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2005年10月31日

鉄で鉄を走らせる

 人間はスゴイことを考え出す--という感想をもった。無公害で水以外排出しない近未来の自動車として燃料電池車が脚光を浴びているが、エンジニアの中には、鉄などの金属粉末を燃料とするエンジンの開発に取り組んでいる人がいるという。理由は、(彼らによると)無限のリサイクルが可能だからだ。私のような素人には信じられないような話だが、鉄やアルミニウムを極細な粉末にすると、極めて化学反応しやすくなり、よく燃えるらしい。しかし、二酸化炭素も、埃も、煤も、酸化窒素も排出しないだけでなく、燃えた粉末を少量の水素に通すとまた元にもどり、何回でも燃やすことができるそうだ。そのためのエンジンの開発がすでに行われているというのだ。10月22日付の『NewScientist』誌が特集記事の中で伝えている。

 この記事によると、スペースシャトルを打ち上げるロケットや魚雷等には、アルミニウムなどの金属粉末が燃料としてすでに使われている。米テネシー州のオークリッジ国立研究所(Oak Ridge National Laboratory)のデーブ・ビーチ博士(Dave Beach)はそのことに注目し、同僚の数人と研究した結果、鉄を直径50ナノメートル(5億分の1メートル)の粉末にすると、250℃ぐらいの温度で簡単に燃えることを確認した。そして800℃ぐらいに達して動力として使えるようになるが、溶けたり、気化したりせず、単に酸化鉄になることが分かった。そして、この粉末の大きさを調節することによって、燃えるときの温度を調節できることも分かった。さらにこの酸化鉄の粉末は、高熱時に水素を通すと鉄にもどり、副産物として水だけが出る。ということで、この金属燃料を使ったエンジンの開発に力を入れている。

 ただ、大きな問題が一つあるらしい。それは、燃料とする鉄が重いことだ。金属だから当然だ。だから、ガソリンや軽油は満タンの時は重くても、車を走らせているうちに軽くなるのに比べ、金属燃料は燃えても気化しないから、燃料が燃え尽きるまで満タンのままの鉄の重さは変らない。これは明らかに、水素を燃やす燃料電池車より不利な点だ。が、有利な点もある。それは、自動車自体が鉄製だから、自動車が世の中に存在する限り金属燃料車は鉄のスクラップを使えるから、燃料に困ることはないことになる。

 金属燃料車を支持する人の中には、水素を燃やす燃料電池車が環境に有害な影響を与えないか心配する人もいるという。なぜなら、燃料電池から出る「水」が温暖化や災害の新しい要因になるかもしれないからである。水は蒸発し、やがて雲になる。そして、雲はやがて雨となって地上に落ち、海へ向う。今、氷河や極地の氷が溶けることで海面上昇が心配されているが、将来、全世界を走る無数の燃料電池車が排出する水が、台風の大型化や海面上昇を再び引き起こさないと誰が断言できよう--というわけである。

谷口 雅宣

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2005年10月30日

太陽光発電の導入盛ん

 長崎南部の参加者を対象とした生長の家講習会が開かれ、長崎県西海市の生長の家総本山を初め4会場に合計約6700人の受講者が集まってくださった。天気もよく、落ち着いた雰囲気の中で1日の講習ができたことを関係者の皆さんに心から感謝いたします。講話に対する質問も、真剣な内容のものが多数出され、受講者の方々の信仰の深さが窺い知れて心強い思いがした。すべての質問にお答えする時間的余裕がなかったのが心残りである。

 午後の講話で、生長の家が現在なぜ環境保全運動に力を入れているかを説明し、これまでの成果についても短く触れた。その際、生長の家関係の「太陽光発電導入実績」のグラフ(下掲)を示して、最近の運動の伸展の様子を報告した。本欄の読者にも、それを知っていただきたいと思う。
 
m_SolarPwrS

 生長の家の環境保全運動が本格化したのは平成12(2000)年からで、この年、生長の家総本山に160Kwの発電容量をもつ太陽光発電装置が設置され、東京・調布市の生長の家本部練成道場には50Kwの同様のシステムが導入された。生長の家の組織の会員の方々も4教区で6人が、この年に自宅の屋根等にソーラー発電パネルを設置し、合計で「233Kw」の発電容量が日本列島に新たに加わった。大げさな言い方のように聞こえるかもしれないが、日本の電力の大半がアラビア等の海外から輸入する原油を使った火力発電であることを思えば、そういう化石燃料を一切使わないでも発電できる装置が国内にできることは、地球環境のためにも、国家のエネルギー安全保障のためにも有益である点を強調したいのである。

 こうして「233Kw」からスタートした生長の家の太陽光発電容量拡大の運動は、上掲のグラフにあるように、2001年には「+ 184Kw」、02年には「+ 223Kw」、03年に「+ 357Kw」と順調に進展した。また、この2003年はこれまでで最大の容量が加わった年だが、この年を境にして、「法人」による導入よりも「個人」の家庭等への導入が多くなってくる。「法人」とは、生長の家の日本各教区の教化部や練成道場のうち法人格をもっている施設のことで、言い換えれば、2003年までに太陽光発電装置は大半の法人に導入されたため、それ以降は各信徒の家庭などを対象とした運動に切り替わってきたことを示している。なお、グラフの中で「水色」に色分けされているのは相愛会の会員が導入した分であり、「ピンク」は白鳩会員の成果である。そして、今年度は、10月末までの実績で、前年を上回り、過去最高の2003年の実績に迫る「327Kw」の発電容量が新たに加わっている。グラフは、「暦年」でなく「年度」(4~3月)で分類してあるから、今年度はあと5ヵ月残っていることを考えると、過去最高実績を更新する可能性が出てきているのである。信徒の皆さんのご理解とご協力に心から感謝申し上げたい。
 
 ところで、これまでの導入実績をすべて加えると、生長の家関連の太陽光発電装置の発電容量は合計で「1,646Kw」になる。これによって節約される石油の量は、1日当たり1,099リットルとなり、1年間では約400キロリットル。この量が「多い」か「少ない」かについては色々の見方ができるだろう。現在の日本の年間原油輸入量は約2億4千万キロリットル(10月29日の産経新聞)だから、生長の家はその「60万分の一」を削減したと思えば「まだまだ少ない」だろう。しかし、日本の遠洋マグロ漁業で消費するA重油の量が年間で1千キロリットルだということに注目すれば、生長の家はその「4割」を削減したのと同等の貢献をしていることになる。

 今度、寿司屋でマグロを食べるとき、(養殖マグロには目をつぶって!)その赤身の4割分が生長の家の運動で支えられていると考えてみてはどうだろうか?

谷口 雅宣

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2005年10月29日

長崎ちゃんぽん

 長崎南部地域での生長の家講習会のために西海市のホテルに来ている。羽田から長崎空港までは当初、午後2時40分発のスカイネットアジア航空便だったが、それが欠航となったため急遽、日本航空の1851便に変更して来ることができた。が、このJAL便は予定より遅れて午後4時頃東京を発ち、長崎着は同7時半をすぎていた。それでも無事に来られたことはありがたい。明日の30日は、同市の生長の家総本山を初め、島原市の島原文化会館、五島市の福江文化会館、そして長崎市の生長の家長崎教化部を衛星放送で結んで講習会が行われる。
 
 長崎空港から宿舎まで自動車で送っていただいたが、外はすでに暗く、大村湾の美しい夕暮は望めなかった。その代わり、夕食を提供する「長崎ちゃんぽん」の店の看板を道路沿いにいくつも見かけた。長崎までの機中で読んだJALグループ機内誌『SKYWARD』10月号にも「ニッポン御当地ランチ食遊記」と題して、この長崎名物の麺の話が書いてあり、興味深く読んだ。

 その記事によると、ちゃんぽんの発祥は案外新しい。明治32(1899)年、長崎市の唐人屋敷街の跡地に中国福建省出身の26歳の若者、陳平順が料理店と旅館を兼ねた「四海楼」を創業した。彼は、これに先立つ7年間、身を粉にして働いて金をため、この2階建ての木造旅館を建てた。彼は、中国から来た多くの留学生の身元引受人になったが、学生らの食生活があまりにも粗末なことを見かねて、福建省の料理である湯肉絲麺(トンニイシメン)を基本にして、魚介類や野菜をふんだんに使ったボリュームいっぱいの麺料理を発案した。これがちゃんぽんの始まりという。

 名前の由来は定かでないが、福建語で「ご飯を食べる」という意味の「吃飯」(シャポン)から来たという説や、中国の鉦(かね)の音である「チャン」と日本の鼓の音「ポン」とを合わせて呼んだという説もあるとか。ちゃんぽんの元祖である「四海楼」は現在もまだ市内で営業しており、そこでのレシピーが紹介されていた:スープは丸鶏と鶏ガラ、豚骨を3~4時間炊いたもの。麺は、小麦粉に唐灰汁(とうあく)を混ぜて作る。これが独特の風味と、コシの強さを生んでいるのだろう。具材に決まりはなく、エビ、イカ、アサリ、モヤシ、キャベツ、キクラゲ等山海の食材をふんだんに入れる。もともとの湯肉絲麺が、具財に豚肉を使うのに比べ、ちゃんぽんは魚介を使う点、四つ足の肉を食べない私は気に入っている。だから、総本山から東京に帰る際、長崎空港の中華料理店でちゃんぽんや皿うどんを食べることも多い。

谷口 雅宣
 

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2005年10月28日

水道水だってウマイ?

 8月4日付の本欄で、ペットボトルで売っているミネラルウォーターが環境によくないという話を書いた。容器が石油から作られるというだけでなく、金余りの先進国の人々のために(これまた石油を使って)遠方へ送っているのが現状だからだ。私は、日本のように水が豊富と思われる国でミネラルウォーターがこんなに売れるのは、自治体が提供する水道水がマズイからだと思っていた。しかし今日(10月28日)の『産経新聞』に、ペットボトルに水道水を入れて売っている自治体があると書いてあった。しかも、「おいしい」という評判のものもあるという。

「まさか東京の水は……」と考えたが、その「まさか」が的中した。ただし、普通に蛇口をひねって出てくる水とは違い、葛飾区の金町浄水場で作った水だ。それが「東京水」というブランド名でペットボトル入り500mlが100円で都庁の売店で売られているそうだ。「おいしい」という評判で、すでに2万本近く売れたという。金町浄水場では、通常の塩素による殺菌をした後に、活性炭とオゾンを使った「高度浄化処理」をしてアンモニアをほぼ100%除去する。それがおいしさの秘密だそうだ。都水道局の話では、現在の水道水は、この「東京水」と通常処理した水の混合物だが、あと10年以内にすべてが「東京水」になるという。

 これに対して、横浜市水道局が販売するペットボトル入り飲料水「はまっ子どうし」は、同市の水源地の一つである山梨県の道志川から採ったもの。これを塩素を使わずに数日かけて濾過し、加熱殺菌してペットボトルに入れた。「東京水」と同じ値段で2年前から発売し、すでに24万本以上を売っているという。市内では自動販売機でも買え、10月からは市内のコンビニでも売り出したそうだから、今度横浜へ行ったときに飲んでみようと思う。このほか、四日市市はこの7月から「泗水の里」という名前で、水道水と同じ水源の井戸水をペットボトル入り500mlを75円で売り出している。こちらは「水道水」というよりは「ミネラルウォーター」だ。同様のものは、前橋市、出雲市、岡山市でも販売しているらしい。

