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2005年9月30日

縮みゆく北極の氷

 今日(9月30日)の『朝日新聞』の夕刊に載った北極上空からの写真を見て、アレッと驚いた。私が生長の家講習会で何回か使ったNASA(米航空宇宙局)撮影の写真とよく似ているのだが、凍結部を示す白い領域が「少し狭くなった」と感じたからだ。写真説明を見ると、「縮む海氷」と題してその通りのことが書いてある。29日に公表された写真で、北極圏での平均気温の上昇により、「北極海での海氷の面積が過去最小になった」というのである。

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『ヘラルド朝日』紙には、もっと詳しい説明が載っていた。NASAは1978年以来、毎年9月に同じ角度から北極圏の写真を撮っており、それらを調べると、今年撮った北極圏の氷結部の面積は、1978年から2000までの平均値に比べて約20%狭く、ここ1世紀の間では恐らく最小だというのである。この「20%」を実際の面積で表すと「130万平方km」になるから、日本列島の約3.5倍の広さの氷が、ここ数年で消失したことになる。また、年間にわたって氷結している領域が溶けると、これまで氷によって太陽の光が反射されていた部分が海水となって熱を吸収することになるため、再び凍結することが難しくなる--つまり、北極圏の氷は長期にわたる融解の過程に入っているらしいというのである。

 9月11日の本欄では、陸上の氷床が「貯水池」の役割を果たしていることを書いたが、北極圏にはグリーンランドがある。ここの氷が溶けだすと重大な結果になると考えられている。というのは、ここは日本列島の約6倍の広さをもつ世界最大の島で、その上はすべて氷床で覆われていて、氷の厚さは最大で2kmにもなるからだ。北極海の氷が溶けても海水の水位は上がらない。しかし、陸上にある氷が溶けて海へ流れ出せば、確実に海面上昇が起こる。NASAの公表した写真を見れば、北極圏で「次に」起こる氷の融解は、グリーンランド上であることが一目瞭然だ。

 経済発展ばかりに目を奪われていると、暴風雨の巨大化と海面上昇によって手痛いしっぺ返しを受けることになるのである。

谷口 雅宣

 (北極圏の氷について詳しくは、NASAのウェッブサイトを参照。)

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2005年9月29日

「知性による設計」論、法廷へ

 8月の本欄で何回かに分けて(14、16、20日)、アメリカで台頭している「知性による設計」(intelligent design、ID)論のことを書いたが、進化論に対抗するこのID論を学校で教えるべきかどうかの審理が、ペンシルバニア州の法廷で始まった。9月16日付のアメリカの科学誌『Science』が伝えている。

 訴えたのは、同州ハリスバーグ市のドーヴァーという学校区(生徒数3700人)の11人の親たちで、学校側が「ダーウィンの進化論には矛盾と問題があること」だけでなく、「ダーウィン以外にもID論を含めたいくつかの進化論があること」を教えるという方針を多数決で採択したことが発端となり、昨年12月に訴訟を起したという。ドーヴァー高校の7人の生物学教師は、この学校の方針に従わなかったので、今年の1月と6月の2回、学校側の他の教師が教室へ出向き、「ダーウィンの進化論は一つの理論にすぎない」という内容の文章を生徒を前にして読んで回ったという。

 原告側の主張では、IDを教えることは一定の宗教を確立する行為だから憲法違反だという。そのことを主張するために、原告側は哲学や神学、数学、科学教育などの専門家、そして(本欄でも取り上げた)反ID論の尖兵であるブラウン大学の生物学者、ケネス・ミラー教授やカリフォルニア大学バークレー校の古代人類学者、ケヴィン・パディアン教授(Kevin Padian)など20人を超える証人を準備しているらしい。これに対し弁護側の証人は、現在は次の2人が予定されているという--リーハイ大学の生物学者、マイケル・ベヘ(Michael J. Behe)教授とアイダホ大学の微生物学者、スコット・ミニック(Scott Minnich)教授だ。

 これによって進化論をめぐる科学論争が法廷で戦わされるのかどうか、定かではない。というのは、ID側の主張は、「ダーウィンの進化論は間違っている」とか「IDはすべての進化の現象を説明できる」という点にあるのではなく、「進化をめぐる理論はダーウィンの進化論以外にも存在しており、そのことを学校で教えるべし」という点にあるからだ。これは「IDを教えろ」という意味ではなく、「進化がどう起るかについては論争がある」ということを教えることだ。また、ドーヴァーの教育委員会も「ID論が正しい」としているのではないから、法廷では「どの進化論が正しいか」という科学論争にはならない可能性がある。

『Science』誌は、同教育委員会側が勝訴する可能性は少ないと見ているが、今後、アメリカの高校教育においては、進化を教える際にID論に言及するケースが増えてくる可能性があるようだ。日本では、ダーウィンの進化論のほかに今西錦司氏の唱えた自然淘汰によらない「棲み分け説」なども人気がある。いずれにしても、進化という現象を多角的に考えることは科学的にも意味のあることだから、「論争がある」という事実を高校で教えることに、私はあまり問題を感じない。アメリカの科学者たちは、ブッシュ政権の下でキリスト教右派と呼ばれる政治勢力が影響力を増していることと関係づけて、IDの台頭に警戒しているようだが、そんなに神経過敏になる必要があるのかどうか、私にはいま一つ疑問が残る。

谷口 雅宣

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2005年9月28日

ブッシュ氏、節約を説く

 高止まりしている石油の値段のおかげで、世界の自動車各社はハイブリッド技術への参入を次々と表明しているが、2つのハリケーンの被害をまともに受けたアメリカでは、ブッシュ大統領がついに「ガソリンの節約」を公の場で訴えた。これは大いに称賛されるべきことだ、と私は思う。アメリカのメディアもそれを取り上げ、大統領は“心変わり”したと言わんばかりだ。なぜなら、ガソリンに限らず、何でも「消費」の増大は経済を拡大させるとの考えからブッシュ氏は京都議定書から脱退したし、何よりも地元のテキサス州にとっては石油産業は重要だからだ。

 9月28日付の『ヘラルド朝日』紙によると、ブッシュ政権の経済政策は、長らく環境保全や節約よりも新規の生産を重視してきたことは有名で、2001年には、チェイニー副大統領が節約は「個人的な美徳」だとして政策から切り離し、大統領報道官だったフレッシャー氏は、エネルギーの消費量を減らすべきかとの記者の質問に対して、「それには大いに反対!」と答えた。そして、「大統領は、それ(エネルギーの大量消費)はアメリカの生き方だと信じている。政策決定者の目標は、そういうアメリカ人の生き方を保護することだ」とまで語っていた。

 その大統領が今回、ハリケーンの被害が深刻であることを強調した後、「必要でない旅をしなければ、皆助かる」とガソリンの消費を節約することを訴えた。それだけでなく、大統領は連邦政府の機関に対してエネルギーの消費を減らし、職員はできるだけ公共交通機関を利用することを求める大統領令にも署名した。ただし、ブッシュ氏の今回の発言が彼の「政策転換」を意味しているかどうかは、定かでない。というのは、自動車各社に対する「燃費の基準」を引き上げることはまだしてないし、節約を訴えても、それを具体的に進める方策については何も言及していないからだ。今のところ“精神論”を説くことで、燃料の需要が高まる冬場を乗り切るつもりなのかもしれない。

 公共交通機関が発達した日本に比べると、アメリカでは車がなければどこへも行けないほど、交通を自動車に依存している。だから、ガソリン税も日本ほど高くないのだが、今回のハリケーンの襲来で、結果的にはガソリン税を値上げしたのと似たような結果になっている。これを機会に、アメリカ社会が「節約」や「エネルギー効率」を重視する方向へ転換してくれればいい……などと思うのは過分の期待だろうか。

谷口 雅宣

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2005年9月27日

フランスで遺伝子組み換えブドウ

 ブドウが収穫され、新しいワインが店頭に出る季節となった。ワインはフランスが“本場”ということになっているが、そのフランスで今、遺伝子を組み換えたブドウの栽培が密かに行われているらしい。と言っても、9月27日付の『ヘラルド朝日』紙がそれを報道しているのだから、もう「密かに」というわけにはいかない。遺伝子組み換え作物はアメリカでは盛んに作られているが、ヨーロッパ人はそれを“フランケン作物”などと呼んで毛嫌いしてきた。しかし、科学者の考え方には米欧の区別はないのかもしれない。

 シャンパンのメーカであるメーシャンドン(Moet & Chandon)は、ブドウのウイルス病に対する耐性をつけるために、1990年代から遺伝子組み換え技術を使った研究を進めてきたという。現在は、フランス農業試験研究所(National Institute for Agronomic Research)がライン川の近くの農場で、組み換え種のブドウを台木とした品種70本の生育実験をしているらしい。このブドウにつくウイルスは、フランスのブドウ畑の三分の一に存在していて、これが発病すると葉は黄色くなって、実を結ぶ前に花は枯れてしまうという。そこで科学者たちは、農薬を大量に撒いてウイルスを運ぶ虫を殺したり、ウイルスに感染した畑を破壊してウイルスが死滅するまで10年間も待つよりは、ウイルスに耐性をもつ遺伝子組み換えを行った台木に、従来種を接木するのがいいと考えたのだ。

 しかし、遺伝子組み換えへの反発が強いフランスでは、この種の試みに反対する人も多いから、この研究所の試験圃は高さ180センチのフェンスで囲まれ、侵入防止用のセンサーとビデオカメラで守られているという。また、組み換え種のブドウが他へ拡散したり在来種と交雑したりするのを防ぐために、遺伝子を組み換えるブドウを選定する際、葉の形状が他種とは一目で違う種を選ぶなど、神経を使っているらしい。しかし、こういう処置は所詮一時的な効果しかないだろう。組み換え種を本格的に栽培することになれば、自然界に組み換え種の遺伝子が広がっていくことはアメリカの例を見れば明らかだ。そして、フランスのブドウの多様性は徐々に失われていくのだろう。それがワインの「質」や「味」にも影響を与えることになるかもしれない。

 ところで、ワイン通でない私はまったく知らなかったのだが、フランスで栽培されているブドウのほとんどは接木で育てられ、台木はすべてアメリカから来た品種だという。その理由は、1800年代末にこの国のブドウのほとんどは、アメリカから来たネアブラムシにやられてしまったからだ。この害虫に耐性のあるブドウはアメリカにしか存在しなかったから、フランスはそれを輸入し、ヨーロッパ産の様々な品種をそれに接木することによって、これまでブドウを生産してきたというのだ。何とも象徴的な話ではないか。グローバリゼーションが進むと、農産物は「単一化」の方向に向うのである。フランスのあの多様なワインの種類は、その単一化をかろうじて接木によって補ってきたのだ。今後、ウイルス病に耐性のあるブドウが遺伝子組み換えで開発されれば、それが全世界を覆うことになるのだろうか。そして、その品種の弱点が分かったときには、もうそれを補う品種は地上に存在しなくなっている。そんなことにならないか、心配である。

谷口 雅宣

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2005年9月25日

原油高は一時的?

