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2005年8月25日

スーフィズムについて (2)

 前回は、アッバス朝成立以前のスーフィズムの特徴は禁欲的苦行の実践であることを述べた。井筒俊彦氏は『イスラーム思想史』の中で、この時期の信者の活動においては「ズィクル」(唱名)と「タワックル」(絶対的帰依)が顕著であると述べている。前者は、1日5回の定時における神の礼拝では足りないと考え、「アッラーハ!、アッラーハ!」と休みなく神の御名を昼夜わかたず唱え続け、仏教的に言えば、無念無想の礼拝三昧に没入することである。井筒氏によると、「この唱名こそ、イスラーム神秘道における最も基本的な典礼的要素であって、今日に至るまでスーフィズム諸集団の行事の中核をなしている」という。前回、取り上げた『ヘラルド朝日』の記事では、この唱名の様子が描かれていたわけだ。後者のタワックルは、自己の個人的利益を絶対、完全に放棄して神の導きのままに暮らすことである。そういうことが実際に可能だったかどうかは別として、この絶対的帰依の理想形としては、あらゆる商売や職業に従事しないだけでなく、日常の糧をも他に求めず、病気になっても薬を飲まないことが模範とされたという。

 このように現世的欲望から自己を断絶させ、言わば“極限状態”に追い込むことにより、スーフィーたちは神秘体験を得たのだろう。この時期においては、禁欲的苦行実践そのものがスーフィーたちの目的だった。しかし、アッバス朝の始まる750年前後から、アラビア半島にはギリシャ哲学--特に新プラトン主義--が滔々と流入するようになる。また、神への愛の実践を重んじるシリアのキリスト教神秘主義の影響も色濃くなってくる。前者の影響により、スーフィズムは初めて思索的、理論的側面を整えて「主義」とか「思想」と呼べるようになるとともに、後者の影響で「神への愛」を至上の実践目的とすることとなる。その結果、スーフィズムがどのような方向に発展するかについて、井筒氏は次のように述べている:

「実践的修業道程そのものの理論化だけでなく、更に進んで神秘道究極の絶対境において自己を顕現する『実在』とはそもそも何者であるかという存在論的問題、またこれを体験する際に人間はどのようなものに成るのかという神秘主義的実存の問題、さらに人間の精神はどのような構造の故に絶対的実在に直接相触れ相合することができるのかという超越的認識論の問題などがスーフィー達の主たる関心事となって来る」(前掲書、p.187)

 難しい言葉がたくさん並んでいるが、それらの意味については解説しない。ここでは、イスラームの神秘主義は他の宗教や外国の哲学の影響を受けて、単なる“禁欲的苦行”や“神秘体験”重視の実践運動から発展し、哲学的、思想的深さと広がりを獲得していったという事実を押さえてもらえばいいと思う。これは、開祖のモハンマドの教えとスーフィズムが無関係だとか、関係が薄いとか言うためではない。また、スーフィズム的感性や考え方が開祖の心には存在しなかったと言うためではない。そうではなく、ある時代のある地方に生まれた宗教的天才の教えが、ローカル色を超えて「哲学」や「思想」として確立し世界宗教となるためには、多くの人々の知恵や文化・伝統の協力が必要であり、そういう協同作業によって開祖の教えの中のいくつもの“萌芽”が、時代の要請に応えて成長していくということである。

 例えば、スーフィズムのもつ現世厭離的傾向は、開祖モハンマドの初期の啓示にも共通している。『コーラン』57章20節の有名な言葉を次に掲げる:

「よく聞くがよい。現世の生活(いのち)はただ束の間の遊びごと、戯ごと、徒なる飾り、ただいたずらに(血筋)を誇り合い、かたみに財宝と息子の数を競うだけのこと。現世とは、雨降って緑草萌え、信なき者ども喜ぶと見るまにたちまち枯れ凋(しぼ)み、色褪せて、やがて跡なく消え去るにも似る」

 また、唱名への熱意を「神人合一」の体験のためだと考えれば、スーフィー達が『コーラン』の次の言葉に啓発されたと見ることもできる:

「もし私の僕(しもべ)が、私のことを汝に尋ねるなら、おお、私は側近くにいる」(2章186節)
「われ(神)は彼の頸の血管より近くにいる」(50章16節)
「そして地上には、信仰心の篤い者への御徴(みしるし)が多くある。汝らの中にもある。それでも汝らは見ようとしないのか」(51章20~21節)

谷口 雅宣

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