野生のダイコン
休日を利用して、久しぶりに大泉の山荘に来た。1ヵ月来ていなかったので、家の周りのあらゆる草々が茫々に伸びて、玄関までの通路はふさがれていた。しかし、この通路の「草」はブッドレアという花をよくつける植物で、わざわざ買って植えたものだった。花期は7~10月。直径7ミリほどの十字形のものが茎の先端にイネのように密集してつくから、これが開くと稲穂のように頭を垂れる。和名のフサフジウツギは、この房状の藤色の花を形容したのだろう。買ったのは確か紫とピンクの花の2種類だったが、いつのまにか白と濃いピンクのものまで生えている。この花はチョウをよく呼び寄せるので、キタテハやアサギマダラなどの美しいチョウも飛んできて楽しい。だから、種が飛んで、通行の妨げになる場所に生えてきても、できるだけ抜かずに放っておいのだった。妻は、4色の花のブッドレアを切り、それに黄色い花のオミナエシを添えて花器に生けた。なかなか豪華な室内装飾となった。
私が気になっていたのは、狭い畑に植えておいたダイコンとニンジンの運命だった。1ヵ月前に10~20cmに伸びたダイコンと、その三分の一ほどのニンジンの苗を間引きし、「収穫までにもう1回間引きが必要だ」と思いながら帰京したから、その後成長した根がケンカし合って大変な状態になっていないか心配だった。ところが畑を見ると、青々としているはずのダイコン畑に、緑色が少ないのだ。その代わり、土の間に白くて太い幼虫のようなものがゴロゴロと横たわっている。「死屍累々」という感じだ。よく見ると、それは成長半ばで土の上に引き出されたダイコンだった。“犯人”は、だいたい見当がついた。人間だったら、抜いたダイコンは持ち帰る。こんな山の中で他人の畑を荒らすのは人間ではなく、シカのはずだった。その証拠に、抜かれた株の多くは、緑色の葉の部分だけが短くなっている。シカは辛味のある根は食べずに、葉だけ食べたのだ。その食べられた跡から、新しい茎や葉が出ているダイコンもあった。よく見ると、土の上に横たわった根の先端が土中に入り込んでいるのもあって、そういうダイコンは、横になった根から茎が90度の角度で空に向って伸びていたりする。つまり、シカに引き抜かれたのはかなり前で、ダイコンたちはその後も持ちこたえて成長しようとしているのだった。私は、“彼ら”に土をかけて埋めもどしてやりながら、こういうのが本当の「野生のダイコン」だと思った。
漫画家の吾妻ひでお氏の作品に『失踪日記』(イーストプレス刊)というのがある。私は漫画本を読むことなど(今では)ほとんどないのだが、この作品は、NHKの衛星放送で日曜の朝にやっている『週刊ブックレビュー』という番組で取り上げられているのをたまたま見た。そこでの紹介によると、これは失業して実際にホームレスの生活をした作家の体験物語、ということだった。しかも、紹介者は実に面白そうにこの作品を推薦するのである。そこで、私と一緒に番組を見ていた妻が、ついにこれを買ってしまった。私は、妻が買って来たのを見て、この作品が漫画であることを初めて知ったのだ。で、この物語の主人公(作者)は、作品の原稿を描けなくなって家を出て、町をうろつきながら食べ物を探す。プライドを捨てて人前でゴミ箱を開け、公園で野宿したり、焚き火をして怒られたりしながらも、生きていかねばならないから、食べられそうなものは何でも口にする。サラダ油のボトルが捨ててあれば、中身をゴクゴク飲むし、“野生のダイコン”や“野生のキャベツ”も食べる。その際の絵では、夜中に畑の前へ来た主人公が、「あっ、野生のダイコン!」と言って歓喜するのである。我々夫婦は、そのギャグを大いに気に入った。もちろん「野生のダイコン」などあるはずがない。人様が育てているダイコンに決まっているが、ホームレスの人は、それを無理矢理に「野生だ」と考えるほど逼迫した精神状態になっているのだろう。
ところで、私の畑へ来たシカたちは、何を思いながらダイコンの葉を食べたのだろう。多分、何も考えずに、嗅覚や味覚からの信号にしたがって「食べられる」と感じたものは皆、かじったのだ。私が心配しているのは、彼らがダイコンの味を好んだかどうかである。好んだならば、私が埋めもどしたダイコンは、いずれまた抜かれる。去年は、同じ畑からダイコンを収穫できたのに、今年はシカの餌になるのだろうか。
谷口 雅宣
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