 本欄ではこれまで何回か、化石燃料に代わる自動車用燃料の開発と利用について書いたことがある(5月6日、26日、7月19日)。それは「次世代自動車用燃料」とも呼ばれているもので、GTL、DME、バイオディーゼル、バイオエタノールなどの名前が挙がっている。このうち「バイオエタノール」は、ブラジルではすでに30年も前からサトウキビを原料としたものを自動車用燃料として使ってきたことにも触れた。これを日本に輸入してガソリンと混合して使う計画が動き出していて、2008年からこの混合燃料が日本で販売されるとの情報も紹介した。ただし、当初の混合比率は「7%」とのことである。--こういう動きを一早く掴んで、国内でバイオディーゼルを生産する計画が進んでいるようだ。

 今日は生長の家講習会のため函館市に来ているが、9月25日付の『北海道新聞』によると、社団法人「北海道総合研究調査会」は、留萌管内の遠別町と空知管内の栗沢町の2戸の農家の協力をえて、それぞれ1ヘクタールの畑に燃料用のナタネを撒いたという。ナタネ油からバイオディーゼルを採るためである。また、ナタネの花は景観上も美しいことが、もう一つの理由らしい。同会の予定では、収穫は来年7月末で、約2000リットルの燃料が生成できる見通し。この記事によると、現在旭川などでは、古くなった食用油を回収してディーゼル燃料に再生する取り組みが行われているが、その場合のコストよりも、ナタネ油からの製造コストの方が少し高くなりそうだという。同会では今後、肥料代や人件費などのコストを下げる努力をするとしている。
 
 ところで、昨日(9月24日)の『日本経済新聞』に現在の原油高が“石油危機”ではないかどうかについて、2頁にわたって特集記事が掲載されている。『日経』の結論を先に言えば、「日本経済は原油を効率よく使う体質変換が進んでいるため、1バレル70ドル程度の価格なら実質経済成長は確保できる」というもの。同紙の記事に引用されている専門家の見解は、総じて楽観的だ。「足元の原油供給は足りている」(ジャパン・エナジー)。ハリケーンの被害を受けたアメリカの精製施設の復興に多少時間がかかるが、「その後は売り圧力が高まるシナリオも考えられる」(住友商事)。かつての石油危機が“供給不足型”だったのに比べ、現在の原油高は“需要牽引型”だから、「原油高と世界景気の拡大は共存できる」(JPモルガン証券)などだ。しかし、第二次石油危機当時の原油の値段を現在の物価水準に換算すると「1バレル80ドル強」になるから、そのレベルに近づくと「油断できない」情勢になるという。

 “明るい材料”をさらに付け加えれば、OPECが20日の総会で石油増産を見送ったように、現在の問題は原油の供給不足ではないとの認識が大勢を占めていること。また、アメリカのエネルギー省が21日に発表したガソリン需要(4週間平均)では、前年同期に比べて3%減となったことがある。つまり、今回の原油高の原因は「アメリカの国内問題」だとの認識が根強くあるように思う。しかし、これらすべての分析は、恐らく「石油生産のピークはまだ来ない」との前提に基づいている。この前提が崩れたときの衝撃が、21世紀の最初の(そして多分最後の)「石油ショック」となるに違いない。

谷口 雅宣

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2005年9月23日

ヒガンバナの教え

 東京・原宿の生長の家本部会館のホールで「布教功労物故者追悼秋季慰霊祭」が行われた。私は「奏上の詞」を読み、挨拶をさせていただいた。都内の交通量も少なかったが、遺族の方々の出席数が例年より若干少ないように感じたのは、連休の初日であったためかもしれない。
 以下は、私の挨拶の概略である:

 皆さま、本日はお忙しい中、よくお参りくださいました。有難うございます。

 今日は幸い関東地方は好天に恵まれましたが、世界では巨大ハリケーンや台風の到来におののいている人々も大勢いるというのは、大変残念なことであります。地球温暖化が進むにつれて、台風やハリケーンが大型化し、破壊力を増す傾向にあることが最近、専門家などから指摘されています。海水の表面の温度が上がると、暴風雨の規模や力が増すというのです。気象学的にはそういう説明になるかもしれませんが、私は、これは「心の法則」の一つの例証だろうと思うのであります。

 心の法則の中には「動反動の法則」というのがあって、「与えよ、さらば与えられん」「奪うものは奪われる」などと表現されることがあります。地球温暖化の最大の原因は、人間がエネルギーや資源を得るために化石燃料を燃やすということです。人間は化石燃料を掘り出して使う前には、地上に生えている樹木を切り倒して家を建てたり燃やしていた。それが足りなくなったため--つまり、その時地球上で共に生きている植物から奪うこと、そして植物に頼って生きてきた動物からその食糧や棲みかを奪うことをしても、さらに足りなくて--太古の昔に栄えた生物の死骸を、地中の奥深くから掘り出して燃やすことを始めたわけです。

 こうして「人間以外の生物から奪う」ことを続けてきた人類はいま、生物ではない「気象変動」や「地殻変動」の力によって生命や財産を奪われるという事態に遭遇している。もちろん台風やハリケーンは昔からあったが、最近はその破壊力が増大している。その理由の一つが地球温暖化、あるいは海面水温の上昇にあるということです。このことから、私たち地球上の存在はみな互いに深く関連して「一体」をなし、心の法則に支配されていることが分かるわけです。「奪うものは奪われる」のです。だから今後、人類は心の法則を正しく利用して、人間以外の生物からも「できるだけ奪わない」生き方を開発し、推し進めていかなければならないのです。

 さて、話は変りますが、今日はお彼岸の中日です。
 自然界ではお彼岸が近くなると、何の痕跡もなかった土からでもヒガンバナが芽を出し、ぐんぐん伸び、ちょうどお彼岸の時に花を開かせる。私の家の庭でもヒガンバナが満開です。今年は、白いヒガンバナがたくさん咲いた。昨年は赤も同時期に咲きましたが、今年は彼岸の中日には遅れてしまい、今は蕾の状態です。この花は秋の季語ともなっていて、俳句や短歌に表現されると、読む人の心に様々な情緒を生んでくれます。そういう意味でも、気候と自然の草花と人間の心、そして人間が形成する社会とは「一体」の関係であることが分かります。自然にも生命にも周期性があり、人生にも春夏秋冬があって、「青春」という言葉もあれば、「人生の盛夏」あるいは「濡れ落ち葉」というような、人生の一コマを季節に喩えた表現もあります。

 このヒガンバナを見ていると、人生についてのある教示を感じます。これは「宿根草」なのです。地中に根が残っていて毎年、同じところから芽を伸ばす。そして花を咲かせた後に“枯れる”ように見えるが、それはヒガンバナの「死」ではない。また、次の年に同じような花をつけるからです。人間も一種の「宿根草」と言えます。それは実相世界に「根」を下ろした存在であるという意味です。ですから、我々は人生の1周期を経験すると「枯れた」ように見えるけれども、また時期が来れば、現象世界に芽を出して、ぐんぐん成長し、再び花を咲かせるのである。こうしてヒガンバナは、人間の生命が生き通しであり、何回も生まれ変わって学習することを教えてくれているのです。

 谷口雅春先生の書かれた『真理』の別冊「生死を超える道」の中に、この「人間生き通し」の真理を哲学的にどう考えるかが詳しく説かれています。その中から、一節を紹介させていただきたいと思います:

 次のことだけは間ちがいない。即ち来世がもしあるならば来世は現世と同様に、無限創造者(即ち神)によって“霊”を材料として創造されたのであるということであります。従ってそこは、それぞれの人々の魂の次なる段階の生活に完全に適しているということであります。そして、そこには現世と同じように「心の法則」が当てはまる、そこは因果応報の世界であって、現世で心の法則によって魂を訓練してきた者は、来世に於いても心の法則を適正に使用してよき環境をあらわし得るにちがいないのであります。(p.38)

 今日、新合祀者として御祀りされた物故者の方々も、また皆さんも、生長の家の教え、「心の法則」を学びつつ魂を訓練されて来られた方々です。だから、霊界へ行かれてもきっとその教えを守り、心の法則を駆使して、さらなる魂の進歩・向上の道を歩まれることは間違いないと思います。また今後は、我々の守護神として、我々の運動の霊界からのよきアドバイザーとして導いて下さることと信じます。皆様も、これから益々信仰を深め、心の法則を駆使して人類光明化運動・国際平和信仰運動を推進し、現世での意義ある人生を歩まれることを希望いたします。

 この彼岸会のよき日に際して、皆さまに感謝の気持を込めて一言ご挨拶申し上げました。ありがとうございます。

谷口 雅宣

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2005年9月22日

ジャーナリストの魂

 アメリカのABCニュースのアンカーマンを長くつとめた、故ピーター・ジェニングス氏の追悼番組をNHKが放送した。ジェニングス氏については、本欄の4月6日と8月8日ですでに触れているが、私の知らない彼のジャーナリストとしての側面が詳しく紹介されていて、興味深かった。

 特に印象に残ったのは、彼が9・11以降に急速に戦争へと傾いていくアメリカ世論を相手にしながら、自分の信念を曲げずに「アルカイーダとイラクの関係」や「イラク国内の大量破壊兵器の存在」などについて、懐疑的な視点から報道を続けたという点である。そのため、彼の報道姿勢を批判する電子メールがABC放送に殺到し、同社の看板番組の一つであった夕方の「世界のニュース」の視聴率はどんどん落ちていった。これに対し、政府の“テロとの戦争”を積極的に擁護したフォックス・テレビはニュースの視聴率を上げていく。彼はABC放送の重役でもあったから、こういう状況に責任を感じていたに違いない。しかし結局、彼のジャーナリストとしての“勘”が正しかったことが、今では証明されている。