 こういうことを考えると、ペットボトルの水が売れるのは結局、その中身が水道よりおいしいというよりは、「ペットボトル」という容器の扱いやすさと、デザインによるところが大きいことが分かる。日本全国にはまだまだ「おいしい水」があるのだから、このペットボトルを化石燃料以外のものから作ることができれば、かなり問題は軽減するのではないか。そういう容器が出るまでは、私は今のところ、同じペットボトルを何回も利用しながら、自宅の浄水器の水を飲み続けようと思う。

谷口 雅宣

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2005年10月27日

ハローウィン・カボチャ

 ハローウィンが近づいてくると、街の花屋やデパートには橙色のカボチャが飾られる。私が子供の頃は、ハローウィンという言葉自体があまり聞かれなかったが、近ごろはこのアメリカの習慣がずいぶん日本にもなじんできたようだ。子供がまだ小さい頃、私は青山の紀伊國屋や西麻布のナショナル・スーパーマーケットへ行って中型のカボチャを買い、家でその中身をくり抜いてカボチャ・ランタンを作った。そして、ハローウィンの夜には、私と子供はシーツを頭から被ったり、ゴム製の怪獣のマスクなどを被って家の外へ出、庭から家人を脅かしたり、隣家へ行って「Trick or treat!」と叫んだ。隣家の住人である私の母は、最初はこの悪ふざけが何のことか分からないようだったが、そのうちに飴玉などを用意して孫の相手をしてくれるようになった。

 子供がみな成人して家からいなくなった今は、そんな楽しい記憶を反芻しながら店に飾られた橙色のカボチャを眺めるだけである。1週間前、青山の大丸ピーコックへ妻と行ったとき、直径10センチほどの小型のカボチャが売られていた。一度その前を通り過ぎたが、その美しい橙色と手ごろな大きさ、そして「200円」という安さが忘れられず、つい買ってしまった。カボチャの表面には、黒い粘着テープのようなもので目鼻口が貼ってある。こんなインチキな方法で済ませるのではなく、ちゃんと中をくり抜いてランタンにしてやろう、と思った。もう子供はそばにいないが、“私の中の子供”が昔の遊びをしてくれとせがんでいたのかもしれない。

CL-Oct2005

 今日の夕方、1週間前にたてた計画を実行した。ちょうど数日前、妻が購読しているアメリカの家庭雑誌『Country Living』(田舎生活)の10月号が届いていて、ハローウィン特集をやっていた。その表紙の橙色の文字、文字の下に並んだ橙色のチョコレート・カップケーキを見ていたら、同じ色のカボチャの工作が無性にしたくなったのだ。カボチャは皮も実も柔らかく、工作は切出しと彫刻刀とスプーンを使って難なくできた。妻が小さなロウソクの燃えさしを探し出してくれたので、それを空洞になったカボチャの中へ入れ、火をつけてみた。カボチャの頭は、なかなか趣のある輝きを出して光った。

JackoLan

 ところで、ハローウィン(Halloween)の hallow とは、アングロ・サクソン語で「聖徒」(saint)を意味する。キリスト教の諸聖人の祝日が「万聖節」で11月1日に祝うが、この前夜祭である「All Hallows' Even」がつづまって「Halloween」と呼ばれるようになったという。が、もともとの起源はそれより古く、古代ケルト人が死の神・サムハインを讃える祭から来たらしい。ケルトの地から地球を半周して日本へ来ると、もともとの意味はほとんど失われ、カボチャと仮装行列を前面に出した“大お化け祭”のようなものになりつつあるようだ。しかも、バレンタインデーの後を狙ってか、ディズニーランドやユニバーサルスタジオ、六本木ヒルズなども特別グッズや催し物を大々的に行うようになった。私の住む東京・原宿の表参道は、日本でのハローウィンの“発祥地”を自任しているが、今年は30日(日曜日)に地元の商店街主催で23回目の仮装パレードを実施する予定だ。

谷口 雅宣
 

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2005年10月26日

緑のインコ

 昨日、ジョギングで明治神宮外苑へ行ったとき、紅葉しかかったケヤキの上方から聞き慣れた甲高い鳥の鳴き声がするのに気がついて、その姿を目で捜した。ケヤキにはまだ緑の葉も多く、ヒヨドリなど別の鳥の声もするので、その甲高い声の主を見つけるのが難しく結局、姿を見ずじまいになった。が、一羽だけの声ではなく、5~6羽の集団で鳴く声のように聞こえたので、少し安心した。この神宮外苑には、尾の長い、鮮やかな黄緑色のインコが何羽も棲みついている。1ヵ月前ぐらいには、そのインコが上空でカラスに追われる光景を目にして、私は気をもんだ。体長は40センチぐらいで、カラスより一回り小さいから、やられてしまうかもしれないと思ったが、体が小さい分小回りがきくようで、黒い鳥の追撃からなんとか逃れ、木の繁みの中へ姿を消した。

 このインコの一団を目撃したことがきっかけで数年前、「飼育」という短篇を書いた。外来種の鳥が東京でたくましく生きている事実を知った主人公が、自分の家で飼っているブンチョウを逃がす決断をするという話である。ところが今日の『朝日新聞』の夕刊に、「お騒がせ外来生物」という連載記事の第5回として、そのインコが写真入りで取り上げられていた。見出しには「こんなに増えて大丈夫?」とある。名前は「ワカケホンセイインコ」といって東京都内にざっと1200羽もいるのだそうだ。特に、目黒区の東京工業大学大岡山キャンパスには集団のねぐらがあって、1200羽はそこで夜を過ごし、日の出とともに散っていくらしい。もしこの記述が正しいとすれば、外苑のインコは夕方になると目黒区まで飛んで帰るということか。一方、同じ記事には、この鳥は20メートル近いケヤキの大木を繁殖に使うと書いてあったから、外苑のケヤキ(大木が何本もある)に巣を作っているのかもしれない。

 ワカケホンセイインコはインドの中部や南部、スリランカが原産で、日本にはペットとして入ってきたが、それが逃げ出して1960年代末から野生化しているという。「ワカケ」の意味は、首の周りに黒い輪がかかっているような模様があるからだろう。行動半径は20~30キロで、埼玉県所沢市や神奈川県相模原市でも見られるらしい。
 
 日本鳥類保護連盟は、この鳥を「特定外来生物」に指定するようにとの意見書を環境省に出しているという。理由は、花や実を大量に食べ、木の幹に穴を開けるから、木の洞を利用するムクドリやシジュウカラを圧迫するからという。「特定外来生物」とは、ブラックバスやカミツキガメのような生態系破壊の“悪者”につけるレッテルである。もっとていねいな言い方をすると、それは生態系、人の生命や身体、農林水産業への被害があると認めて国から指定されたもので、この指定を受けるとその飼育、栽培、保管、運搬、輸入が規制され、さらに深刻な被害がある場合には防除されることになっている。罰則も厳しく定められていて、それを販売もしくは頒布の目的で飼育すると、個人の場合は懲役3年以下もしくは300万円以下の罰金が課され、法人の場合は1億円以下の罰金となる。
 
 詳しい事情は知らないが、私が見たかぎりでは、この緑のインコは、外苑ではムクドリやシジュウカラと共存しているように見え、逆にカラスに脅かされているようだった。上記の記事では、自然保護協会の横山隆一理事は、「約15年前から1200羽程度で増えない。都市に生息が限定され、生態系への影響は見当たらない」と言っている。カラスが天敵の役割を果たしているならば、個体数は自然に調整されると思うのだが……。

 美しい鳥にはいてほしいが、自然は人間の美醜の感覚に気を使ってくれないこともあるようだ。

谷口 雅宣

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2005年10月25日

環境税…はじめの一歩

 難産に苦しんでいた「環境税」の実施が決まりそうだ。自民党を応援する経済団体が反対していたことを考えれば、環境省の努力は称賛に値する。ただし、当初の実施はきわめて限定的で、地球温暖化の大きな原因となっている「ガソリン」と「軽油」を課税対象から外すのだという。今日(10月25日)の昼のNHKニュースが伝えていた。私としては、早期にこれら2つの“元凶”に課税してもらいたいが、とりあえず“はじめの一歩”を踏み出すことができれば拍手を送りたい。

 小泉政権の中での小池環境大臣の位置、あるいは環境行政の重要度についてはまだハッキリしないところがあるが、この「環境税」の内容とその扱いが“踏み絵”のような役割を果たしてくれるだろう。また、この「環境税」の実施は、自動車税の見直し作業と関連しているようだ。今日の『朝日新聞』によると、総務省の自動車税に関する研究会は24日、現在の“グリーン税制”の対象となっている車種の縮小を提言する報告書を公表した。今のグリーン税制の考え方は、環境への最新基準を満たす車を減税する一方、基準に満たない古い車に対して増税し、減税額と増税額を均衡させるというもの。しかし、実際には、減税額が4年連続して増税額を上回ったため、今年度までの累計で909億円の減収になっているという。これをバランスさせる方向で改正し、さらに軽自動車税の引き上げも考えているらしい。
 
 さて、環境省のもう一つの構想が『朝日』の24日夕刊で報じられた。家庭の生ゴミや廃食用油をバイオマス・エネルギーとして再利用する仕組みの構築である。現在、家庭の生ゴミは、ほとんどが市区町村で焼却しているためCO2の発生原因となっている。これに対し、事業所から出る生ゴミについては、メタンガスを生成して発電に使ったり、廃食用油からバイオジーゼル燃料を取り出す試みが進んでいる。環境省は、この事業所のリサイクルの流れに、家庭の生ゴミを乗せることを考えているらしい。しかし、リサイクルによるバイオジーゼルや工業用アルコールの生産のネックは、通常の石油からの生産に比べて「価格が高くなること」だ。そういう意味でも、石油製品に環境税をかけることは、リサイクル社会構築のためには必要な政策である。
 
 こういう「新税」に対しては「新たな負担」と見る考え方が生じやすいが、化石燃料によるCO2の発生そのものが「自然資本に対するコスト」だという考え方を広めれば、環境税は、コストに対する応分の負担を税の形で回収するのだから、国民は納得してくれると思うのだ。環境省にはぜひ、「自然資本」の考え方を明確に打ち出してもらいたい。

谷口 雅宣

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2005年10月24日

ハリケーン「α」

 昨日、仙台市で行われた生長の家講習会の午後の講話で、台風やハリケーンなどの暴風雨の“巨大化”と地球温暖化の関係について触れた。このことはすでに9月12日の本欄でも書いているが、科学者の現在の見解は「温暖化によって暴風雨は巨大化する傾向があるが、発生頻度に影響はない」というものだった。しかし今、アメリカのフロリダ半島に上陸しようとしているハリケーン「ウィルマ」は、ハリケーンとしては今年21番目のもので、それ以降に発生するハリケーンの名前はもう用意してないのだという。そして、今日(10月24日)付けの『朝日新聞』では、このほどプエルトリコ南方で発生した熱帯低気圧が発達し、今期22番目のハリケーンとなり、発生最多記録を更新した、と伝えている。

