« 芸術は自然の模倣? (4) | トップページ | 生長の家教修会 »

2005年7月 2日

芸術は自然の模倣? (5)

 前回までの検討によって分かってきたことは、我々が「自然」と称しているものを深く考えたとき、それが唯一つの同一のものであると結論する根拠があまりないにもかかわらず、多くの人が何の疑問もなくそう考えている、ということである。「それはなぜか?」と問うた時に真っ先に浮かんでくる答えは、「我々人間が基本的に同一の構造の肉体をもっているから」というものだ。本シリーズの第3回で「自然科学の法則」のことに触れたが、我々がそういう目に見えない法則や定理、公理などを認識できるのも「人間の脳」をもっているからだ。だから結局、いまある肉体のおかげで、他人の見ている世界も自分の見ている世界も同一だとの認識をもつことになるのだろう。とすると、この「肉体」というものは、我々と世界(自然)との橋渡しをするだけでなく、自分と他者との間の橋渡しをしてくれる有り難い媒体(body)だということが分かる。

 自分と世界(自然)との橋渡しをする肉体の主たる器官が、感覚器官である。脳も含めて考えれば「神経系」と表現した方が正確かもしれない。この神経系を通して、我々は自然を知覚し、認識する。そして「カレーはうまい」とか「緑が美しい」とか「冷房がききすぎている」などと感じる。感じるだけでなく、そういう外界の刺激に対して何らかの反応するのが普通だ。カレーの“おかわり”を頼んだり、立ち止まって木々の緑を眺めたり、肩をすくめ両腕を組んで、体温が外へ逃げにくい姿勢をとる。また、そういう自分の反応だけではすまない場合もある。そういう時に、他者に向かってアクションを起す。おかわりを頼むのは、すでに他者へのアクションである。自分で緑を眺めるだけでなく、隣にいる人に「何てきれいな緑なんでしょう!」などと語りかける。あるいは、「こんな所にいたら風邪をひいてしまう」と言ったりする。これらは、自らが知覚し、認識した自然の状態を他者に伝えることであり、その手っ取り早い手段として我々は言語を利用する。

 では、日常の言語では容易に伝えられないような自然の状態を、他の人にも伝えたいときにはどうするだろうか? その時、我々は「芸術」という手段に訴えるだろう。この中には言語の芸術も含まれるから、俳句や短歌、詩、随筆、小説が成立した。写真や絵画、彫刻なども、同じような役割をもつ。そういう意味で、「芸術は自分が捉えた自然の模倣である」と言うことはできるだろう。では、自然界に存在する“自然物”を題材に使わない芸術の場合、どう考えたらいいだろうか? そういう場合でも、芸術は「人間が捉えた自然」の一部を表現していると言えると思う。読者の中には、彫刻や建築、ファッション・デザイン、社会派の映画、SF小説などは、いわゆる「自然」を表現していないと考える人も多いと思う。しかし、「人間も自然の一部」と考えれば、人間の営みを表現した芸術は皆「自然の一部の表現」と言える。ただし、この論法にあまり固執すると、東京都庁の建物のような建築を「人工的な自然の一部」などと言わなくてはならなくなり、何だか詭弁的な匂いがしてくる。

 さて、ここまで考えてくると、「自然とは何か」という疑問に突き当たる。この言葉にはいろいろな意味があるから、使い方を一歩間違うと簡単に妙な結論に陥ってしまう。だから今回は、「自然」に並べて「世界」という言葉を使った場所もある。この言葉の方が、誤解が生じにくいと思ったからだ。したがって、芸術のことを語る際も、こちらを使った方が安全かもしれない。ということで、「芸術は自然の模倣」とするよりも「世界の模倣」と書いてみよう。「芸術は人間の捉えた世界の模倣だ」……しかし、本当にそれでいいのだろうか?

谷口 雅宣

|

« 芸術は自然の模倣? (4) | トップページ | 生長の家教修会 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 芸術は自然の模倣? (5):

« 芸術は自然の模倣? (4) | トップページ | 生長の家教修会 »