芸術は自然の模倣? (3)
このシリーズは3回目に入って、かなり難解になってきたかもしれない。簡単に復習してみると、我々が「自然」と呼んでいるものは、地上のどんな生物が感覚しても同じように感覚されるような“客観的存在”ではなく、あくまでも人間の肉体の感覚を通して感じる「人間が捉えた自然」だと考えられる。しかも、その場合の「人間」とは普通名詞の一般的人間ではなく、「平山郁夫」とか「谷口雅宣」などという固有名詞で表される具体的な「人物」であると思われる。なぜなら、同じ一輪の桔梗の花を見ても、平山画伯と私とでは「感じ方」が違うと思われるからだ。今、私が「思われる」と推量形を使ったのは、ここでやっかいな「クオリア」(qualia)の問題が出てくるからだ。
このクオリアの問題に私は『神を演じる前に』(2001年)の中で触れているが、とても充分とは言えない。本欄でも満足な説明はできないので、詳しく知りたい人は、神経科学者の茂木健一郎氏や哲学者のダニエル・デネット氏の諸著作を読まれたい。が、あえて簡単に言えば、クオリアとは我々が感じる“ナマの感覚”のことである。「原始的感覚」(sentience)という言葉を使う人もいる。例えば、私の目の前にある桔梗の花の「紫色」(クオリア)が、読者(または平山画伯)が見る同じ花の「紫色」(クオリア)と同一であるかどうかを確認する直接的手段はまったく無い--この事実を指して、ここでは「クオリアの問題」と言っている。これは何も「色」だけのことではなく、「形状」や「匂い」や「味」や「音」や「触覚」に関する原始的感覚についても、全く同じことが言える。
ただ、これを確認する直接的手段がなくとも「間接的手段」は存在する。その一つが、芸術表現だ。つまり、同じ桔梗の花に対して平山画伯と私の「感じ方」(クオリア)が異なることを知るためには、両者が描いた絵を見れば分かるのである。が、これはあくまでも「間接的」な確認方法であるから、必ずしも正確ではない。なぜなら、両者の間には技術の差があるだけでなく、芸術表現にはいわゆる“客観性”は要求されず、画家は実際に自分の視覚が感じた「紫色」を使わずに(例えば青を使って)桔梗の花を描いたとしても、芸術的には全く問題ないからだ。
さて、あまり問題の細部に踏み込まずに“大筋”を確認しよう。ここまでの議論で明らかになったことは、我々が漠然と「自然」と呼んでいるものは結局、「個々人が感覚(クオリア)を通じて心で捉えた自然」だから、決して客観的ではなく、「千差万別」ということになりそうだ。「しかし……」と、読者は抗議するだろうか?
「もし自然が個人によって千差万別であれば、自然科学は成立せず、芸術でさえ共感の場を失う!」
「“千差万別”の意味をどう取るかで、答えは違ってくる」
「“千差万別”とは、種々様々で、違いもいろいろという意味だ」
「人間の顔は千差万別だが、猿とは異なる人間としての同一性をもつ……こう考えればいい」
「自然の数は、人間の数だけあるという意味か?」
「細部まで厳密に考えればそうなるが、人間の感覚器官や脳の構造には同一性があるから、個々人の捉える自然にも“同一性”があると同時に“個別性”もある」
「しかし、自然がいくつもあるという考えには納得できない」
「では、自然は1つしかないとどうして断言できるか?」
「自然科学が、それを証明している」
「物理化学の法則は、いくつもある自然の“共通部分”と考えられないか?」
「物理化学の法則が適用できない領域は、宇宙のどこにも存在しない」
「日常生活のレベルではその通りだが、素粒子のレベルでは、物理化学で説明できない事実がいくつもある」
……というわけで、どうも迷路に入ってしまった感がする。で、本稿を終る前に、前回の最終部に出た疑問--「本物はどこにあるか?」--に対する答えを、きちんと書いておこう。この疑問に「脳の中にある」と答えるだけでは、自然科学の法則が存在することを含めた説明にはならないだろう。なぜなら、脳細胞(神経細胞)自体が、物理化学の法則によって支配されているからだ。つまり、脳が自然のすべてを創造しているのではなく、脳も自然の一部だが、我々(肉体をもった人間)はその自然の姿を脳を通してのみ知ることができるのだ。「目の前に紫色の桔梗の花が存在する」という認識は、確かに我々の脳の中で発生するのだが、それは脳以外の場所に何も存在しないという意味ではなく、“何か”は存在しているが、それは人間が脳の活動を通して「紫色の桔梗の花」と呼ぶだけのものでは決してない、ということである。
谷口 雅宣
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