 日本では、台風の呼称は発生順に番号を振っていく単純なものが使われるが、アメリカでは毎年、シーズン到来前にその年に予想されるハリケーンの名前を「21」だけ、アルファベット順に用意しておくのだという。だから、「カトリーナ(Katrina)」の後には「リタ(Rita)」が来て、今は「ウィルマ(Wilma)」なのだ。なぜ「21」かというと、過去の記録からそれ以上多く発生することは予想できなかったからだ。ところが今期は22番目が発生し、名前は「アルファー」とつけられた。これは、もし万が一にも21個以上が発生した場合、「22」個目以降はギリシャ文字のアルファベットで呼ぶ--つまり、アルファー、ベーター、ガンマー……--と決まっているからだ。こういう事実を考慮してみると、温暖化の影響は暴風雨の「巨大化」だけでなく「発生件数」の増加ももたらしているように思えるのだ。

 アメリカの時事週刊誌『Time』は10月3日号でこのハリケーンの巨大化の問題を特集し、科学者のいろいろな研究結果を紹介している。その中で興味深いのは、9月16日に発行された『Science』誌で、科学者グループが1975年から2004年までに太平洋、大西洋、インド洋で発生した大型暴風雨の数と規模を比較した研究である。それによると、カテゴリー1から3までの暴風雨は若干減少した一方で、カテゴリー4~5の巨大暴風雨の発生が劇的に増加しているというのだ。同誌に掲載されていたグラフ(下図)を見ると、その傾向が一目瞭然である。

m_Hurricanes

 ちなみに、米国の分類で「カテゴリー5」というのは最大瞬間風速が69メートル以上の暴風雨を指し、「カテゴリー4」は同58メートル以上のものをいう。また、このグラフで最上段にある「西太平洋」で発生したハリケーンのほとんどは「台風」のことである。アメリカへ上陸するのは「北大西洋」で発生するものだから、2つの海域での発生数が著しく違うことが分かる。そして、このグラフを見て不思議に思うのは、日本は大型暴風雨がこれだけ頻繁に来る“通路”になっているにもかかわらず、アメリカ南部を襲った「カトリーナ」「リタ」そして「ウィルマ」のような深刻な被害がこれまで出ていないことである。昨年は10個の台風が上陸し、被害もだいぶ大きかったが、それでも「都市が一つ壊滅する」などということはなかった。また、今年は特に上陸が少ない。これが「嵐の前の静けさ」でなければいいと願うばかりである。
 
谷口 雅宣

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2005年10月22日

鳴子コケシ

 明日(23日)の日曜日に宮城県を対象とした生長の家講習会が仙台市であるので、午後東京を発って仙台へ来た。宿泊は、仙台駅前のホテル。前回こちらに来たときは青葉城址まで足を延ばしたが、今回はすぐにも降り出しそうな天気なので“インドア散歩”を決め込んだ。東北最大の都市だけあって、広告サインに見る企業名も店名もブランド名も、東京の新宿や渋谷とあまり変わらない。地下街も歩道橋も立派なものだ。我々のような旅人にとって、これでは旅をしている気になれないから、少し残念である。そんな理由もあって、ローカル色豊かな「仙臺みやげ館」という土産物コーナーへと足が自然に向かう。片側の壁いっぱいに、コケシが陳列されている店があった。普段はコケシなどに興味をもたない私だが、一見、同じように見えるコケシにも形や色、模様の描き方などに色々な違いがあることを知る。店の棚に置いてある札には「○○系」などとコケシの種類の別が表示されているのも興味深い。
 
 宮城県に来たのだからということで「鳴子コケシ」を買った。並んでいるコケシの中で一番素朴で、木の色が美しく、色使いがシンプルだったからだ。コケシが明治維新以前から作られていたのは東北地方だけだというから、東北が発祥のようだ。温泉の土産物として売られていたという。子供の玩具として作られていたらしいが、この手も足もない人形は当初、何のために考案されたのかと思う。コケシの起源については二説あるそうだ。一つは「固有玩具説」で、当初から「おしゃぶり」のように、子供の玩具だったというもの。山奥の木地屋が暇のときに自分の子供のために作ったものが進化したと考えるのだ。もう一つは「信仰玩具説」で、宗教的儀礼で使っていたものが玩具になったと考える。宗教の世界では縄文時代の「土偶」に始まり「人形」や「人型」がよく使われるから、こちらの説もうなずける。

 そんなことを考えていると、引き目・鉤鼻のコケシの顔が何となく神秘的に見えてくる。コケシを買ったとき店員がくれた栞によると、東北のコケシには、この「鳴子」のほかに土湯、弥次郎、遠刈田、木地山など何種類もあり、土湯は「枯淡」の趣、弥次郎は「豊饒」な感じ、遠刈田は「華麗」で、木地山は「素朴」な味が特徴だという。そして、鳴子コケシは「清楚」な感じで、「初々しいみちのくの山あいの娘の雰囲気がにじみ出ている」のだそうだ。仙台の駅ビルでは大勢の若者がショッピングやデートを楽しんでいたが、化粧もファッションも東京の若者と変らないように見えた。もっとじっくり観察すれば、そんな「初々しいみちのくの娘」が発見できるのか。それとも、コケシのような娘は、もう昔話の世界にしか住んでいないのだろうか。

 駅ビル内に、今どき珍しいサイフォン・コーヒーの店があったので、妻と入った。わが家では毎朝、サイフォンでコーヒーをいれる。専門家のいれ方から学べるかもしれないと思い、カウンター席に座った。ついでに、買ったばかりのコケシを出してスケッチした。

NarukoKokeshi

 因みに、宮城県の伝統コケシには11の系統があるとか。鳴子コケシの生産地は玉造郡鳴子町、遠刈田コケシは刈田郡蔵王町遠刈田温泉・川崎町青根温泉など、弥次郎コケシは白石市が生産地で、その他、仙台市近郊では作並系、肘折系などのコケシが生産されているという。詳しくは、宮城伝統工芸ネットワークのサイトを参照されたい。

谷口 雅宣

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2005年10月21日

ネコとの共存

 最近、家の庭に棲みついているノラネコの子とよく遭遇する。今年の夏に生まれた小ネコが“青年”に成長して跳び回るようになったからだ。以下、彼らを「中ネコ」(中くらいのネコの意)と称す。当初は4匹ほどいたのだが、最近見るのは2匹ぐらいか。親ネコのように人間への“遠慮”を覚えていないから、庭の飛び石のある所とか通り道でバッタリ遭うことが多い。例えば朝、私が前日の生ゴミをコンポストに入れるために勝手口から庭に出ると、一目散に逃げていく中ネコの白い後ろ姿を見る。また、出勤時に門のくぐり戸を開けようとすると、すぐ脇のサルスベリの木の根元から首を伸ばした中ネコと目が合ったりする。そういう時、私は大抵ネコの鳴き声を出して挨拶するのである。しかし、相手が親ネコの場合、特にブンチョウの小屋の近くで出会った時などは猛然と追い払う。

 私は彼らに敵意をもっているわけではないが、「ネコにはネコの居場所がある」ことを彼らに学習してもらいたいのだ。ネコは人につかず家につくとよく言われるが、もしそれが彼らの習性ならば家の近くにいるのはいいとしても、家の主である人間には遠慮してほしいのである。私たちの子供がまだ家にいた頃は、ネコ好きの彼らのために魚の煮干など手渡したこともあるが、今ではそういうことはしない。彼らはノラネコだから名前などついていないが、ネコ嫌いの妻は名前で呼ぶ。彼女はネコが家に近づいたり、メダカが入った水盤の水を飲みに来たりするのを見つけると、決まって「コラッ!」と大声を出し、足を踏み鳴らすのである。どんなネコにも同じことをするので、私は彼女に「あなたはネコに“コラ”という名前をつけたの?」と言ってからかう。ちなみに、彼女は自分の子供のことを「子等」と表現することがあるが、これは偶然の一致だろう。

 私たち夫婦はこうやってネコと共存しているが、都会でのネコの増加が問題になっているらしい。今日(10月21日)の『朝日新聞』は、東京・北区で「町ネコ」(ノラネコのこと)に餌をやるべきかやらざるべきかの議論が沸騰している、と伝えている。同区の保健所に寄せられるネコに関する苦情は昨年度354件あり、いちばん多いのが「ネコに餌やりをしている」というものだそうだ。それを餌をやる本人に言うのではなく「そっちで注意してくれ」と保健所に文句を言うのである。ネコが殖えるのが嫌な人、糞尿の臭いに悩まされる人がいる一方で、独り暮らしのお年寄りがネコに餌をやるのを生き甲斐にしている場合もあるという。

 そう言えば、生長の家本部に隣接する東郷神社には、町ネコ(寺ネコ?)が大勢いる。それに餌をやる老女がいて、太ったネコたちは幸福そうだ。また今朝、竹下通りから1本奥に入った「ラ・フォンテーヌ通り」を通った際、美容院の脇に停めてある自転車のサドルの上に白ネコが1匹、そのすぐそばにもう1匹が背中を丸めていた。明治公園にはネコ好きのホームレスのお爺さんが1人いて、3~4匹の町ネコを飼っている。一度、「餌はどうするの?」と聞いたことがあるが、答えは「餌をもって来てくれる人がいる」だった。明治公園の原宿駅側にある霞ヶ丘団地にも町ネコがいっぱいいる。団地内の公園の自転車置き場の裏に2匹ほど、団地の庭でも日向ぼっこをしているネコを何匹も見かける。皆、餌を適当にもらっている様子で満足気だ。

 明らかにネコは人間と共存している。彼らの“仕草”や“性質”が人間に好かれるように進化してきたからだろう。イヌのことを「人間の最良の友」と表現することがあるが、本当はネコの方が役者が上かもしれない。なぜなら、イヌを規制する法律はあるが、ネコにはそういうものがまだないからだ。

谷口 雅宣

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2005年10月20日

映画『亀も空を飛ぶ』

 神田神保町の岩波ホールでやっている映画『亀も空を飛ぶ』(Turtles Can Fly, バフマン・ゴバディ監督、イラン=イラク映画、2004年)を、妻と見にいった。サダム・フセイン統治下のクルド人居住地域が舞台で、何とも悲惨な状況の中にありながらも、クルド人の孤児たちがたくましく生きる姿を描いている。2004年サンセバスチャン国際映画祭グランプリ、2005年ベルリン国際映画祭平和映画賞などを受賞した作品で、物語が終り、アラビア語のタイトルバックが流れ続けていても、なかなか席を立てなかった。平和で安全で、何ごとにも満たされた日本の映画館にいる自分と、スクリーンの向こう側に展開していた迫害と地雷と、何ごとも欠乏している世界との落差があまりに大きく、心の調整に時間がかかったのだと思う。

 トルコとの国境に接した村と、そこにある難民キャンプの様子が画面に繰り広げられる。社会的、客観的条件から言えば“この世の地獄”と呼んでも過言でないような場所だが、自然はあくまでも美しく、人々--特に子供たち--は明るい。もちろんケンカや争いはするが、都会の貧民街のような陰湿さはない。彼らは、国境地帯に埋められた地雷を掘ったり、破壊された軍用車、戦車、砲弾の薬莢などを集め、それを転売したりして暮らしている。そういう何十人もの孤児たちを、奇妙に大人びた、しかし顔はかわいい少年がまとめている。そこへある日、暗い影のある少女と腕のない兄、目の見えない赤ん坊の3人連れがやってきて、様子が変わる。子供たちのリーダーの少年がこの少女に恋心を抱くが、少女は心を動かさない。その理由がしだいに明らかとなる。

