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2005年6月30日

芸術は自然の模倣? (3)

 このシリーズは3回目に入って、かなり難解になってきたかもしれない。簡単に復習してみると、我々が「自然」と呼んでいるものは、地上のどんな生物が感覚しても同じように感覚されるような“客観的存在”ではなく、あくまでも人間の肉体の感覚を通して感じる「人間が捉えた自然」だと考えられる。しかも、その場合の「人間」とは普通名詞の一般的人間ではなく、「平山郁夫」とか「谷口雅宣」などという固有名詞で表される具体的な「人物」であると思われる。なぜなら、同じ一輪の桔梗の花を見ても、平山画伯と私とでは「感じ方」が違うと思われるからだ。今、私が「思われる」と推量形を使ったのは、ここでやっかいな「クオリア」(qualia)の問題が出てくるからだ。

 このクオリアの問題に私は『神を演じる前に』(2001年)の中で触れているが、とても充分とは言えない。本欄でも満足な説明はできないので、詳しく知りたい人は、神経科学者の茂木健一郎氏や哲学者のダニエル・デネット氏の諸著作を読まれたい。が、あえて簡単に言えば、クオリアとは我々が感じる“ナマの感覚”のことである。「原始的感覚」(sentience)という言葉を使う人もいる。例えば、私の目の前にある桔梗の花の「紫色」(クオリア)が、読者(または平山画伯)が見る同じ花の「紫色」(クオリア)と同一であるかどうかを確認する直接的手段はまったく無い--この事実を指して、ここでは「クオリアの問題」と言っている。これは何も「色」だけのことではなく、「形状」や「匂い」や「味」や「音」や「触覚」に関する原始的感覚についても、全く同じことが言える。

 ただ、これを確認する直接的手段がなくとも「間接的手段」は存在する。その一つが、芸術表現だ。つまり、同じ桔梗の花に対して平山画伯と私の「感じ方」(クオリア)が異なることを知るためには、両者が描いた絵を見れば分かるのである。が、これはあくまでも「間接的」な確認方法であるから、必ずしも正確ではない。なぜなら、両者の間には技術の差があるだけでなく、芸術表現にはいわゆる“客観性”は要求されず、画家は実際に自分の視覚が感じた「紫色」を使わずに(例えば青を使って)桔梗の花を描いたとしても、芸術的には全く問題ないからだ。

 さて、あまり問題の細部に踏み込まずに“大筋”を確認しよう。ここまでの議論で明らかになったことは、我々が漠然と「自然」と呼んでいるものは結局、「個々人が感覚(クオリア)を通じて心で捉えた自然」だから、決して客観的ではなく、「千差万別」ということになりそうだ。「しかし……」と、読者は抗議するだろうか?

「もし自然が個人によって千差万別であれば、自然科学は成立せず、芸術でさえ共感の場を失う!」
「“千差万別”の意味をどう取るかで、答えは違ってくる」
「“千差万別”とは、種々様々で、違いもいろいろという意味だ」
「人間の顔は千差万別だが、猿とは異なる人間としての同一性をもつ……こう考えればいい」
「自然の数は、人間の数だけあるという意味か?」
「細部まで厳密に考えればそうなるが、人間の感覚器官や脳の構造には同一性があるから、個々人の捉える自然にも“同一性”があると同時に“個別性”もある」
「しかし、自然がいくつもあるという考えには納得できない」
「では、自然は1つしかないとどうして断言できるか?」
「自然科学が、それを証明している」
「物理化学の法則は、いくつもある自然の“共通部分”と考えられないか?」
「物理化学の法則が適用できない領域は、宇宙のどこにも存在しない」
「日常生活のレベルではその通りだが、素粒子のレベルでは、物理化学で説明できない事実がいくつもある」

 ……というわけで、どうも迷路に入ってしまった感がする。で、本稿を終る前に、前回の最終部に出た疑問--「本物はどこにあるか?」--に対する答えを、きちんと書いておこう。この疑問に「脳の中にある」と答えるだけでは、自然科学の法則が存在することを含めた説明にはならないだろう。なぜなら、脳細胞(神経細胞)自体が、物理化学の法則によって支配されているからだ。つまり、脳が自然のすべてを創造しているのではなく、脳も自然の一部だが、我々(肉体をもった人間)はその自然の姿を脳を通してのみ知ることができるのだ。「目の前に紫色の桔梗の花が存在する」という認識は、確かに我々の脳の中で発生するのだが、それは脳以外の場所に何も存在しないという意味ではなく、“何か”は存在しているが、それは人間が脳の活動を通して「紫色の桔梗の花」と呼ぶだけのものでは決してない、ということである。

谷口 雅宣


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2005年6月28日

芸術は自然の模倣? (2)

 さて前回は、「芸術は自然を模倣する」という考え方を検証しつつ、「自然とは何か」の問題に踏み込んだ。我々が「これが自然だ」と思っているものが、本当の意味で「自然」なのだろうか--という問いかけである。桔梗の花が「紫色」なのは自然か? 夏の空が「水色」なのは自然か? 雲は本当に「白い」のか? 夏の木々の葉は本当に「緑色」をしているのか? これらの疑問にすべて「イエス」と答えられるならば、「芸術は自然を模倣する」と言っていいのかもしれない。しかし、我々が棲み慣れた“人間の視点”から離れて考えようとすると、とたんに何が「自然」だか分からなくなる。芸術は「自然そのもの」を模倣するのではなく、「人間が捉えた自然」を模倣すると言った方が正確そうだ。では「人間が捉えた自然」とは何か、を考えよう。

「人間が捉えた自然」とは、まず「ある特定の人物が捉えた自然」である。その「特定の人物」とは、もちろん芸術家のことだ。平山郁夫画伯が広大なアフガニスタンの砂漠を行くラクダの隊列を描いた絵が、今ここにあるとする。ではこの絵は、「平山画伯が捉えた自然の模倣」なのだろうか? 私には「模倣」という言葉がよけいなもののように感じられる。何のマネでもない「平山画伯が捉えた自然」でいいではないか。島田雅彦氏は「模倣」とは言わずに「似せ物=偽物」という言葉を使った。どちらの言葉も、しかし「本物」が芸術作品以外のところに存在することを前提としている点で、同じだ。そして芸術作品自体は、その「本物」より一段劣ったコピー(複製)だと言っている。では、平山作品より優れた「本物」とは、どこに存在するのか?