 ジェニングス氏はまた、調査報道によってタバコの害を追究し、フィリップ・モリスを初めとする米タバコ産業の態度を一変させるのに、大いに貢献したそうだ。タバコ会社自体の公式見解が「喫煙は健康に有害かどうか分からない」から「有害である」に変ったのだ。彼が若い頃から喫煙していたことは既に書いたが、最初の喫煙が11歳の時というのは驚きだった。自宅にあった祖母のタバコを吸ったのだいう。そして結婚後、タバコの害を知ってから大変な苦労をして禁煙する。この体験を背景にしての取材だから、相手には相当迫力があっただろう。自分が正しいと思うことを曲げずに丹念に取材し、根気よく相手を説得し、冷静に報道する。そういう姿勢にジャーナリストの原点がある、と感じた。

 カナダ人である彼が、アメリカの3大ネットワークの一つのアンカーマンだったことは、彼への反感の一端をなしていたのかもしれない。しかし、番組のナレーターが言っていたように、この立場の違いは、米政府の政策に対する冷静な距離感を生み、かえって優れたジャーナリズムの伝統の継承に貢献したとも考えられる。そのことを意識したからかどうか知らないが、アメリカ憲法を常に肌身離さず携帯していたジェニングス氏は、同時多発テロから2年後の2003年にアメリカ市民になった。

 彼が高校中退であったことはすでに述べたが、その後の長い海外特派員経験にもかかわらず、この「正式な教育を受けなかった」というハンディキャップは、ジャーナリストとしての彼の仕事にどう影響したのか--番組を見ていて興味をもった。というのは、番組で流れた彼の取材風景の一部にオカシな点がいくつかあったからだ。一つは、ヘンリー・キッシンジャー氏にスタジオでインタビューする際、キッシンジャー氏を「レーガン時代の国務長官」と紹介したことだ。キッシンジャー氏は即座にその誤りを訂正したが、取材相手に対するそういう基本的な情報不足は、「教育」面だけからは説明できない。また、イラク戦争を現場から報道しているとき、アメリカ軍の将軍に対して「あなたの部下は死ぬことはないのか」とか「あなたがサダム・フセインだったら大量破壊兵器をここで使用するか」などという質問を発したことだ。彼は無知を装い、相手の反論を誘うためにそういう質問を投げかけたのか、それとも政治と軍事の区別について基本的知識がなかったのか、答えは今となっては闇の中だ。

 しかし、本当の事情が後者であったとしても、そのことを恐れずに、権力者に対して自分の信念をぶつけていく態度を失わなかったことが、ジェニングス氏をして一流のジャーナリストたらしめた最大の理由ではなかったかと思う。

谷口 雅宣

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2005年9月20日

テレビがなおった!

 わが家の居間にあるテレビがなおった。メーカー系の出張修理会社から技術者が一人来て、1時間もかからない作業で、3点の小さい部品を交換して終りだった。何かあっけなくて、妻と顔を見合わせた。というのは、ここ4~5ヵ月もの間、我々はこのテレビを廃棄して、新型を買わないといけないかもしれないと思案に暮れていたからだ。何を大げさな、と思うかもしれないが、最近のテレビ放送は「ハイビジョン放送」とか「衛星デジタル」とか「地上波デジタル」とか難解なものが次々と出て、そういう高画質、高音質の放送の価値が分からないまま、受像機の方も「プラズマ」とか「大画面液晶」とか「投影式」とか、違いや長所短所がよく分からないものがズラリと提供されている。何をどう選べば、どれとどう違い、どんな用途に合うのかなど、研究しているだけで時間がどんどんたっていく。この“豊かさ”ゆえの選択の煩雑さは、できたら避けて通りたかったのだ。

 しかし、それが不可避かもしれないと思わせることが4~5ヵ月前に起った。テレビの放送中に「映像が突然つぶれる」という現象が、時々起こるようになったのだ。何の前触れもなく映像が縦につぶれて、スマートな女優さんもデブデブになる。最初は、映像が普通の三分の一ぐらいのサイズに縦につぶれていたが、そのうちに四分の一につぶれるようになった。こうなると、何が映っているのか見ても分からない。そんな異常な状態が電源を入れている間ずっと続くなら、早く諦めがつく。が、皮肉なことに、時々正常の大きさにもどるのである。そして10分ほどたつと、またつぶれる。こんなことを繰り返しているうちに何ヶ月もたってしまった。

 問題のテレビは、日本ビクターのAV-33BS2という機種で1990年製だから、もう15年使っていることになる。33インチの大画面型をバブル期に買ったのだ。9月18日に米子市で行われた生長の家講習会で、私はこのテレビのことを少し話した。「我々の日常生活の中での選択が、地球環境の将来を決定する」ことの例に出したのだ。古い電気製品を新しい省エネ型のものに買い換えることが、必ずしも地球温暖化の防止に役立たないので、私も悩んでいると言った。廃棄物処理やリサイクルをするにも、二酸化炭素や熱は排出されるからだ。しかし、テレビは私の重要な情報源の一つだから、見ないわけにはいかない。画面に何が映っているか分からないような状態になれば、買い換えるしかない。もうその時期が来ているのだと半ば諦めていた。

 それなのに、ビクターの技術者が背面を開いて部品を取り替えただけで、すぐなおった。当たり前といえば当たり前なのだが、これまでウジウジと悩みながら、早期に“プロ”の診断を受けなかった自分の愚かさを思い知った。「ビクターさん、ありがとう!」と言いたい。これで当分は、難解なデジタル放送や新型薄型テレビの誘惑を感じないですむ。ちなみに、交換した3つの部品の値段は合計で1200円。しかし、これに技術料8200円と出張費1800円の計1万円を加えて、請求書の総額は税込み1万1760円だった。「もったいない」の実践と言えるかどうか自信はないが、日中の電力使用量のいくらかは太陽光発電で賄っているから、多少電力を食う旧型テレビの使用でも大目に見てもらいたい。

谷口 雅宣

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2005年9月18日

目玉焼き

 米子市での生長の家講習会に来ているが、朝、ホテルでのブッフェ式の食事に卵の目玉焼きがあるのを見つけた。日本のホテルの朝食はブッフェ形式のものが多いが、その場合、卵料理はスクランブル・エッグを出すところがほとんどだ。あとはゆで卵で、たまに落とし卵。もちろん、目玉焼きや「オーバー」と呼ばれる両面を焼いた卵のを出すところもたまにあるが、数は少ない。その理由をつらつら考えるに、恐らく目玉焼きは他の方法に比べて場所をとるからだろう。ホテルのブッフェでは和食を用意するところも多いから、狭いテーブルに和洋の料理を並べるのに、目玉焼きだと白身の部分が外側にひろがって表面積が大きくなる。それが嫌われるのかもしれない。ところがこのホテルの目玉焼きは、その表面積の問題を円形の「型」を使うことで解決していた。型の中に卵を落として焼けば、コンパクトなサイズに仕上がるというわけだ。
 
 私がその目玉焼きを食べながら考えたことは、講習会での話である。私は、生長の家の「万教帰一」の教義を説明するときに、よく宗教を“目玉焼き”に喩える。2つの同心円の画像を示しながら、目玉焼きに“黄身”と“白身”の部分があるように、宗教にも“中心”部分と“周縁”部分とがある、と話すのである。前者は多くの宗教で共通しているが、後者はそれぞれの宗教が生まれ育った歴史・文化的・時代的特徴を備えているため、互いに異なっていることが多い。宗教同士が対立したり、紛争を起す最大の原因は、この共通した中心部分に注目せず、異なる周縁部分に注目して、それを互いの宗教の本質だと考えるところから生まれる。だから国際化が進み、“地球社会”が成立しつつある今日、宗教を原因とする対立をなくすためには、「万教がその中心部分において共通している」という考え方をひろめると同時に、互いの宗教が周縁部分において異なることを「多様性」として認め合うような、一種の“複眼的”視点をもたねばならない--そんな話をしているのだ。

Eggs
 これまでこの話の際に使ってきた画像は、空色と黄色の同心円だった。しかしこの時、きれいな白と黄色の同心円を形成している目玉焼きを目の前にしながら、私は、この目玉焼きそのものを講話の説明に使ってみよう、と思ったのである。固い話だから、少しシャレのきいた絵を使った方が良いに違いないからだ。そこで、食後に部屋へもどると、すぐにデジカメを持って再び食堂を訪れ、不思議がっているウェイトレスの視線を尻目に、パチパチと目玉焼きの写真を撮った。ほんの十数秒のことである。小型のデジカメでストロボを光らせなかったから、私が何をしたかに気づいた人は少数だったと思う。部屋へもどり、写真をパソコンで加工して、その日の講話に使うことができた。幸い、受講者の笑いを誘うこともできたので、この文明の利器に感謝したしだいである。

谷口 雅宣

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2005年9月17日

スーフィズムについて (6)

 本シリーズでは前回まで、主として「歴史的な経緯」をたどりながら、イスラームにおけるスーフィズムの位置を確認しようとしてきた。今回は、イスラームの教義体系全体の中におけるスーフィズムの位置について考えてみよう。

 イスラームには、いわゆる“聖俗分離”は存在しないとよく言われるが、ではイスラーム内のあらゆる宗派が“聖”の分野にも“俗”の分野にも等しなみの注意を払っているかというと、そうではない。もう少し表現を変えると、数多くあるイスラームの宗派の中には、信仰の「内面的深さ」(自覚や悟り)を重視するものと、信仰の「外面的表現」(現実的にどうあるかということ)を重視するものとがある。さらに言い換えれば、信仰の「実体」を問題にする宗派と「形式」を問題にする宗派がある。前者が「シーア派」と「スーフィズム」であり、後者が「スンニ派」である(各派は、さらに細かい宗派に分かれる)。そして、信徒数から言えば、前者は少数派であり後者が多数派で、しかも“正統派”とも言われることがある。

