に在る世界」と言わざるを得ない。なぜなら、存在しない場所からは、何ものも来ることができないからだ。この「本当に在る世界」の“印象”とか“記憶”のようなものが我々人間の心の底に宿っているから、人間は「完全」や「円満」が気になって仕方がない。それを現象世界(人生)に探したり、表現したくて仕方がないのである。そして、その表現活動を行うことで生き甲斐や喜びを感じるのである。この意味では、表現は自己完結的だと言える。
 
 表現のもう一つの機能は、他者との共有や共感である。我々は表現されたものを複数の人間で共有し、共感することができる。絵画、映画、スポーツ、音楽などを思い出せば、この共感や共有の体験は、自己完結的体験を凌駕するほどの喜びを表現者だけにではなく、表現の受容者にももたらすことがある。しかし、そのような喜びは、表現を的確に、間違いなく、有効に行うことに習熟した者にのみ与えられるのである。この習熟の過程を「苦しみ」と見るか「楽しみ」と見るかは、その人の人生観しだいと言っていいだろう。生長の家では、もちろん後者の見方をお勧めしている。

谷口 雅宣

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2005年11月14日

科学者の倫理性

 最先端の再生医療や生殖補助医療の研究をしている医師が、自分の研究に不可欠な試料を助手から直接得ていたとしたら、その研究は倫理的に正しいと言えるだろうか? もっと具体的に言おう。ある医師が、胚性幹細胞(ES細胞)と同等の機能をもつ細胞を得るために、助手の女性医師の卵子を使って研究することは倫理的に正しいだろうか?--そういう問題が今、韓国で起こっているらしい。11月14日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。
 
 5月22日付の本欄で取り上げたが、この5月にES細胞研究の分野で“大きな進歩”があったとして伝えられたのは、韓国のチームがこれまでになく高い効率で、人のクローン胚をつくり、そこからES細胞を取り出すことに成功した。数字で表すと、このチームは2歳から56歳の患者11人の皮膚の細胞を使い、健康な女性の卵子185個から、患者9人と適合するES細胞を作成した。言い換えると、卵子10~20個で、1人の患者に適合するES細胞を作るという効率化を達成したのである。昨年2月、同じチームが242個の卵子からわずか1株のES細胞を作ったのと比べると、効率が10倍以上改善したわけだ。ところが、この研究で使われた卵子の一部が、研究チームの内部(あるいは周辺)の女性から提供された疑いが浮上しているのである。

 自分たちの研究のために、チームの一員の肉体の一部を使うことが許されるならば、それは研究チーム全員への“無言の圧力”となる。研究に必要な試料が入手困難である場合は、とりわけこの圧力は強く感じられるだろう。また、研究が成功すれば、いろいろな意味で研究チームは利益を得るだろう。その中には経済的利益もあるに違いない。すると、入手困難な試料を提供したメンバーは、結果的に金銭的な代償を得ることになる--恐らく、そういう点が問題視されているのだと思う。この韓国チームの研究に参加した米ピッツバーグ大学のジェラルド・シャッテン博士(Gerald Schatten)は、こういう問題がある可能性を理由に、チームから外れることを発表したという。

 記事ではさらに、この研究チームは25人からなり、チームに名を連ねている研究者の1人が、違法な卵子売買をしていた疑いで現在警察に調べられている医療機関の一つを経営していた、と書いている。この事件は、11月8日と9日の本欄で触れた事件だと思うが、定かでない。しかし、もしそうだとすると、200人以上の日本人女性がそれに関係していることになるから、決して“対岸の火事”ではないのである。
 
 同じ日の『ヘラルド朝日』のオピニオン欄では、ダライ・ラマ14世が「科学への信仰(Our faith in science)」と題して、科学と宗教の共存・協力の必要性について訴えている。それによると、今や科学はあまり高度に発達したため、我々の倫理的思考はそれについていけなくなっている。科学の発達は細分化し、専門家しすぎたため、その高度な科学的知識によって何をするかという決定を個人の(科学者の)判断に委ねておくのでは不十分になっている、というのである。私も同様のことを過去、何冊かの本に書いている。

 「子がほしい」という個人の願いを誰も批判することはできないだろう。また、その個人の願望をかなえてあげたいという医師の熱意は、称賛すべきものかもしれない。しかし、「どんな手段を使っても……」となると、話は違ってくる。現在の科学の力によれば、我々が昔から親しんできた宗教や道徳や倫理上の約束事・前提を、根底から覆してしまうような手段が使えるのだ。だから、科学の力をどこまで使い、どこからは使わないかの“線引き”を決める必要がある。それは社会全体に影響のあることだから、科学者も、宗教家も、企業家も、一般消費者も、膝を付き合わせ、合意して決定すべきことだと考える。その手続きが遅れていることが、今日の(特に日本の)大きな問題の一つなのだ。

谷口 雅宣

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2005年11月13日

実相の表現は簡単?

