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2005年10月 6日

映画『蝉しぐれ』

 休日の木曜日を利用して、妻と二人で映画『蝉しぐれ』を見た。NHKテレビでも放映された藤沢周平氏原作の時代劇だが、私はこのドラマを見ていなかった。時代劇は『ザ・ラスト・サムライ』『北の零年』以来だが、見た印象は前掲2作より弱かった。この作品を見たいと思った理由は2つある。1つは、小説『秘境』を書いたときに藤沢氏の作品の1つに登場してもらい、以来、氏に親しみを感じていたこと。もう1つは、藤沢氏の故郷である山形県鶴岡市周辺が『秘境』の舞台であり、その取材のために私はその地を3回ほど訪れていて、懐かしさを感じていたからだ。『蝉しぐれ』の舞台も鶴岡ということになっている。そういう私の側の「期待」が大きすぎて、それに比べられた本映画は迷惑だったかもしれない。

 私は藤沢氏の原作を読んでいないから、これから書くことは皆、黒土三男監督作品の映画についての感想である。2時間11分の長さにしては、人間心理の描写に不満が残った。中に盛り込んだものが多すぎたため、かえって主人公や相手役の心の深みを描ききれなかったのかもしれない。例えば、自然描写は秀逸である。“古き良き日本”の春夏秋冬の風景が美しい「断片」として、作品中に散りばめられている。それは素晴らしいのだが、その環境の中で生きる主人公らの心の描写が、きわめて抑制されている。江戸時代の武家の人々は、こういう忍耐と我慢の生活を送っていたのかもしれないが、観客はその抑制された動作や表情から内心を読み取るのに努力が要求される。少なくとも、私はそうだった。一種の「忍耐の美学」なのかもしれないが、それを好む人と好まない人がいるだろう。

 藤沢氏自身は『蝉しぐれ』について、こう書いている--「一人の武家の少年が青年に成長して行く過程を、(中略)剣と友情、それに主人公の淡い恋愛感情をからめて書いてみた」。問題はこの“淡い恋愛感情”だと思う。映画作品では、主人公の文四郎(市川染五郎)と相手役のふく(木村佳乃)の恋愛は、決して「淡い」ようには見えない。真剣に愛し合っているのだが、江戸時代の社会通念や習慣、武士として、あるいは女としての様々な義務に縛られて、燃える思いを遂げることができない。そういう辛く、哀しい悲恋物語のように、私は感じた。ラストシーンの1つは、三島由紀夫の『春の雪』のように、女は自分の性(さが)を棄てるために尼僧になるのだが、その別離のときの二人の表情は「淡い恋」のそれでは決してないのである。この点に黒土監督の脚色があるのかもしれないが、それならば、恋の成就を拒否してきた当時の社会に対する、主人公らの全く受け身の、諦めた態度が、現代人である観客は不満に感じると思う。

 とはいうものの、私は結構泣かせてもらった。妻も少し泣いたそうだが、私ほどには涙を流さなかったという。暗い館内で涙の量など分かるはずはないと思うのだが、妻には分かるらしい。ところで題名の「蝉しぐれ」だが、映画の各所でBGMのような効果をもって使われている。出だしは、そのものズバリのアブラゼミの大合唱だが、ラストシーンは、一艘の舟が漂う湖面を渡る単独のヒグラシの声。その舟の中で主人公が仰向けになって横たわっている。何ともやるせないのである。
 
谷口 雅宣
 

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コメント

谷口雅宣先生

 私は殆ど邦画は殆ど観ません。ハリウッド大作の話題作についつい惹かれてしまいます。
 
 先日、キアヌ・リーブス主演「コンスタンティン」をビデオで観ました。ある方から少々怖いがキリスト教世界を知る上でいい映画とお聞きしたので観たのですが映画「エクソシスト」にちょっと似たシーンがあり、私はこの手の映画が苦手だったので、しんどいと思いましたが最後まで観ました。

 観た感想ですがキリスト教世界というのは善と悪の完全な二元論ですが生長の家は完全円満の神一元論で大変有り難いなと思いました。

堀 浩二

投稿: 堀 浩二 | 2005年10月12日 12:18

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