 しかし、イスラーム研究者の牧野信也氏は、この“正統派”という表現に反対して「シーア派とスンニー派のいずれが正統であるか、明確に判定することはできない」と述べている。これと同様のことはキリスト教の「カトリック」と「プロテスタント」の間にも、仏教の「小乗」と「大乗」の間にも言えるから、イスラームを外から眺める我々の立場では「正統」という言葉は使わない方がいいだろう。また「多数派」という言葉を使う場合でも、現在のイラクではシーア派が多数派であり、スンニ派がそれに反発してテロ活動をしていることを思い出せば、イスラームを奉じる各国の事情によって「多数」と「少数」が変わってくることを忘れてはならない。だから牧野氏は、イスラームの内部には「イラン的イスラーム」と「アラブ的イスラーム」の二大潮流があり、それが「シーア派」と「スンニ派」に対応すると述べている。

 イスラームはもちろん、アラビア半島で起こった宗教運動である。だからイスラームは初め、“アラブ的”以外ではありえなかった。イスラーム運動の地理的拡大とともに、そこから“イラン的”なものが発展したという考え方である。では“アラブ的”とは何か? 牧野氏の説明を聞こう:
 
「彼らは元来、広い意味で沙漠の民であり、極度に厳しい沙漠的自然環境の中で生きていくためには、何よりもまず全く身辺で物に即した具体的な次元において、(中略)視覚や聴覚をはじめとするこの上なく鋭い感覚を身につけていった。そして時々刻々と変る自然条件の下で、これらの鋭い感覚によって得られる、物に即した具体的で正確な情報に基づいて判断し、行動していく。このような具体的・即物的視点が、彼らがものを見、考えるときの基本である。」
 
 このような伝統の中から、宗教においても具体的・現実的なもの--儀式、儀礼、イスラーム法など--を重視する考え方が生まれたというのである。しかし、宗教における“形”の重視は、前にも触れたように、形さえ守っていればいいという形式主義に堕す危険を伴っている。また、宗教における“形”は、地域の自然環境や文化と密接に関係しているから、宗教の伝播・拡大にともなって、他の地域の事情にそぐわなくなってくるという問題を内包している。そういう“形式”のもつ限界性を破ろうとする動きが、拡大する宗教の内部からはやがて生まれてくるのである。

 イスラームにおいては、外面的な“形”の背後には必ずそのモトとなる見えない“内的実体”(ハキーカ)があるとし、前者よりも後者を重視することで、“形”を超えようとする考え方が生まれた。それがシーア派の思想であり、スーフィズムである。シーア派の考え方は、どちらかというと「個人」よりも「社会」や「共同体」において“内的実体”を見ようとするのに対し、スーフィズムは(前にも見てきたように)、厳しい修行を通して、個人の心において“内的実体”(神人合一)を感じることを主眼としているように思われる。また、理論や教義として“頭”で理解するよりは、体で体験し、感じることが重要とされた。

 牧野氏の次の言葉は、このようなスーフィズムの特徴をよく表している:
 
「……スーフィーは厳しい修業によって自我の意識を消し去ることに没頭するのであるが、この自己否定の道を徹底的に追究していく過程で、自己否定が積極的意味をもつようになり、遂に自己肯定に転ずるのである。すなわち、自我の意識を消しながら我を内面に向って深く掘り下げていくと、自己否定の極限において人は己れの無の底につき当り、ここに至って自我の意識は完全に消滅してしまう。ところがスーフィーはまさにこの己れの無の底に、突如として輝き出す神の顔を見る。つまり、人間の内面に起る自我意識の消滅がそのまま、神の実在性の顕現に転換するのである。」

【参考文献】
○牧野信也著『イスラームの根源をさぐる』(中央公論新社、2005年)

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2005年9月16日

痛みは心がつくる

 8月19日付の本欄で、『天使の言葉』の中にもある催眠による鎮痛法が今は病院でも使われていて、催眠中に痛みを制御することができることを書いた。ところがこの「痛みの制御」は、催眠など行わなくても覚醒した意識下で、心で“期待する”ことでできる、という実験結果が公表された。ウェーク・フォーレスト大学バプテスト医療センターで行われた実験で、9月初めにオンライン版『アメリカ科学アカデミー紀要』(Proceedings of the National Academy of Sciences)に掲載された。

 研究チームの中心となったテツオ・コヤマ博士は、「期待することは、痛みに対して驚くほど大きな効果を与えることが分かりました。積極的な期待は、痛みの感覚を28%ほど和らげます。これはモルヒネを打った場合と同じです」と言う。またチームの一員であり、神経科学者のロバート・コグヒル博士(Robert Coghill)は、「我々は何もないところに痛みを感じるわけではない。痛みというものは、傷ついた体の部分から送られてくる信号だけで起こるのではなく、そういう信号と各個人に特有な認知情報との相互反応から起こるものです」と言う。
 
「認知情報」(cognitive information)とは難しい言葉だが、「自分はこういう状態だ」と考えることを指すのだろう。自分が強い痛みを与えられていると考える人には、物理的な強さがさほどない痛みでも「痛い」と感じ、自分は弱い痛みを与えられていると思う人には、物理的に強い痛みでも「あまり痛くない」と感じるということだ。この実験で面白いのは、「痛み」の測定に被験者の主観的判断を使っただけでなく、それと同時にfMRI(機能的核磁気共鳴映像法)によって客観的に、被験者の脳の痛覚に反応する部分の変化を調べてみたことである。すると、被験者の積極的期待(つまり「痛くないぞ」という期待)は、主観的な痛さだけでなく、脳内の反応も和らげたというのだ。

 この「脳内の反応」を和らげるのに「エンドルフィン」と呼ばれる脳内化学物質が一役かっていると思われる。いわゆる“脳内モルヒネ”と呼ばれているものだ。8月24日付の医学誌『Journal of Neuroscience』(神経科学雑誌)には、ミシガン大学の分子行動神経科学研究所(Molecular and Behavioral Neurosciences Institute)で行われた「プラシーボ効果」の研究が発表されている。それによると、プラシーボ効果が起こる際には人間の脳内でエンドルフィンが生成され、これが痛みを和らげる効果を生むという。そのとき、被験者が「痛み止めの薬を処方された」と知らされれば、(実際はそうでなくても)痛みはさらに軽減するという。これを被験者の主観だけでなく、PETやMRIという装置を使って脳内の変化を映像化して客観的に確認した点が重要である。というのは、プラシーボ効果とは、単なる心理的(主観的)な感覚の違いだと考える人がいるからだ。しかし、この研究の中心となったジョンカー・ズビータ博士(Jon-Kar Zubieta)は、「脳の痛みに関する領域にエンドルフィン系が作用し、被験者が『痛み止めが処方された』と聞くとその活動がさらに増加し、さらに痛みは和らぐのです。心と体の繋がりは明白です」と言っている。心が物質を生成するのである。

 簡単に言ってしまえば、「痛いと思えば痛く、痛くないと思えば痛くない」ということだろう。こういうことは、我々も経験したことがあるのではないだろうか。「これから怪我をするな」と思って怪我をするのと、何の前触れもなく怪我をするのとでは、怪我の瞬間の痛みが違う。(怪我を見てしまった後は、また別だが……)前者の方が痛く、後者は痛くないことが多い。前回も引用した『天使の言葉』の一節--「物質にあり得べからざる痛苦を物質なる肉体が感ずるは、唯『感ずる』と云う念あるが故なり」--を思い出し、さらに『甘露の法雨』にある「感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず」という言葉を反芻してみよう。なかなか味わい深いではないか。
 
谷口 雅宣

出典:http://www.newswise.com/articles/view/514158/
    http://www.newswise.com/articles/view/513897/

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2005年9月15日

石油高騰の“効果”は? (2)

 9月7日付の本欄で石油の値段が高いことの「よい効果」について書いたが、それを裏づけるようなニュースが報道されている。その一つが、自動車各社によるハイブリッド技術の採用である。15日付の『産経』と『朝日』によると、ホンダが22日に、米欧に続いて日本でも「シビック」のハイブリッド版を発表するらしい。BMWは今月7日、GMとダイムラー・クライスラーが共同開発するハイブリッド車との提携に加わり、ポルシェはVWと組んでSUV車「カイエン」のハイブリッド版の開発を行い、2010年までの発売を目指すという。一方、すでにVWと提携しているアウディは「Q7ハイブリッド」をこのほど公開し、2008年中に発売することを発表した。フォードはすでにトヨタの技術を導入して、昨秋から米国でSUVのハイブリッド車を発売しており、同じくトヨタの技術を使っている日産も来年、新たに「アルティマ」のハイブリッド版を米国で発売するらしい。

 ハイブリッド車の販売は日本よりは北米を中心に好調で、今年の1~8月の実績は全世界で約20万台という。うち8割近くがトヨタ車で、それをホンダが追う形になっている。私が不満に思うのは、トヨタもホンダも最大の市場である北米を優先している点で、日本では買える車種も少なく、注文してから入庫まで何ヶ月も待たねばならない。また、販売台数もさほど多くない。トヨタの販売目標は2010年度に年間100万台で、ホンダは2007年以降、年間7万台だ。BMWのヘルムート・パンゲ社長は、ハイブリッド車のシェアは10年後も「最大で3%」としか見ていない。これは当分、燃費のいいディーゼル車でいけるとの判断によるものらしい。

 ところで、日本でのガソリンの販売価格が1リットル130円台に達したことで、消費者の約半分は生活防衛のために自動車に乗る機会を減らしているらしい。今日付の『産経』が、石油連盟のアンケート調査の結果をそう伝えた。7月末から8月末までの間、インターネットを通じて約2万8000人の消費者から得た回答をまとめたもの。ガソリンの消費を「節約している」と答えた人は48.2%で、「節約したいができない」と答えたのは39%、残りの12.8%は「節約していない」という。節約している人のうち「近くへの利用を控える」人が44.9%、「レジャーに行く回数を減らす」人は26.2%、「公共交通機関を利用する」人は11.1%だという。わが家の場合は、1リットル120円台に入ったころから、上記3つの方法を組み合わせている。しかし、これは“節約”のためだけでなく、健康のために「歩く」ことを心がけるようになったからでもある。そういう意味では、石油の値上がりは都会の人々の健康増進の効果があるのかもしれない。

