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2005年7月20日

ロンドンのテロ (3)

 7月14日の本欄で、私は9・11や今回のロンドンの同時多発テロによってイスラム教信者全体が、社会から“敵視”されないまでも、少なくとも“危険視”されることが事前に充分予測されたにもかかわらず、テロ実行犯たちが敢えてそれを行う心境について「よく理解できない」と書いた。しかし、考え方次第では、理解ができるかもしれない。キーワードは2つある。1つは「対照化」であり、もう1つは「自己破壊」である。対照化とは、人間が普通にもっている心理的傾向の一つで、例えば、複雑な世の中の諸事象を、単純な「善と悪」「敵と味方」「男と女」「信仰者と不信仰者」など、2つの対立物間の関係として捉えるものの見方である。自己破壊とは、そのものズバリ、自分を破壊したいという情念で、精神分析学の祖・フロイトが唱えた無意識的な願望の一つである。後にカール・A・メニンジャーは、この概念を集団や国家のレベルにまで拡大し、戦争は集団の自己破壊願望の現れであると唱えた。また今日の心理学でも、殺人は形を変えた自己破壊(自殺)だと捉えることがある。

 この2つのキーワードを使って問題を整理してみよう。まず第一に、イスラムの思想には世界を「対照化」して捉える考え方が明確にある。それは、イスラム教が信仰されている世界を「ダール・アルイスラーム」(Dar al-Islam)と呼んで“平和な世界”と考え、イスラム教の及ばない世界を「ダール・アルハルブ」(Dar al-Harb)と呼んで“戦争の世界”として捉えるものだ。この考え方に忠実に従えば、世界平和を実現するためには、世界の人すべてをイスラームに改宗させなければならない。が、現実にはそれは不可能だから、実際のイスラム国家では、他宗教の信者を無理やりイスラム化する政策は採っていない。しかし、世界観としてはこの「二分法」的考え方が多くのイスラム教徒の中に存在すると考えられる。

 次のキーワードである「自己破壊」の願望は、もっと複雑である。この問題は拙著『足元から平和を』(生長の家刊)の中でも少し触れたが(pp.87-88)、9・11もロンドンも「自爆テロ」だったことが重要である。つまり、テロ実行犯は自殺しているのだ。さらに言えることは、敵意をもって破壊する社会の「中」にいたことである。もちろん、9・11のハイジャク犯などは、アメリカ人でなく、アメリカへの長期滞在者でもない者もいたが、しかしドイツのハンブルクで長い間生活していたのだから、自由や民主主義や享楽的生活を知っていたのである。上記の用語を使えば、彼らは皆、“戦争世界”に住むイスラム教徒だった。そこでは当然、ジハードが要求されるのである。その反面、若い彼らは西洋文明に惹かれ、もし誘惑に身を任せていなかったならば、誘惑を感じる自分と戦い続けていただろう。コラムニストのロジャー・コーエン氏(Roger Cohen)は、7月20日付の『ヘラルド朝日』紙にこんな言葉を書いている--「選択肢が数多く、道徳的な絶対価値が存在しない、西洋社会に於ける自由のやっかいな本質が、恐らく彼らを狂信的な信仰へと逃避させたのだ」。

 私は、「狂信的信仰への逃避」というよりは、「失われかけたイスラム教徒としてのアイデンティティーの回復」という表現の方が、事実に近いと感じる。ロンドンのテロ実行犯のように、その土地で生まれ生活してきた若者にとっては、父祖の国の文化と生れた土地の文化との差が大きければ大きいほど、アイデンティティーの危機が深刻化する傾向がある。これは、第二次大戦前後に、アメリカ在住の日系人が経験したことと似ているのではないかと想像する。この種の心理的葛藤の中から選ばれる選択肢は、戦争を背景としている場合は両極的にならざるを得ない。つまり、どちらか一方を採り、他方は完全に否定しなければならない。彼らは、自己の一方の傾向を完全に否定する(自殺する)ことにより、完全なるイスラム教徒としてのアイデンティティーを獲得することができる、と信じたのではないか。そして「殉教者は天国に生れる」というイスラムの教えは、彼らの心理を完璧に代弁していたのである。

谷口 雅宣

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コメント

ロンドンのテロのことは私も非常に気になっていたところなので、大変大きな興味を持って読ませていただいております。

「若い彼らは西洋文明に惹かれ、もし誘惑に身を任せていなかったならば、誘惑を感じる自分と戦い続けていただろう」という点について、以前に私が読んだ本の中の議論を思い出しました。

その本は大野健一著『途上国のグローバリゼーション:自立的発展は可能か』(東洋経済新報社、2000年)です。この本の帯によると、この本は平成13年度サントリー学芸賞[政治・経済部門]受賞作だそうです。イスラム原理主義のことが取り上げられているわけではありませんが、以下に紹介させていただく議論は、関連性があると思われます。

この本の57-62頁に「コミュニティ解体の帰結」と題された文章が書かれていますが、その主旨は、おおよそ、次のようなものでした:

伝統的社会が近代化・市場化していくとき、とくにそれが急激になされるとき、大部分の人々は、伝統社会につきものの昔ながらの慣習やしきたりといった規制から解き放たれることになるが、そうすると、かえってその自由をもてあまして、方向性を見失いがちである〔ここでエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』が引き合いに出されています-山中〕。