 平山画伯のような一流の芸術家を例に出すと、かえって分かりにくいかもしれない。前述した、ガラス器に活けられた桔梗の花を思い出してほしい。私がそれを今、一枚の画用紙に描いたとする。花に紫色を塗り、葉は緑色で、蕾は白っぽい黄緑色だ。この絵は、「私が捉えた自然の模倣」と言えるだろうか? 下手な絵ならば「模倣」と言えるが、上手な絵ならば「自然」と言うのか? そうではあるまい。絵の上手下手にかかわりなく、自然物とそれを題材とした芸術作品の間には、“本物”と“コピー”のような関係があることを指摘しているのだ。ここにはやはり優劣の価値判断がある。本物はコピーより勝っている。芸術作品は本物より劣っている。では、その「本物」とはどこに存在するのか?

「お前の目の前の、その桔梗の花が本物だ」と読者は言うだろうか?
 では、私は訊こう
「その桔梗の花は自然そのものか?」
「自然そのものではなく、お前が捉えた自然の一部だ」
「では、それはどこに存在するか?」
「お前の目の前に、だ」
「では、私の目の前の花は何色か?」
「紫色だ」
「そんなはずはない。猫の感覚には紫色は存在しない」
「……?」
「紫色の桔梗の花は、どこに存在するのか?」
「お前の言いたいことが分かった。それは、お前の脳の中にある」
「それ、とは何か?」
「紫色の桔梗の花だ」
「その花はどこに存在するか?」
「お前の脳の中だ」
「では、芸術作品がコピーだとすると、本物はどこにあるか?」
「芸術家の脳の中にある、ということになる」

 さて、この結論は正しいだろうか?

谷口 雅宣

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2005年6月27日

芸術は自然の模倣?

 作家の島田雅彦氏が『朝日新聞』の文芸時評でこんなことを書いていた--「古代より芸術表現とは神の創造物である自然を人工化することにほかならなかった。言語や絵の具や楽器などを使って自然物の似せ物=偽物すなわちミメシスを作りながら、脳の中の仮想をも形にしてきた」。芸術の定義ということではなく、芸術のある側面を描いていると考えれば、見事な表現だと思った。ポイントは「人工化」という言葉だろう。例えば写真は、自然のある一部を人間が四角く切り取って提示する。その過程で、色のフィルターをかけたり、白黒にしたり、光を強調したり、逆に暗部の微妙なトーンを強調する。また、最近のデジタル写真では、余計なものを写真から省いてしまったり、付け加えたりもできる。そういう意味では、写真は明らかに「人工物」である。しかし、その目的は「自然物の偽物を作るため」なのだろうか?

 島田氏の言葉は「自然物の似せ物=偽物を作りながら……」だから、芸術の目的がそれのみだと言っているわけではない。が、何となくそれを強調しているように解釈できる。あるいは間違いかもしれないが、こんな些細なことを問い合わせてご本人を煩わせるわけにはいかないので、「私はそう解釈する」ということでお許し願おう。すると、どうなるか--

 今、私の目の前に背の高いガラス器に挿された桔梗の花がある。妻が今日、渋谷駅の花屋で買ってきたものだ。茎の数は2本だが、開いた花が3輪と蕾は大小含めて12~13個もついている。自然界にある植物を切り集めて花器に生ける行為は、芸術の一分野だ。では、島田氏の説によると、私の妻は桔梗を“人工化”したのだろうか? この「人工化」という言葉は、私には何か違和感がある。もう一つの例を考えよう。私の目には、この桔梗の花の紫が実に美しく、その柔らかな形と、勢いを内に秘めた薄緑色の蕾のふくらみは愛らしく見える。これを写真に撮ったり、絵に描いたりする誘惑に駆られるのだが、そのような芸術表現をもし私がやれば、私は桔梗を“人工化”したことになるのだろうか?

「人間が何らかの形で手を下す」ことが“人工化”の意味ならば、確かに島田氏の言うとおりかもれない。しかし、「手をくだす」こと自体が芸術表現ではないだろう。そこに或る目的があり、その目的にそって手を下すのである。人間の生活の道具とするために自然の一部に手をくだすことは(例えば、材木を入手するために木を倒すことは)、必ずしも「芸術」とは言わない。だから、「何の目的のために手を下すか」が芸術表現であるか否かを決定する重要な要素になるのだろう。で、島田氏は芸術の目的は「自然物の似せ物=偽物を作る」ことだと言っているように感じられる。これをもっと簡単に言えば「芸術は自然を模倣する」ということなるのだろう。