 もう一つの“効果”は、原料高騰のためにレジ袋が“有料化”を余儀なくされそうな情勢になってきたことだ。今日付の『朝日』は「レジ袋メーカー苦境」という見出しで6段組みの記事を掲載しているが、メーカーの立場では確かに“苦境”と言えるかもしれないが、地球環境の立場から考えれば、これまでのような無料のレジ袋が「有害」なことは明確だ。国内で消費されるレジ袋は年間300億~500億枚と言われていて、これを廃棄物として処理するためのコストと環境への影響は大きい。それが消費者のレベルで有料化されれば、無駄遣いや廃棄量が減ることは明らかだ。しかし問題なのは、レジ袋メーカーには中小企業が多く、納入先のスーパーなど大企業に対し、価格転嫁がしにくい点だろう。しかし、ちょうど環境省が有料化を考えているのだから、スーパー業界は「レジ袋は原則有料」という合意をし、地球環境保全に取り組んでもらいたいと思う。

 「環境へのコストは消費者が支払う」--そういう社会的合意が、これからの時代には必要と思う。そうしなければ、我々はもっと高いコストを台風や気候変動の形で支払うことになるのだから。
 
谷口 雅宣

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2005年9月13日

ヤマボウシ実る

 今日の東京の気温はは34℃にまで上がるとの予報だったが、原宿の私の執務室は30℃前後で“快適”であった。ヤセ我慢ではなく、空気が比較的乾燥していたこともあって、扇風機を回すと涼しく感じる。盛夏を経験したあとは我々の皮膚の汗腺が増えているから、同じ気温でも初夏より涼しく感じるという話を聞いたことがある。本当だと思う。そんな中、ジョギングの帰り途に神宮球場近くの小さな公園に寄り道した。ヤマボウシの実を見るためである。先週寄ったときは、赤く色づいた実を5~6個取って家に持ち帰った。ちょうど色づき始めていて、他の多くの実はまだ小さく、緑色のままだったから、1週間後の今日あたりは、赤い実が多く採れることを期待していたのだ。

 公園にある3本のうち、いちばん日当たりのいい木が大きく、やはり実のつきもよかった。その木の下に赤い実がいっぱい落ちていた。自然は贅沢なものだと思った。すぐ目の前に4階建ての都営住宅が何棟も並んでいるが、採る人はいないようだ。理由は多分、この都営住宅の中庭には、ブドウや夏ミカンなど、実の成る木が何本もあるからだ。あるいは共働きが多くて、四季の移ろいを楽しむ余裕などないのかもしれない。私が採ったのは、しかし4個だけだった。公共のものを独り占めにするのは気が引けたし、第一、持って帰るための容器がなかった。だが、一つ冒険をしようと思い、そのうちの1個の皮を剥いて中身を賞味した。何かの本に「生で食べられる」と書いてあったのを憶えていたからだ。桃の実のような酸味のある甘さの、よい香りの果肉だった。意外に「洋風な味」だと思った。

Yamaboshi
 ヤマボウシはミズキ科の落葉広葉樹で、5~6月に4枚の花弁をつけた白い花を咲かせる。庭の主木として使われるほか、街路樹にすることもある。淡紅色の花をつけるベニヤマボウシや、矮性白花のミルキーウェイというのも同種。ごく近種にハナミズキがあり、これは別名アメリカヤマボウシという。明治45年に尾崎行雄・東京市長がワシントンにサクラヲを寄贈したが、その返礼として贈られたのがハナミズキだ。こちらも紅白の花をつける種がある。5月の全国大会のころ、北の丸公園に咲いているのを見て、憶えている人も多いだろう。ヤマボウシの実は生食するほか、リキュールにもいいようだ。

灼熱の木蔭に赤く木の実落ち

谷口 雅宣

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2005年9月12日

大型台風、列島襲う

 昨日(9月11日)の本欄で、地球温暖化と暴風雨の大型化の関係を“水”を使って説明したが、自分で書いてみて完全に納得できたわけではない。この分野は、素人には複雑すぎるのだ。そう感じていたら、今日付の『ヘラルド朝日』紙に、ニューヨークタイムズのコラムニスト、ニコラス・クリストフ氏(Nicholas D. Kristof)が専門家の見解を紹介してくれていた。それによると、「入手できる科学的データを見ると、地球温暖化は今後、ハリケーンをより破壊的にするか--あるいは既により破壊的にしつつあると考えることができる」という。ハリケーンの力の一部は暖かい水から来るものだから、海面の温度が上昇するとそれだけ強力になるらしい。昨年、『気象(Climate)』という雑誌に発表された論文では、1200もの気象シュミレーションをまとめた結果、温室効果ガスの排出が増えるにつれて、「カテゴリー5」という最大級のハリケーンの発生率は3倍になりえるとしたそうだ。また、今夏発行された科学誌『ネイチャー』の中で、マサチューセッツ工科大学のハリケーン専門家、ケリー・エマニュエル氏(Kerry Emanuel)は、ここ30年の間に、ハリケーンの強さはほとんど2倍になったと述べているらしい。ただし、ハリケーンの発生頻度は、必ずしも上昇していないようだ。
 
 クリストフ氏がこの論説で紹介していたウェッブサイトへ行ってみた。そこはブログの形式で気象学者が自分たちの研究を発表したり、気候変動の現状をどう評価するかを述べ、それに対して、主として科学者が質疑応答を行い、また批判検討を加えるサイトである。目的は、研究のためというよりは、一般の関心ある人々やジャーナリストに正確な科学的知識を提供することにあるらしい。こういうサイトができて、それを世界中の人がほぼリアルタイムに見ることができるというのは、やはりインターネットなしでは考えられないことだ。

 クリストフ氏が論説中で紹介していた論文は、5人の気象学者の名前で9月2日付で発表されたもの。英文で4ページの比較的分かりやすい論文だが、その後に科学者からのコメントが(今日現在で)120もついている。興味のある方は一読をお勧めする。温暖化と暴風雨の“激化”の関係については、その中で「案外単純だ」として次のように書いてある--「ハリケーンのエネルギー源は、暖まった水と、それによって生み出される大気圏下層の不安定な空気の流れである。だから、台風やハリケーンは熱帯で、しかも海面温度が最も高くなる時期にしか発生しない」。

 ところで話題はまったく変わるが、今朝の『産経新聞』1面の巨大な見出しを見て、私は日本にハリケーンが襲来したのかと思った。曰く、「自民圧勝 列島のむ」。スポーツ新聞のような見出しで、文法的には正しくない。また、比喩としても少しオカシイと思う。むしろ「自民人気 列島をのむ」とか「自民圧勝 列島包む」ぐらいの方が正しい日本語と言える。しかしまぁ、この見出しを考えた整理部のデスクは、きっと「息を呑む」思いで開票結果を見つめていたのだろう。だから、「自民圧勝の勢いに息を呑んだ」という気持で、この見出しを選んだのかもしれない。私自身は「息を呑む」というよりは、ややガッカリした。“無党派層”と呼ばれる国民の大多数が、見事に小泉首相の土俵に載って踊ってしまったと感じた。しかし、投票率のよさを考えると、恐らく「喜んで踊った」のだろうから、これを「民主的な選挙」と呼ばなくて何と呼ぶべきか。「分かりやすい」彼の手法が、これまでのヌエ的な、分かりにくい自民党政治を凌駕していることは否定できない。そういう意味で、小泉氏は政治家としては傑出していると思う。

 『産経』は、やや興奮気味に「今回の選挙を通じて、自民党はかつての『利益誘導、地域代表』政党から『国益優先、国民代表』政党への脱皮し始めた」と書いているが、それが「希望」の表明であれば問題ないが、「事実」のごとく書くのはいただけない。ジャーナリズムの冷静さを忘れないでほしい。これで郵政民営化は実現するだろうが、「その先」がなかなか見えない。『朝日』は「『郵政』以外を明確に語れ」と書き、『産経』も「首相が問われるのは、郵政民営化に続いて何をやるのかだ」と書いている。私としては「環境税」の実施を含んだもっと積極的な環境行政と、化石燃料依存型の産業から新エネルギー重視へと日本のエネルギー利用の方向を大きく転換してもらいたい。しかし、相変わらず「利益誘導型」の政治は続くだろうから、まぁ、そういうことにはすぐにはならないでしょう……。

谷口 雅宣

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2005年9月11日

「天空の貯水池」を消すな

 生長の家の講習会が北海道の小樽市であり、私は午後の時間、氷河が世界的に減少していることに言及した。8月27日号の『NewScientist』誌の特集記事の一部を紹介したのだが、そのことと、昨今の台風やハリケーンの大型化の関係を知ってほしかったからだ。この氷河と台風の関係は、何か「風が吹けば桶屋が……」のように聞こえるところが、気象現象の複雑さをよく表している。

 まず、氷河減少の現状を上掲の記事からかいつまんで紹介すると--スイスのチューリッヒにある世界氷河観測サービス社によると、2002~03年に調査した88の氷河のうち、少なくとも79の氷河は後退していて、成長しているのはわずか4つだという。アフリカの最高峰、キリマンジャロの雪のことは拙著『今こそ自然から学ぼう』でも触れたが、この山の山頂付近の雪を調べると、少なくとも1万1千年前からそこにあることが分かっているが、最初に調査した1912年に比べて、現在はその8割が消失しており、あと20年もすれば山頂の雪や氷はすべてなくなると言われている。また、中央アフリカのケニア山では、1900年以降に18の氷河のうち7つが消失し、ニューギニアの西メレン氷河は、1990年代末になくなった。ペルーのアンデス山脈では、過去30年間で山頂の雪や氷の四分の一がなくなっており、ベネズエラでは1975年以来、6つの氷河のうち4つが消失した。中国では1980年以降、4万6千の氷河から約7%の氷が失われ、中央アジアの天山山脈の氷河の表面積は、1955年から2000年の間に四分の一が減少した。

 氷河の機能は「天空の貯水池」だと言われる。それは、大気圏から降り注ぐ水を地表に流す前に、氷の形で貯蔵しておく役割だ。この貯水池の機能のおかげで、冬季に降った雪や雨は“天空”に固定され、春から夏にかけてその一部が溶けてゆっくりと地表に流される。山の斜面を下る速度は、氷が解けて流れる方が、降雨が一気に流れるよりもはるかに緩慢である。だから、地中に浸透して地下水になる量も多く、雪解け水は、山の麓の森林や農産物を育てるのである。ところが、地球温暖化が進むと、氷河は後退--つまり、空の方向へ退縮する。これは「天空の貯水池」の水がそれだけ減ったことを意味する。それに加えて、春になって麓に流れる水(雪解け水+雨)の量が増える--これは、春に「洪水」が起こる危険性が増えることを意味する。また、夏に乾期がある地方では、“貯水池”の水量減少のため、夏まで流れ続ける水の量が減るから「旱魃」が起こりやすくなる。今年の春から夏にかけて、ヨーロッパではその通りのことが起こったのである。アルプスの雪解け水が急増して北ヨーロッパは洪水となり、ポルトガルやスペインでは日照りのため森林火災が燃えひろがった。

