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2005年7月 7日

横浜の赤レンガ倉庫

 休日を利用して、また横浜へ来た。私とこの町の関係は、本欄ですでに何回か書いているが、“ひと仕事”が終った後の骨休めの場所でもあるのだ。

 今回も「みなとみらい21」地区にあるホテルに泊まったが、その前に赤レンガ倉庫を訪問した。倉庫を「訪問する」という言い方はいかにも大げさに聞こえるかもしれないが、この倉庫は、知る人ぞ知る特別な倉庫である。ここは、かつては横浜港の物流倉庫として盛んに利用されたが、現在はその使命を終え、大々的な補修・保存工事を行ったすえ、「株式会社横浜赤レンガ」としてこの地区のシンボル的役割を果たしている。
RBW2005-1

 前にも触れたが、私は35~36年ほど前の学生時代に、友人に誘われて初めてこの倉庫周辺に来て、赤土色の堂々とした、しかし瀟洒な感覚も持ち合わせたこの3階建ての建物の魅力を知った。倉庫の威容を数字で表すと、1棟の長さが約150メートル、幅23メートル、高さは約18メートルあり、壁面に使われたレンガは約318万個という。それが何棟も並んでいる姿は、なかなか壮観なものだった。当時、すでに築後60年もたった建物だったが、現役の保税倉庫としてまだ使われていたから、平日の日中などはトラックやフォークリフトが周辺を忙しく走り回っていただろう。しかし、私が訪れたのは休日だったから、その“赤い城”のような建物は、静まり返った埠頭の上で、周囲に積荷の山を並べて高く聳えていたのである。家に残っている写真で、この赤レンガ倉庫が写っている最も古いものは、昭和46年(1971年)9月12日の撮影だ。その後、私は何回もここへ来ている。

 現在残っている赤レンガ倉庫は「1号棟」と「2号棟」の2つで、前者が大正2年(1913年)、後者が明治44年(1911年)の建築である。設計については、現在の建物には「大蔵省臨時建築部」と表示してあるが、もっと具体的には妻木頼黄(よりなか)という人の作品だ。使われた赤レンガはすべて国産で、製造元は詳しく分かってはいないが、その中の一つに愛知県高浜市の神谷製瓦所の刻印と同じものがあったという。明治の末期は、八幡製鉄所が操業を始めた頃で、倉庫の鉄骨もほとんど国産で、屋根は三州瓦が葺いてあった。建築当時はまだ溶接技術がなかったから、鉄板の組み立てには手造りのリベットが使われた。ただ、国内で製造できない大型の鉄骨はイギリスのドルマンロング社、天井に使われたアーチ状の波形鉄板はドイツ製だという。つまり、国の建築物だから、大半の建築部材は国産を使ったが、要所に外国製品を使ってあった。当時の政府が国内の技術を総動員して造り上げたことが伺える。
RBW1971-1

 私が新聞記者をしていた昭和55~56年ごろは、物流のコンテナ化が急速に進行中で、大型トラックからコンテナを直接船に積み込むガントリー・クレーンが、本牧埠頭などに次々に建設されていた。赤レンガ倉庫のあった新港埠頭は、その名前にもかかわらず、横浜港では古い方の埠頭だったから、コンテナ化にともなって取扱う積荷の量は激減した。ただ、ここには倉庫の真ん前まで鉄道の引込み線があったから、小型・中型の船を使った貨物の出し入れはまだ続いていた。しかし、大型の貨物船用の埠頭としての役割は終りつつあったと言える。そんな斜陽化の中で、昭和50年代終りに、テレビの刑事ドラマ(多分『西部警察』だと思う)の撮影がここで行われた。すると、一般の人々の注目がユニークな外観をした赤レンガ倉庫に集まるようになり、それに伴ってレンガの壁面には落書きが目立つようにもなった。

 今、新港埠頭だった場所は、みなとみらい地区の広大な公園の一部となっている。赤レンガ倉庫は、紆余曲折のすえ平成14年4月に大改修を終えて蘇り、重要文化財級の建物でありながら、2棟のうち1棟は商業施設として使われながら成功している。この倉庫に、私は学生時代と記者時代に2つの異なる思い出がある。だから今回、その重厚な建物の前に立つと、私はタイムマシンに乗ったような気分を味わうことができたのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
○㈱横浜みなとみらい21・神奈川新聞社編著『横浜赤レンガ倉庫物語』(神奈川新聞社、2004年)

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