 が、この場合の「自然」とは何だろう? 私が桔梗の花を見て、その紫色の美しさに感動して絵を描いたとすると、「紫色の花」は自然だろうか? 花の形の愛らしさをペンで写し取ろうとしたならば、その「花の形」は自然なのか? 妙な疑問に聞こえるかもしれないが、桔梗を見て「紫色」を感じるのは、哺乳動物の中のごく一部の高等な霊長目だけである。イヌもネコも色覚が発達していないから「紫色」を感じるわけにはいかない。鳥類にも色覚があるが、それが人間の色覚と同じであるかどうかは疑問である。「花の形」に感動しても、それは人間のような大きさの生物が、花から相当の距離をおいて眺めたときに「形」が分かるのであって、桔梗の表面を歩いている小さなアブラムシには「花の形」など分からないか、あるいは人間とは全く違ったように花の形を感じるのかもしれない。だとすると、「紫色の花の形」とは本当に“自然”なのだろうか? それとも、それは「人間の感覚によって捉えられた色」であり、「人間によって感覚された形」であるのか? 私には、どうも後者のような気がするのである。

 ここまで厳密に考えると、「芸術は自然物の似せ物=偽物を作ること」という定義、あるいは「芸術は自然を模倣する」という考え方は怪しくなってくる。読者は、どうお考えか?

谷口 雅宣


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2005年6月26日

外国の神

 大分県別府市で行われた生長の家講習会では、予想外に多くの質問をいただいた。その中で一つ、とても短い質問があった。津久見市で農業をしている77歳の男性からのもので、「外国にも神様がおられますか」という内容である。

 私は、午前中の講話で「万教帰一」という生長の家の考え方を説明しているが、日本語で「神」と書いて表現しようとしているものを、外国ではそれぞれ別の呼称で呼んでいることを例示し、「同じ一つの神であっても、表現される際には必ず言語や文化の影響を受ける」ことを話している。今日も、その話をしたばかりだったから、この人の質問には少し驚かされた。私の話の趣旨がまったく伝わっていないと思ったからだ。が、よく考えてみると、この人の問題意識は素朴ながらも、重要なものではないかと感じた。

 古代メソポタミアの都市国家においては、それぞれの都市がそれぞれの神を祭っていた。国に“守護神”がいたと言ってもいいだろう。城壁で囲まれた都市の中の最大の施設はその神殿であり、最高の権威者は守護神に仕える祭司だった。そういう時代にあっては、隣の国が祭祀する神は、まさに“外国の神”だったことになる。そして、都市国家間で戦争があれば、勝者側の神が敗者側の守護神になる。日本においては「鎮守の神」がこれに比べられるだろうか? 明治大学の教授をしていた萩原龍夫氏(故人)によると、「氏神」とか「産土の神」というのは、もともと特定の名前が付されていなかったそうで、時には神が入れ替わることもあったという。特に「氏神」は、村の名士や神主の家系とも関係していることを考えれば、村落の人々や有力な庄屋などの村の代表者の考え方によって、祭祀する神が代わることもありえるだろう。まぁ、これは私の想像にすぎないが、とにかく、大昔の社会では、人間の居住範囲に相応して別々の神が存在していたとしても不思議はない。

 しかし、21世紀の現代において「外国にも神様がおられますか?」と問うことは、相当なものだと思う。テレビニュースや新聞等ではほとんど連日、宗教に関係した紛争やテロ、戦争などが報道されている。そのすべては外国のことである。仏教は、外国(インドや中国)から入ってきた。キリスト教が日本に入ってきてからでも、もう500年以上たっている。この77歳の農業家が、そういう事実を知らないとは思えないのである。ではなぜ、こんな質問をしたのだろう、と私は考えた。そして、行き着いた結論は、「ここでは言葉が省略されている」ということだった。この農業家はきっと、「外国にも(私が信じるような)神様がおられますか?」と訊きたかったのではないか。もし、そうだとしたら、私は「ノー」と答えるべきだったのかもしれない。

 実際の講習会では、私は「イエス」と答えた。それは、まったく常識的な理由からである。“常識的”という言い方がマズければ「一神教の観点から」と言おう。生長の家では唯一絶対神を信仰するから、そういう神は、言葉の定義からして「自国」とか「外国」の区別をしないものである。「天地」や「宇宙」を創造した神が、その宇宙のごくごく一部にすぎない地球上の、さらにごく一部の「日本」とか「イラク」とか「アメリカ」などという国家の内側に小さく縮こまって存在し、そのほかの国や星や天体と無関係であると考えるのは、論理的な破綻以外の何ものでもない。しかし、こういう「論理」から一歩離れ、実体験を重視した場合は、“外国の神”というのはあり得るのだと思う。それは文字通りの「外国の神」ではなく、「外国の文化様式に則って祭祀され、表現されてきた神」のことである。

「聖なる印象」は、文化によって異なるということである。ヒンズー教の寺院へ行ったとき、パリのノートルダム寺院で祈るとき、イスラムの拝殿に跪いたとき、東大寺の大仏を見上げたとき、鎮守の社の前で手を合わせるとき、我々が受ける「聖なる印象」は皆違う。それを「文化が違う」とは考えずに「神が違う」と感じる人がいても不思議はない。77歳の農業家は、外国へ行ったときにそう感じた。だから、「外国にも(私が信じるような)神様がおられますか?」と私に訊いた。この質問に対する答えは、なかなか難しい。

谷口 雅宣
 

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2005年6月25日

ロシアの心変わり?