 ここで、地球上に存在する「水」のことを考えてみよう。地球上の水の97%は海である。残りの2%は、グリーンランドや南極、そして高山の氷河に「氷」として固定されている。2%というと、ごくわずかな量のように聞こえるかもしれないが、南極大陸やグリーンランドの氷は海抜2キロの厚さに達する場所もある。これらを除いた残りの1%が、地表(地中と大気圏内)に存在する。この1%が地表を上下に循環しながら生命を支えている一方、洪水や嵐となって生命を脅かしているのである。太陽は海水の蒸発を促進する。水蒸気は、大気中を循環して雨や雪として地上にもどってくる。この巨大な循環に終わりはない。雨や雪として地上に落ちる水は平均で12日で入れ替わるという。この地球上の水量は、30億年前から変化していないと言われている。もしそれが事実ならば、地球温暖化はどういう効果を生むだろう? 温暖化すれば、これまで固定されていた極地と高山の氷が溶けてこの「水循環」のサイクルに加わる。温暖化はまた同時に、水の蒸発を促進するはずだ。すると、温暖化前よりも大気中の水量が増えるから、これが雨や雪となって地上に落ちる場合、以前よりも「頻繁化」したり「大量化」することになるだろう。つまり一言でいえば、温暖化は地球上の水の循環の「速度」と「量」を増すのである。だから、年間に発生する台風やハリケーンの数は増え、あるいは大規模化する。

 地球政策研究所(Earth Policy Institute)のレスター・ブラウン氏は、この傾向を具体的な例で示したあと、次のように記している:
 
「暴風雨が発生頻度と破壊力の両方を増していることは明らかである。より強い暴風雨はより大きな被害を意味する。北半球で冬の暴風の発生頻度四半世紀足らずのあいだに2倍に増えたことは、それらの強度が増したことと相まって、暴風関連の被害額の急激な増加を導いている。
  この動向が21世紀にどう展開するかは、現時点ではだれにもわからないが、もし私たちが従来通りの行動をとりつづけ、二酸化炭素濃度が上昇しつづけるなら、将来の暴風雨の破壊力はおそらく今日とは比べものにならないほど大きくなるだろう。今日の暴風雨の破壊力が少し以前のそれよりもはるかに大きくなっているのと同じように。人間活動に起因するこれらの破壊的な大災害に対処するためのコストが、一部の国々の社会・経済を圧倒して、それらの経済衰退を導くおそれがある」(『エコ・エコノミー』、p. 51)

谷口 雅宣

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2005年9月 8日

スーフィズムについて (5)

 アッバス朝の滅亡は1258年、モンゴル軍の侵攻による。同朝の最初の100年にイスラム法の体系化はほぼ完了し、宗教法の代弁者であるウラマー(聖職者)とカリフ体制との密接な関係が成立し、法の執行者を頂点とした“理想的”な共同体の制度が確立したことなどから、この時代のイスラームを「古典的イスラム教」と言うことがある。しかし、イスラム法の実践を通じて理想的宗教社会を地上に実現しようとしたにもかかわらず、そこには形式主義という新たな問題が発生していた。このアッバス朝の“黄金時代”に発生したスーフィズムは、そのような傾向に対する危機意識を表していたとも言える。また政治的にも、アッバス朝は問題を抱えていた。イスラームによる中央集権的体制も100年足らずのうちに崩れ始め、すでに9世紀から、共同体内の各地に軍事力を背景としたアミールやスルタンなどが政治的支配を確立しはじめていた。この中にはカリフ(モハンマドの後継者)を僭称する者も現れ、政治的、社会的に分裂したり、混乱を来してくる。ここにも、宗教や信仰と政治権力が結びつくことの難しさが顕われているようだ。

 イスラーム研究者の中村廣治郎氏は、現代の政治家を髣髴させるようなこの時期の例を引いている:
 
 「ハナフィー法学派の祖であるアブー=ハニーファの高弟で、アッバース朝カリフ、ハールーン・ラシードの信任の厚かった大法官アブー=ユースフ(798年没)は毎年末、妻に自分の財産を贈与し、あとでそれを返させるということでザカート税を免れていた。このことが師のアブー=ハニーファに伝えられると、師は次のようにいった--『それは彼の法学のやり方であり、それはそれで[法学的には]正しい。なぜなら、それが現世の法学なのだから。しかし、それが来世においてもつ害はどんな罪よりも重い』と。」
 
 このような宗教指導者の腐敗の問題に加えて、もう一つの形式化の問題がある。それは、イスラム法学や神学、コーラン解釈学などのイスラム諸学が発達するにつれて、その学問内容はしだいに高度化し、精緻化し、神は非人格化し、抽象化してくるから、信仰が民衆からかけ離れてくるという問題である。これは、キリスト教がローマ帝国の国教となることによって生じた問題とも似ている。また、上座部の仏教が少数のエリート知識層によって高踏化して、民衆の欲求に応えられなくなったため、クシャーナ王朝下に大乗仏教運動が始まった事情とも共通点をもっている。
 
 スーフィーたちにとっては、イスラームの聖職者ウラマーは、模範的信仰者では必ずしもなかった。例えば中村氏によると、以前に取り上げたジュナイドは、「神は唯一なり」という信仰を表すタウヒードを4段階に分け、低い段階のものから①民衆のタウヒード、②ウラマーのタウヒードとし、スーフィーは③④の段階にあるとした。また、ウラマーの側からは、内面を重視するあまり形式を否定したり、「我・即・真実在」などと唱えたスーフィーを危険な異端者と見た者も多かった。さらに、両者が重視するものの性質に違いがあった。スーフィーたちは(これまで述べてきたように)神との合一体験にもとづく直観を重視したのに対し、ウラマーはイスラム法の知識や哲学を重視した。このようなスーフィーとウラマーの対立を異常と感じたスーフィーの中には、修行の方法を整理・明確化すると共に、修行者の内面的変化を理論化して、誰でも真偽判断のできるような基準を示そうとした者もいる。サッラージュ(988年没)、アブー=ターリブ・マッキー(996年没)、カラーバーディ(1000年没)、ガザーリー(1111年没)などである。

 体験や直観を重んじるスーフィズムでは、師と弟子の関係が基本である。入門者は「ピール」とか「シャイフ」と呼ばれる導師につかねばならず、「導師なきムリード(入門者)の導師はサタンなり」と言われた。弟子は師について修行し、一人前のスーフィーとして認可されれば、師を離れて一人立ちし、「シルシラ」(仏教における“血脈”)を受け継ぎ守りながら、今度は自分が弟子を指導するようになる。この場合、従前の師との間に組織的関係が残らないのが初期の形だった。ところが、12~13世紀ごろからは、師弟関係が組織として残るようになった。つまり、特定の聖者を一種の“教祖”として、弟子は各地に散って支部を開くことで、「ターリカ」と呼ばれる恒常的な教団組織が成立してくる。そして、しだいに普通の仕事に従事している民衆を組織化して“在家”の信仰の要素を広げてくる。即ち、在家信者を定期的な教団の勤行に参加させたりするようになるのである。勤行のための道場(ザーウィヤ)や集会場(テッケ、ハーンカー)が造られ、そこで集団によるズィックル(称名)などが行われるようになる。
 
谷口 雅宣

【参考文献】
○中村廣次郎著『イスラム教入門』(岩波新書、1998年)

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2005年9月 7日

石油高騰の“効果”は?

 イラク戦争やアメリカ南部のハリケーン被害の影響で石油の高騰が続く中、経済への影響が心配されている。70年代の第二次オイルショックと比較して、今後の世界経済は「もっと悪い」とか「それほどでもない」など、専門家によるいろいろな予測がある。素人の私としては、別の観点から一歩先を見た考え方を述べてみよう。まず第一に、“石油ピーク”説をとっている私としては、需要に対して供給が少なくなるのだから、石油の高騰はむしろ「当然」である。また、地球温暖化の進行を防止する立場から言えば、石油高騰によって消費が減少し、温室効果ガスの排出量が減少することは「望ましい」ともいえる。問題は、石油等の化石燃料に依存して発展してきた現代の様々な産業が衰退する可能性があることだ。しかし、この問題は、すでに相当前から予測されてきたことで、日本の多くの産業においては省エネ・省資源・高効率化の努力が積み重ねられてきた一方で、代替エネルギーの利用技術が開発され、徐々にではあるが発展しつつある。文明を支えてきたエネルギー源が大きく変化しようとしているのだから、化石燃料を基礎とする産業は次第に衰退し、新エネルギーを基礎とする産業にとって代わられるのは不可避なのだ。

 しかし、中国などのアジアの中進国の中には、国内産業保護のために石油の値段を不自然に低く抑える政策を長い間採ってきた国が多く、これが環境悪化を促進してきた面がある。石油が高騰すると、そういう国々の財政的負担は極めて大きくなるため、この環境破壊的な政策の転換を促すことにもつながる。その意味では、石油の高騰は悪い結果ばかりを生むわけではない。

 9月7日付の『ヘラルド朝日』紙は、アジア諸国によるこの政策転換がすでに始まっていることを伝えている。その記事によると、パキスタンは先週すでにガソリンと軽油の国内価格を値上げしており、インドは6日、補助金を減らす代わりに国内のガソリンと軽油の卸値を7%上げることを発表した。タイは、タキシン首相が約束した義務的省エネ政策の最後の煮詰めを行っており、中国、台湾、インドネシアの3国も、ガソリンと軽油に対する補助金を削減して、国内価格を値上げする方策を検討しているという。インドネシアは、すでに一部の石油製品で2割の値上げを実行したが、その背後には、エネルギー産業への補助金の額が今夏、政府支出の四分の一を超えるまでになったことがある。現在、同国で最も安価なガソリンは1リットル=42セントであり、中国では45セント。アメリカの今の平均が1リットル=84.5セントであることを思えば、その安さが分かる。因みに日本では、7日の店頭でのレギュラーガソリンの値段(全国平均)が1リットル=130円(1ドル19セント)となり、13年8ヵ月ぶりの高値をつけている。