 千葉県千葉市の幕張メッセで行われた生長の家の講習会で、65歳の男性からこういう質問をいただいた--「人間は神の子であり、実相は完全円満で、迷いは無いとすれば、いとも簡単に実相の完全円満さを現象界に表現できてよいはずなのに、なぜできないのでしょうか?」。この日は1万人以上の受講者が参集してくださり、質問も20近く出されたため、私の答えには時間的制約があった。できるだけ分かりやすく答えたつもりだったが、数分の説明では意を尽くしたとはとても言えないので、この場を借りて若干、補足したいと思う。
 
 生長の家では、実相と現象というものを峻別する。「実相」とは、本当にあるものの本当の姿のことを指す。「現象」とは、人間が感覚を通じて認識したものである。この両者の別は、哲学では「認識論」と呼ばれる分野で昔から盛んに論じられてきたので、詳しくは説明しない。が、人間についてごく簡単に言えば、人間の肉体や精神の状態は現象であって、実相ではない。なぜかといえば、人間は肉体的にも精神的にも変化するからである。肉体が成長したり老化することは自明であるが、精神もまた幼い状態から次第に分別がつき、やがて老成するのが普通だ。このような「変化」は、人間の一時的状態であり、人間の“本質”ではなく、外面であり、外貌である。

 あるものが「A」という状態から「B」という状態に変化した場合、そのものの“本質”は、AにもBにも共通するところの「変化しないもの」である。そう考えた場合、人間は肉体(物質)的には100%変化する。つまり、肉体を構成する物質分子は成長の過程で100%入れ替わる。だから、人間の本質は物質ではなく、肉体ではない。人間の精神について考えた場合も、同様のことが言える。では「変化しないもの」とは何かと考えれば、それは「自分がここにある」ということである。もちろん、その意識は睡眠中や記憶の中断によって途絶えることがあるが、しかし、それは「意識が途絶えた」のであって、「自分が途絶えた」のではない。その自分はまた、「完全」とか「円満」という概念を理解している。意識的に理解していない場合でも、「不完全」や「争い」に直面したとき、それが自分の求めていないものであることに気づくのである。

 このことから分かるのは、人間の本質は物質でなく、肉体でなく、円満完全な“神の子”だということである。なぜそこに「神」が出てくるかというと、生長の家では「神」とは本当に存在するものの第一原因者であるからだ。我々が存在するためには、我々を創造した第一原因者が存在しなければならないのである。そして、我々にもし“本質”があるとするならば、それは第一原因者から来ているのである。即ち、円満完全なるものを我々が希求するのは、「円満」や「完全」を我々が勝手に作ったのではなく、我々の原因である神が存在ましまし、その神が円満であり完全であるからである。結局、我々人間は、神を求めているのである。
 
 少し思弁的な記述になってしまったが、以上が、人間が神の子であることと、完全円満であることのごく簡単な説明である。ここで強調したいのは、生長の家で「人間は神の子」で完全円満だというのは、実相のことを指すのであり、今の我々が肉体的に完全だったり、精神的に常に円満であることを意味しない。また、「迷いは無い」というのも実相のことである。現象身としての我々は、食堂のメニューを見ても迷うのである。だから、人間が実相に於いて完全円満であることと、現象に於いて完全円満が表現されていることとは、意味が違うのである。

 ここまでの思考について来てくださった読者は、冒頭の質問が、実相と現象の区別をはっきりしていないことに気がつかれると思う。この質問は、基本的に「人間の実相が完全円満ならば、どうしてそれが簡単に現象に表現できないのか?」という内容である。私が講習会でした答えは、「表現」というものは困難を伴うことで初めて達成されるし、それによって多くの人々と表現の成果(喜び)を共有することができる、ということだった。この点の説明は、後日に譲ろう。

谷口 雅宣

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2005年11月11日

慶 祝 の 幟

 今日の関東地方は終日曇天で肌寒い一日だったが、午後のジョギング後は爽快な気分で、雲も薄まって青空が透けて見えるように感じた。立冬を過ぎると、日が短くなったことが一段と感じられるが、そんな夕方の町を、トレーナー姿で早足で仕事場へもどる私の目の前に、細いポールから白い布片が垂れ下がっていた。マンションの2階のベランダから水平に出たポールの先に、細長い幟が下がっていて、「慶祝」という言葉の下に人の名前が「○○○○さん」と縦に書いてある。どこかで聞いたような男性の名前だが、思い出せない。特段珍しい名前や芸能人の名前でもなかったから、「このマンションの部屋の人が結婚したのを祝うために、親戚か友人が贈った幟だろう」と考えた。

 そこは、大通りからやや隔たった静かな路地にあるマンションだから、晴れがましい幟はよく目立つのである。「もの好きな人もいるものだ」と思いながら、マンション脇の角を曲がると、今度は路地の対面の建物からも、同じ幟が突き出ていた。さらに数メートル行くと、同じマンションの玄関口の側に、同一の幟が3階からも4階からも所狭しと下がっているではないか。私は「これはちょっと普通ではない」と身構えながら歩いた。そして、この奇妙なマンションとは反対方向にさらにもう一つ角を曲がった。そこには、5階建てほどの高さの別のマンションがあるが、そこは文字通り“満艦飾”だった。各戸のバルコニーから同じ白い幟が垂れ下がっているのである。私は唖然として、周囲を見回していた。

