目玉焼き
米子市での生長の家講習会に来ているが、朝、ホテルでのブッフェ式の食事に卵の目玉焼きがあるのを見つけた。日本のホテルの朝食はブッフェ形式のものが多いが、その場合、卵料理はスクランブル・エッグを出すところがほとんどだ。あとはゆで卵で、たまに落とし卵。もちろん、目玉焼きや「オーバー」と呼ばれる両面を焼いた卵のを出すところもたまにあるが、数は少ない。その理由をつらつら考えるに、恐らく目玉焼きは他の方法に比べて場所をとるからだろう。ホテルのブッフェでは和食を用意するところも多いから、狭いテーブルに和洋の料理を並べるのに、目玉焼きだと白身の部分が外側にひろがって表面積が大きくなる。それが嫌われるのかもしれない。ところがこのホテルの目玉焼きは、その表面積の問題を円形の「型」を使うことで解決していた。型の中に卵を落として焼けば、コンパクトなサイズに仕上がるというわけだ。
私がその目玉焼きを食べながら考えたことは、講習会での話である。私は、生長の家の「万教帰一」の教義を説明するときに、よく宗教を“目玉焼き”に喩える。2つの同心円の画像を示しながら、目玉焼きに“黄身”と“白身”の部分があるように、宗教にも“中心”部分と“周縁”部分とがある、と話すのである。前者は多くの宗教で共通しているが、後者はそれぞれの宗教が生まれ育った歴史・文化的・時代的特徴を備えているため、互いに異なっていることが多い。宗教同士が対立したり、紛争を起す最大の原因は、この共通した中心部分に注目せず、異なる周縁部分に注目して、それを互いの宗教の本質だと考えるところから生まれる。だから国際化が進み、“地球社会”が成立しつつある今日、宗教を原因とする対立をなくすためには、「万教がその中心部分において共通している」という考え方をひろめると同時に、互いの宗教が周縁部分において異なることを「多様性」として認め合うような、一種の“複眼的”視点をもたねばならない--そんな話をしているのだ。
これまでこの話の際に使ってきた画像は、空色と黄色の同心円だった。しかしこの時、きれいな白と黄色の同心円を形成している目玉焼きを目の前にしながら、私は、この目玉焼きそのものを講話の説明に使ってみよう、と思ったのである。固い話だから、少しシャレのきいた絵を使った方が良いに違いないからだ。そこで、食後に部屋へもどると、すぐにデジカメを持って再び食堂を訪れ、不思議がっているウェイトレスの視線を尻目に、パチパチと目玉焼きの写真を撮った。ほんの十数秒のことである。小型のデジカメでストロボを光らせなかったから、私が何をしたかに気づいた人は少数だったと思う。部屋へもどり、写真をパソコンで加工して、その日の講話に使うことができた。幸い、受講者の笑いを誘うこともできたので、この文明の利器に感謝したしだいである。
谷口 雅宣
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