 日本のガソリンの値段は高すぎるだろうか? これには様々な考え方があるだろうが、私は「自然資本」を正しく評価することを提唱した経緯もあるから、各国との比較では「高い」とは言えても、自然資本へのコストを反映するという意味では、必ずしも高いとは思わない。「大気汚染」や「二酸化炭素排出」という地球環境へのコストを、利用者が支払わねばならないと考えるからである。「化石燃料を燃やして利益を得られる」という時代は過ぎ去りつつあることを、我々は昨今の荒々しい気象から学ばねばならない。また、日本ではガソリンに税金をかけてきたおかげで、燃費のよいエンジンの開発が進み、ハイブリッド車などという高度技術が生まれたのだ。石油高騰時代には、これと同様の効果が日本だけでなく、世界中にゆきわたることになるから、代替エネルギー利用のための技術開発が一気に進むだろう。「値段が高い」ということが、善い結果をもたらす場合もあるのでである。

 日本では総選挙が近づくと「環境税」の問題がどこかへ行ってしまったが、郵政省の職員を大幅に減らして財政難を軽減したとしても、環境破壊的経済制度を維持していく限り、我々は繁栄しつづけるわけにはいかないのだ。ニューオーリンズの受難は、そのことを有力に物語っている。今重要なのは、環境保護のための社会経済制度の変更である。“人減らし”のためではなく、環境破壊をしないための税制改革である。レスター・ブラウン氏もそのことを訴えている:
 
 「私たちは社会経済システムを変えなくてはならない。そのためには、税制を再構築する必要がある。所得税を減らす一方で、環境への負荷の大きい生産と消費への課税を増やして、価格が生態学的現実を反映するようにする必要がある。地球環境の劣化を反転させることを望むならば、こうした税制改革は不可欠である」(『エコ・エコノミー』、p. vi)
 
谷口 雅宣

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2005年9月 6日

スーフィズムについて (4)

 本シリーズの前回までは、アッバス朝初期(最初の100年)までのスーフィズムの足跡をごく簡単にたどった。それを要約すると、この宗教運動の中心は「神との合一」体験であり、また「神への愛」を生活に実践することだった。その生活とは、世俗的な富や名声に背を向けて「禁欲的修行」をすることであるから、スーフィズムには現世否定的傾向がある。仏教的に表現すれば、「社会の救済」よりは「個人の悟り」を目的とした神への徹底奉仕行を重んじる、と捉えることができるだろう。ところで、イスラームの特徴の一つは、その信仰や考え方が「個人」の領域に留まらず「社会」や「政治」の領域と不可分の関係にあることだ。もしスーフィズムが社会や政治などの「現世」を否定的に捉えているとしたら、それはイスラム社会の中にあっては“異端”と言うべきものだろうか?

 この問いかけに対して、いわゆる「原理主義」的立場のイスラーム信仰者は、大抵「その通り!」と答えるだろう。彼らの多くにとっては、スーフィズムは「イスラーム」の名に値しない“迷信”であり“偶像崇拝”である。なぜなら、スーフィズムは(前にも触れたように)ギリシャ哲学の匂いがし、ムハンマドが「最終の預言者」であるにもかかわらず、その後に現れたスーフィーという“聖者”を中心とした宗教団を形成するからだ。それにスーフィズムは、自己の内面の向上を第一として、神の秩序が現世に(外的に)現れることにあまり期待しないから、現実の社会の不合理な状況--例えば、キリスト教社会がイスラム国家を支配・抑圧している状況--を変えようとしない。本シリーズの冒頭で、イラクに住むスーフィズムの信奉者が反米アラブ人から攻撃をかけられているという新聞記事を紹介したが、その理由がこれで理解できると思う。

 実は過去にあっては、スーフィズムは原理主義勢力からもっと激烈な攻撃を受けていた。19世紀の初め、アラビア半島では、現代のイスラム原理主義運動の“走り”とも言われているスンニ派イスラームのワッハーブ派が支配的だった。同派が権力を握ったとき最初にしたことの一つは、アラビアとイラクにあるシーア派の指導者とスーフィーたちの墓をすべて破壊することだった。原理主義者にとってみれば、これによって様々なスーフィーたちが築き上げてきた内面重視の文化と伝統を否定し、自分たちによる『コーラン』や『ハーディス』の原理主義的解釈のみで理想的な“イスラム国家”が建設されうると思ったのだろう。オサマ・ビン・ラディンを生んだ現在のサウジアラビアは、このワッハーブ派のイスラームを国教とする。

「ワッハーブ派」とは、ムハンマド・ビン・アブドゥル・ワッハーブが創始した宗派で、イスラームのスンニ派の4つの公認法学派の一つであるハンバリー派の系統にある。イスラム研究者の保坂修司氏によると、ワッハーブの思想は、「彼が考える非イスラーム的なもの、反イスラーム的なものに対する容赦ない攻撃を特徴とする。ハンバリー派の徒として、ムハンマド(ワッハーブ)はコーランとスンナに書かれていること以外を信仰からの逸脱としてはげしく断罪するのである。彼にとっては、イスラーム思想史を豊に彩る思弁神学やスーフィズム、また聖者崇拝やシーア派も本来のイスラームを汚す不純な要素にすぎなかった」という。アメリカのイスラム研究者、カール・アーンスト氏(Carl W. Ernst)によると、この原理主義運動の浸透により、「現代の多くのイスラム教徒は、スーフィズムを注意深く除外した形の宗教的伝統を教え込まれてきた」のだという。

 このような事実を考えてみると、スーフィズムは今日のアラビア半島周辺のイスラム世界--特に、イスラム原理主義の支配下--にあっては、正当な評価を受けていない“少数派”であることが分かる。

谷口 雅宣

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2005年9月 5日

ES細胞は“劣化”する

 8月29日の本欄で「成人幹細胞」を利用した心臓病治療の成功に快哉を叫んだが、再生医療のもう一方の雄である「ES細胞」(胚性幹細胞)を使った治療については、“黄色信号”が点った。「ES細胞は古くなる」ことを示すような実験結果が発表されたのだ。9月5日付の『朝日新聞』によると、ES細胞は培養を長く続けると、癌細胞で怒るような異常を生じることが実験により発見され、同日付の科学誌『ネイチャー・ジェネティックス』電子版で発表されるという。少し専門的になるが、このことを意味を少し考えよう。

 ヒトES細胞は、受精後5~7日ほどの人間の受精卵(胚盤胞)の内部組織を取り出し、培養したものだ。これが注目されている理由は、①人間のどんな組織や臓器にも分化できる潜在能力をもっていること(全能性)と、いったん培養に成功すれば(これを「樹立」という)、②細胞分裂を何回でも繰り返して増殖すること(不死性)ができると考えられてきたからだ。この2つの性質を利用すれば、一方で無限に分裂を続けるES細胞の“ストック”を維持しながら、他方で、その一部を、必要な際に必要な組織や臓器に分化させることにより、半永久的に組織移植や臓器移植を継続することができるからだ。この2番目の性質について、例えば、平成12年に政府が出した「ヒト胚性幹細胞を中心としたヒト胚研究に関する基本的考え方」という文書には、「通常の細胞は一定の回数分裂するとそれ以上は分裂しなくなるのに対して、何度でも分裂できる性質(不死性)を保持している」と書いてある。

 ところで、我々が恐れる癌細胞も、これと似た「不死性」をもっていることは有名だ。つまり、癌が恐れられる理由は、それが体からの指示にしたがって分化や細胞分裂を止めようとせずに、一種の“暴走状態”になって細胞分裂を続け、体に必要な栄養分をどんどん横取りしていくからである。だから、ある細胞に「不死性」があるだけでは体全体にとって有益とは言えない。そこに“癌化”しないような安全装置が働かなければ不十分だ。そして、ES細胞には、その安全装置もきちんと備わっているという大前提が、研究者の間には存在していたのである。この点を上記の文書では、次のように表現している--「染色体数に異常がなく、通常の体細胞と同数である状態を維持し得る。(ガン細胞や、他の不死化した細胞においては分裂に伴って染色体の数が通常の数から増減することが多い。)」今回の研究では、ES細胞を継続的に培養していると、この安全装置が働かなくなる場合もあることを示しているのだ。

 上記の『朝日』の記事によると、実験では、9株の人間のES細胞を増殖させ、殖えると別の容器に分けてさらに増殖させるという操作を22~175回繰り返して行い、得られた細胞と元の状態とを比較したという。すると、9株のうち8株で、癌化や老化にともなって起こる異常が増えていたそうだ。つまり、いかに“不死性”のあるES細胞でも、培養しているうちに“老化”したり“癌化”する可能性が増えてくるらしいのだ。したがって、ES細胞を長期にわたって培養しておくと有用性が減り、危険性が増すことになる。ということは、常に“新鮮な”状態のES細胞が求められることになり、「受精卵や卵細胞を破壊して得る」という最も問題視されている手続きは、ES細胞利用のためには不可避な手段として残される可能性が出てきている。

 こういうことを考えてみても、心ある科学者には、私は倫理性に問題のあるES細胞の研究よりも、成人幹細胞の研究に力を入れてもらいたいと思うのである。

谷口 雅宣

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2005年9月 3日

福岡から

 生長の家の講習会のため午後、福岡へ飛んだ。関東地方はこのところ、朝晩がしのぎやすくなっていたが、この地は厳しい残暑の只中だった。博多駅近くのホテルにチェックインしてまもなく、妻と二人で散歩に出た。気温は34℃だと聞いていたが、人々は暑そうな顔をしないで街を闊歩している。私もそれに負けじと、スーツの上着を脱がずに歩いた。天神までバスで行って、地下の文具店で葉書を眺めていたら、珍しく原稿用紙目の入ったのが売られていた。私は文章を書くのに原稿用紙を使わなくなって久しいが、この枡目の並んだ用紙の表面をじっと見ていると、何か文字を書きたくなってくるから不思議だ。少し迷ったすえ、思い切って2枚買った。その後、近くの書店へ足を延ばして、葉書を買ったのと似た気持で、レヴィ=ストロースの本を2冊買った。PostcardM