 この満艦飾のマンションには、数年前から警察官が守衛として立つようになっていた。私の家の近くには宮沢喜一元首相の自宅があって、宮沢氏が政治を動かしていた頃は常に警察官がそこに張りついていた。だから、このマンションにも誰か重要な政治家--たぶん小泉政権の閣僚クラス--が住んでいるのだ、と私は思っていた。しかし、政治家とこの晴れがましい幟とはどうも似合わない。そこで意を決した私は、問題のマンションの敷地の隅に立っている中年の警察官のところへ歩み寄り、
「すみませんが、この○○○○っていう人は誰ですか?」
 と聞いた。
 警察官曰く--
「あの紀宮さんと結婚する人ですよ」
「ああ、そうですか。あの人ここに住んでるんですか!」
 私は納得した。
 こんな近くに“話題の人”が住んでいることなど全く知らなかった。都会では、こんなことがしばしば起こるのかもしれない。散歩でよく顔を見る人が、自分の知らない“有名人”だったりする。そういえば、東郷神社近くのレストランで音楽家の小澤征爾氏と鉢合わせしたことがある。そんな意味でも、興味の尽きない場所である。

 紀宮さまはこの15日に結婚される。私も「慶祝」の思いを込めてそのマンションを見上げ、これからのお二人の生活を思った。どこかで鉢合わせする可能性に期待しながら……。

(ところで、後日判明したことだが、“お二人の生活”の場はこのマンションではないようだ。マスコミ情報では、そこは「神田川沿いの賃貸マンション」らしいから、ここは11月15日まで○○○○さんが住んでいたところ、ということになる。)

谷口 雅宣

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2005年11月10日

日本の犯罪は減っている

 法務省はこのほど2005年版の「犯罪白書」の記者発表を行ったが、その内容についての新聞各社の報道はまちまちだ。

 本欄ですでに何回も書いているように、現在のマスメディアの“ニュース性”の判断基準は「悪現象」に偏っている。言い直すと、悪現象は積極的に報道されるが、善い現象や当たり前の現象はほとんど報道されないという偏向がある。そういう“偏り”があるならば、毎年この時期に政府から発表される「犯罪白書」は、その名の通り、「犯罪」という悪現象の1年間のまとめだから、白書中のどの情報を記事にしてもいいようなものだ。が、取り上げられる情報は、たいてい数字の増加(悪化)したものについてであり、減少(改善)したことについてはめったに触れられない。人生の光明面を見る“日時計主義”の重要さを知っている立場からすると、それほどまでに“日陰主義”を徹底させる必要はない、と声を大にして叫びたい。

 ではなぜ、今年の犯罪白書に関する報道がまちまちなのか? 私はこう考える。犯罪統計が明確に“悪化”を示している間は、新聞各社は一斉にその悪化の状況を書くから、記事の内容は似たりよったりのものになる。しかし、その逆の場合は、各社は膨大な犯罪統計の中からそれぞれの視点で“警告すべきこと”(つまり、悪い現象)を探し出して書くことになる。すると、書き手に選択の余地が広がって各社まちまちの報道がされることになる。

 では、各社の記事の見出しを掲げてみよう:
○17年版犯罪白書:少年非行 親に問題、処遇困難増加…少年院教官ら「子供の行動に無責任」(『産経』11月9日)
○改正少年法施行後、重大事件の6割が逆送、05年犯罪白書(『朝日』11月8日夕刊)
○事件の種類で差(『日経』同日夕刊)
○重大事件起こした少年、8割は集団犯罪に加わる(『読売』同日14時39分)
○刑法犯2年連続減 重大犯は増 裁判員制度の対象犯罪は3308人/犯罪白書(東京『読売』同日夕刊)

 上記のうち、見出しから記事の内容がよく分かるのは『産経』と『読売』のものである。『朝日』と『日経』の見出しは、それを読むだけでは何のことかよく分からない。私は、『読売』を除く各社が上記の5番目にあるような、分かりやすいだけでなく、正直な内容の記事を書かなかったことを残念に思う。そうなのだ、日本での犯罪発生件数は「2年連続で減少」しているのだ。このことを、もっと堂々と誇りをもって報道してほしかった。
 その『読売』の記事の最初の段落は、こう書いている:

 法務省は8日、2005年版「犯罪白書」を公表した。昨年の刑法犯は342万7606件(前年比6.0%減)で、戦後最多だった2002年から2年連続で減少する一方、刑法犯の検挙者は128万9416人(同1.5%増)と6年連続で戦後最多を更新した。検挙率は44.7%(同3.4ポイント増)だった。

 上の文章の前段は、統計の数字をストレートに書いていて明快だが、「一方」から始まる後段の文章は、数字をどう解釈すべきか考えさせられる。犯罪の発生件数が下がっているにもかかわらず検挙数が増加するには、いろいろな理由があるだろう。それには、警察官の増員や、犯罪捜査の向上、あるいはどのような種類の犯罪を集中的に取り締まるかなどという捜査方針が関係しているかもしれない。そういう様々な理由については、上の文章だけでは何も分からないのである。