 今日(6月25日)付の『産経新聞』にビックリするような記事が載っていた。それは、ロシア人の過半数(51%)が日本への北方4島返還を支持しているという調査結果が出たというのだ。調査は今月、民間の国際社会学研究センターという所が行い、モスクワやサンクトペテルブルクを含むロシア全土の40地域で3200人を対象に行ったのだそうだ。ここの所長は「2001年に行った同様の調査では、まったく逆の結果が出ており、ショックを受けている」と話しているそうだが、この結果について、次のような興味深い分析をしている--中国との「国境画定に伴い一部領土の中国への割譲が今春決まり、中国の影響力増大への警戒感が、領土問題を解決して対日関係改善を図ろうという声の増加につながっている」というのである。

 しかし同紙は、今回とは別の世論調査機関が昨年11月に実施した調査結果が、これとは全く異なるもの--つまり、「2島の引渡し」に87%が「反対」と回答--だったことを指摘して、「どの程度実態を反映しているかは不明だ」と注意を喚起している。上記の最新の調査結果の数字にも、何か不自然なものを感じる。それは、“4島返還”を支持する人が51%だったのに対して、すでに合意されている「歯舞、色丹2島のみ」の引渡しを支持する人が、わずか6%しかいないことだ。その他、4島とも引渡しに反対なのが24%、共同保有が5%、国連信託統治が4%、日本への長期貸与が3%だったという。

 そこで思うのだが、これはロシア政府の日本に対する一種の“牽制球”ではないだろうか? ロシアの国柄を考えると、やはり中国との類似性を無視できない。中国の「反日デモ」が半分“官製”であったのと同じように、ロシアの“民間”調査機関の“世論調査”なるものも、半分以上は“官製”である可能性が大きい。読者は、ロシアのテレビニュースをNHK衛星放送で見たことがあるだろうか? 見ていない人は、一度だけでいいから見ることをお勧めする。西側諸国では決して見られないシーンが、長々と展開されるのだ。それはカメラの前で、プーチン大統領が国政の責任者を呼びつけて、いろいろ報告を受けるとともに指示を発するのである。政府に対するそういう無批判の“御用ニュース”が堂々と流される国では、“民間の世論調査”といえども、政府の方針と無関係だと考えるのはナイーブすぎるだろう。

 ということで、日中関係が難しくなっている今、ロシアは北方領土返還を“テコ”に使って、日本に対して平和攻勢をかけようとしているのかもしれない。前回(24日に)紹介した西側の世論調査の結果の中に、ロシア人の75%が日本に好感をもっているというのがあった。これに対して、中国人の日本に対する好感度はわずか17%だった。この結果を信じるならば、今年11月のプーチン訪日は、日ロ関係の前進にとって一つのよい機会であるのかもしれない。

谷口 雅宣

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2005年6月24日

世界での日本の好感度

 今日(6月24日)付の『ヘラルド朝日』紙に、2001年9月のアメリカでの同時多発テロ以後、世界の人々のアメリカに対する態度がどう変化しているかを調査した結果が掲載されていた。見出しは、「アメリカへの暖かさもどる、疑念は続く」というもの。アメリカを含む17ヵ国に住む1万7千人近くを対象にして、アメリカの調査機関が今年の4~5月に行った調査をまとめたものだが、2002年の調査(9・11直前の調査)との比較でここ3年間の「態度の変化」が分かる点が興味深い。それによると、対象となった16ヵ国のうち、2002年に比べて「好意度」が向上したのはわずか3ヵ国で、他の13ヵ国の好意度は減少している。ただし、2003年の調査時と比べて好意度が向上している国が7ヵ国あるため、見出しにある「暖かさもどる」という表現になったようだ。対象国はカナダ、イギリス、オランダ、フランス、ドイツ、スペイン、ポーランド、ロシア、インドネシア、トルコ、パキスタン、レバノン、ヨルダン、モロッコ、インド、中国だ。

 記事にはほかにもいろいろなデータが載っていたが、あくまでもアメリカ人読者向けの記事になっていたので、日本のことはほとんど書かれていない。ただ一つ、「よい生活をするにはどこへ行けばいいか」と若者に聞かれたとき、どこの国を推薦するかとの質問に対する回答に、日本が出てきている。それは、「インドネシア人の24%が日本を推薦する」というデータだ。アメリカを推薦するのはインド人(38%)だけで、先進諸国ではオーストラリア(豪)とカナダ(加)を推薦する人が多く、それぞれイギリス人は31%(豪)、カナダ人は18%(豪)、フランス人は14%(加)、ドイツ人は11%(豪/加)、オランダ人16%(豪/加)、アメリカ人16%(加)だった。

 これだけでは面白くないので、この調査を行った機関のウェッブサイトへ行って調べてみると、日本に関する面白い情報があった。それは、日本の好感度が先進諸国の間でよいことである。「よい」というのは、アメリカに比べても良いということだ。日本について好感を抱いている人の割合は、カナダ人の75%、英国人の69%、フランス人の76%、ドイツ人の64%、スペイン人の66%、オランダ人の68%、ロシア人の75%、ポーランド人の60%、そしてアメリカ人の63%である。これに対して、アメリカについての好感度は、それぞれ59%、55%、43%、41%、41%、45%、52%、62%、83%である。つまり、上に挙げたすべての国で、日本がアメリカよりも好感をもたれているのだ。しかし、中国の場合は大きく異なり、日本に対して好感をもっている中国人の割合はわずか17%だ。その他のアジアの国の数字を挙げれば、日本に好感をもっているのはトルコ人が55%、パキスタン人が49%、レバノン人が72%、ヨルダン人が46%、インドネシア人が85%、インド人が66%である。

 もう一つ興味あるデータは、中国に対する好感度だ。これは、(驚くべきことに)アメリカより良く、日本よりわずかに悪い。具体的には--カナダ人の43%、英国人の65%、フランス人の58%、ドイツ人の46%、スペイン人の57%、オランダ人の56%、ロシア人の60%、ポーランド人の36%、アメリカ人の43%、トルコ人の40%、パキスタン人の79%、レバノン人の66%、ヨルダン人の43%、インドネシア人の73%、インド人の56%が中国に好感をもっているそうだ。