 ストーリーを細かく書くことは避けるが、少女はイラク軍の兵士の子供を生み、育てながら、自分の運命を呪っている。そんな少女のために尽くそうとするリーダーの少年の心が真っ直ぐなことが、印象に残る。結局、イラク戦争が始まって、米兵がこの地域を“解放”するのだが、米軍とともに来るはずの「自由」や「民主主義」などの抽象的な概念と、子供たちが本当に必要としているものとの際立った差が描かれながら、この映画は終る。
 
 まぁ、以上は私の解釈を混ぜた簡単な“筋”だ。この映画は、見る人それぞれが違った解釈をするのだと思う。が、いろいろな解釈が可能である中で、日本人がこの映画を見ることで共通して得られるものが1つあるのではないか。それは、我々の想像を絶する条件下で必死で生きている子供たちが、世界には大勢いるということを知ることである。そのことを抽象的に理解するのではなく、映像を通して難民の視点で見、主人公を通して心で理解した後、自分や自分の子が彼らだったら、今何ができるか、何をしてほしいかを考えてみることは大切だと思う。
 
 谷口 雅宣

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2005年10月19日

キンモクセイ散る

 10月に入り東京の住宅地を歩いていると、気づくことがある。甘いキンモクセイの香りがあちこちからほのかに流れてくるのである。まずその香りで気づき、それから周囲を見回し、小さな橙色の花をいっぱいつけた立木を見つけて「あ、こんなところにも……」と思う。その木の数の多さに驚かされるのだ。きっとあの家の人もこの家の人も、この芳香を楽しむためにキンモクセイを植えたのだ、と思う。そして、会ったことのないその家の人に、“同類”としての親しみを感じる。

 私の家の庭にも、背の高いキンモクセイが1本立っている。しかし西側の竹林の脇にあり、楓などの広葉樹に覆われているため、日照が足りなくて花をつけない。それでも、この時期になるとどこからともなくあの芳香が漂ってくる。妻に聞くと、隣の家にあるのだという。今年の3月、私の家の北側の花壇に手を入れたついでに、高さ1.2メートルほどの幼木をそこへ植えた。植えた年に花は期待できないと思っていたが、条件が良かったのか、10月の初めに花をいっぱいつけてくれたので、妻と2人で喜んだ。その花は、今はもう跡形もない。

 キンモクセイの花は、比較的短期でいぺんに散ってしまうようだ。花が散れば次は実が成るというのが普通だが、キンモクセイはイチョウと同様に雌雄異株で、ものの本によると、日本にあるのは雄株だけだという。実がなくても挿木で殖やせるからだろう。原産地の中国には雌株もあって紫黒色の小さい実ができるらしい。果実好きの私としては、ぜひ実を見てみたいと思う。
 
 さて、今日の東京地方は、ノロノロ運転の台風20号がやっと東へ去ったおかげで、久しぶりに雨が上がり、午後からは陽射しも差した。ということで、満を持してジョギングに出た。明治神宮外苑の周りを走っていると、歩道のあちこちに、オレンジ色の絵具をバケツで撒いたようなシミができている。近づいていくと、キンモクセイの花が散り敷いた跡だ。それだけの数のキンモクセイが外苑の道路沿いにあるのを、私は知らなかった。生長の家本部に隣接する原宿外苑中学の敷地にも1本立っていて、校庭から歩道にかけて橙色に染まっていた。こういう光景を目にすると、「自然はなんと贅沢か」と思う。香水をふんだんに撒くだけでなく、大量の絵具を大地にふりかけて、秋の一コマを演出する。

橙に木蔭染めたり木犀花

谷口 雅宣

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2005年10月18日

科学と原理主義

 イギリスの科学誌『NewScientist』が10月8日号で「原理主義」に関する特集を組んだ。私はその表紙に「FUNDAMENTALISM」(原理主義)の文字を見たときに、何かの間違いではないかと思った。なぜなら、科学雑誌が宗教の一部の運動を扱うことなどないと思っていたからだ。科学と宗教は“水と油”というわけではないが、科学者が宗教の内部事情に興味をもつとは思っていなかった。が、事態はそれほど単純でないようだ。「科学は今、宗教の原理主義運動の脅威にさらされている」という危機感がこの特集記事からは読み取れる。

 13ページにおよぶこの特集記事は、社会学的考察から始まる。「なぜ世界中で原理主義運動が台頭しているか?」との問いかけである。ここでの原理主義の定義は:

「原理主義の宗教は“基本にもどる”ことへの欲求に動かされている。時計の針を元へもどして、自分たちの宗教がまだ世俗的影響で汚れていなかった頃の、一種の“黄金時代”へ回帰したいと望む。彼らは、自分たちだけが真理を体得していると熱烈に信じる。その真理とは、しばしば聖書や聖典の文字通りの解釈によるものであり、その真理を他人にも押しつけようと熱意に燃える。そして、主流的な宗教と違い、宗教上の意見の違いを容認しない。英サンダーランド大学の文化論者、スチュワート・シム(Stuart Sim)が言うように、彼らにとって人とは“神に守られた信仰者”か、さもなければ“敵”なのだ」

 この定義は、私が『信仰による平和の道』(2003年、生長の家刊)で紹介したキリスト教原理主義の4つの特徴のうち、最初の2つ--①聖典の無謬性と文字通りの解釈、②自分たちと他の教派とを対立的に見る--と見事に一致する。こういう原理主義の運動が今、近代化の進む世界各地で急速に台頭しつつあるというのである。かつての近代化理論によると、西洋社会がそうであったように、科学が発達し世俗化(secularization)が進むにつれて、社会における宗教の重要性は薄れてくるはずだった。しかし、実際はその逆で、近代化にともない原理主義的宗教が、キリスト教やイスラームだけでなく、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教の間でも多くの人々に信仰されるようになっているらしい。日本では、このような現象はあまり目につかないが、東南アジア、中東、アフリカ、ラテン・アメリカでは今、それが顕著なようだ。

 そして、この特集で注目されているのが、そういう中進国ならぬ世界最大・最強の国、アメリカ国内の最近の動きである。アメリカの“右傾化”や“宗教右派の台頭”などは日本のメディアも伝えているが、現在の米大統領、ジョージ・W・ブッシュ氏は、自ら“信仰に根差した大統領”(faith-based presidency)を標榜していることから、この記事は事実上、同大統領を原理主義者と見なしている。そして、本欄でも何回か触れた「知性による設計」(intelligent design)論も原理主義の側からの“揺れ戻し”の一つとして扱われている。ここまで読むと、この科学誌がなぜ特集記事で宗教運動を取り上げたかという理由が明らかになる。科学者の多くは(少なくとも、『NewScientist』誌の周辺の科学者は)、世界的に台頭してきた原理主義的宗教運動の延長として、「知性による設計」論を捉えているのだ。

 しかし……と私は考える。こういうように二項対立的に科学と宗教を捉えることは、どうなのだろう? それこそ、上掲した原理主義の2番目の特徴と似ていないだろうか。21世紀初頭の現代社会では、これまで宗教が守ってきた伝統的価値が次々に崩されつつあることは事実だ。その多くが、科学的発見や研究にもとづく合理主義的(唯物論的)世界観の台頭による。だからと言って、「科学でなければ宗教」あるいは「宗教でなければ科学」という二者択一ができるほど、世界も社会も我々の頭ももはや単純でない。人類はどうにかして両者が調和する“中間地点”へ辿りつけないか、と私は思う。

谷口 雅宣

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2005年10月17日

受精卵を壊さないES細胞の道

 9月5日の本欄に書いた「ES細胞は“劣化”する」という文章に、生長の家本部の職員であるメイ利子さんから、コメントがついた。各新聞が10月17日付の紙面で一斉に報じた「受精卵を壊さずにできるES細胞」の開発に関してのものだ。メイさんのコメントへのコメントという形で、私の考えをそこで述べてもいいのだろうが、重要な進展と思われるので、注目度の多い新規文章として、ここで述べてみることにする。

 まず、彼女のコメントを再掲しよう:

ES細胞:米チームのマウス実験 受精卵を壊さず作成」という記事を見つけました。既にご覧になっているかもしれませんが、トリビューンのネット版ではこちらです。これによると、受精卵の細胞が8つに分裂した段階でそのうち1つの細胞を別のES細胞と一緒に培養して、神経や臓器等を作ることが可能であるとし、残りの受精卵も母マウスの体内に戻して順調に生長して赤ちゃんマウスが誕生したとのことです。記事では、これは受精卵を犠牲にしないので、倫理的な問題はクリアできると前向きに評価していました。でも、ES細胞が劣化するのであれば、それほど画期的発見ではないように思いますが、どうなんでしょうか?いずれにせよ、こうした技術が一般化する社会がもうそこまで来ているのかと思うと複雑です。

 ご存じのように私は専門家でないので確定的なことは言えないが、記事を読んだ限りでは「画期的進展」のように思われる。受精からまもない初期段階で受精卵の一部を取り出し、そこからES細胞を得ただけでなく、一部を削られた受精卵を生かしたままで成長させ、代理母に移植して子を誕生させたからだ。これによって「ES細胞を得るためには受精卵を壊さねばならない」という従来の前提が覆ってしまった。この研究には、もう一つ“画期的進展”がある。この方法によれば、子(赤ちゃん)が誕生したときに、その子のES細胞も用意するということが可能になるからだ。この点を『産経新聞』に載った共同通信の記事は、次のように書いている--
 
「赤ちゃんとES細胞はもともと同じ受精卵から育ったことから遺伝子は同じ。このためES細胞を凍結保存しておけば、将来、けがや病気で治療用の細胞や移植用の臓器が必要になった場合に、拒絶反応なく利用できることになる」。

 まず最初に強調しておきたいのは、これはあくまでも「マウス」を使った研究であるということだ。人間はマウスより複雑だから、マウスで成功したことが必ず人間で成功するということにはならない。ただし、「可能性が開けた」とは言えるだろう。で、その可能性が人間で実現するとどんな結果をもたらすかを考えると、複雑な気持になる点は、私はメイさんと同じだ。

 いろんなことが考えられるが、一つ考えられることは、誰がこのようなES細胞の利用を決定するかが問題になる。成人が自分の治療のためにES細胞を利用しようと思うときには、自分と遺伝子が同一なES細胞は存在しないのである。そういう意味では、「将来の利用のため、自分のES細胞を誕生の時点で用意しておく」ということは、純粋に理論的な可能性にしかすぎない。言い方を変えれば、そういう意思決定は本人の誕生前にしなければならないということだ。だから、現実問題としてそういうことが可能なのは、医師か、あるいは誕生してくる子の親のいずれか、ということになり、しかも「深刻な遺伝病を発病する可能性のある子」が生まれてくるとき、などというごく例外的なケースに限られるだろう。
 
