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2005年7月14日

ロンドンのテロ (2)

 前回(7月12日)の本欄に、ロンドンのテロ実行犯がイギリス人であることをどう考えるべきか、と書いた。これを日本に当てはめれば、日本の地下鉄で爆弾テロが起こり、その実行犯が海外テロ組織の支援を受けた(外国系)日本人だったということだ。そして、その海外テロ組織のある外国と、テロ実行犯の出身国は別であるということだ。日本ではちょっと想像しにくい事態だが、イギリスでは、それが起こった。その海外テロ組織とテロ実行犯とは、同じ信仰あるいは信念で結ばれている。そうなると当然、その信仰や信念をもつ人々全体が、国籍の如何を問わず“潜在的テロリスト”として疑いや憎しみの目を向けられることになるだろう。そういう事態がイギリスで起こりつつあるようだ。

 7月13日付の『ヘラルド朝日』紙によると、テロが起こった先週の木曜日以降、イギリスでは数日間でイスラム教の4寺院が放火された。放火されなかった寺院も、窓ガラスが割られたり、ドアが傷つけられたり、壁面に人種差別的な落書きをされたり、イスラムで忌み嫌われるブタの死体の一部が投げつけられたりしたという。モスクだけでなく、イスラム教徒の経営する商店や家、自動車などが攻撃の対象となった。また、イスラム教徒個人への嫌がらせも数多くあった。イスラム教徒保安フォーラムのアザド・アリ氏(Azad Ali)によると、先週の木曜日以来、ロンドンにおけるイスラム教徒への嫌がらせは1000%増加したという。
 
 9・11直後のアメリカでも、このようなイスラム教徒やアラブ系住民への嫌がらせが急増したし、“テロとの戦争”継続中の現在も、有形無形の社会的差別がアメリカ社会では起こっている。アメリカの連続テレビドラマ『Whithout A Trace』(FBI・失踪者を追え!)でもそれを取り上げ、アラブ系の優秀な医学生が、昇進や結婚の道を閉ざされて自暴自棄に陥っていく様子を克明に描いていた。だから、今回のテロを計画した者が、自分たちの行動によって、多くの同信者が自国や海外で迫害さたり差別されることを予測できなかったとは思えない。しかし彼らは、それを承知でテロを実行する。そういう心境を、私はよく理解できないのである。

 今回のテロとアルカイーダとのつながりは、まだ確定していない。しかし、仮にそうだとすると、「中東全域から欧米の軍隊を撤退させる」という彼らの目的のために、手段は選ばないということか。オサマ・ビンラデンは、イスラム教ではスンニ派の中でも伝統や聖典の字義的解釈を重んじるワッハーブ派出身であることが、その頑なな信仰姿勢(あるいは政治信条)をある程度、説明しているように思える。よく彼らの行動の典拠とされるのは、『コーラン』の次のような一節である--「騒擾がすっかりなくなる時まで、宗教が全くアッラーの(宗教)ただ一筋になるまで、彼ら(不信仰者)を相手に戦い抜け。しかしもし向こうが止めたなら、(汝らも)害意を捨てねばならぬぞ、悪心抜き難き者どもだけは別として」(第2章「牝牛」193節)。ワッハーブ派は、サウジアラビアの国教だが、サウジ王家側は、この一節の後半部分を根拠として、欧米諸国との協調を正当化するが、ビンラデンなどは、エルサレムの帰属やサウジアラビアへの米軍駐留を見て「騒擾がある」とし、サウジ王家や米英などを「悪心抜き難き者ども」と考えて、徹底抗戦を推し進めているらしい。

 上に引用した章句は、モハンマドが異教徒との戦いと征服によって勢力を拡大していった初期の状況下に啓示された言葉である。そういう千年以上も前のアラビア半島の特殊な状況を21世紀の現代にそのまま当てはめ、聖典の字義通りの解釈によってテロや戦争を正当化するのが、いわゆる「原理主義的」な立場である。『コーラン』には、戦争中に受けた激烈な調子の啓示がこのほかにも数多くあるから、それを現代に字義通りに当てはめようとする原理主義的態度をとる限り、イスラム教は“好戦的”だと警戒される状態は続いていくほかはないだろう。私は、原理主義を超えたイスラムの登場と発展を切に願うものである。

谷口 雅宣

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