赤ちゃんの“恩返し”
4月26日の本欄で、異種の生物の組織や臓器が入り混じった「キメラ」が存在することを書き、例として、人間の血液をもったブタ、人間の肝臓をもったヒツジ、人間の脳をもったネズミ、ブタの心臓をもった人間などを挙げた。こういう“混合動物”は、混合した一方の動物が、何らかの形で他方の犠牲になるという意味では“悪いキメラ”と呼べるかもしれない。人間の臓器をもった動物は、いずれ臓器を摘出されて死ぬ運命にあるだろうし、人間が動物の臓器を移植する際には、臓器を提供した動物は殺されるからである。しかし、人間同士の“キメラ”の中には、相互に助け合う--いわば“善いキメラ”と呼べるもの--があり、しかもそれがごく普通に存在しているのだ。
イギリスの科学誌『NewScientist』の8月20日号は、妊娠中の母親の体内に赤ちゃんの体の幹細胞が胎盤を通じて漏れ出て循環する話が書いてある。これは必ずしも組織や臓器の混合とは言えないが、「マイクロキメリズム」(微小キメラ現象)と呼ばれている。病気でも何でもなく、普通に起こる現象である。そして、これらの幹細胞は、赤ちゃんが誕生した後も母親の皮膚や肝臓、脾臓などの細胞内に残留して、これらの組織や臓器が傷ついたときに修理を助けてくれるのだ。母親の体が胎盤や母乳を通して赤ちゃんを助けるのは周知のことだが、その“お返し”に赤ちゃんも母親の体を助けてくれるから、これは“善いキメラ”とも言える。通常、人間の体は、自分以外の生物の組織が体内に入ると激しく拒絶するものだが、母親と赤ちゃんの場合は不思議にも助け合うのである。しかし、このマイクロキメリズムの場合も、赤ちゃんの幹細胞は母親の脳内には入れないと考えられてきた。
ところが、シンガポールの学者チームがこのほど発表した研究では、妊娠中のマウスの脳内には子の幹細胞が入り込んで、さまざまな種類の神経細胞に分化することが分かったという。この現象が、人間の体内でも起こることが確認されれば、医療への影響は大きい。なぜなら、赤ちゃんの幹細胞を大人の脳内に導入することで、脳梗塞やアルツハイマー病などの治療に役立つかもしれないからだ。赤ちゃんの幹細胞は「へその緒」の中にもあるから、それを凍結保存しておけば後日利用可能となるかもしれないというわけだ。受精卵や卵細胞を破壊してつくるES細胞を利用するよりも、こちらの方法のほうが、倫理的によほど優れていると私は思うのである。
ところで、上記の雑誌は、この「へその緒」内の幹細胞(臍帯血幹細胞)の分化能力が、ES細胞と成人幹細胞(成人の体内にある幹細胞)の中間的な位置にあるらしいことを伝えている。イギリスのキングストン大学の研究者のグループは、この臍帯血幹細胞を肝臓の細胞に分化させることに成功し、その他、さまざまなタイプの細胞にも分化できる“マーカー”をもっていることを発見したという。
人間の体内にある幹細胞の能力を、科学者はまだまだ解明していない。このような潜在能力の存在は、“物質の奥”にある生命力の不可思議さを教えてくれるのである。
谷口 雅宣
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