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2005年8月26日

カフェテリア的信仰

 カトリック教会の新法王、ベネディクト16世は、このほど生地ドイツへの旅を終えて帰還したが、8月21日にコロン郊外で行われた同教会主催の「世界青年の日」での講演で、約100万人の若者を前にキリスト教とイスラームとの対話の必要性を強調し、さらに「自己流の信仰を拒否するように」と訴えたという。22日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。また、同時期に放映されたABCニュースでは、法王は「カフェテリア的信仰ではだめだ」と警告したと伝えられた。「自己流」という表現は私訳で、英語では「do-it-yourself concepts of religion」である。「宗教は自己流でやれる」という考え方への批判だろう。また、同紙の記事には「法王は聴衆に対し、好きなものだけを取って残りを無視するように、宗教を一種の“消費物”として扱わないように訴えた」と書いてあった。このことから、ABCが使った「カフェテリア的信仰」の意味も分かる。カフェテリアでは、自分の好きなものだけを取って、嫌いなものは取らなくていい。一つの宗教に対する関わり方も、そんな“つまみ食い”では本物は得られない--そういう意味に違いない。

 このことは、どの宗教についても言えると思う。生長の家は「万教帰一」の教えであるといって、時々その意味を誤解して、「生長の家はあらゆる宗教を重んじるのだから、生長の家の信徒でもどんな宗教の行事や集会に出入りしても構わない」と考える人がいる。しかしこんな態度では、どんな信仰も中途半端に終ってしまい、魂の喜びを感じない、実りの無い信仰生活を送ることになる。また、そういう“目移りの激しい”信仰では本物を見抜く力を養われないので、派手な“奇跡”や“奇瑞”を売り物にする詐欺まがいの宗教の餌食になることもある。また、「自分の好きなことだけを信じる」のでは、宗教や神仏を信じていることにはならない。自分を信じているだけである。あるいは、「自分が正しい」ということを他人に対して権威づけるために、また自分を納得させるために宗教を利用しているのである。だから、19世紀のヒンズー教の聖者、ラーマクリシュナも次のように言った:

「神は異なる志望者、異なる時代、異なる国々に適するようにいろいろな宗教をつくってきた。あらゆる教義はそうした多くの道にすぎないのであり、1本の道だけが神自体であることは決してない。実際、どんな道にでも誠心誠意したがえば、人は神に至りうるのである」

 上の文の前段では「万教帰一」と同じ考えを述べているが、最後のところで「誠心誠意したがえば」という条件が付いていることを見逃してはならない。目移り盛んの信仰では、確かなものは何も得られない。信仰ばかりでなく、目移りばかりしていては、恋愛も仕事も家庭生活も成就しないものである。

 しかし、このことは信仰の「形式化」や「形骸化」の問題と混同してはならない。つまり、「誠心誠意したがえば」の意味を、「慣習どおりにやっていれば」とか「戒律さえ守っていれば」とか「ノルマをこなしていれば」などの意味に取り違えてはいけない。信仰の「深化」と「形骸化」は、まったく逆方向の動きである。カフェテリアの喩えを使えば、いつも決まった「A定食」とか「Cランチ」を食べていればそれでいい、というわけでは必ずしもない。戒律や慣習を守るか守らないかという外形が重要なのではなく、それを行う内面(心)がしっかりと信仰に裏打ちされているかどうかが重要である。戒律を重視するユダヤ教の中から、イエスが新しい宗教運動を始めなければならなかったこと、そのイエスの運動に多くの人々が引き込まれていった理由も、これと関係しているだろう。そこのところが宗教の奥深く、難しい点である。

谷口 雅宣


 


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コメント

合掌ありがとうございます

ただいま本部聖使命事務課に奉職させて頂いております多久真里子です

以前お山で奉職をさせて頂いておりました

今回のご文章でラーマクリシュナの事が書いてあり最近「ラーマクリシュナの福音」という本をよみましたので、とてもうれしくてメールいたしました

今後も行事などで先生のご講話を拝聴できますことを楽しみにしております

再拝 多久真里子

投稿: 多久真里子 | 2005年8月29日 20:42

多久さん、

 そうですか。ラーマクリシュナを読んでおられるのですか……。どんな本ですか?

投稿: 谷口 | 2005年8月30日 12:59

谷口雅宣先生

 カフェテリア的信仰ではいけないということが本当によく分かりました。
 母が16年前に癌になった時、私は甘露の法雨をさらしに書いて、母の病床に敷いてもらった事があり、その写経は他の家族にも協力してもらいました。
 お陰で手術は成功し、もう手遅れと言われていた母もその後回復し、現在、元気に暮らしております。

 ところで母の病気で家族の心が動揺した時、姉がよかれと思ったのでしょうが、別の宗教を母に勧めて来ました。
 私はこれを断じて退けたことがございます。その時、私は姉に「別の宗教が悪いと言っているのではない。あれこれつまみ食いするのが良くないのだ」と言いました。

 つまみ食いは信仰に限らず、仕事でも恋愛でも同様に何も成就しないということ、本当に感じ入りました。
 そして、それは戒律を頑固に守ることではなくて、その本質に穿ち入ることなのですね。

堀 浩二拝

投稿: 堀 浩二 | 2005年9月 2日 09:01

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