グローバリゼーションがむき出しの個人主義と結びつくとき、歯止めを失った多くの人間は堕落した行動に走ってしまう。また、それがその地域の自然環境破壊にもつながってしまいがちである。従って、伝統社会の倫理的規制を顧慮しない、あまりにも急激な近代化・市場化・グローバル化は避けるべきであり、社会変動に適応できるだけの余裕を途上国には与えるべきである。

以上が大野健一氏の議論の主旨です。

高学歴の青年が先進国に留学する-というのは後発国の近代化に必然的に伴う現象だと思われますが、わが国もまさに後発国として近代化に邁進してきた国であり(ロンドンに留学して憂鬱を感じたという夏目漱石のことが思い出されます)、しかも豊かに(あるいはあまりにも豊かに)なったからといって幸せを感じているかというと、決してそうとはいえないわけですから、イスラム原理主義の青年テロリストたちのことは、とても他人事のようには思えませんでした。

自由と倫理性の両立が急務だと思われました。一朝一夕には達成できないかもしれませんが…。

投稿: 山中 | 2005年7月21日 06:01

山中さん、

 興味深いコメント、ありがとうございます。

 私も、このエントリーを書きながら、エーリッヒ・フロムのことを思い出していました。

 日本から欧米に留学した人の中にも、欧米好きになる人と、逆に欧米嫌いの国粋主義になる人がいる、と聞きます。人間に対する文化の影響というのは、相当なものと思います。

投稿: 谷口 | 2005年7月21日 10:11

すでにお読みのことと拝察いたしますが、7月21日付『ヘラルド朝日』7面に、コラムニストのウィリアム・プファーフ氏(William Pfaff)が、7月20日付『ヘラルド朝日』ロジャー・コーエン氏のコラムの内容を踏まえつつ、テロリズムについて、興味深い分析を加えていました。タイトルは「伝統文化の反撃」(Traditional culture strikes back)です。オンラインでも読めました:

http://www.iht.com/articles/2005/07/20/news/edpfaff.php

その主旨は、「イスラム原理主義のテロ攻撃は、西洋的な近代文明(modern civilization)に対する非西洋社会の伝統文化(traditional culture)の反撃である」というものでした。

以下は、それを読んでの私の感想ですが、世俗的で自由だけれども、ともすればその自由を濫用して道徳的に堕落してしまいがちな西洋近代文明と、宗教的で禁欲的であるがゆえに道徳的な高潔性は保ちやすいけれども、倫理的規制が多く自由には乏しい非西洋的な伝統文化-この二つの間で生じている軋轢の表れが現在の宗教テロに他ならないとすれば、また、それと同時に、非西洋社会・途上国も豊かになるべく近代化を目指しているとするならば、しかもそれに伴う市場化が同時に失業や貧富の格差をもたらすとするならば、イスラムをはじめとした非西洋社会は、西洋近代文明に対する愛憎両面が入り混じった複雑な心境に苛まれているのではないか-という気がしてなりません。

そしてそれは、多かれ少なかれ、他ならぬわが国にもまさに当てはまることだと思います。

現在の国会は郵政民営化で揺れに揺れていますが、これまでのわが国は、冷戦時代以来、自由主義陣営に属しつつも、現実には、わが国の経済ではいわゆる護送船団方式で業界が政府によってゆるやかに保護されてきたために、実のところは、市場経済の論理にまともにさらされた経験がないと思われます(相変わらず、コメは490%もの高率の関税によって守られていますし……)。

だとするならば、もしも今後、規制緩和を要求するアメリカからの外圧がさらに強まり、それに伴ってわが国が「小さな政府」を目指していくとするならば、反米的なテロとまではいかないにしても、上記のような軋轢がわが国でも生じてこないとは限らないと思うのです。

あるいはすでに生じているのかもしれません。現に、『月刊日本』7月号(新聞広告に目がとまってこの号のみ購入したのですが)には、「日本を米国の51番目の州にしていいのか:私が郵政民営化に反対する4つの理由」というタイトルで、元明治大学学長の岡野加穂留氏が、郵政民営化がアメリカの外圧によるものだということを主な理由として、反民営化の論陣を張っていました。

それだけに、わが国としては、反米感情による国粋主義にも(上述の岡野氏が国粋主義者だという意味ではありませんが)、倫理性・道徳性に堕落した物質主義にも陥らない、自由と倫理の両立が急務だと思う次第です。

投稿: 山中 | 2005年7月22日 13:29

たびたび失礼いたします。

この「ロンドンのテロ(3)」への最初の私のコメントで紹介させていただいた大野健一氏(政策研究大学院大学教授、専攻は開発経済と国際金融)は、『世界がもし100人の村だったら 2』(マガジンハウス、2002年)の執筆者の一人でもあることを今日知りました。

大野氏はこの本の116-124頁に「グローバリゼーションは「村」の自立を助けるか」と題した文章を寄せておられます。

この『世界がもし100人の村だったら 2』の執筆者プロフィールによると、大野氏の著書『途上国のグローバリゼーション』は、大佛次郎論壇賞も受賞しているそうです。

投稿: 山中 | 2005年7月22日 18:15

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