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2005年7月 1日

芸術は自然の模倣? (4)

 本シリーズの前回までの議論で得た結論の一つを確認しよう。私が今、例えば「目の前に紫色の桔梗の花が存在する」と認識したとしよう。この認識の原因は、夢を見たのでも、薬品を服用して幻覚を見たのでもなく、実際に目の前に存在する“何か”を見たとき、それが視覚を通して「紫色の桔梗の花」に見え、手で触れたとき、それが触覚を通して「柔らかい植物の花弁」だと知覚されたのである。その場合、私の脳内に「紫色の桔梗の花」があることは疑う余地はないが、それと同時に、私の肉体の外に(目の前に)も“何か”が存在していなければならない。そして、その“何か”とは、我々が「紫色の桔梗の花」と呼ぶだけのものでは決してない--そういうことだった。この最後の部分--○○と呼ぶだけのものでは決してない--は、「○○と呼ぶ以上のものである」と言い直すことができる。補足しよう。

 ちょうど今日(7月1日)のNHK衛星第二放送で午後7時半から、『インナースペース』(内部宇宙)という映画をやっていた。これは、人間を縮小する実験が成功して、探査船に乗った主人公が探査船ごと人体の内部に注入されてしまう物語だ。すると、人体内部に入った主人公の目の前に血管や内臓の内部などが巨大で、異様な姿で立ち現れ、免疫系は異物排除のために探査船を攻撃する。我々が普通の人間のサイズであれば、決して見たり体験できない世界がそこに出現する。しかし、我々が普通の大きさの人間として、同じ相手(探査船が注入された人物)に相対すれば、それは「○○さん」と呼べば足りるだけの人間かもしれない。この「○○さん」と「巨大で複雑怪奇な生物」とは、外見はまったく違うものだが、いずれも目の前にある同じ“何か”の別の側面である。それと同様の意味で、人間が「紫色の桔梗の花」と呼ぶものも、そう呼ばれるだけのものでは決してないのである。

 そこで質問しよう。本シリーズで検討している「自然」とは、この例における「○○さん」と「巨大で複雑怪奇な生物」のどちらを指すのだろうか? 私は、この両者ともに自然の一部だと考える。しかし、「○○さん」を見ている時には「巨大で複雑怪奇な生物」は見えず、また体験できず、「怪奇な巨大生物」を見ている時には「○○さん」は見えないし、体験できない。ということは、一言で「自然」といっても、それは“観察者”が置かれた空間や時間によって全く異なる様相を呈するのである。

 さて、上に書いたことは、自然のいわゆる“客観的”側面である。(「客観的」という言葉の正当性は、本シリーズでは当初から疑問視されているのでクォーテーションマークで囲んである)しかし、これまでの議論であまり突っ込んで扱わなかったが、自然とは何かを深く考えるには、観察者側の“主観”の問題を抜きにできない。つまり、同じ空間と時間に置かれた2人の“観察者”は、まったく同じように自然を感じ、理解するかと問われれば、答えは恐らく「ノー」なのだ。上記した人体内部の探査船の例を使えば、その探査船に乗り組んだ2人の一方が外科医で、他方が画家だった場合、この2人の見るものは違い、感じるものも違うだろう。同じ時に同じものを見ていたとしても、だ。なぜなら、外科医は人体内部の構造や機能を詳しく知っているから、自分のいる場所が人体のどの部分で、見えている構造は何かということが、ハッキリ分からないとしても充分見当がつくのに比べ、画家はそのような知識がない代わりに、画家としての目で人体内部の構造や組織の動きを「美的に」捉えると思われるからだ。

 このように考えていくと、我々が簡単に「自然」と呼んでいるものは、実はきわめて難解で不可思議で動的なものであることが分かる。それは、“客観的”に無数にあるだけでなく、“主観的”にも何種類も(恐らく人類の数だけ)ある。にもかかわらず、(これが重要なことなのだが)我々はよく単純に「自然は一つである」と信じて生きている。我々が知人友人と自然界のことを語り合うとき、普通この前提が必ずある。一体、これはなぜだろうか?

谷口 雅宣

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