 もっと普通の場合でも、この技術は利用できる。それは、すでに存在しているES細胞の遺伝子を患者のものに組み換え、それを治療に使うという方法である。恐らく、この方法の利用が主となっていくだろう。しかし、このような高度医療技術を使える人は相当な経済力をもっていなければならないだろうから、先進国のリッチマンばかりが恩恵を受けることになる。そして、治療対象者は若い人よりも老人の方が多いのだから、老人が他人の受精卵の一部を(無断で)利用し、自分の寿命を延ばすために使うことになる。こういう点に、私はやはり倫理的問題を感じるのである。

谷口 雅宣

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2005年10月16日

天災はなぜ起こる

 茨城県つくば市で行われた生長の家講習会で、受講者からの質問にこういうものがあった--「最近、地球規模の天災・人災(ハリケーン、地震)etc について詳しくお教え下さい。人間神の子とはどうしたらいいのか etc?」。ちょっと舌足らずの文章だが、趣旨はだいたい想像できる。質問用紙には、このほか「東京・世田谷」という文字と女性の名前が書いてあった。私は、この質問を次のような意味だと解釈した--「最近、地球規模と言えるほど大きな天災や、人災とも言えるハリケーンや地震の被害が起こりますが、その理由をお教え下さい。“人間・神の子”の信仰をもつとは、こういう場合どう考え、どう行動したらいいのでしょうか?」。そして大略、次のように答えたと記憶している。

 まず、地震や天災の起こる「時間軸」のスケールが、人間と地球とでは相当異なるという点を指摘した。言い直すと、人間は生活の中で時間を考えるときには1年とか2年を単位として、せいぜい10~20年先のことまでしか考えないが、地殻変動は100年、1000年、1万年という長い時間の中で普通に起こるものである。この時間軸のスケールの差が、地球にとっては「自然な」現象である大地震等の地殻変動を、人間にとっては突発的な「異常」現象や「災難」のように感じさせる。地球上のどの地点で地震が起こりやすいかは、すでに科学者によって以前から指摘されている。しかし、人間の方では「もう10年も何も起こっていないから」とか「他の人も大勢、家を建てているから」などという、人間中心の短期的視点で土地の購入や開発の決定をくだしてきた。
 
 例えば、スマトラ沖地震とその後の大津波で災害が大きくなった原因の1つは、このような短期的視点にもとづき、人間が沖合いのサンゴ礁や沿岸のマングローブの林を破壊して、外国人目当てのリゾートホテル等の施設を次々と海岸近くに建設していったことが指摘されている。サンゴ礁やマングローブは津波を防ぐ天然の防波堤の役割をしてきたのに、である。また、アメリカ南部のニューオーリンズの町でも、ここが海抜ゼロメートル以下であり、大きなハリケーンが来れば浸水や水没の危険があることは、専門家によって昔から繰り返し指摘されてきたにもかかわらず、「これまで深刻な被害がなかった」というような短期的な見方が優勢を占めたために、真剣な対策は講じられず、ついに惨事が起こるべくして起こったと言える。

 また、このハリケーン「カトリーナ」の襲来前後に報道されたアメリカのABCニュースでは、南カリフォルニアのあるリゾート地域が暴風雨の襲来によって大きな被害を受けたことに関連して、この地域が砂地で地盤が弱い「危険地域」であることを知りながら、これまで多くの家が海岸線に建てられてきたことを伝え、その理由は「ここは絶景だから」だと解説していた。このような例では、一見「天災」のように見える事柄も「人災」の要素を多く含んでいることがよく分かる。

「天災」が起こることと関連してもう一つ、私が講習会の話で触れたことに「人間の活動」がある。これは、人間の活動によって地球温暖化が起こるという事実を考えれば理解しやすいだろう。この間のニュースでは、世界の人口は64億人を超えたという。これだけの数の人々の大多数は河口や海岸近くに集中して住んでおり、都市化と近代化の波に乗って化石燃料を大気中に大量に放出しつつある。これによってヒマラヤやアルプスの高山の雪が溶け、氷河は後退し、極地の氷は溶けて海中に流れ出し、全世界で海面上昇が観測されている。言うまでもなく、海面上昇は河口や海岸に住む人々の生活に直接影響する。また、最近の科学者の研究では(例えば『TIME』誌、2005年10月3日号参照)、地球温暖化は台風やハリケーンを巨大化させ、集中豪雨や旱魃を深刻化させることが指摘されている。こういう事実を踏まえて考えてみると、いったい「災害」とはどこまでが本当の意味で「自然に」起こる現象(天災)であり、どこからを「人間の活動」の結果--つまり、人災--と見なすべきかは、きわめて判断がむずかしくなる。

 そういう状況下で、「人間は神の子である」という信仰をもって生きるということは、どう考え、どう行動することなのだろうか? これはきっと「すべては自己の責任である」という自覚をもって生き、行動することだ。「天災」というような、自分と関係のない“巨大な怪物”が突然、自分を襲うのではなく、自分を含めた人類の過去からの行動が積み重なって生じた結果を(一部は予測できていたにもかかわらず)、我々は不本意にも摘み取りつつあるのである。だから、この種の災難を避けるためには、正しい知識にもとづいて正しく判断し、行動することが大切である。我々の行動の基準を「欲望」に合わせるような生き方は改め、化石燃料を使わない、また生態系を破壊しない生き方へと転換することが求められているのである。
 
谷口 雅宣

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2005年10月15日

麺の起源

 10月に入って麺類--特にうどん--を食する機会が多い。その理由は、生長の家の講習会のために2日に群馬県へ行き、8日には秋田県へ行ったからだ。東京にいると幸いなことに、その気になれば日本全国の名産をデパートやスーパーなどで入手することができるが、私たち夫婦のように各地を巡るのが仕事になっていると、かえって“その気”にならないものである。だから、旅先ではできるだけ当地の名産を食するようにしている。

 そこで群馬では「水沢うどん」、秋田では「稲庭うどん」をいただいた。私はどちらかというと太い麺が好きで、長崎で皿うどんを食べるときも、細麺と太麺がある中で太い方を注文する。しかし、秋田でいただいた細めの稲庭のざるうどんも、なかなかコシがあっておいしかった。水沢うどんは、13日の本欄で書いた「山採りきのこのうどん」に使って、これまたおいしくいただいた。私たちの山荘のある山梨県大泉町ではソバの栽培が盛んだが、12日の夕食はそこの藤野屋という手打ちソバ店で「山のキノコそば」というのを食べた。妻は「天ざる」だった。

 我々日本人の中では、うどんもソバもラーメンも「当たり前」の食事だが、西洋人の中には麺をうまく食べられない人がいるという話を、何かの本で読んだことがある。その理由は、長いものを吸って食べるという経験を子供の頃にしたことがないからだという。イタリアに数多くあるパスタのことを考えるとちょっと信じられない話だが、そう言われれば、パスタをフォークで巻いて食べれば吸う必要はない。また私は、パスタを汁ソバのように食べることがあまりないのは、ズルズルと音が出てマナー違反になるからだと考えていたが、「吸う食べ方ができないから」ということになると、何か不思議な感じがする。(もっとも、ミネストローネ・スープなどには麺が入っているのだが……)

「麺は中国人の発明」というのが定説になっている。ものの本によると、中国語で「麺」と書くと、もともとは小麦粉を意味する。その小麦粉を水などを混ぜてこねたもを「餅」(へい、日本語ではモチと読む)という。これを料理の際に蒸すのが「蒸餅」、焼くのが「焼餅」、ゆでるのが「湯餅」、揚げるのが「油餅」だ。唐の時代(618~907年)の記録にそうあるらしい。このうちの湯餅を細長く切ったものを「切麺」(せつめん)と呼び、この料理法が発達して麺類ができたらしい。一方、パスタのはじまりは14世紀初頭、探検家のマルコ・ポーロが中国からもち帰った麺が元祖で、それを真似て、南イタリアでとれる硬質小麦を使ってパスタを作り出したという。そのパスタの代表格であるスパゲッティとマカロニが、日本には1893年(明治28)に入った。当然、うどんもソバも日本には存在していた。

 こういう麺の歴史を考えてみると一時、広告コピーが元で流行った「中国三千年の幻の麺」などという言葉が。「白髪三千丈」式の誇張のように聞こえる。ところが、事実は中国の麺の起源はもっと古いということが、最近わかった。10月15日付の『NewScientist』のニュースによると、このほど中国の黄河の川底から細い黄色い麺が入った壺が発見され、その古さを測定したところ4千年はたっていることが分かったという。私は、上に書いた中国起源説を平凡社の『世界大百科事典』で見つけたのだが、人間の知識というものはまだまだ不完全だということを思い知ったと共に、「西洋人は麺を吸えない」という俗説をますます怪しく感じるようになった。

 谷口 雅宣

【参考文献】
 ○『全集・世界の料理3 イタリア』(小学館、1970年)
 

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2005年10月14日

ショッピングバッグに“革命”?

 ビニール製のレジ袋が世界を席捲してから久しいが、便利ながら環境への配慮のないこのバッグに代わる“革命的”な買物袋が発明され、ヨーロッパとアメリカで特許を取ったらしい。14日付の『ヘラルド朝日』紙のオピニオン欄で、マイケル・パドノス氏(Michael Padnos)が紹介している。

 記事によると、この買物袋は折り畳み式の布製で、日用品からスポーツ用品、玩具、学習用具など何でも入れられ、洗濯もできる。手提げはないが、体の前後に垂らして肩に担げば両手が空き、手は自由にイヌの引き綱や子供の手、手提げ鞄、携帯電話、傘などを持つことができる。薄くて強い布だから破れることはなく、手の大きさほどに畳めるという。フランス人の発明家、ヴェロニーク・モルテマード・ドゥボワッセさん(Veronique Mortemard de Boisse)が4年がかりで考案したもので、名前を「小さな大袋(Little Big Bag)」というらしい。

 マルセイユ市と近辺の町は、それぞれのロゴが入ったこの袋をすでに何千個も注文し、船で来訪する観光客に袋をタダで渡して、ビニール袋で深刻化するゴミ問題をやわらげるつもりという。また、ある医療品会社は、リウマチや腰痛で悩む人々の需要を当て込んで大口の注文を出した。さらにこの「小さな大袋」は、フランスのテレショッピング専門局の視聴者の投票で、2005年度の最良商品に選ばれている。ドゥボワッセさんは今、同国の大手スーパー・チェーンと50万~100万個の商談中で、アメリカ国内の販売ルートも探しているという。このような大きな動きの背後には、フランス議会がこの11日に、ビニールのレジ袋の使用を2010年1月から禁止する法案を全会一致で可決し、ヨーロッパ議会も同様のことを考慮中であることがある。

 これだけの説明では今ひとつイメージがつかめない人は、ドゥボワッセさんの運営しているウェッブサイトを覗いてみるといい。フランス語が分かればなおいいが、分からなくてもこの“大袋”を肩に掛けた男女モデルの写真がある。これを見れば「百聞は一見にしかず」だ。生長の家でもレジ袋削減運動をしているから、この袋にロゴマークを入れて人々に勧めてみるのはどうだろう? 環境問題は、もうすでに議論の時期は過ぎ、実践の段階に来ているのだから……。

