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2005年6月11日

内外一如の話

前日、関東地方は平年より2日遅く「梅雨入りしたとみられる」と気象庁が発表した。が、今日は青空がひろがる好天気、かと思うと小雨もパラつくなど不安定で、不思議な一日だった。帰宅のため事務所を出ると、何か冷たいものがポツリと落ちた。しかし、空を見上げると雲はまばらだ。「でも梅雨なのだから……」と次のポツリを待つ。が、なかなか落ちて来ない。空を見上げたまま歩を進めていくと、東郷神社の鳥居の脇に立つ大きな楠の葉の間から、「顔」の形をした雲がこちらを見ていた。「ふーーん、面白い顔だなぁ……」と眺めながら歩き続けると、空がゆっくり動いて、枝葉に隠れていた雲の「腕」と「胴体」も姿を現した。足は片足だけで、先の方が消えかかっている。「なるほど」と私は納得した。

何を納得したかというと、人間の脳内には“顔細胞”があるという話にだ。外界にある「顔」の形のものに敏感に反応する脳の一部分(大脳の側頭連合野の一部)をそう呼ぶらしい。進化生物学によると、こういう「顔」に特化した脳細胞が発達した理由は、人間社会の中で顔のもつ役割が大きいからだ。つまり、より速く、より正確に相手の「表情を読む」ことが生存に有利だったからだ。人間同士のあいだでは言語が重要なコミュニケーション手段であることは言うまでもないが、言語は異民族間では通じないこともあり、また人間は必ずしも言葉通りのことを感じ、考えているわけではない。そういう場合には、顔をよく見て「表情を読む」ことに長けている人の方が生存に有利となり、そういう人の遺伝子が現代人に引き継がれているというわけだ。

WoodPuzzle

しかし、こうして人間の脳が「顔」や「表情」に敏感になったおかげで副産物も生じた。それは、人間の視覚が「顔」でないものも顔として見る傾向をもつようになったことだ。私が雲の形を「顔」として捉えたのが、そのいい例だ。また、病気でベッドで寝ているときなど、天井板の木目や、壁のヒビやシミが人の顔に見えたりする経験をした人は多いのではないか。さらに自動車好きの人は、ひいきの車種について「顔がいい」などと言ったりする。自動車のフロント回りが「顔」に見えるからだ。傑作は、かつてアメリカで話題になった火星上の“人面岩”騒ぎで、火星の表面の写真の中に「人の顔をした大きな岩」が発見されたことで、すわこれはスフィンクスの火星版だと言わんばかりの議論がメディアなどで起こったそうだ。結局、この岩は撮影時の光線の加減で人の顔のように見えたにすぎず、後年、もっと精密な写真が撮れるようになった時、“人面岩”は少しも人の顔に似ていないことが判明したそうだ。

で、私は思うのだが、人間は自分の心(脳)にあるものを外に見るのである。だから、外界は内界の反映である--しかし、この世界はその言葉ほどには単純でないかもしれない。実は、人間の脳には「神」や「仏」などの宗教的な対象のことを想起すると反応する部分もあるらしい。では、神仏は人間の脳の反映なのか?

こう考えたらどうだろう--人間の脳に“顔細胞”が発達したのは、「表情を読む」という行為を人類が何十万年、何百万年も繰り返してきたからであって、その逆(顔細胞が先にあったから外界に顔が見える)のではない。大体「顔」なるものは類人猿にも、イヌにもネコにもある。昆虫や魚類にも「顔」と呼んでいいものがあるだろう。それと同様に、人間の脳の一部に神仏に反応する細胞があったとしても、それは神仏が人間の脳の創作物であることを意味しない。そうではなく、その細胞の存在は、人類が何十万年、何百万年もの長期にわたり、「神」や「仏」などの宗教的対象と関係をもち続けてきたという事実を示すにすぎない。

しかし、こうして人間の脳が「神」や「仏」に敏感になったおかげで、“顔細胞”のときと同じような副産物が生じた可能性がある。それは、本当の「神」や「仏」でないものも、すぐに「神」や「仏」だと考えてしまう傾向のことだ。その場合は、(“人面岩”が地球上の人類の“顔細胞”の反映であるように)神仏は人間の脳の反映だと言うことができるだろう。

谷口 雅宣

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コメント

 京都の橘 正弘です。
 「内外一如」を拝見していて、6月7日産経新聞朝刊の社会面に「人面岩」ならぬ「仏面岩?」の記事が出ていたことを思い出しました。ご参考までにお届けいたします。

小豆島「夏至観音像」年に数日“現世”に
 光と影のバランスでこの季節にだけ見ることができる現象「夏至観音像」が6日、香川県・小豆島の洞雲山(内海町)に現れた。=写真 (スキャナがありませんので省略します。)
 洞穴「仙霊窟」の岩肌に太陽光線が当たり、明るく照らし出された部分が高さ約3㍍の観音立像に見えるという“光のいたずら”だが、夏至(今年は21日)前後の約1ヶ月間のうち5、6日程度しか出現しない。しかも午後3時過ぎの5分間ぐらいのため、運よくありがたい“お姿”を拝観できた巡拝者ら約50人は、感激の声を上げていた。
 自然観察グループの一員として東京都世田谷区から訪れた小林義郎さん(77)は「偶然にしては幸運。涙がこみ上げてきました」と話していた。(以上)
 
 掲載写真には、“岩肌に照らし出された「夏至観音像」”という説明文があるので、よくみると観音像のようにも見えますが、説明文がなければ、ただ岩(肌)に光が当たっている写真としか見えなかったと思います。
 また、場所が洞穴(「仙霊窟」霊場のような雰囲気です)であることや、太陽光線の位置により限られた日数、時間しか“お姿”を拝観できないということが「夏至観音」としての信仰心を支えているのではないでしょうか。

投稿: 橘 正弘 | 2005年6月13日 22:14

橘さん、

 興味ある情報を提供していただき、有難うございます。

 写真が見たかったのですが、新聞の版が違っているのでしょうか、私の購読している産経新聞には、掲載されていませんでした。

投稿: 谷口 | 2005年6月20日 11:05

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