 そこで私は、もっと詳しい統計的数値を知りたいと思い、法務省の担当部局に問い合わせてみたが、「数字を何のために使うのか?」と聞かれたのでまず驚いた。また、新聞記者に発表した白書そのものを入手できないかと依頼したら、記者発表から数日たっているのに「一般の人には渡せない」と言うのである。これにも驚いた。新聞記者には特別に知らせ、一般市民には知らせなくてもいいというのである。国民にはこういう公的数字を知る権利があるだろうと反論したら、「一般用の白書は2週間後にできるから、その時に知る権利を行使してください」という答えだった。何ともヒドイ対応に唖然とするばかりで、この白書には発表後、何かミスが見つかったのか、などと疑いたくなる。

 が、「絶対渡さない」というわけではないので、少し待つことにしようと思う。後日、何か重要なことが分かったら、本欄でお知らせしたいと思う。

谷口 雅宣

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2005年11月 9日

“悪”は隠しとおせない

 前回、卵子提供が好ましくない理由の1つとして、それによって生まれた子が成人した後に、「出自を知る権利」によって遺伝上の母親が誰であるかが分かる可能性が高いということを述べた。それは例えば、卵子提供者が中年になったある日、家族と暮らす家に突然、見知らぬ若者が訪れて、「あなたは私のお母さんです」と言われるということである。将来、そういう可能性があることを知りながら卵子を提供するのであれば、それはそれで本人の結果責任だ、と読者は考えるだろうか? 私は今回、韓国の卵子斡旋グループに卵子提供を申し出た女性たちが皆、そういう遠い将来のこともよく考えて決断したとは思えないのである。それよりも、当面の金銭的必要から、他に何の手段もない若い女性がそう決断した場合の方が多いと思う。新聞記事もそれを示すように、「グループはインターネット上に卵子売買サイトを開設して、クレジットカードの借金に苦しむ韓国女性などから卵子の提供を受けていた」(11月7日『朝日』)と書いている。

 インターネットはまた、思わぬ情報提供手段となるから、卵子提供者がたとえ将来にわたって医療機関で「匿名性」を保持しえたとしても、別の方面から匿名性が破られる可能性もあるだろう。11月3日付の『NewScientist』の電子版ニュースサービスは、将来のことではなく、今でもそれが起こりうることを示す記事を配信した。ただし、これは卵子提供ではなく、精子提供の場合である。

 「AID」(Artificial Insemination with Donor Sperm)とも呼ばれる精子提供は、これまで匿名性を条件に全世界で数多く行われてきたが、この記事は、それによって生まれた一人である15歳の少年が、DNA情報サービスやインターネット上の情報をたよりに、自分の遺伝上の父親の氏名や住所を捜し当てた、という内容である。少年はまず、自分の口の内側の粘膜をこすり取って、DNAから家系を調査するサービス会社にそれを送った。この会社からもらった自分の遺伝情報と、家にあった家系の情報、そしてインターネットを使った検索だけで、少年は自分の遺伝上の父親を特定したのである。これが可能だったのは、父親のもつY染色体は事実上、不変のまま息子へ引き継がれるからである。すると、自分の遺伝子のうちY染色体上にあるパターンが分かれば、それと姓や住所の情報をたよりに、父親を絞り込むことができるのだそうだ。

 この少年は、FamilyTreeDNA.com という会社に289ドルを支払った。少年の遺伝上の父親は、この会社に自分のDNAを提供したことなどなかったが、少年の父系に属する誰かが、この会社に登録してあれば情報の絞り込みは可能になる。支払いから9ヵ月後に、少年は自分のY染色体とパターンが酷似するという2人の男性から連絡を受けた。この2人は、互いに面識がなかった。しかし、2人のY染色体情報の近似から考えると、この少年と2人の男性は、同一の父親、または祖父、あるいは曽祖父をもっている確率が50%あると分かった。さらに重要なことは、2人の男性は同じ姓でありながら、スペルが違っていた。少年の母は、精子提供者の名前を知らなかったが、生年月日と出生地、そして大学の学位が何であるかを知っていた。そこで少年は、Omnitrace.com という別の検索サービスに頼んで、その生年月日にその地で生まれたすべての人の氏名を入手した。その中に、少年の探していた姓をもつ人は1人しかいなかった。

 現在「匿名性」を守られているはずの精子提供者であっても、今の情報社会ではこれほど簡単に住所や氏名が分かるのであれば、卵子提供者がこれから20年後にも匿名性を保持できると考えるのは難しい。こう考えていくと、卵子や精子の提供や売買は将来の社会の混乱の原因になるばかりでなく、提供者本人にも好ましくない結果を持ち来たす可能性が大いにあることが分かる。卵子や精子の売買は結局、他人を利用して自分の短期的損得を求める行為である。それは悪因だから、そこからは悪果が生じることを知るべきである。

