科学と原理主義
イギリスの科学誌『NewScientist』が10月8日号で「原理主義」に関する特集を組んだ。私はその表紙に「FUNDAMENTALISM」(原理主義)の文字を見たときに、何かの間違いではないかと思った。なぜなら、科学雑誌が宗教の一部の運動を扱うことなどないと思っていたからだ。科学と宗教は“水と油”というわけではないが、科学者が宗教の内部事情に興味をもつとは思っていなかった。が、事態はそれほど単純でないようだ。「科学は今、宗教の原理主義運動の脅威にさらされている」という危機感がこの特集記事からは読み取れる。
13ページにおよぶこの特集記事は、社会学的考察から始まる。「なぜ世界中で原理主義運動が台頭しているか?」との問いかけである。ここでの原理主義の定義は:
「原理主義の宗教は“基本にもどる”ことへの欲求に動かされている。時計の針を元へもどして、自分たちの宗教がまだ世俗的影響で汚れていなかった頃の、一種の“黄金時代”へ回帰したいと望む。彼らは、自分たちだけが真理を体得していると熱烈に信じる。その真理とは、しばしば聖書や聖典の文字通りの解釈によるものであり、その真理を他人にも押しつけようと熱意に燃える。そして、主流的な宗教と違い、宗教上の意見の違いを容認しない。英サンダーランド大学の文化論者、スチュワート・シム(Stuart Sim)が言うように、彼らにとって人とは“神に守られた信仰者”か、さもなければ“敵”なのだ」
この定義は、私が『信仰による平和の道』(2003年、生長の家刊)で紹介したキリスト教原理主義の4つの特徴のうち、最初の2つ--①聖典の無謬性と文字通りの解釈、②自分たちと他の教派とを対立的に見る--と見事に一致する。こういう原理主義の運動が今、近代化の進む世界各地で急速に台頭しつつあるというのである。かつての近代化理論によると、西洋社会がそうであったように、科学が発達し世俗化(secularization)が進むにつれて、社会における宗教の重要性は薄れてくるはずだった。しかし、実際はその逆で、近代化にともない原理主義的宗教が、キリスト教やイスラームだけでなく、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教の間でも多くの人々に信仰されるようになっているらしい。日本では、このような現象はあまり目につかないが、東南アジア、中東、アフリカ、ラテン・アメリカでは今、それが顕著なようだ。
そして、この特集で注目されているのが、そういう中進国ならぬ世界最大・最強の国、アメリカ国内の最近の動きである。アメリカの“右傾化”や“宗教右派の台頭”などは日本のメディアも伝えているが、現在の米大統領、ジョージ・W・ブッシュ氏は、自ら“信仰に根差した大統領”(faith-based presidency)を標榜していることから、この記事は事実上、同大統領を原理主義者と見なしている。そして、本欄でも何回か触れた「知性による設計」(intelligent design)論も原理主義の側からの“揺れ戻し”の一つとして扱われている。ここまで読むと、この科学誌がなぜ特集記事で宗教運動を取り上げたかという理由が明らかになる。科学者の多くは(少なくとも、『NewScientist』誌の周辺の科学者は)、世界的に台頭してきた原理主義的宗教運動の延長として、「知性による設計」論を捉えているのだ。
しかし……と私は考える。こういうように二項対立的に科学と宗教を捉えることは、どうなのだろう? それこそ、上掲した原理主義の2番目の特徴と似ていないだろうか。21世紀初頭の現代社会では、これまで宗教が守ってきた伝統的価値が次々に崩されつつあることは事実だ。その多くが、科学的発見や研究にもとづく合理主義的(唯物論的)世界観の台頭による。だからと言って、「科学でなければ宗教」あるいは「宗教でなければ科学」という二者択一ができるほど、世界も社会も我々の頭ももはや単純でない。人類はどうにかして両者が調和する“中間地点”へ辿りつけないか、と私は思う。
谷口 雅宣
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