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2005年9月17日

スーフィズムについて (6)

 本シリーズでは前回まで、主として「歴史的な経緯」をたどりながら、イスラームにおけるスーフィズムの位置を確認しようとしてきた。今回は、イスラームの教義体系全体の中におけるスーフィズムの位置について考えてみよう。

 イスラームには、いわゆる“聖俗分離”は存在しないとよく言われるが、ではイスラーム内のあらゆる宗派が“聖”の分野にも“俗”の分野にも等しなみの注意を払っているかというと、そうではない。もう少し表現を変えると、数多くあるイスラームの宗派の中には、信仰の「内面的深さ」(自覚や悟り)を重視するものと、信仰の「外面的表現」(現実的にどうあるかということ)を重視するものとがある。さらに言い換えれば、信仰の「実体」を問題にする宗派と「形式」を問題にする宗派がある。前者が「シーア派」と「スーフィズム」であり、後者が「スンニ派」である(各派は、さらに細かい宗派に分かれる)。そして、信徒数から言えば、前者は少数派であり後者が多数派で、しかも“正統派”とも言われることがある。

 しかし、イスラーム研究者の牧野信也氏は、この“正統派”という表現に反対して「シーア派とスンニー派のいずれが正統であるか、明確に判定することはできない」と述べている。これと同様のことはキリスト教の「カトリック」と「プロテスタント」の間にも、仏教の「小乗」と「大乗」の間にも言えるから、イスラームを外から眺める我々の立場では「正統」という言葉は使わない方がいいだろう。また「多数派」という言葉を使う場合でも、現在のイラクではシーア派が多数派であり、スンニ派がそれに反発してテロ活動をしていることを思い出せば、イスラームを奉じる各国の事情によって「多数」と「少数」が変わってくることを忘れてはならない。だから牧野氏は、イスラームの内部には「イラン的イスラーム」と「アラブ的イスラーム」の二大潮流があり、それが「シーア派」と「スンニ派」に対応すると述べている。

 イスラームはもちろん、アラビア半島で起こった宗教運動である。だからイスラームは初め、“アラブ的”以外ではありえなかった。イスラーム運動の地理的拡大とともに、そこから“イラン的”なものが発展したという考え方である。では“アラブ的”とは何か? 牧野氏の説明を聞こう:
 
「彼らは元来、広い意味で沙漠の民であり、極度に厳しい沙漠的自然環境の中で生きていくためには、何よりもまず全く身辺で物に即した具体的な次元において、(中略)視覚や聴覚をはじめとするこの上なく鋭い感覚を身につけていった。そして時々刻々と変る自然条件の下で、これらの鋭い感覚によって得られる、物に即した具体的で正確な情報に基づいて判断し、行動していく。このような具体的・即物的視点が、彼らがものを見、考えるときの基本である。」
 
 このような伝統の中から、宗教においても具体的・現実的なもの--儀式、儀礼、イスラーム法など--を重視する考え方が生まれたというのである。しかし、宗教における“形”の重視は、前にも触れたように、形さえ守っていればいいという形式主義に堕す危険を伴っている。また、宗教における“形”は、地域の自然環境や文化と密接に関係しているから、宗教の伝播・拡大にともなって、他の地域の事情にそぐわなくなってくるという問題を内包している。そういう“形式”のもつ限界性を破ろうとする動きが、拡大する宗教の内部からはやがて生まれてくるのである。

 イスラームにおいては、外面的な“形”の背後には必ずそのモトとなる見えない“内的実体”(ハキーカ)があるとし、前者よりも後者を重視することで、“形”を超えようとする考え方が生まれた。それがシーア派の思想であり、スーフィズムである。シーア派の考え方は、どちらかというと「個人」よりも「社会」や「共同体」において“内的実体”を見ようとするのに対し、スーフィズムは(前にも見てきたように)、厳しい修行を通して、個人の心において“内的実体”(神人合一)を感じることを主眼としているように思われる。また、理論や教義として“頭”で理解するよりは、体で体験し、感じることが重要とされた。

 牧野氏の次の言葉は、このようなスーフィズムの特徴をよく表している:
 
「……スーフィーは厳しい修業によって自我の意識を消し去ることに没頭するのであるが、この自己否定の道を徹底的に追究していく過程で、自己否定が積極的意味をもつようになり、遂に自己肯定に転ずるのである。すなわち、自我の意識を消しながら我を内面に向って深く掘り下げていくと、自己否定の極限において人は己れの無の底につき当り、ここに至って自我の意識は完全に消滅してしまう。ところがスーフィーはまさにこの己れの無の底に、突如として輝き出す神の顔を見る。つまり、人間の内面に起る自我意識の消滅がそのまま、神の実在性の顕現に転換するのである。」

【参考文献】
○牧野信也著『イスラームの根源をさぐる』(中央公論新社、2005年)

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コメント

 ありがとうございます。私事ですが5年前に参加させて頂いた 富士山練成会、宮本先生の講話 を思い出し[ブログ内検索]からアクセスさせて頂きました。

 スーフィニズムについて(1)~(6)シリーズ。
 興味・関心があります。
 聖典『生命の実相』・原典主義 を越えて 新分野・イスラムの異端 スーフィの教え、今回これが学べて ラッキーでした。――私事ですが 5次元文庫(中古本)アセンション に只今 夢中です。拝(以上です)

 

投稿: 伊藤 昇 | 2012年5月15日 11:01

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