谷口 雅宣

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2005年10月13日

“キノコ病”が進行

 休日の木曜日を利用して山荘に来ている。雨や曇天の日が続いた後の、久しぶりの秋晴れに遭遇できたのが幸いだった。降雨のあと数日たつとキノコが出るはずだと期待して、昨日は天女山と美しの森を妻と2人で歩いた。しかし、9~10日の連休で大勢の人が山へ入ったらしく、キノコのシロが足で壊されていたり、木の根が踏まれて皮がむけていたり、レジ袋などのゴミが落ちていて、その後にシカが来た形跡も残っていた。こうなるとキノコの収穫はあまり望めない。が、私たちは急斜面や水浸しの森を2時間ぐらい歩き回って、ハナイグチ、チャナメツムタケ、アイシメジ、アカモミタケ、フウセンタケ(らしきもの)など、2人で2食分ぐらいのキノコを手に入れた。秋の楽しみの一つである。

 前回山荘に来たとき、私はキノコを紙粘土で作りかけていた。6月7日の本欄でも書いたが、栽培種でない山のキノコの中には足が早いものが多く、採ってすぐに変色を始めるものや形が崩れていくものがある。そういうキノコが山に生えているままの姿を残しておきたいとの願いから、私はキノコを写真に撮ったり、絵に描いたり、木彫りにしてみたりした。加えて、自宅ではシイタケ栽培まで始めたのだから、“キノコ病”は相当進行していると言われても仕方がない。それで粘土細工は何のためかというと、キノコの“保存”をもっと簡単にしたい、ということである。「保存」といっても、食べるための保存ではなく、手に取って眺めるためである。粘土は木よりも加工しやすいし、塗装も比較的簡単にできる。紙粘土では永久保存はできないだろうが、比較的長時間、キノコは立体のまま残されることになる。「それがどんな意味がある?」と聞かれても、何ともうまく説明できない。そこが“キノコ病”の病気たるゆえんだろう。

Kinokobyo

 そんなわけで、昨日はキノコ採りをしただけでなく、やりかけの粘土細工のキノコにヤスリをかけて整形し、アクリル絵具で色を塗ってみた。アクリル絵具は使用法をまだマスターしていないので、うまく塗れたとは必ずしもいえないが、マンガに出てくるような、かわいらしいキノコができたと思う。地元では「ジゴボー」と呼ぶハナイグチの彩色を試みたが、本物より派手な感じに仕上がり、何となくディズニー映画を思い出させる。ただ、乾燥した粘土の硬さや重さが気にかかる。この点を改善させて、より本物らしくするためには、木彫に彩色するか、素材にシリコンを使わねばならないかもしれない。そこまでやるかどうか、今のところ分からない。

 ところで、一方で私がキノコの“保存作業”に精を出している間、妻は料理で腕を揮ってくれた。山のキノコは泥や木の葉の掃除が大変だが、そういう前処理をテキパキとこなしたうえ、今日の朝食にはアカモミタケ入りの玉子とじ、昼にはシイタケ、ハナイグチ、チャナメツムタケをふんだんに使った「山採りキノコのうどん」を作ってくれた。ごちそうさまでした。

 谷口 雅宣
 

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2005年10月11日

北極海の開発競争

 9月30日の本欄で北極圏の氷結部の面積が今年9月、過去最小のサイズになった話を取り上げた。そこでは、NASA(米航空宇宙局)の衛星写真によって、今年の9月と26年前の同じ月の北極圏の違いを比較した。この2枚の写真は、その後に行われた群馬と秋田の生長の家講習会でも使い、聴講者には「ロシア北端の凍結していた海が今は航行可能」であり、さらに北大西洋北端にある「グリーンランドの氷が溶けると海面上昇が加速化する」ことなどを話した。このような北極圏の氷の消失は長期的には大変憂慮すべきことである。が、短期的に考えれば、人類にとって経済的利益をもたらすものでもあるかもしれない。

 例えば、北極の海が夏期に航行可能となれば、ロシアやカナダに住む人々にとって、物資の輸送や人間の移動がきわめて容易になる。また、厚さ何十メートル、何百メートルもの氷床で覆われた海の資源探査はほとんど不可能だが、氷がなくなれば資源の探査や開発がこれまたきわめてやりやすくなる。そうなるとロシアやカナダの人々にとっては、少なくとも短期的には地球温暖化は「悪い」とばかり言えないのかもしれない。かつてロシアのプーチン大統領が、京都議定書の批准前に「ロシアにとっては、少々気候が温暖化してくれた方がいい」などと発言してひんしゅくを買ったことを思い出す。しかし長期的には、人類全体や生態系にとって温暖化や海面上昇が「悪い」ことには変りはないのである。

 このように短期的利益と長期的不利益が対立したり、部分的利益と全体的利益が矛盾することは、社会や人生のいろいろな側面で目撃されるが、普通は、その場にいる“上位の権威”--例えば、親、種族長、統治者、規則、法律、国家など--の決定によって対立が治められるものである。しかし、現在の国際社会では、国連等の国際機関は存在していても、究極的な力や権威の根源は「国家」に委ねられているから、北極海での資源開発が可能となった場合の国家間の利益の調整は、きわめて難しい問題となることが予想されるのである。

 そういう問題がすでに目前にあることを、10日付の『ヘラルド朝日』紙が教えてくれている。記事の伝えるところでは、コロラド州デンバーに住むある起業家は1997年に、カナダのマニトバ州チャーチル市のハドソン湾に面した港湾施設を、わずか7ドルでカナダ政府から購入したという。そこはほとんど誰も使わない、見捨てられた施設だったからだ。が、この起業家は、北極海航路ができた暁には、この港は年1億ドルもの収入をもたらすと計算した。なぜなら、北極ルートの航路は南回りよりも何千マイルも短いからだ。そして、温暖化により氷が減れば減るほど、港湾施設の需要は増えることになるのである。

 この起業家のような発想のもとに今、北極海では未開拓領域の天然資源--海底油田や天然ガス田--の開発競争が始まっているという。科学者は昨年の探査で、北極から320キロの地点の海底に石油の存在を示す証拠を見つけた。そして、アメリカ地質学研究所の概算によると、世界中でまだ発見されていない油田や天然ガス田の四分の一が北極圏に存在するという。これに漁業資源や観光資源の開発の可能性を加えると、地中海の5倍の広さをもつ北極海の利用は、大変魅力的に見えてくる。が、問題がもう1つある。それは、これまで氷で閉ざされていたこの海域が「誰のものか」ということだ。国連海洋法条約の規定では、海の所有権は、沿岸の国の大陸棚がどのように延びているかで決定する。そこでロシアを初めカナダ、アメリカ、ノルウェーなどの北極海沿岸諸国は今、海底探査と資源探査を北へ北へと進めているらしい。

 世界の国々は、化石燃料の“中毒症状”を示しているのではないか、と私は思う。北極や南極の氷が溶け、世界各地の高山では氷河が次々に退縮し、ハリケーンや台風は巨大化し、雨季には集中豪雨で各地が水浸しになり、乾季には逆に山火事が猛威を振るう……その大きな原因が化石燃料の過剰消費にあるにもかかわらず、その消費を減らすどころか、我先に消費を推進する準備に奔走している。この“人類の業”の力から抜け出す知恵は、一体どこにあるのだろうか?

谷口 雅宣

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2005年10月10日

生光展はじまる

 生長の家芸術家連盟の美術展である「第27回生光展」が、東京・銀座の東京銀座画廊で始まった。初日の10月10日はちょうど祭日だったので、妻と二人でそれを見に行った。ほとんどが20号以上の絵だが、出品者は北海道から沖縄まで含まれ、それぞれの特徴ある作風で自由に描いている。油絵や日本画だけでなく、水彩画やアクリル画、パステル画、ミックスドメディア、あや絵、和紙画、水墨画などもあり、その多様性が印象的だ。私も恥ずかしながら、4号の油絵小品を2点出させていただいたが、プロの大家の作品に囲まれた様子を見て、赤面のいたりだった。

 私は、ペンや鉛筆でスケッチしたものに彩色する程度の軽い水彩画を主に描く。特に昨今は自由になる時間が減ってきたので、そういう描き方でないと絵ができ上がらないのである。しかし、そんなスケッチばかりを描いていると、じっくり腰を落ち着けて描く油絵のような重厚な感じの絵に憧れてしまう。しかし対象によっては、油絵よりもペン画の方が動きや透明感が出せるということが今回、よく分かった。もちろんそれは、私の油絵の技術が未熟であることとも関係している。そういうまだ“発展途上”にある絵を、専門家の方々の前に曝さなければならないのは、つらいものがある。

「セントラル・パーク」という作品は、今年の夏、北米の生長の家幹部を対象とした特別練成会のためにニューヨークを訪れた際、あの有名な公園の入り口付近から見た風景に心を動かされて、小型のスケッチブックにペンを走らせたものを下書きにした。実は、この下書きの方が現場の雰囲気をよく表している、と今でも思う。油絵にしたものは、遠景のビルが重くなってしまい、公園の森との「高さ」の違いがうまく表現されていない。また、森や池の深くかつ柔らかい感じと、硬質の高層ビルとのコントラストが充分出ていない。私が現場の風景--人間の力を誇示するような高層ビルが、緑の森を見下ろしている--に接して感じたのは、多分「人間は自然を支配できる」というアメリカ的考え方がそこに風景として結実しているとの驚きだろう。そして、それはそれなりに美しいのである。

「スナップショット」という作品は、私と妻の新婚旅行での写真を油絵にしたものである。公園の絵よりこちらの方が、専門家の方々の評判はいいようである。それは多分、当時の様子を思い出しながら楽しんで描いたからだろう。また、発表することなど全く考えなかったから、構えがなく、自由に描けたのかもしれない。長い間、寝室に掲げてあったものを今回、出品点数が足りないというので、思い切って出してみた。シドニーの公園で、三脚にセルフタイマーを回して撮った写真が元で、妻の後ろで私はふざけて横を向いている。

 生光展は16日まで。

谷口 雅宣

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2005年10月 9日

心で世界をつくる

 秋田市で行われた生長の家講習会で「現象世界は心でつくる」という話をしたら、33歳の女性の方から「現象世界は万物の霊長である人間の心だけでつくられるのか、それとも動物の心も世界をつくることに関与するのか」という内容の質問をいただいた。これは、簡単に答えるにはなかなか難しい内容なので、説明しているうちに予定の時間をオーバーしてしまい、あわてて中途で回答を打ち切ってしまった。当初から予定していた主題の講話をしたかったからだ。そこで、このとき説明が不十分だったと思う点をこの場で少々補ってみたいと思う。
 
「世界をつくる」という表現は、一個の不変堅固な「客観世界」なるものが実在していると考えている人からは誤解されることがある。現代人は普通、学校でそういう考えを教わるから、それが常識になっている。その常識では、この堅固不変の「客観世界」は、人間の心や考えなどとは直接関係がなく、またそれらから影響されることのない“実在”だと思われている。ところが、「心が世界をつくる」と言うと、物理的には質量やエネルギーを測定できない、何か得体の知れないフワフワした「心」が、どこか目に見えない別世界から不思議な作用をして「客観世界」に決定的な影響を及ぼす--こういうイメージで捉えられやすい。これだと、心と関係のない堅固な客観世界が心によって影響されるということになるから、初めから論理的に矛盾してしまい、理解されないのである。そこで、講話の中で私が言いたかったのは、まず常識的に想定されているこの堅固不変の「客観世界」の存在を疑え、ということだった。