谷口 雅宣

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2005年11月 8日

日本人が卵子を買っている

 韓国で日本人への組織的な卵子斡旋が摘発された。今年1月から同国で施行された「生命倫理および安全に関する法律」違反の容疑でグループの11人が逮捕されるとともに、このグループから卵子の斡旋を受けていた日本人が249人もいることが明らかになった。グループの事務所は東京・渋谷にもあり、押収された名簿には約380人の日本人女性の名前が書かれていたほか、インターネット上に会員約2千人を擁する卵子売買のサイトが設置されていた。韓国人の卵子の値段は1件当たり33万~56万円といい、それを日本人女性には約190万円で提供していたというから、営利目的の商売だと見ることができる。11月7日付の新聞各紙が一斉に報道した。
 
 卵子の斡旋や提供、売買の是非については、私は『今こそ自然から学ぼう』(生長の家刊、2002年)の第5章(pp.294-302)でやや詳しく書いているが、霊魂の不滅を信じる宗教の立場からは、これほど矛盾に満ちた行為はなく、倫理的にも正しくない。また、人間同士の差別や人身売買にも通じるという意味で、社会的にも弊害が大きい行為である。ここで簡単に卵子斡旋(あるいは提供)により子をもうけることの問題点を要約すれば、①他人を自己目的に利用する、②他人の生命の売買につながる、③優生思想を助長する、の3点が挙げられよう。

 ①は、卵子を採取する際、提供主の女性の肉体をもっぱら自己目的の手段として利用するだけでなく、多胎妊娠時の減数手術などで受精卵の無用な廃棄(本質的には殺人)を行うことを指す。②は、今回の例にも見られるように、卵子提供者と子を得る者との間に様々な人々が介入するため、金銭の授受が不可避であり、事実上、人の生命の売買となる点を指す。③は、子を得る側が受精卵提供者を人種、国籍、収入、学歴、IQ等によって選ぶことで、一般的に“優秀な人間”とされる人(そして、その人の卵子)が優遇される傾向が生じることを指す。もっと簡単に言えば、“優秀”とされる人の卵子の高い値段で取引され、そうでない人のものの値段が安くなり、結局、卵子の時点から市場を通して人間の優劣が決められていくことを指す。

 上記の①~③が宗教的、倫理的、社会的に好ましくないことは明らかだが、さらに生まれてくる子と提供者の立場から考えても、好ましくない点がいくつもある。それは、④子の出自の不明確化、⑤出自を知った際の子への心理的影響、⑥提供者への事後の心理的負担、である。生まれてきた子に対して、その子がどのようにして誕生したか(出自の由来)を知らせるべきかどうかについては、議論が分かれている。しかし、かつては「出自秘匿」が原則だったものが、先進国での今の趨勢は「出自開示」の方向に動いている。これは、精子提供によって生まれた子供たちが今や成人し、「出自を知る権利」を続々と主張するにいたり、多くの先進諸国がこれを判例や法律で認めるようになってきたからだ。この動きが続けば、将来は「出自開示」が原則となるだろうから、卵子提供によって生まれた子は、誰が卵子提供者かを事後(多くの場合は成人後に)原則的に知ることになる。すると、子への心理的影響が生じるとともに、卵子提供者にも同様の負担が生じるようになる。後者の場合、卵子提供者が中年になって突然、見知らぬ若者から「あなたは私のお母さんです」と言われる事態を想起してほしい。

 これほど多くの問題を抱えた技術を、「個人の願望」と「個人の自由」だけを理由にして容認すべきかどうかと考えれば、韓国が卵子斡旋や卵子提供を法律で禁じた理由が理解されるだろう。逮捕された卵子斡旋グループのウェッブサイトに登録されていた約2千人の会員(そのほとんどは日本人と思われる)たちが、このような問題を事前に真剣に考えていたとは思えない。私は「子をもちたい」という親の強い願望を理解しないわけではないが、「願望が強い」というだけで何ごとも許されるべきとは思わない。韓国に比べ、日本では卵子提供を含む生殖補助医療に関する法律は未整備である。このことが、「法律に違反しないことはしていもいい」との誤った理解を生み、今回のような事態を生む大きな原因になっているように思う。日本の関係省庁は早急に法案を策定し、国会で充分に審議して、法律制定を早期に実現してもらいたい。

谷口 雅宣

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2005年11月 7日

ネズミの愛の歌

 私は「捕獲」と「捕獲2」という短篇小説(日本教文社刊『神を演じる人々』に収録)の中で、ネズミが“声なき声”を発してコミュニケーションをする様子を描いたが、それはまったく想像の産物だった。動物における言語の発達は、発声器官の発達と併行して行われると考えるのが現在の生物学の常識だから、舌や喉の構造が複雑な音の発声に適していない動物が“言葉”や“音楽”をもつことはない、というのがこれまでの常識だった。ところが、科学者の研究でこのほど分かったことは、雄のネズミは雌の注意を引くために、鳥の囀りにも似た複雑なメロディーを発するらしいのである。11月1日発表の『NewScientist』誌の電子版が伝えている。

