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2005年11月16日

実相の表現は簡単? (2)

 11月13日の本欄に引き続いて、この問題を考えてみよう。ここでの疑問は、「人間の実相が完全円満ならば、どうしてそれが簡単に現象に表現できないのか?」である。そして、私の答えは--「表現」というものは困難を伴うことで初めて達成されるし、それによって多くの人々と表現の成果(喜び)を共有することができる、というものだ。

 「表現」という言葉は、「内面的・精神的・主体的なものを表情・身ぶり・言語・芸術作品などにより形象化すること」(『新潮国語辞典』)を意味する。つまり、形になっていないものを何らかの媒体を使って形にすることである。現象世界に存在するものはすべて、時間の経過にともなって変化する。このことは、前回述べたとおりである。我々が頭脳で考えられるもののうちで最大のものは恐らく「宇宙」である。この宇宙でさえ、それ自体が一定の大きさのものでなく、人間の想像を絶する速度で膨張しつつあるという。だから、その「宇宙」という現象世界の中にあって、変化しないものはないのである。「変化する」ということは、一定の形にとどまらないのであるから、本当の意味では「完成」していない。だから不完全である。したがって、我々が現象としてとらえる宇宙の中のすべてのものは「完全円満」ではない。
 
 それならば、我々人間はいったいなぜ「完全」や「円満」などを求めるのだろうか? 人間が現象宇宙の中に生まれてこのかた、「完全なもの」や「円満なもの」を見たり聞いたり、経験したりすることが一度もなかったならば、我々が「完全」や「円満」を求めるどころか、そういう概念を頭の中に思い浮かべることができることさえ、説明不能である。しかし、現実の人間は、「完全」や「円満」をあらゆる方面に求めている。それは例えば、「壊れない建物」とか「強靭な肉体」とか「不死の命」とか「スーパーヒーロー」とか「最速の航空機」とか「最強の軍隊」とか「最高の栄誉」とか「最高の富」とか「最高の品質」などである。また、それは例えば「幸福な結婚」とか「家庭の調和」とか「理想社会」とか「恒久平和」などである。
 
 このように考えると、現象世界に初めから存在しない「完全」や「円満」に限りない魅力を感じ、それを追い求める我々人間は、まったくの愚か者か、あるいは現象世界以外から来た存在であるかのいずれかであると言えないか? 私は、人間は後者であると考える。では、人間はどこから来たのかと問われれば、それは「本当に在る世界」と言わざるを得ない。なぜなら、存在しない場所からは、何ものも来ることができないからだ。この「本当に在る世界」の“印象”とか“記憶”のようなものが我々人間の心の底に宿っているから、人間は「完全」や「円満」が気になって仕方がない。それを現象世界(人生)に探したり、表現したくて仕方がないのである。そして、その表現活動を行うことで生き甲斐や喜びを感じるのである。この意味では、表現は自己完結的だと言える。
 
 表現のもう一つの機能は、他者との共有や共感である。我々は表現されたものを複数の人間で共有し、共感することができる。絵画、映画、スポーツ、音楽などを思い出せば、この共感や共有の体験は、自己完結的体験を凌駕するほどの喜びを表現者だけにではなく、表現の受容者にももたらすことがある。しかし、そのような喜びは、表現を的確に、間違いなく、有効に行うことに習熟した者にのみ与えられるのである。この習熟の過程を「苦しみ」と見るか「楽しみ」と見るかは、その人の人生観しだいと言っていいだろう。生長の家では、もちろん後者の見方をお勧めしている。

谷口 雅宣

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コメント

私がかつてこの問題を考えていたときに出会い、非常に感動した文章があります。

それは、谷口雅春先生著『心と運命:新百事如意』(日本教文社、新版平成9年刊)第七章の「一、神の最大なる自己実現」と題された次の文章でした。新版では74-75頁です。なお、以下の( )内は、原文ではルビがふられているところです:

個性なき絶対実在そのままとしては、神は吾人(ごじん)が個体として有(も)つ如き喜ばしき経験を有つことは出来ない。何故ならば彼は恋人なしに、恋するとは如何(いか)なることであるかを体得することが出来ないからである。また神は時間を超越せる絶対実在その儘(まま)としては、未来の期待を楽しむことが、どんなことであるかを体験することは出来ない。また神は空間を超越せる絶対実在そのままとしては、旅行の楽しみがどんなものであるかを体験することが出来ない。また神は直ちに万事を知る絶対者なるが故に、その儘では論理や帰納的思索(きのうてきしさく)の喜びを味うことが出来ない。併(しか)しこれらのあらゆることを為し、あらゆる経験を閲(けみ)し得る能力がなければ、神が神たるの資格はないのである。かるが故に神は個体としての顕現を冒険し、個人我(こじんが)としてあらわれたのである。

この文章に出会ったときに、自分が実相においては完全円満な神の子でありながら、現象においてそれを表現していく努力の過程を、喜びと感じることができるようになりました。

投稿: 山中優 | 2005年11月19日 11:43

すみません、引用させていただいた文章のタイトルですが、神の最大なる自己「実現」ではなくて、神の最大なる自己「表現」でした。大変失礼いたしました。

投稿: 山中優 | 2005年11月19日 11:48

山中さん、

 貴重なインプット、ありがとうございます。

 「神は限界を人間に於いて設定し、無限実現の過程を楽しみ給う」というわけですね。ふーむ……It sounds profound.

投稿: 谷口 | 2005年11月19日 13:19

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