 アメリカは9・11後のアフガン侵攻、そして国連を無視したイラク戦争、京都議定書からの脱退など、世界から批判を招く政策を繰り返してきたことが不人気の原因だろうが、日本の“人気上昇”はどうしたことか? これはきっと、アメリカの政策に賛成してきたからではなく、もっと別の原因があるに違いない。恐らく長年の通商・外交政策と、日本国民の努力の積み重ねだ。現在、日中・日韓関係が難しい局面にあるが、そこでの判断を誤るとこうした貴重な成果を崩すことにもなりかねない。単なるナショナリズムの鼓吹ではなく、為政者の大局的判断に期待したいものだ。

谷口 雅宣

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2005年6月22日

青学高、残念な失点

 最近、私の卒業した青山学院高等部のことが新聞記事になり気にしていたところ、今日(6月22日)の『産経新聞』の「断」欄で民俗学者の大月隆寛氏が、少し詳しい事情を書いておられた。

 問題の最初の“一報”は6月10日付の紙面で、今年2月に実施された同校入試の英語の長文読解の問題に、かつての沖縄戦に動員されたひめゆり学徒による戦争体験の証言について「退屈で飽きてしまった」とする内容の文章が使われていた、と報じていた。そして、これに対して出題した学校側が「配慮を欠いた表現をし、深く反省している」などと詫びたことも伝えている。私は『産経』と『朝日』を購読しているが、この話は2紙とも同様の趣旨で取り上げていた。つまり、「戦争体験者の証言について、退屈とか飽きたなどという意味の文章を出題したことはケシカラン」というわけである。ところが上記の大月氏の文章では、英語の原文を取り寄せて読んでみたところ、文章の内容に何も問題がないどころか、「出題者にはむしろ『その心意気やよし』と言ってもいいくらいだ」と書いておられる。

 私は、その英語の原文を読んでいないので、内容については何とも言えないが、素朴に疑問に感じたのは報道時期の不自然さである。2月に実施された入試問題がなぜ6月に問題にされるのか? これを最初に“ニュース”として報道したのは、共同通信のようだ。というのは、ヤフーの検索で出てきた記事の最も古い(早い)ものが「6月9日23時17分更新」と書かれた共同通信ニュースだからだ。そして、この記事を『産経』と『東京』が翌日の朝刊に(ほとんどそのまま)掲載している。『朝日』の記事はこれらとは多少違っているから、独自の取材で書いたものだろう。『毎日』は「6月10日午前11時4分」の記事がインターネット上に残っていた。だから結局、共同が一種の“火付け役”となって全国に広がったニュースと思われる。では「なぜ今か?」と考えると、今年の6月23日が沖縄戦の60周年に当たるからなのだろう。それでは共同通信は、2月の“事件”を6月になるまで放っておいたのか? 速報性を重んじる通信社としては、そういう不自然なことは考えられない。とすると、最近になって誰かが突然、2月の試験のことを問題にし、それを共同通信が拾ったか、あるいは共同通信に訴えたということか。このタイミングの不自然さに、ジャーナリズム特有の“情報操作”を感じるのは私だけだろうか。

 まぁ、真相は闇の中だが、青山学院高等部は今年が沖縄戦60周年であると知っていて、その英語の問題を作ったとは思えない。少し無神経だと考えるからだ。自分の母校のことだから悪く言いたくないが、青学はキリスト教主義の学校で、学生運動華やかなりし頃は、大学の神学部が左翼運動の重要拠点だったこと。また、高等部の出版部(新聞部)はいわゆる“左寄り”の部長が編集を担当していたことなどを思うと、やはり35年という年月は長く、学校の“考え方”や“校風”まで変えているように感じるのである。誤解のないように言っておくが、私は青学が昔“左翼”だったと言っているのではない。そうではなく、戦争に対する感覚がもっと鋭敏だったと言いたいのだ。政治問題化している戦争を入試問題に使うということ自体、勇気がいることだが、それについての論評も試験問題に入れるならば、時期と内容の吟味はもっと慎重にすべきだったろう。

 ところで、青学高等部のその後の話だが、報道によると同校は部長以下4人の職員が13日に沖縄を訪れ、糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」を訪問して「ひめゆりの塔」に献花したあと、同資料館の館長ら10人の元学徒と面会して謝罪した。これに対し、同館長は記者会見し「誠意を感じ納得した」と述べたという。

 谷口 雅宣

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2005年6月20日

自分で自分を助ける医療

人間の卵子や受精卵を使ってクローン胚やES細胞(胚性幹細胞)を作り、そこから神経細胞を分化させてアルツハイマー病、パーキンソン病、ALSのような脳の病気治療に役立てる方法が期待されている。このことは本欄でも何回か取り上げ、宗教的には「霊魂」の問題が無視されているので好ましくないことを述べた。また倫理的には、「他人の生命を利用する」という問題がある。これに関しては、拙著『今こそ自然から学ぼう』(2002年刊)でも、人間の体内に予め存在する補修用の幹細胞(成人幹細胞)を使った医療の方が、宗教的にも倫理的にも好ましいことを書いた。再生医療の分野では、この成人幹細胞の研究も進んでいて、このほど期待がもてる成果が発表されたようだ。それは、「自分の脳内の幹細胞を使って自分を治療する」という方法である。