 長いあいだ実験動物として使われてきたネズミが“求愛の歌”を歌うことがこれまで分からなかったのは、それが人間の耳には聞こえない超音波によるものだからという。ミズリー州セントルイス市にあるワシントン大学医学校の研究者たちは、雌のネズミから採ったフェロモンを嗅がせた雄ネズミの前で録音を試みた。そして、録音されたものをデジタル処理によって、人間の耳に聞こえるように数オクターブ下げて再生してみたという。すると、いくつもの音節パターンからなる楽句やモチーフが聞こえてきたというのだ。その目的はまだ不確かだが、雌の出すフェロモンを嗅いで雄が歌うのだから、“求愛”目的だと考えるのが自然である。
 
 上掲誌のサイトに登録されていた2つの音声ファイル(呼びかけ  と 子守唄) をここに転載したので、興味のある方は聞いてみてほしい。可聴音に変換された後のものだが、鳥の鳴き声とよく似ている。

 鳥が複雑で美しい歌を歌うこと、特にオウムやインコの類で人間の音声を上手にまねること、コウモリも“愛の歌”を発し、クジラやイルカも複雑なパターンで音を発することなどを考えると、人間により近い哺乳動物のネズミが歌を歌うという発見により、「言語は人間の特権」とする従来の考え方は見直しを迫られているようだ。

谷口 雅宣

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2005年11月 5日

認知された「石油ピーク説」(2)

 前回、石油生産がまもなくピークを打つという「石油ピーク説」が認知されだしたと書いたとたんに、本欄の読者から11月4日の『毎日新聞』の記事のコピーをいただいた。そこには次のようにある:

 石油生産は左右対称の釣り鐘型の曲線を描いて増減すると考えられている。65~70年をピークに減り始めた米国の石油生産のデータから、米地質学者のハバート博士が導き出した経験的モデルだ。地球上にある石油の半分が採掘された時点で、生産量は急激に減り始めると予測されている。

 これは「石油ピーク説」そのものである。ということは、『朝日』はこの説に対してまだ慎重だが、『毎日』はこの説を採用したように見える。続いて次のような文章がある:
 
 米地質調査所(USGS)は、未発見の油田を含めた究極可採埋蔵量を3兆3450億バレルと推定する。世界中の研究者が予測する中で最も楽観的な数値だが、それでも生産量は20~25年後にピークに達し、そこから減少を始める見通しだ。

 これはつまり、USGSも石油ピーク説を採っているが、そのピークが来る時期について最も楽観的見方をしているということなのだろう。(最も悲観的な予測は、前回紹介した。)また、この『毎日』の記事には、昨今の石油高騰の背景にはピーク説があると言い切っている専門家が登場する:

 お金を出せば石油が買える時代はしばらく続くが、中東問題に詳しい東北文化学園大の小山茂樹教授は「石油価格高騰の根底には、石油生産のピークが近づいている事実がある」と指摘する。

 こうなると、「石油ピーク説」はいつのまにか専門家の間の“主流”的考え方になってしまったように見える。一体どうしたことだろう?……。私が想像するに、専門家というものは、自分の責任ある分野の重要な判断について突然考えを変えるということはあまりないから、これはジャーナリストの“心変わり”が原因なのだ。彼らは、これまでは「ピーク説」否定派から多く取材していたのを、何らかの理由で肯定派から取材するように“心変わり”したに違いない。だから、最近の紙面や誌面には「ピーク説」論者が多く顔を出すようになった--こう考えてはどうだろう。

 まぁ、事の真偽は闇の中だが、重要なことは、石油に関係する企業が実際にどのような方向に動いているかである。それについては、今日(5日)の紙面には大きなニュースが1つ載っている。石油開発で国内最大手の「国際石油開発」と国内弟3位の「帝国石油」の経営統合への合意である。両社がなぜ合併に動くかというと、「資源高を背景に石油・天然ガス開発の国際競争が激化するなか(中略)、両社は有力鉱区獲得と十分な開発資金の確保を狙」(『日経』)うためである。これをもっと別の角度から表現すると、近年は新たな油田の発見が困難となり、石油の採掘には莫大なコストがかかるようになってきたことから、石油関連企業は合併による企業規模の拡大によって、費用の調達と有効な力の行使を考えているのである。このところの石油の値段の“高止まり”は、そういう大規模な投資を可能にするような大きな利益を、石油関連企業にもたらしているのだ。

 消費者の我々としては、どうすべきか。これへの答えは明確である。石油ピークが到来すれば、その後の石油の利用はいわゆる“ゼロサム・ゲーム”となる。つまり、世界の石油生産量は次第に減少するのだから、「誰かが利用すれば、誰かが利用できなくなる」のである。石油資源の“奪い合い”の時代に突入するから、石油をめぐる政治的対立がますます深刻化するだろう。これに加え、地球温暖化防止を優先する立場から言えば、我々は使用するエネルギー源を、石油などの化石燃料から再生可能な自然エネルギーにできるだけ速やかに変えていかねばならないのだ。