「空は何色ですか?」という質問を発したのは、そういう意図からである。秋田地方は昨夕から夜にかけて雨が降ったから、夕方の空は「灰色」だった。しかし、講習会当日は秋の青空が雲間からよく見える晴天となった。そういう時の空は、文字通り「空色」である。では、本当に空は空色かどうかを考えてほしい。人間の感覚によれば、空がある条件下で「空色」に見えるというのは事実である。しかし、だからといって空が「客観的に」空色であると考えるのは間違っている。空は、明け方や夕暮れ時など、人間が見ている目の前で刻一刻と色を変える。その色のどれが「本当の空」の色であるかを考えるのは無駄である。なぜなら、我々人間は「本当の空」を見ることはできず、さらに言えば、「本当の空」などというものも存在しないかもしれないからだ。

 また、地上に生きるおびただしい数の生物の中で、人間のような色覚をもっているのはごく少数にすぎない。オランウータンやチンパンジーなどの高等な霊長目を除いて、哺乳動物のほとんどは「色」のついた世界に生きていない。それは、「彼ら」の感覚が劣っているのではなく、人間とは違った感覚をもっているために、その感覚に相応した世界に生きているだけである。人間の肉体は確かに精巧な感覚器官を装備しているが、それでも、他の生物に感覚されて人間には感覚されない物理・化学的信号はおびただしく存在する。ネコやミツバチの視覚、イヌの嗅覚、鳥類の平衡感覚、化学物質を感知する植物やバクテリアの感覚などをもし人間の肉体が備えたとしたならば、我々は今見慣れている世界とはまったく異なる世界を経験することになるだろう。そういう意味では、「感覚が世界をつくる」と言ってもいいし、「脳が世界をつくる」と言っても間違いではないだろう。

 こういう事実を思い起こしてみると、我々が感覚によって捉える「現象世界」というものは、常識的に想定されている“堅固不変の客観世界”などではないことが分かるだろう。それぞれの生物種にそれぞれ固有の感覚器官があるのだから、「現象世界」は生物種の数だけが存在する可能性がある。また、同一種である人間の感じる現象世界だけを考えてみても、それぞれの人間の「感覚」や「脳」や「心」の状態には違いがあるだろうから、「一個」の堅固不変な現象世界が存在するのではなく、厳密に言えば、互いに微妙に異なった現象世界が人類の数だけ存在することになる。そうすると、最初の質問に対して、どういう答えをすべきかの方向性が理解されるのではないか。

谷口 雅宣

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2005年10月 8日

鳥が運ぶメッセージ

 鳥インフルエンザの感染拡大が、世界的問題になってきた。

 日本では、今年6月以降、埼玉県や茨城県の養鶏場など合計31ヶ所で弱毒性の高病原性ウイルスに感染した鳥が見つかり、これまでに約150万羽が殺処分された。アジアの他の国々では人に感染するという深刻な被害に発展していて、少なくとも60人が死亡している。被害者のほとんどは鳥から直接感染したと考えられているが、ウイルスが人から人へ感染する形に変異することが恐れられており、それが起こると、グローバル化した人の流れに乗って世界中で急速に感染が拡大し、強毒性のA(H5N1)型のウイルスなどは何百万人もの犠牲者を出す可能性が指摘されている。
 
 そんな中で、世界で2000万~5000万人の死者を出したとされる1910年代末のスペイン風邪のウイルスの遺伝子が、鳥インフルエンザのウイルスとよく似ており、アジアで流行中のH5N1型ウイルスとも共通性が高いことが、科学者によって発表された(英科学誌『ネイチャー』10月6日、米科学誌『サイエンス』同7日号)。つまり、鳥のウイルスが突然変異によって人間のウイルスに変化したことにより、過去において実際に大惨事が起こった可能性が浮き彫りにされているのだ。

 10月8~9日付の『ヘラルド朝日』紙によると、これに対処するための薬としては現在、経口薬「タミフルー」(Tamiflu)と吸引式の「リレンザ」(Relenza)の2種が有力視されている。これらは、通常のインフルエンザの治療薬として開発されたものだが、H5N1型の治療にもある程度有効と考えられている。このタミフルーの売り上げは、今年の前半6ヶ月で、昨年同時期の4倍に当る4億5000万ドルに達している。これは先進各国がインフルエンザ拡大を予想して備蓄を始めているためで、アメリカの連邦政府はすでに230万人分を買い上げ、年末までにさらに200万人分を買い足す予定という。ヨーロッパの国はもっと先行していて、人口の2割から4割を治療できる量のタミフルーをすでに入手しているという。

 人間が動物を食したり飼ったりすることは、本来離れた場所で生きてきた別種の生物が直接接触し、あるいは至近距離で生活することを意味する。こういう習慣は、太古の時代から人類が行ってきたものではあるが、現代ほど頻繁に、大量に行われたことはない。特に最近は、食べたり飼う動物の種類が広がり、飼育方法が大規模化し工業化したことで、動物から人間への細菌やウイルスの感染の機会が飛躍的に増えている。また、一度発生した感染症は、高度に発達した交通網に乗って急速に拡大する傾向が見られる。似たようなことは、かつてSARSの流行で経験した。今度は鳥によって同じメッセージが運ばれようとしているのかもしれない。人間だけが繁栄し、他を犠牲にする生き方が、自然からシッペ返しを喰らうもう1つの例にならないように、祈るばかりである。

谷口 雅宣

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2005年10月 6日

映画『蝉しぐれ』

 休日の木曜日を利用して、妻と二人で映画『蝉しぐれ』を見た。NHKテレビでも放映された藤沢周平氏原作の時代劇だが、私はこのドラマを見ていなかった。時代劇は『ザ・ラスト・サムライ』『北の零年』以来だが、見た印象は前掲2作より弱かった。この作品を見たいと思った理由は2つある。1つは、小説『秘境』を書いたときに藤沢氏の作品の1つに登場してもらい、以来、氏に親しみを感じていたこと。もう1つは、藤沢氏の故郷である山形県鶴岡市周辺が『秘境』の舞台であり、その取材のために私はその地を3回ほど訪れていて、懐かしさを感じていたからだ。『蝉しぐれ』の舞台も鶴岡ということになっている。そういう私の側の「期待」が大きすぎて、それに比べられた本映画は迷惑だったかもしれない。

 私は藤沢氏の原作を読んでいないから、これから書くことは皆、黒土三男監督作品の映画についての感想である。2時間11分の長さにしては、人間心理の描写に不満が残った。中に盛り込んだものが多すぎたため、かえって主人公や相手役の心の深みを描ききれなかったのかもしれない。例えば、自然描写は秀逸である。“古き良き日本”の春夏秋冬の風景が美しい「断片」として、作品中に散りばめられている。それは素晴らしいのだが、その環境の中で生きる主人公らの心の描写が、きわめて抑制されている。江戸時代の武家の人々は、こういう忍耐と我慢の生活を送っていたのかもしれないが、観客はその抑制された動作や表情から内心を読み取るのに努力が要求される。少なくとも、私はそうだった。一種の「忍耐の美学」なのかもしれないが、それを好む人と好まない人がいるだろう。

 藤沢氏自身は『蝉しぐれ』について、こう書いている--「一人の武家の少年が青年に成長して行く過程を、(中略)剣と友情、それに主人公の淡い恋愛感情をからめて書いてみた」。問題はこの“淡い恋愛感情”だと思う。映画作品では、主人公の文四郎(市川染五郎)と相手役のふく(木村佳乃)の恋愛は、決して「淡い」ようには見えない。真剣に愛し合っているのだが、江戸時代の社会通念や習慣、武士として、あるいは女としての様々な義務に縛られて、燃える思いを遂げることができない。そういう辛く、哀しい悲恋物語のように、私は感じた。ラストシーンの1つは、三島由紀夫の『春の雪』のように、女は自分の性(さが)を棄てるために尼僧になるのだが、その別離のときの二人の表情は「淡い恋」のそれでは決してないのである。この点に黒土監督の脚色があるのかもしれないが、それならば、恋の成就を拒否してきた当時の社会に対する、主人公らの全く受け身の、諦めた態度が、現代人である観客は不満に感じると思う。

 とはいうものの、私は結構泣かせてもらった。妻も少し泣いたそうだが、私ほどには涙を流さなかったという。暗い館内で涙の量など分かるはずはないと思うのだが、妻には分かるらしい。ところで題名の「蝉しぐれ」だが、映画の各所でBGMのような効果をもって使われている。出だしは、そのものズバリのアブラゼミの大合唱だが、ラストシーンは、一艘の舟が漂う湖面を渡る単独のヒグラシの声。その舟の中で主人公が仰向けになって横たわっている。何ともやるせないのである。
 
谷口 雅宣
 

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2005年10月 5日

シイタケが出た

 東京の自宅の庭でホダ木で栽培しているシイタケから、“芽”がモコモコ出始めた。それを見ると、心もワクワクする。春にも“芽”は出たが、疎らで形もよくなく、7本あるホダ木のうち全く“芽”が出ないホダ木の方が多かった。今年の春は雨が少なかったし、温暖化の影響もある昨今は、シイタケが「自然に出る」のは難しいことなのかと思っていた。しかしその一方で、長崎の生長の家総本山でシイタケ栽培を担当している人に聞いてみると、難しいことはなく「何もしなくても自然に出る」と言う。だから、自分のやり方がオカシイに違いないと思っていた。

 ところが今年の春、日曜日の朝のNHKでシイタケ作りの“名人”が登場して、その人が言うには、シイタケの“芽”を出させるには温度や湿度の管理も重要ながら、何か「刺激」を与える必要があると話していた。この「刺激」のことで思い出したのは、私がホダ木を買った相手の人も同じことを言っていたことだ。その人によると、刺激には「叩く」「水に浸ける」「音楽を聞かせる」「雷が鳴る」……などがあるという。最初の2つは納得したが、次の2つは冗談を言っていると思った。しかし、NHKの番組では、その“名人”はヒモに吊るしたホダ木をコンクリートの壁みたいなものにブチ当てていた。

ShiitakeMT0

 それを思い出した私は、10月1日の朝、7本のホダ木のうち4本を50cmぐらいの高さからレンガ敷きの床に2回落とし、さらに水道水をホースでたっぷりかけてやった。7本全部に同じことをしなかったのは、「刺激」を与えたものと与えなかったものとの違いを見ようと思ったからだ。するとどうだろう、4日の朝、「刺激」を与えたもののうち3本から、ちゃんと白い“芽”が頭を出していたのである。「ヤッタ!」と思った。何か関門を1つクリアーした気分だった。

ShiitakeMT1

 ものの本によると、シイタケのホダ木栽培はすでに元禄年間(1688~1704年)から伊豆地方などで始まっていたらしいが、原木に種を植え付ける現在の栽培法が考案されたのは1935年という。品種はいろいろあるが、発生温度によって高温系(15~20℃で発生)、中温系(10~20℃)、低温系(5~15℃)の3つに大別されるという。私の家にあるのは「肉丸」という名前のついた品種だが、今ごろ発生するところから考えると、きっと高温系なのだろうと思った。この本には、しかし「刺激」を与えないで発生させる方法もあり、それを「自然栽培」と呼び、そのほかに「浸水、冷却、加湿などの刺激を与えることにより、時期を問わずに発生させる不時栽培」があると書いてある。とすると、私が育てている品種は中温系や低温系である可能性も出てくるのだ。