アメリカの科学専門誌『Proceedings of the National Academy of Sciences』(アメリカ科学協会紀要)の6月13日号に掲載された研究によると、マウスの脳から取り出した幹細胞を培養して、そこから神経細胞を分化することが可能となったという。フロリダ州のマックナイト脳研究所のデニス・スタインドラー博士(Dennis Steindler)らのグループが行ったもので、同博士によると、取り出された幹細胞は神経細胞の元となる神経幹細胞ではなく「いろいろな幹細胞の大もととなる幹細胞」だという。これを研究室のガラス器の中で培養しながら、カメラで5分おきに30時間撮影をつづけた結果、生きた幹細胞から神経細胞が成長していく姿が確認されたという。グループの一員である別の研究者の言によると、「我々は基本的にこの細胞を取り出し、必要になるまで凍結保存し、解凍させて細胞再生の過程を開始させれば、新しい神経細胞がゴマンと生まれる」のだそうだ。もちろん、マウスでの成功がそのまま人間での成功につながるわけではないだろうが、人間への応用が完成すれば、クローン胚の作成やES細胞よりも安全な治療法になるだろう。なぜなら、この方法は自分の細胞を殖やして自分の脳に入れるのだから、拒絶反応の問題が生じないと思われるからだ。

また、今日(6月20日)の『朝日新聞』夕刊によると、ニューヨーク大学の研究チームは、アルツハイマー病の発症を9~15年前に予測できる診断方法を開発したという。脳の「海馬」と呼ばれる部分でのブドウ糖の消費状況を画像で解析することにより、アルツハイマー病は85%、軽度認識障害は71%の確率で予測できるそうだ。だから、上記の幹細胞培養の方法と併用すれば、発症危険度の高い人は、健康なときに自分の幹細胞を抽出し冷凍保存しておき、発症後にそれを解凍・培養して神経細胞を増殖させ、自らの治療に使うことができるかもしれない。まぁ、これはあくまで素人考えだが、とにかく現代の高度医療においては一定の倫理基準を早く確立しておくことが重要だと思う。そうすれば、その基準に合致しない技術は諦めて、合致する技術の研究開発に総力を挙げることで、科学技術と倫理性とが両立するような正しい医療が発達する道があるのではないだろうか。

ところで、上記の『朝日』には、同じアルツハイマー病に関して、野菜ジュースや果物ジュースが大きな予防効果をもつとの研究発表も報じられている。これらのジュースを週に最低3回飲む人は、週1回未満の人に比べてアルツハイマー病の発症リスクが75%も少ないのだそうだ。ビタミン剤や栄養補助剤では効果がなく、ジュースもしくは、野菜や果物そのものが体にいいのである。読者の皆さん、長生きしたければ肉食を減らし、野菜と果物をどんどん食べましょう!

谷口 雅宣

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2005年6月19日

政治家と顔

6月11日の本欄で、人間の脳内にある“顔細胞”の話をして、我々の視覚がいかに“顔”のような形に敏感であるかを書いた。そこから考えると、「美容院」や「化粧品」「眼鏡」「顔写真」「隈取」「お面」など、顔と関わりが深いものが人間にとって重要であることが分かる。先に挙げたものに、結構我々は高額なお金を支払うことを厭わないのである。「人を外見から判断するな」とよく言われるが、そのこと自体、我々が人を外見--その重要な要素としての顔--で判断する傾向があることを暗示している。また「男は顔じゃない」と言う人もいるが、私の妻などは「男は顔よ!」とよく言って私を苦笑させる。(「女は顔」なんでしょうか?)

「政治家は顔か?」という命題はどうか。小泉首相、石原親子、橋本知事、JFK、レーガン大統領、ウクライナのユーシェンコ大統領……などの例もあるが、逆に大平正芳首相、岡田(民主党)代表、シュワルツェネッガー知事などのことを考えると、「顔じゃないな」とも思う。しかし、「顔がいい」ことが選挙に有利であることは誰も否定しないだろう。それを学問的に検証した結果が、このほどアメリカの科学誌『Science』(6月10日号)に発表された。プリンストン大学の心理学者、アレクサンダー・トドロフ博士らの研究によると、人は選挙の時、候補者の顔を見て能力・力量を判断し、それを基準にして投票するのだそうだ。「所属政党や候補者の政策、さらに人格も考慮に入れて理性的に投票する」と考えられていたのとは、かなり違う結果だ。

この研究では、2000年、2002年、2004年に行われたアメリカの上下両院の選挙候補者2人の写真をペアにして被験者に見せ、どちらが「有能な政治家か」の判断をさせたという。このとき、被験者が写真の政治家のいずれかを知っている場合には、知らない政治家のみのペアに変えてやったという。だから、実験では「顔写真」だけから政治家の有能さを判断させたことになる。こうして多数の被験者から回答を得た結果と、実際に行われた選挙での投票結果を比べてみると、アメリカ上院の選挙では2000年の結果の73.3%、2002年の72.7%、2004年の68.8%が、「顔だけの判断」で説明できる結果になったという。下院の選挙との比較は、2002年が66.0%、2004年が67.7%だった。

ここで興味が湧いてくるのは、実験で使われた「ペア」の内容だ。それは“大人っぽい”(mature-faced)顔と“子供っぽい”(babyfaced)顔だという。そして、“子供っぽい顔”の特徴は、丸顔、大きい目、小さい鼻、広い額、小さいアゴなのだそうだ。読者は、鏡の前で自分の顔を眺めてみてはどうだろう? 特に政治家と、将来政治家を目指している人は!

