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2005年8月16日

信仰と進化論

 本欄で前回、アメリカ国内で台頭してきた「知性による設計」(ID)論のことを書いたが、北カリフォルニア在住の川上真理雄さんが、コメントを寄せて興味あるウェッブサイトを紹介してくれた。そのサイトのリンクをたどってみると、さらに面白いウェッブサイトに遭遇した。それは、ブラウン大学の生物学教授、ケン・ミラー博士(Kenneth Miller)が主催する「ブラウン大学進化論資料」というサイトである。このミラー氏は、「知性による設計」論に対して、カトリックを信仰する科学者としてダーウィン流(正確には新ダーウィン派)の進化論を擁護してきた人である。私はこれまで漠然と、カトリックの信仰は『創世記』の天地創造説を信じるのだから、進化論とは相容れないと考えてきた。また、「知性による設計」論を提唱する人は、科学の中に神を位置づけようとしているのだから、カトリックを含むキリスト教徒とは一種の“同盟関係”にあるのだと思っていた。ところが、カトリックの信仰をもちながら「知性による設計」論を批判し、進化論を擁護する科学者がいる--これは驚きだった。

 実は数日前、私は今年7月8日付の『ヘラルド朝日』紙に掲載されていた進化論についての論説を読み返していた。それは、ローマ・カトリック教会の枢機卿でウィーン大司教でもあるクリストフ・ショーンボーン氏(Christoph Schonborn)の書いた「進化の中に設計を見る」(Finding design in evolution)という文章だった。ショーンボーン枢機卿は、1992年にカトリック教会が出した公式の教義問答書の編集長である。だから私は当然、進化論に対する彼の見解はカトリック教会の公式見解だろうと考えた。その論説は、新ダーウィン派の進化論を正面から批判し、前の法王、ヨハネ・パウロ2世の次の言葉を断定的に引用していた:

「生命の発展に関するあらゆる観察は、一つの類似した結論に我々を導く。それは、生物の進化は、驚くべき内的完結性を示しているということである。科学は、その進化の段階を決定し、メカニズムを知ろうとする。この完結性は、生物自身が知ることのない方向へと生物を導いていくから、我々にある「偉大な心」、方向の発案者、そして創造者の存在を知らしめざるを得ない」

 この引用文の考え方は、生物進化の背後に知性を見るという「知性による設計」論者の考えを彷彿させる。それに文章のタイトルそのものが、IDの考え方を凝縮している。だから私は、現在のカトリック教会の公式立場はIDと同じなのだと理解した。「もしかしたら、ID運動の背後にはカトリック教会がいるのかも……」とさえ感じていたのである。ところが……である、ミラー氏はウェッブサイトに掲載した文章の中で、このショーンボーン枢機卿の解釈は神学の面では正しくても、IDの考え方も、新ダーウィン派のそれも、まったく誤解していると断じているのである。

 枢機卿は、新ダーウィン派の進化論は「方向性や計画性のないデタラメな変化と自然淘汰が、人間を含めた地上のすべての生物を生んだ」とするから、「根本的に無神論的」というが、そのような理解は間違いだと言う。そして、新ダーウィン派進化論の主唱者であるジョージ・シンプソン(George Gaylord Simpson)の次のような言葉を引用する:

「進化の過程の働き方は、まったく自然である。この自然な過程は、目的者の関与なしに目的を現わし、計画者による同時的介入なしに膨大な計画を生み出している。もしかしたら、この過程の始動と、過程を支配する物理法則には、一つの目的があり、また、ある計画を達成するためのこの機械的な方法は、偉大な計画者の道具なのかもしれない。このようなさらに深い問題については、科学者は科学者としては何も言うことができない」

 これを簡単に言えば、「ランダムな突然変異と自然淘汰の過程は、どこにでも見られる自然な、しかも機械的な過程であって、その過程が進行している最中に目的や計画が介入するわけではない。しかし、この機械的な過程を地上で働かせるというそのことには、もしかしたら偉大な目的があるかもしれない」ということだろう。つまり(ここでは明確に言っていないが)、神が世界を創ったのならば、その創造の際に生物が突然変異と自然淘汰によって言わば“自動的に”進化する仕組み自体を創ったのかもしれない。しかし、科学者は、進化の仕組みが「どうであるか」を言うことができても、その仕組みが「何のためにあるか」という点については、科学者としての発言はできない、ということである。これは、「水素に酸素を近づけると水になる」という法則について科学はいろいろ発言するが、何のためにこの法則があるかについて科学は発言しない、ということだろう。

 こうして、ミラー氏はカトリックの信仰と進化論とを自分の中で見事に共存させているのである。

谷口 雅宣


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コメント

谷口 雅宣 先生:

進化論は教皇ヨハネ・パウロ二世が1996年の回勅の中で認めています。しかし、その内容はどちらかというと、物質生命としての進化や付随的にあらわれる現象としてのの進化は、真の人間(実相人間)を説明するものとはなり得ないというような内容です。そういう意味では真の人間と物質の人間をハッキリ分けた考え方のように私には思えます。教皇は「Consequently, theories of evolution which, in accordance with the philosophies inspiring them, consider the spirit as emerging from the forces of living matter...are incompatible with the truth about man. Nor are they able to ground the dignity of the person.)日本語の翻訳をインターネットで探したのですが、見つかりませんでした。私が訳すと虫食ったリンゴのようになってしまうので・・・。上記は以下のウエブサイトから引用しました。

http://www.newadvent.org/library/docs_jp02tc.htm

投稿: Mario | 2005年8月17日 01:28

Mario さん、

 いろいろ貴重な情報をありがとう!

It helps greatly! Thank you.

投稿: 谷口 | 2005年8月17日 13:22

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