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2005年8月30日

スーフィズムについて (3)

 本シリーズの前回までは、西暦750年のアッバス朝成立までのスーフィズムをごく簡単に紹介したが、初期スーフィズムの全盛時代は、この後に来るアッバス朝の最初の100年間である。ちょうどその頃、サラセン帝国の首都がバグダットに移され、ここが東方世界の学問と芸術の最大の中心地となる。首都には早くから優秀なスーフィーが移り住んで活動を開始していたが、その中の重要な一人にサリー・サカティー(865年没)がいる。

 彼は、神秘主義の究極の境地は神の美を直視し、それに合一することだと考えた。スーフィズムにおける「神への愛」については前回触れたが、その信仰者の愛は、愛の対象である神に向って「あなたは私です」と言えるときに完成する、とサリーは考えた。イスラームの信仰の根幹を表す言葉に「タウヒード」(tawhid)というのがある。これは、字義的には「一つにすること」の意だが、イスラームの文脈では「アッラーのほかに神なし」という信仰告白を指す。それは普通の意味では「神は唯一である」ということだが、サリーはこれに「神と一つになる」という隠れた意味を与えた。井筒俊彦氏の言葉を借りれば、サリーにとってタウヒードとは「神秘道の修業段階を切磋琢磨の功によって完成した人の魂が生滅の繋縛を脱して『真実性』のうちに融和包摂され、永遠の歓喜を享ける神秘主義的『神人合一』を意味する」(『イスラーム思想史』、p.195)のである。これは仏教的に表現すれば「我は仏と一つなり」との悟りの境地に達することだろう。タウヒードという言葉は、このサリー以来、スーフィズムにとって不可欠のものとなった。

 このサリーの甥であり高弟でもあるジュナイド(Junayd 910年没)は、しばしば“陶酔の人”と形容されるバスターミー(874年没)に対比して“醒めた人”と呼ばれる傑出したスーフィーである。バスターミーについては、今年の生長の家教修会でも取り上げられたが、彼はそれまでのスーフィーたちが「神への愛」を極めようと修行していた“人間の側からの努力”を突き抜け、神との合一の境地に達したとして、次のように書き記した:

「30年の間、いと高き神は私の鏡であったが、今や私は私自身の鏡である。しかし私は既に絶対無であるが故に、いと高き神は彼自らの鏡である。視よ、私はここに神は私の鏡であると言う。何とならば私の舌をもって語るものは神であって、私は既に消滅して跡かたもないからである」(前掲書、pp.204-205)

 上の意味を単純に解釈して「私の言葉は神の言葉である」と理解すると、これは神への無条件の服従を建前とするイスラームの文脈では極めて危険な思想となり、一般的に見ても「誇大妄想」と紙一重の錯乱した精神状態と受け取られるかもしれない。が、「私は既に絶対無」との小我を捨て去る境地に達した修行者の言として考えたとき、初めて宗教的な高貴さを感得することができる。しかしいずれにせよ、誤解を生じやすい言葉であることは否定できず、これが神への“陶酔境”と言われる所以である。これに対しジュナイドは、自らのもつ神秘体験に理論的基盤を与え、“正統的”イスラームから見れば異端視されがちなスーフィーズムを、教説的にイスラームの中につなぎとめた功績が大きい。前掲書にある井筒氏の説明はとても分かりやすいので、以下に引用する:

「彼(ジュナイド)にとっては、スーフィズムとは自己に死に切って神に生きることであり、人は修道によって自我を殺し、自己の一切を放下して幽邃な『一者』の大洋の底深く沈潜し、聖なる『愛』に導かれて新しいいのちに『生まれかわら』ねばならぬとした。そしてこの新生において、人間は自分のあらゆる人間的属性を脱却し、新に『愛する人』の諸属性を受け、かくて始めて修道者は、『もはや我れ生くるにあらず、神わが裡にありて生き、われを通じて働き給う』という不可思議の次元に躍出できるのであると説いた」(pp. 198-199)

 なお、この時期に出現した偉大なスーフィーとしてハッラージ(Husain b. Mansur al-Hallaj, 922年没)を挙げることができる。彼はバスターミーが神人合一の体験中に自我が消滅し「我は彼である」(我・即・彼)と認識したのに対し、さらに一歩進んで、自己の魂が本質的に転換して神と等しくなるとして「我・即・真実在」(Ana al-Haqq!)と宣言した。が、この宣言は、キリスト教の受肉説に等しいと見なされ、神を冒涜する異端者として告発された末、ハッラージはバグダッドにおいて十字架刑で死亡することになる。

谷口 雅宣

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コメント

倉山さん、

 私の解釈は、「我・即・彼」という認識では、「彼」がたとい「神」であったとしても、その内容がどういうものであるかを知らないと思えます。これに対して「我・即・真実在」では、神と我とがともに真実存在であるとの認識を明らかに表明しているように思えます。

投稿: 谷口 | 2005年9月 2日 22:07

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