谷口 雅宣

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2005年6月18日

青 柿

長崎・西彼町で行われた生長の家創始者・谷口雅春先生の20年祭が終わり、東京へ帰るまで少し時間があったので、妻の誘いに乗って近くの漁村まで足を延ばした。近くに「バイオパーク」という動物公園があるところで、宮浦という名の静かな村だ。「大分前に一度行ったことがある」という妻の記憶を頼りに車で行くと、湖のように波のない入江を前にして、漁船やプレジャーボートが6~7艘、岸壁に繋がれていた。

昼少し前のまぶしい光の中で、波の音もなく、人声もない。聞こえるものといえば、上空をいくトビの鳴き声と、遠くで機械を使う虫の羽音のような音。我々は1軒の二階家の近くへ行き、その庭の畑に植えられた作物について、いろいろ詮索した。まだ実の小さいスイカが、藁を敷いた畑の上に蔓を伸ばしていた。あった。地面からニョキニョキと首を出したダイコンがあった。特大の大きさに育ったサニーレタスがあった。枝豆やトマトも育っていた。そして、裏の畑では一面に赤く見えるほど、赤ジソが育っていた。ウメの実ができる頃だから梅干を作るためだろう、と妻は言った。育ちすぎた生垣の脇から、アマリリスが3~4輪、見事なラッパ形の花を咲かせていた。マツバボタンが肉厚の茎と葉を伸ばし、濃いピンクの花を思い切り開いている。その大きさが、また我々を驚かす。入江の対岸へ行こうとして車を走らせると、途中の田んぼで、食物を物色中の白サギと青サギが、我々に警戒して動きを止めた。

動物と植物と人間のどれもが、互いに冒し合わずに繁栄している--そんな印象を受けた。

Aogaki
生長の家公邸へもどって、また庭を散歩した。ここには畑や田んぼはないが、その代わり藤やソテツ、桜、梅、蜜柑の木が、初夏の日を浴びてすくすくと育っている。桜やソテツは花が終り、実や種ができている。私は柿の木の下に黄緑色の小さな実がいくつも落ちているのに気づいた。果樹には実を太らせる前に、余分な実を自ら捨てるものが多い。蜜柑もブルーベリーもそうだし、柿も同じことをする。私はこの時、東京・世田谷の駒沢に住んでいた時、マンションの狭い庭に生えていた柿の木が、初夏に小さな実を無数に落としたことを思い出した。直径1~2センチの実で、ちゃんと柿の形をしているのを、子供と一緒に面白がって拾ったものだ。

「青柿」といえば晩夏の季語だが、初夏にも小さい実は落ちている。実が大きくなったとき「ヘタ」と呼ぶ緑色の部分は花のガクだが、小さい青柿はこのガクが、手足を躍らせているように見えてかわいらしい。

青柿の踊る手足や親何処

谷口 雅宣

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2005年6月17日

肉体と精神

今日の午前、長崎県西海市西彼町の生長の家総本山で、生長の家創始者・谷口雅春先生の20年祭が執り行われた。以下は、そこに集まられた人々への私の挨拶(要旨)である:

谷口雅春先生がお亡くなりになって20年になるが、私はまだ先生が亡くなったという感じがしない。朝、神想観をし、聖経を読み、『真理の吟唱』を読み、仕事場である生長の家本部ではご著書を読み、この総本山へ来れば、七つの燈台に、霊宮に、顕斎殿に先生のアイディアが満ち満ちているのを感じる。奥津城にお参りさせていただけば、先生にご挨拶ができ、お話もさせていただけるような気がする。しかし今、大聖師の肉体はどこにあるのだろうか? それは、墓石の下に安置された小さな骨壷の中に、白いお骨だけが残っているにすぎない。

今日、この本山に集まられた皆さんも、きっと私と同じような感想をもたれたと思う。ここに集まられた皆さんすべての心の内に、谷口雅春先生はにこやかに、また時には少し厳しいお顔をして生きておられると思う。ご著書の頁を開けば、そこに先生は生きておられる。我々の生活の中に、先生は生きておられる。それは、肉体の残骸にすぎない“お骨”が今、お墓の中でどういう状態であるかということとは全く関わりなく、先生の精神が、我々の生活のあらゆる処に生きておられるということである。このことが、人間は霊であり、肉体ではないということを有力に、実感をもって我々に教示している。

私は最近、人間の肉体は衰えるということを実感するようになった。それは「老眼」が進んできて、眼鏡を使わないと本の小さい字が読めなくなってきた。10年ぐらい前は、生長の家の機関誌の字が小さくて読みにくいという声があるのを知っていたが、その「読みにくい」ということが実感できなかった。ところが今は、それが実際どういう具合なのかがよく分かる。しかし、肉体の衰えは精神や心の衰えではない。むしろその逆であり、心や精神の拡大に伴って、肉体がその要求に応えきれなくなっている、と言った方が正確である。本が読みたいと思っても、眼鏡なくして読めない。心が「もっと読みたい」と思っても、肉体である目の方が疲れてしまう。すると心は、「ああもっと若かった、昔の肉体に返りたい」などと思う。

しかし、精神の拡大とともに肉体の機能や能力も拡大し続けることは善いことか? 肉体の能力に一定の制約があり、加齢にともなってその制約も大きくなるということは悪いことだろうか? 最近、100メートル走の世界記録が3年ぶりに塗り替えられた。ジャマイカの短距離走選手、アサファ・パウエルという22歳の黒人男性が9秒77という新記録を樹立した。身長190センチ、体重88キロの大型選手だ。この人が、仮に今後も肉体が成長し、能力も伸び続けていけばどうなるか? それは本人にとっては良いことかもしれないが、他の選手や人類全体にとってはどうか? シアトル・マリナーズのイチロー選手が最近、1000本安打を達成したが、彼が今後もどんどん記録を伸ばし、1500本、2000本……と記録を更新し続けることは善いことだろうか? また、打率もどんどん伸ばして、4割を達成するどころか、5割、6割も打ち続けることが、野球全体のために善いことだろうか?

