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2005年6月 1日

“恐怖”はわが内にあり

日本は今日、平和の中にいるのだろうか、それとも戦争をしているのか? 読者のほとんどは、恐らく「平和」と答えるだろう。では、その日本の最大の同盟国のアメリカはどうか? 「9・11」の直後に、ブッシュ大統領は「これは戦争だ」と言い、まもなく“テロに対する戦争”を宣言した。「the war against(on) terrorism」である。日本のメディアはこれを“テロに対する「戦い」”と訳したが、大統領の使った英語は「the war」である。「戦い」という語は、英語では「fight」あるいは「battle」または「engagement」であって、これらの語はスポーツの試合にも、人生の挑戦にも使えるが、「war」は「戦争」が第一義であり、二義的、比喩的に「病気との闘い(the war against disease)」というような使い方がされる。日本人が「戦争」を忌み嫌う気持は分かるが、それを理由に翻訳の過程でオブラートに包むことは、現実を見る目を曇らせ、大局的判断を誤ることにつながりかねない。

「戦争」とは、一国が文字通り“身も心も”捧げて行う大事業である。「事業」という語が何か誉め言葉のように聞こえるなら、「大行動」とか「大狂乱」と言い換えてもいいかもしれない。とにかく人員や兵器はもちろん、資源もエネルギーも、技術も経済も、食料も、社会生活も家庭生活も、教育も労働も動員して、“敵”を破壊するために使わなければならない。だから、“敵”がないことには戦争は遂行できない。しかし、“テロに対する戦争”において“敵”とは何か? タリバン政権は倒れた。フセイン政権も倒れた。しかしテロは終らないどころか、ますまず攻撃の度を強めているように思う。では、ビン・ラデンが倒れればいいのか。ザルカウィが死ねば終戦なのか? 私にはそうは思えない。大量破壊兵器はイラクに存在しなかっただけでなく、イランでは核開発がもっと進んでいた。そして北朝鮮は、すでに核兵器を持っていると宣言した。恐怖の対象は、終りのないリストを揃えて待ち構えているように見える。

「テロ」とは「恐怖(terror)」という意味である。恐怖とは、恐怖する人の心の中にあるのであって、どこか外側に実体として存在するのではない。ネズミが恐怖をもたらすからと言ってネズミを殺しても、次にカラスが恐怖を与えるかもしれない。ゴキブリが恐怖の対象となるかもしれない。ヘビやカエル、あるいは子供の不登校が、交通事故が伝染病が恐怖をもたらすかもしれない。恐怖の対象をことごとく排除しても、最後に残った自分が、今度は「孤独」を恐怖するということになりかねない。だから、“テロに対する戦争”という言葉は、問題の立て方が間違っているのだ。恐怖は“外”にあるのではなく“内”にある。“外”をいくら叩いても“内”にあるものは壊れない。或る“敵”を外に見出しそれを倒しても、次なる“敵”が内部の投影としてまた外に現れる。否、“テロとの戦争”という言葉を使う限り、自ら“敵”を外側に作り出さざるを得ないのだ。戦争には、具体的な“敵”が必要だからだ。

 私はアメリカが、そういう悪循環に陥っていないか心配だ。

 谷口 雅宣

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