ShiitakeMT2

 いずれにせよ、生物がぐんぐん成長し立派になる姿を見ることは楽しく、収穫して味や香りを楽しめるとなると、さらに嬉しいものである。
 
 谷口 雅宣

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2005年10月 4日

原油高の影響続く

 9月25日の本欄で、高値に貼りついている原油の値段の影響についての日本の経済専門家の考え方を紹介した。総じて楽観的であり、現在の高値は一時的だとの見方が大勢を占めた。しかし、10月4日付の『朝日』によると「3日発表の日銀短観では、素材産業や運輸業などで原油高によるコスト上昇が景気回復の足を引っ張る構図が鮮明になった」という。また、10月1日付の『産経』は「原油価格がこのまま高止まりすれば、電気・ガス料金は来年1月からさらに値上げされる可能性もある。暖房の需要期を迎え、エネルギーコストの上昇は冬場の家計を直撃しそうだ」と予測した。この文章中の「さらに値上げされる」という意味は、この10月からの電気料金や一部地域の都市ガス料金の一斉値上げに加えて、ということだ。

 ガソリンや灯油、電気料金、都市ガス、LNGの価格の上昇は、原油価格の上昇に連動する理由はよく分かる。皆、石油や天然ガスと深い関係にあるからだ。これによってドライバーがガソリンの消費を節約しているとの調査結果も本欄で報告した。石油を元とする素材産業や運輸業がコスト高になることも明らかだ。しかし、フェリーが運航を休止したり、航空運賃の値上げが進んだり、自動車タイヤが値上げされたり、カマボコやチクワなどの練り製品が値上がりしたり、砂糖やクリーニング代が値上がりするところまで来ているとは、知らなかった。前述の『朝日』の記事には、そういうことが書いてある。これを「最終製品への価格転嫁」というらしい。

 経済専門家の楽観論は、こういう最終製品への価格転嫁が行われ、実質的にほとんどの消費財の値上げが進んでもなお、原油の値段が1バレル当たり70ドルを越えない限り、日本経済は実質成長を続けることができるというものだった。「実質成長」というのは、そんなに重要なものなのだろうか、と私は思う。社会や産業構造が今日のように化石燃料に依存している状態から、それに代わる新エネルギーを基礎とした社会や産業に転換していく過程では、少々の景気停滞や倒産や失業が起こるのはやむを得ないだろう。日本は自由主義経済であり計画経済ではないのだから、人々は自由に各人の将来を考えて行動する。その中には将来を見誤る人も出てくる。儲かると思った商売が失敗したり、伸びると思った産業が衰退することは、よくあることだ。そういう失敗を経験して、人間が成長するという善い点もある。

 しかし問題なのは、将来性が見えてしまっている産業やエネルギー源に「執着する」ことだろう。これまでの政界や官界との“深い関係”とか“甘い汁”の味などが忘れられず、終りが来ることが分かっていても、その終焉の到来をできるだけ引き伸ばそうと必死になるのは愚かなことである。が、そう分かっていてもやってしまうのが人間か。巨大ハリケーンの到来とそれによるニューオーリンズの水没も、事前に充分予測されていたというではないか。地球温暖化も、もうずいぶん前から予測されていて、実際に極地の氷が溶け、氷河は次々に消滅し、高山の万年雪や氷も減っている。それでも「経済成長の方が大切だ!」と考える人々は、やはり何かに「執着」していると言わねばならない。

 そんな中でも、自分の非合理さに気がついたのか、あるいは家計の圧迫からやむを得ずにか、自ら行動を改めつつある人が増えているようだ。世界最大の市場であるアメリカでの自動車各社の9月分の新車販売台数が公表されたが、「軽トラック」と呼ばれるカテゴリー(ミニバン、ピックアップ車、SUVを含む)の販売で、燃費の悪い大型車の多いフォードが前月より5割、GMは3割も減った。これは今日放映されたCNNが伝えた数字だが、今日付の『朝日』夕刊では、前年同月比としてフォードが26.8%減、GMが29.5%減という数字を挙げている。燃費のいい日本車は好調で、全車種の前年同月比でトヨタが10.3%、ホンダ11.7%、日産16.4%の増加である。9月としては、過去最高の成績だという。これは、多くのアメリカ人が「燃費」を最大の基準として新車の購入を始めたことを意味する。自動車は1年や2年では買い替えないから、多くの人々は原油高も1年や2年では終らないと判断しつつあるのだろう。

 経済専門家の楽観論とアメリカ庶民の判断と、どちらが正しいことになるのか興味深い。

谷口 雅宣

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2005年10月 3日

夫の死後に妊娠する

 先月29日に東京地裁であった生殖補助医療をめぐる判決には、いろいろ考えさせられた。新聞報道によると、内縁関係にあり、精子の凍結保存をしていた男性が病死した後、相手の女性が体外受精で女児を妊娠・出産したケースが問題になっており、この場合、産まれた女児を生前の内縁の夫の子として認知することはできない、との判決が下ったのだ。問題を複雑にしているのは、同様の例でのこれまでの司法判断に“揺れ”があるということだ。2003年に松山地裁が出した結論は、原告の女性の訴えが否認されたのに対し、翌年、上級裁である高松高裁は女性の訴えを認める逆転判決をしている。

「子供がほしい」という女性の願望の切実さは、男性の私には完全には理解しきれないものがあるかもしれないが、切実な願望はすべて満たされなければならないと安易に結論することはできない。かつて日本でも、60歳にして初産をした女性がマスメディアで話題になり、私も『今こそ自然から学ぼう』(2002年、生長の家刊)や本欄の前身である『小閑雑感 Part 3』(2003年、世界聖典普及協会刊)で取り上げたことがある。この人の場合は、加齢のために自分の卵子は使えず、渡米して他人の卵子の提供を受け、体外受精した受精卵を自ら妊娠するという方法を使った。このような不妊治療にかかる費用や肉体的・精神的負担を考えると、それを押してまで「子を産みたい」と思う彼女の切実さは推測できる。しかし、「願望が切実だから」というだけでは、ある行為が倫理的、宗教的に正しいとは言えないのである。

 卵子提供による高齢人工妊娠に関しての私の考えは、上記2冊を参考にしてほしいが、今回の東京地裁の判決に関しては、2つの要素が重要だと思う。1つは、夫の意思であり、もう1つは子の意思である。第1の点については、東京地裁は仔細に検討した結果、「夫の同意があったとは言えない」と判断した。第2点について、裁判所は「子の利益」という観点から考慮しているらしが、新聞記事からは詳しいことは分からない。ただ、現行法の不備を指摘し「女児が健やかに成長していくために国や社会として可能な限りの配慮をしていく必要がある。急速に進展する生殖補助医療について早急な法整備が求められる」(『朝日』)と述べていることは当然だろう。

「当然」と書いたのは、凍結精子を使った出産は、わが国では40年以上も前から行われているからだ。にもかかわらず、その正しい方法を定めたり規制する法律が存在しないというのは驚きである。これは、生殖補助医療の全般について言えることだが、現在のやり方は、「親の願望」を重視することに傾いていて、(まだ産まれぬ)「子への配慮」が足りないように思う。この場合の「子」とは、「胚」や「胎児」の段階にある者も含んでいる。不妊治療では、多数の受精卵を“予備”として作ったり、多胎妊娠が起こることが多い。宗教的には胚や胎児は「人間」であるから、それを“予備”として作ったり、不要となったら“廃棄”したり、多すぎる場合は“減数手術”して捨て去ることは、決して誉めるべきことではない。今回のケースでも、受精卵に対するそういう粗末な扱いがあったことが推定されるのである。「父のいない子」を産む可能性についてどれだけ考慮したかという点でも、疑問が残る。

 また、今回の判決は「夫の同意なく子を作った」と認定したようだが、そういうことが今日の技術では可能なのか、と改めて驚いた。冷凍技術が発達した現代では、精子のみならず、卵子も受精卵も半永久的に凍結保存できるのである。その場合、純粋に技術的に言えば、夫だけでなく、妻の同意もない妊娠と出産も可能なのだ。同意どころか、受精卵を作った男女が死んだあと、無関係の誰かがその受精卵を妊娠して子を産むこともできる。社会的な合意をもっと早急に確立し、「ここから先は、技術的に可能でもしない」ときちんと“線”を引く必要がある。日本不妊学界は2003年に作ったガイドラインで「本人が死亡した場合、凍結精子は直ちに廃棄する」との見解をまとめたそうだが、今回のケースはこの合意が守られなかったことになる。早期の法律の制定が望まれる所以である。
 
谷口 雅宣

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2005年10月 1日

ザリガニ料理

 2001年5月下旬、本欄の前身である『小閑雑感 Part 1』で、私はアメリカザリガニが東京の河川や臨海公園で大発生していたことに触れたが、その時、このザリガニは1930年ごろ日本に移入されたが北海道にはいないと書いた。平凡社の『世界大百科事典』にそう書いてあったからだ。ところが、今日の『朝日新聞』夕刊には、阿寒湖のザリガニがフランス料理の食材として人気を呼んでいる、と書いてあった。もともと日本にいた品種ではなく、北海道大学の教授の名前からとった「ウチダザリガニ」という種で、マス科の魚の餌としてアメリカから移植したらしい。「北海道では1930年に摩周湖に放流し、道東全域に分布している」そうだ。これがアメリカザリガニとどう違うか定かでないが、アメリカから来たザリガニであることは確かだ。「弘法」ならぬ「百科事典も筆の誤り」ということか。

 記事によると、このザリガニのおかげで在来種のニホンザリガニやタニシが姿を消し、天然記念物のマリモも被害に遭って地元では困っていたところ、誰かセンスのある人がこれに「レイクロブスター」という名前をつけて食材として売り出したところ、「美味である」ということになったというから不思議だ。今では阿寒湖畔の飲食店でスープ、天婦羅、カルパッチョ、姿ボイル焼きなどになって評判がいいばかりでなく、遠く首都圏や関西の有名レストランからも注文が舞い込んでいるという。
 
 上記した4年前に書いた文章の中で、私は生態系のバランス維持を考えてこう言っている--「人間はすべての生物の“天敵”だから、“ひとり勝ち”している外来種には効果がある。どなたかアメリカ人に倣って、東京で『ザリガニ料理』を始める人はいないだろうか? そうすれば、日本ザリガニだけでなく、カエルもゲンゴロウもヤゴも救えるかもしれない」。

 これを読んだ誰かがザリガニ料理を始めたわけではないだろうが、人間は似たようなことを考えるものである。東京でこれを味わいたい人は、新宿のオテル・ドゥ・ミクニへ行かれたい。500円の缶入りスープも販売しているそうだ。8月9日付の本欄では、アメリカ東部のメイン湾でロブスター(ウミザリガニ)の豊漁が続いていることを書いたが、日本でもザリガニ料理が受け入れられてきたことで、彼らにとっては厳しい時代が到来したのかもしれない。

谷口 雅宣

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