谷口 雅宣

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2005年11月 4日

認知された「石油ピーク説」

 私が数年前から、生長の家の全国大会や講習会で紹介してきた「石油ピーク説」がようやく世界的に認知されだしたようだ。

 まず、国際エネルギー機関(IEA)は、10月に出した『資源から備蓄へ:未来のエネルギー市場をにらんだ石油ガス関連技術』(Resources to Reserves: Oil & Gas Technologies for the Energy Markets of the Future)という報告書の中で、石油ピーク説が「一般読者の語彙の中に入った」と書き、OPEC諸国以外のほとんどの国々では、従来の方法による石油生産はピークを打ったことを認め、特にアメリカ国内ではピーク説の基礎である「ヒューバート曲線」がその後の石油生産量の減少を正確に予測したと書いている。IEAは、油田単位ではピーク説が適用できることを認めているのだが、同じ考え方が世界全体の石油生産に適用できるかどうかをまだ疑っているようだ。また、適用できるとしたら、①ピークはいつか?、②ピーク後の生産量の減少はどの程度か?、③技術の進歩はピークの到来にどう影響するか、について論争が決着していないとしている。私は、決着するはずがないと思う。

 アメリカの時事週刊誌『TIME』は、10月31日号で「エネルギーの未来:石油癖をどうやめるか」という特集記事を組み、今回の石油高騰の背景についてアメリカのエネルギー産業投資銀行の頭取の「これは需要が実際に供給を上回った品不足だ」という分析を引用している。インドや中国の経済発展のスピードを誰も予測できなかった、というのである。そして注目すべきは、記事中で次のように述べていることである--「ある時点で--2010年という早期の可能性さえあるが--(石油の)生産量はピークを迎えるだろう。それは必ずしも急なピークではないが、その後はしだいに(生産量が)減少する」(p.30)。この文章は、同誌のマイケル・レモニック記者(Michael D. Lemonick)によるものだが、末尾には各国にいる同誌記者5人の名前も付してあるから、これによって同誌が「石油ピーク説」を採用したと見ることができるだろう。

 もちろん同誌は、石油生産のピークは来ないという反対説もきちんと紹介している。その主旨は、石油埋蔵量は大きく、技術革新によってこれまで得られなかった場所や方法でも今後は得られるようになるというものだ。が、この反対説は肯定説より後に掲載されており、読者はピーク説の主唱者の1人であるプリンストン大学名誉教授のケネス・ドフェイス氏(Kenneth Deffeyes)の文章を先に読むことになる。そして、ドフェイス論文は「2007年説」(石油の生産ピークを2007年とする説)を紹介したり、石油会社「シェブロン」がピーク説を前提にしていると思われる広告をうったことや、エクソンモービル社が「1987年は、我々が使った石油より多くの量の石油を発見した最後の年だった」と言ったことに言及している。そして最後に、同氏は石油ピークは「2005年11月24日」だと2年前から予言していたと書いているのである。

 日本のメディアは、石油ピーク説に対してまだ慎重だが、それでも『朝日新聞』は11月4日付の特集記事「原油高、いま世界市場は<上>」の中で、(私の記憶では)初めて「石油ピーク説」に触れ、「2010年ごろまでに原油生産量が頭打ちとなる」とする地質学者の説を紹介している。そして、地の記事では次のように述べる--「たしかに米国や北海油田の04年の生産量はピーク時より1~3割減った。世界最大のガワール油田(サウジアラビア)でさえ原油が自噴しなくなり、古い油田で用いられる、水圧で原油を押し出して生産量を維持する方法をとっているのが実情だ」。

 エネルギー問題だけに注目すれば、石油の生産は「もっと深く」「もっと数多く」採掘すれば現在の生産レベルを維持することは可能かもしれない。また、石炭から液体燃料を取り出す技術も存在するから、これによって不足分を補うことは可能かもしれない。しかし、温暖化防止の観点をこれに加えれば、これ以上の化石燃料の採掘と利用は“自殺行為”に等しいことに、早く人類は気がついてほしい。アルコールでもタバコでもそうだが、中毒者は自分が中毒していることになかなか気がつかないものである。

谷口 雅宣

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2005年11月 3日

ヒメリンゴ

 秋が深まってくると、東京でもさまざまな木の実が色づいてくるのは嬉しいものだ。わが家のミカンもポンカンも黄色がかってきたし、私の事務所のすぐ近くに立つハナミズキの実も赤くなった。ハナミズキは、私がジョギングのコースにしている明治公園沿いの道路の街路樹にもなっているから、葉が紅葉しかかった中に点々と赤い小さな実が散りばめられた様子は、なかなか華やかである。神宮外苑のイチョウの並木道では、銀杏を踏まないように目を皿のようにして走る。そして、最近発見したのは、公団住宅に隣接した細長い公園に、ヒメリンゴの大木が1本豊かな枝を拡げていることだ。
 
