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2005年6月27日

芸術は自然の模倣?

 作家の島田雅彦氏が『朝日新聞』の文芸時評でこんなことを書いていた--「古代より芸術表現とは神の創造物である自然を人工化することにほかならなかった。言語や絵の具や楽器などを使って自然物の似せ物=偽物すなわちミメシスを作りながら、脳の中の仮想をも形にしてきた」。芸術の定義ということではなく、芸術のある側面を描いていると考えれば、見事な表現だと思った。ポイントは「人工化」という言葉だろう。例えば写真は、自然のある一部を人間が四角く切り取って提示する。その過程で、色のフィルターをかけたり、白黒にしたり、光を強調したり、逆に暗部の微妙なトーンを強調する。また、最近のデジタル写真では、余計なものを写真から省いてしまったり、付け加えたりもできる。そういう意味では、写真は明らかに「人工物」である。しかし、その目的は「自然物の偽物を作るため」なのだろうか?

 島田氏の言葉は「自然物の似せ物=偽物を作りながら……」だから、芸術の目的がそれのみだと言っているわけではない。が、何となくそれを強調しているように解釈できる。あるいは間違いかもしれないが、こんな些細なことを問い合わせてご本人を煩わせるわけにはいかないので、「私はそう解釈する」ということでお許し願おう。すると、どうなるか--

 今、私の目の前に背の高いガラス器に挿された桔梗の花がある。妻が今日、渋谷駅の花屋で買ってきたものだ。茎の数は2本だが、開いた花が3輪と蕾は大小含めて12~13個もついている。自然界にある植物を切り集めて花器に生ける行為は、芸術の一分野だ。では、島田氏の説によると、私の妻は桔梗を“人工化”したのだろうか? この「人工化」という言葉は、私には何か違和感がある。もう一つの例を考えよう。私の目には、この桔梗の花の紫が実に美しく、その柔らかな形と、勢いを内に秘めた薄緑色の蕾のふくらみは愛らしく見える。これを写真に撮ったり、絵に描いたりする誘惑に駆られるのだが、そのような芸術表現をもし私がやれば、私は桔梗を“人工化”したことになるのだろうか?

「人間が何らかの形で手を下す」ことが“人工化”の意味ならば、確かに島田氏の言うとおりかもれない。しかし、「手をくだす」こと自体が芸術表現ではないだろう。そこに或る目的があり、その目的にそって手を下すのである。人間の生活の道具とするために自然の一部に手をくだすことは(例えば、材木を入手するために木を倒すことは)、必ずしも「芸術」とは言わない。だから、「何の目的のために手を下すか」が芸術表現であるか否かを決定する重要な要素になるのだろう。で、島田氏は芸術の目的は「自然物の似せ物=偽物を作る」ことだと言っているように感じられる。これをもっと簡単に言えば「芸術は自然を模倣する」ということなるのだろう。

 が、この場合の「自然」とは何だろう? 私が桔梗の花を見て、その紫色の美しさに感動して絵を描いたとすると、「紫色の花」は自然だろうか? 花の形の愛らしさをペンで写し取ろうとしたならば、その「花の形」は自然なのか? 妙な疑問に聞こえるかもしれないが、桔梗を見て「紫色」を感じるのは、哺乳動物の中のごく一部の高等な霊長目だけである。イヌもネコも色覚が発達していないから「紫色」を感じるわけにはいかない。鳥類にも色覚があるが、それが人間の色覚と同じであるかどうかは疑問である。「花の形」に感動しても、それは人間のような大きさの生物が、花から相当の距離をおいて眺めたときに「形」が分かるのであって、桔梗の表面を歩いている小さなアブラムシには「花の形」など分からないか、あるいは人間とは全く違ったように花の形を感じるのかもしれない。だとすると、「紫色の花の形」とは本当に“自然”なのだろうか? それとも、それは「人間の感覚によって捉えられた色」であり、「人間によって感覚された形」であるのか? 私には、どうも後者のような気がするのである。

 ここまで厳密に考えると、「芸術は自然物の似せ物=偽物を作ること」という定義、あるいは「芸術は自然を模倣する」という考え方は怪しくなってくる。読者は、どうお考えか?

谷口 雅宣


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