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2005年9月 5日

ES細胞は“劣化”する

 8月29日の本欄で「成人幹細胞」を利用した心臓病治療の成功に快哉を叫んだが、再生医療のもう一方の雄である「ES細胞」(胚性幹細胞)を使った治療については、“黄色信号”が点った。「ES細胞は古くなる」ことを示すような実験結果が発表されたのだ。9月5日付の『朝日新聞』によると、ES細胞は培養を長く続けると、癌細胞で怒るような異常を生じることが実験により発見され、同日付の科学誌『ネイチャー・ジェネティックス』電子版で発表されるという。少し専門的になるが、このことを意味を少し考えよう。

 ヒトES細胞は、受精後5~7日ほどの人間の受精卵(胚盤胞)の内部組織を取り出し、培養したものだ。これが注目されている理由は、①人間のどんな組織や臓器にも分化できる潜在能力をもっていること(全能性)と、いったん培養に成功すれば(これを「樹立」という)、②細胞分裂を何回でも繰り返して増殖すること(不死性)ができると考えられてきたからだ。この2つの性質を利用すれば、一方で無限に分裂を続けるES細胞の“ストック”を維持しながら、他方で、その一部を、必要な際に必要な組織や臓器に分化させることにより、半永久的に組織移植や臓器移植を継続することができるからだ。この2番目の性質について、例えば、平成12年に政府が出した「ヒト胚性幹細胞を中心としたヒト胚研究に関する基本的考え方」という文書には、「通常の細胞は一定の回数分裂するとそれ以上は分裂しなくなるのに対して、何度でも分裂できる性質(不死性)を保持している」と書いてある。

 ところで、我々が恐れる癌細胞も、これと似た「不死性」をもっていることは有名だ。つまり、癌が恐れられる理由は、それが体からの指示にしたがって分化や細胞分裂を止めようとせずに、一種の“暴走状態”になって細胞分裂を続け、体に必要な栄養分をどんどん横取りしていくからである。だから、ある細胞に「不死性」があるだけでは体全体にとって有益とは言えない。そこに“癌化”しないような安全装置が働かなければ不十分だ。そして、ES細胞には、その安全装置もきちんと備わっているという大前提が、研究者の間には存在していたのである。この点を上記の文書では、次のように表現している--「染色体数に異常がなく、通常の体細胞と同数である状態を維持し得る。(ガン細胞や、他の不死化した細胞においては分裂に伴って染色体の数が通常の数から増減することが多い。)」今回の研究では、ES細胞を継続的に培養していると、この安全装置が働かなくなる場合もあることを示しているのだ。

 上記の『朝日』の記事によると、実験では、9株の人間のES細胞を増殖させ、殖えると別の容器に分けてさらに増殖させるという操作を22~175回繰り返して行い、得られた細胞と元の状態とを比較したという。すると、9株のうち8株で、癌化や老化にともなって起こる異常が増えていたそうだ。つまり、いかに“不死性”のあるES細胞でも、培養しているうちに“老化”したり“癌化”する可能性が増えてくるらしいのだ。したがって、ES細胞を長期にわたって培養しておくと有用性が減り、危険性が増すことになる。ということは、常に“新鮮な”状態のES細胞が求められることになり、「受精卵や卵細胞を破壊して得る」という最も問題視されている手続きは、ES細胞利用のためには不可避な手段として残される可能性が出てきている。

 こういうことを考えてみても、心ある科学者には、私は倫理性に問題のあるES細胞の研究よりも、成人幹細胞の研究に力を入れてもらいたいと思うのである。

谷口 雅宣

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コメント

谷口 雅宣 先生

「ES細胞:米チームのマウス実験 受精卵を壊さず作成」(http://www.mainichi-msn.co.jp/science/kagaku/news/20051017k0000m040137000c.html)という記事を見つけました。既にご覧になっているかもしれませんが、トリビューンのネット版ではこちらです。http://www.iht.com/articles/2005/10/16/news/stem.php これによると、受精卵の細胞が八つに分裂した段階でそのうち一つの細胞を別のES細胞と培養して、神経や臓器等を作ることが可能であるとし、残りの受精卵も母マウスの体内に戻して順調に生長して赤ちゃんマウスが誕生したとのことです。記事では、これは受精卵を犠牲にしないので、倫理的な問題はクリアできると前向きに評価していました。でも、ES細胞が劣化するのであれば、それほど画期的発見ではないように思いますが、どうなんでしょうか?いずれにせよ、こうした技術が一般化する社会がもうそこまで来ているのかと思うと複雑です。
メイ 利子 拝

投稿: メイ 利子 | 2005年10月17日 16:35

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