 その木がヒメリンゴであることが分かったのは、赤くなりかかった小さな実をびっしりとつけていたからだ。実が色づくまでは、遠くからは他の木と区別がつかなかったので私の注意を引かなかった。が、深い緑の葉の中で実がほんのりと赤らんでくると、不思議に目につくものである。それも、ハナミズキのように葉の間に点々と実が散って見えるのではなく、それこそ文字通り“鈴生り”になっている。春のサクラが豪華に見えるのは、枝の1ヶ所から何本も花序が伸びているからだが、ヒメリンゴも花も同様に咲き、秋にはそれぞれの花序の先に直径2~2.5センチの実をつける。その名の通り、リンゴとよく似た形の実だが、リンゴの実の底部はへこんでいるのに対し、ヒメリンゴは小さく盛り上がっている。

 一昨日(1日)の午後、ジョギングの帰途にそこへ行き、これだけ数多く実があるなら、少々の拝借は許されるだろうと思って、背を伸ばして枝の先を20センチほどいただいた。そこには実が9個ついていた。家に持ち帰って花瓶に挿しておき、休日の今日になってスケッチした。

CrabApple

 ヒメリンゴは「イヌリンゴ」とも呼ばれ、英名は Chinese crab apple という。中国原産のバラ科の落葉小高木で、育つと高さ10メートルほどにもなる。耐寒性が強く、日本では盆栽などによく利用されるようだ。近種にエゾノコリンゴ(英名 Manchurian crab apple)というのがあり、これも「ヒメリンゴ」と呼ばれることがあるそうだ。よく似ているからだろう。私が見つけたのがどちらかは定かでない。後者のヒメリンゴは中部地方以北、東北アジアからヒマラヤにかけて広く分布し、耐寒力があるのでリンゴの接木台に利用されるらしい。日本に原生していたのもこの種というが、現在の栽培種のリンゴはすべて欧米種からの改良型である。

谷口 雅宣

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2005年11月 1日

食器をどうする?

 地球環境をテーマにした愛知万博にはぜひ行きたかったが、諸般の事情から行けなかった。昼のNHKの実況放送でわずかにその雰囲気を知っただけだが、「待ち時間が長い」ことを伝えていたから、無理して行ったとしてもパビリオンの前で待つばかりで、中をじっくり見学することはできなかったろう。会場には、弁当等の食事が持込み禁止だとの話も聞いていたが、その理由もつい最近まで知らなかった。会場では“エコ食器”が使われていたのである。食事の持込みを許すと、弁当ガラなどの廃棄物が大量に発生するから、それを防ぐためだったのだろう。10月30日の『朝日新聞』で、その効果のことを「CO2削減720㌧=杉10万本分」という見出しをつけて報じていた。
 
 “エコ食器”という表現が正しいかどうか知らないが、記事には「生分解性プラスチックの食器」と書いてある。普通のプラスチックは土中に埋めても腐らないが、このプラスチックは土中で分解し、堆肥になるらしい。愛知万博では、食器だけでなくゴミ袋にもこの生分解性プラスチック製のものを使ったという。食器には、トウモロコシなどを原料としたコップや皿など約2千万個を使い、ゴミ袋は約55万枚を使ったらしい。この“エコ食器”には使い捨てのものと回収して繰り返して使うものの2種類があり、使用後は、食べ残しなどの生ゴミやゴミ袋と一緒に破砕して堆肥にして、長野県の畑で利用したという。この畑ではハクサイが育ち、9月上旬に収穫した約300個が来場者に配られたそうだ。これによって(部分的にではあるが)「トウモロコシ→食器・ゴミ袋→堆肥→ハクサイ」という資源の循環が実現したのである。

 これまでは「石油→食器・ゴミ袋→CO2・熱・廃棄物」という形で資源が使われてきたため、地球温暖化が進行したが、上記のような資源リサイクルが実現すれば、万博のような大きな催し物を開催しても、温暖化の進行も以前のようには進まないということだろう。記事の見出しに使われた「CO2削減720㌧」という数字は、これらの“エコ食器”や“腐るゴミ袋”を使わずに通常のものを使い、残飯などの生ゴミと一緒に焼却処理した場合に発生するCO2の量との差である。
 
 同じ30日の『朝日』には、早稲田大学の学生と地元の弁当店や飲食店計5店が協力して、弁当ガラの出ない“リユース弁当箱”(弁当箱を繰り返して使うこと)の実験を始めたことが書かれていた。同大の西早稲田キャンパスには約3万人の学生が通い、プラスチックなどの資源ゴミが1日に約200キロも出るという。そのほとんどが弁当ガラで、概算では1日に9千個分が捨てられるらしい。この状況を改善しようという学生たちが「早稲田大学リユース弁当容器普及啓発委員会」を結成して、仕出し弁当用のプラスチックの弁当箱とサンドイッチ用バスケット80食分の回収と再使用の実験をしているらしい。期間は10月11日から11月6日の約1ヵ月間だ。

 こういう話を聞くと、生長の家の様々な行事で使われる食器はどうなっているのか、と考えてしまう。ISO-14001を取得した教化部や道場では問題はないのだろうが、大勢が集まる講習会や教区大会での弁当のことが気になる。生長の家の講習会では、多いところでは1万人以上の人が集まる。そこで使用する電力は“グリーン電力”を採用しているが、弁当の選定等についての事情は定かでない。環境保全のためにやるべきことは、まだまだ多いようだ。

谷口 雅宣

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