 4月13日付の本欄でも本との“予期せぬ出会い”のことに触れたが、今回もそれに近い。レヴィ=ストロースは「Levi-Strauss」と書くといえば、ジーンズのことを思い起こす人もいるだろうが、この場合はジーンズではなく「神話学」であり「人類学」である。1908年生れのフランス人で構造人類学の創始者であり、世界中に散らばっている神話の中に、共通する意味を読み解く人だ。彼によれば、構造主義的アプローチとは「外見上の相違のなかに不変の要素を求めるもの」である。どこかで聞いたことがある言葉ではないだろうか? 生長の家の「万教帰一」の考え方は、多くの宗教の教えや儀式の外見上の相違の奥に、共通する真理や心的態度を認めるものだ。7月6日と8月7日の本欄でも触れたジョン・ヒックの「宗教多元主義」とも共通する。読みたいと思っていた本に予期せずに遭遇できるのは、幸運以外の何ものでもない。

 ところで、アメリカ南部を襲った巨大ハリケーンのことで、同国の勅使川原淑子教化総長から第一報をいただいた。それによると、被害の大きかったアラバマ、ルイジアナ、ミシシッピの3州には信徒(聖使命会員)はいないとのこと。月刊誌の読者は2名ほどいるが、その人たちの消息は分かっていないという。現在のところ、アメリカ赤十字社を通しての募金活動が個人レベルで始まっている。

 それから、ハリケーンの規模を示す「カテゴリー1~5」と、日本の台風との関係がよく分からなかったが、『西日本新聞』の今日(9月3日)の夕刊に、その説明があった。それによると現在、沖縄県に接近中の台風14号を気象庁は「大型で非常に強い」と表現しているが、これが「カテゴリー5」に相当するらしい。「カトリーナ」は上陸直前、中心気圧902ヘクトパスカル、最大風速約75メートル、最大瞬間風速約90メートルで、風速25メートル以上の暴風域は半径約220キロだった。それと比べると、台風14号は3日午前9時現在、中心気圧935ヘクトパスカル、中心付近の最大風速45メートル、暴風域は280キロという。風速がカトリーナよりやや劣るが、これが次第に強くなる可能性もあるという。また、米軍のデーター解析によると、台風14号の最大風速は「66メートル」になるそうだ。これは、アメリカでは「1分平均」の値を計算するのに対し、日本では「10分平均」で計算して「最大風速」とする違いによるらしい。

 ということで、アメリカ南部に続いて、我々東アジアの人間も同様の経験をすることになるかもしれない。九州、沖縄地方の皆さん、台湾の皆さんは、充分に警戒してください。

谷口 雅宣

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2005年9月 2日

巨大ハリケーンは何を語る

 アメリカの南部を襲った巨大ハリケーンの被害が明らかになってくるにつれて、他国のことながら、私は心が重くなるのである。このハリケーンは、上陸前から“史上最大級”であることがアメリカのメディアで喧伝されており、地方によっては避難勧告や命令まで出した。にもかかわらず、避難する手段や場所のない多くの貧しい人々の命が犠牲になってしまった。9月2日付の『ヘラルド朝日』紙によると、ニューオールリンズ市長の推定では、死者の数は同市だけで数千人に及ぶといい、2万人以上の避難民が収容された同市のフットボール場「スーパードーム」では、食糧難と汚物の中、気温が38℃にも達する地獄のような悪条件から逃げ出そうとする市民が、用意された300台のバスめがけて我先に殺到したという。市長の推定が正しければ、今回のハリケーンの被害は、アメリカでは1906年のサンフランシスコ大地震(死者約6千人)以来の大惨事になるらしい。亡くなられた方々の冥福を心からお祈り申し上げます。

 人口約50万人のニューオールリンズ市の大分部は海抜ゼロメートル以下の低地で、市の南部を流れるミシシッピ河畔と北部にあるポンチャトレイン湖岸に設置された堤防によって水から守られている。これらの堤防は、しかし「カテゴリー3」の大きさのハリケーンの力に耐えても、それ以上のものには耐えられない設計だったという。今回のハリケーン「カトリーナ」は一時「カテゴリー5」にまで発達し、その後「4」に衰えて上陸した。だから、この街が水の下に埋まることは事前に充分予測できたのだ。同市のあるルイジアナ州以外にも、アラバマ、フロリダ、テキサスなどメキシコ湾に近い州の被害が大きかった。そして、これらの州は油田地帯に近接している。つまり、石油や天然ガスの採掘・精製・運搬、それを原料とした石油化学工業などが発達した地域だ。だから、ハリケーン「カトリーナ」の湾岸地域上陸が確実視され始めると、原油の値段は急上昇して1バレル70ドルを突破した。この地域の産業がハリケーンの被害から立ち直るまでは、原油の値段は今後上昇することはあっても、急激な下落は見込まれないだろう。

 原油の値段のことを書くと、どうしても中東の問題を思い起す。原油の値段は中東情勢とも密接に関わっているからだ。産油州のテキサス出身で、同州の知事でもあったブッシュ大統領が、9・11テロをきっかけにイラクの政権転覆をはかって軍事侵攻し、世界第2の埋蔵量をもつイラクの石油が事実上止まった。その後、同国の内戦状態は一向に治まらない中で、今度はアメリカ本国の石油産業がハリケーンに襲われた。その被害の中で、都市では被災者による商店の略奪が続いているが、治安要員の不足が言われている。ところが、ルイジアナ州の国家警備隊員のうち3,000人と、ミシシッピ州の警備隊員の3,800人が、今はイラクの治安維持に当っている。これらの海外派兵隊員は、それぞれの州の警備隊員総数の約四割に当るという。そして、もう一つ無視できないことは、ハリケーンや台風が大型化することは、地球温暖化の影響の一つとして科学者が前から予測してきたことだ。「化石燃料」の周辺に、これだけの問題が集中して起こっていることに気づいてほしい。

 8月31日付の前掲紙オピニオン欄に、ロス・ゲルブスパン(Ross Gelbspan)というライターが「ハリケーン・カトリーナの本当の名は」という記事を書いていた。その答えは「地球温暖化」なのだという。彼は、今年の初めにロサンゼルス市で60センチの積雪があったこと、スカンジナビア半島で時速200キロの暴風が吹いて原発をいくつも停止させたため、アイルランドと英国が停電したこと、この夏の初め、アメリカ中西部のミズリー川が旱魃で枯渇したこと、7月にはヨーロッパを旱魃が遅い、スペインとポルトガルでは山火事が燃え広がり、フランスでは過去30年で最低の降水量となったこと、アメリカではアリゾナ州を襲った熱波のために1週間に20人以上が死んだこと、インドのムンバイでは1日37インチの豪雨が降ったため1千人が死に、2千万人に被害が出たことなどを指摘し、「その原因はすべて地球温暖化だ」と結論している。理由は、「大気圏が暖まるにつれて、旱魃は長引き、降雨量は増え、熱波は頻繁に訪れ、嵐は深刻化する」からだそうだ。

 世界規模で変動しつつある気候をどう解釈し、どう対応していくべきか。日本の我々も“対岸の火事”のように眺めていてはいけないのだ。

谷口 雅宣

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2005年9月 1日

赤ちゃんの“恩返し”

 4月26日の本欄で、異種の生物の組織や臓器が入り混じった「キメラ」が存在することを書き、例として、人間の血液をもったブタ、人間の肝臓をもったヒツジ、人間の脳をもったネズミ、ブタの心臓をもった人間などを挙げた。こういう“混合動物”は、混合した一方の動物が、何らかの形で他方の犠牲になるという意味では“悪いキメラ”と呼べるかもしれない。人間の臓器をもった動物は、いずれ臓器を摘出されて死ぬ運命にあるだろうし、人間が動物の臓器を移植する際には、臓器を提供した動物は殺されるからである。しかし、人間同士の“キメラ”の中には、相互に助け合う--いわば“善いキメラ”と呼べるもの--があり、しかもそれがごく普通に存在しているのだ。

 イギリスの科学誌『NewScientist』の8月20日号は、妊娠中の母親の体内に赤ちゃんの体の幹細胞が胎盤を通じて漏れ出て循環する話が書いてある。これは必ずしも組織や臓器の混合とは言えないが、「マイクロキメリズム」(微小キメラ現象)と呼ばれている。病気でも何でもなく、普通に起こる現象である。そして、これらの幹細胞は、赤ちゃんが誕生した後も母親の皮膚や肝臓、脾臓などの細胞内に残留して、これらの組織や臓器が傷ついたときに修理を助けてくれるのだ。母親の体が胎盤や母乳を通して赤ちゃんを助けるのは周知のことだが、その“お返し”に赤ちゃんも母親の体を助けてくれるから、これは“善いキメラ”とも言える。通常、人間の体は、自分以外の生物の組織が体内に入ると激しく拒絶するものだが、母親と赤ちゃんの場合は不思議にも助け合うのである。しかし、このマイクロキメリズムの場合も、赤ちゃんの幹細胞は母親の脳内には入れないと考えられてきた。

 ところが、シンガポールの学者チームがこのほど発表した研究では、妊娠中のマウスの脳内には子の幹細胞が入り込んで、さまざまな種類の神経細胞に分化することが分かったという。この現象が、人間の体内でも起こることが確認されれば、医療への影響は大きい。なぜなら、赤ちゃんの幹細胞を大人の脳内に導入することで、脳梗塞やアルツハイマー病などの治療に役立つかもしれないからだ。赤ちゃんの幹細胞は「へその緒」の中にもあるから、それを凍結保存しておけば後日利用可能となるかもしれないというわけだ。受精卵や卵細胞を破壊してつくるES細胞を利用するよりも、こちらの方法のほうが、倫理的によほど優れていると私は思うのである。

 ところで、上記の雑誌は、この「へその緒」内の幹細胞(臍帯血幹細胞)の分化能力が、ES細胞と成人幹細胞(成人の体内にある幹細胞)の中間的な位置にあるらしいことを伝えている。イギリスのキングストン大学の研究者のグループは、この臍帯血幹細胞を肝臓の細胞に分化させることに成功し、その他、さまざまなタイプの細胞にも分化できる“マーカー”をもっていることを発見したという。

 人間の体内にある幹細胞の能力を、科学者はまだまだ解明していない。このような潜在能力の存在は、“物質の奥”にある生命力の不可思議さを教えてくれるのである。

谷口 雅宣

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