私は、精神と肉体の発達がズレていることによって、人間はこの世で重要な教化を受けるのだと思う。それは、「人間の本質は肉体ではない」ということである。精神の要求が拡大するにともなって肉体の大きさや能力が拡大していけば、人間は「自分は肉体そのものだ」と実感するだろう。しかし、精神や心が如何に望もうとも、肉体の能力の限界を感じることによって、人間は「あぁ、自分は肉体ではない」と実感するのだと思う。そして、肉体の側からの要求に対して、「ノー」と言うことができるようになるのである。 

そのことを谷口雅春先生は、毛虫と蝶を例に使って見事に説かれている文章がある。『希望を叶える365章』(日本教文社刊)の93~94頁を読んで、そのメッセージをじっくり味わっていただきたい。

谷口 雅宣

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2005年6月16日

“燃える中国”は電力不足

小泉首相が推進する“クールビズ”は、軌道に乗るだろうか? 夏場のエアコン使用による電力需要を減らし、温室効果ガスの排出削減を狙うものだから、その努力は誉められるべきだろう。私もエアコンの使用を減らすことは大賛成で、すでに数年前から実施している。実際、昨夏は仕事場のエアコンは2~3日しか使わなかったと思う。日本では数年前、原発をめぐる相次ぐ不祥事の影響で、夏場に原発の運転が停まって電力不足になったことがある。しかし、そういう異常事態がなければ、夏場の需要を満たすだけの電力供給に不安はない。ところが経済が真っ赤に燃える中国では昨夏、通常の電力需要が底上げしてきたため、工業都市・上海を初め広範囲(27省中24省)で、エアコンの使用が引き金となって停電が起こった。つまり、経済発展の勢いに電力供給能力が追いつけなくなっている。今年も、その“恐怖の夏場”が近づいてきた。

6月16日付の『ヘラルド朝日』紙によると、上海市はこのほど、市内の工場主たちに夏場の操業の短縮を要望し、電力料金の値上げも視野に入れているという。夏場の需要に対し、約200万キロワットの不足が予測されているからだ。2週間前の6月1日、北京市も同様の要望を出したという。それは、7~8月の間、場合によっては市内の工場に対して交替で1週間の操業停止を要請するかもしれないというのだ。なぜなら、1350万人を抱える市内の夏場の電力需要は、昨年に比べて13%増加し、1070万キロワットに達すると予測されるからだ。中国全体での電力不足は、昨年は3万メガワットだったが、その後の発電能力の拡大(約15%)によって不足は軽減したとはいえ、今年の不足量は2万5000メガワットほどになるという。そして、日本にとって重要なことの一つは、中国の電力の多くは、あまり効率のよくない火力発電所で石炭を燃やして作られていることだ。つまり中国大陸では、昨年以上に煤煙や温室効果ガスが排出され、酸性雨が(日本にも)降るということになる。

こういう話を聞くと、素朴な疑問が湧いてくる。中国は社会主義とは言いながら、多くの資本主義・自由主義的制度を採用してきた。では、電力料金はどうなっているのか? これが需要と供給の関係で決まるならば、中国の電力料金は上昇し、それを使って生産される製品の値段も上がるだろう。そうすれば国際市場での中国製品の競争力は弱まる。そういう結果を避けたいために、中国政府は電力料金を統制しているのか? しかし、操業短縮を実施すれば製品の供給量を減らすことになるから、やはり製品の値段が上がることになるだろう。では、ダムや原発を増設して電力供給能力を飛躍的に増やしたらどうか? ここにも環境への影響の問題がある。だから、「中国産品は安価だから」という単純な動機で我々が消費活動を続けることは、もう考え直すべき時期に来ているのだ。

今夏、エアコンを使うとき、また中国産品を買うとき、我々日本人もそういう“複眼的”思考をしてみてはどうだろう?

谷口 雅宣

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2005年6月14日

新法王の先取点

4月22日の本欄で新ローマ法王、ベネディクト16世について「カトリック教会の伝統的な教えに忠実」という見方を紹介したが、あれから約2ヵ月たって新法王の“カラー”が鮮明に出てきたようだ。生殖補助医療の分野で伝統主義を大いに推進し、イタリア政治に影響を与えているのだ。6月14日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。

イタリアの現在の法律は、人工受精で作られる受精卵の数を3個までに限定し、精子や卵子の提供を禁じているうえ、ヒト胚(受精卵)を使う研究も許していない。これでは治療や科学の発達がおぼつかないと法改正を求める勢力に押され、イタリアでは法改正の是非を問う国民投票がこの12~13日にあった。それに対して、新法王率いるカトリック教会は猛然と改正反対の運動を起こし、国民投票には参加しないようにイタリア国民に呼びかけたという。イタリアの法律によると、国民投票が実施されても、投票者数が選挙権者数の50%を越えなければ票は数えられず、選挙は事実上無効となる。そして、日曜日(12日)の1日のうちに投票した人は、全選挙権者のわずか18.7%であったという。これに月曜日半日に投じられる票を加えても50%を上回る可能性はないとして、同国ではバチカンの勝利を疑う人は少ないのだそうだ。

イタリア国民は、かつて2回にわたりカトリック教会の意思に反対した。最初は1974年に離婚を禁じさせなかった。2回目は1981年で、前法王、ヨハネ・パウロ2世の強力な運動にもかかわらず、人工妊娠中絶の禁止に反対した。が今回は、まずは教会側が勝利したといえるだろう。

ところで日本には、生殖補助医療を規制する法律は存在しない。だから、不妊治療の現場では受精卵は1度の3個以上作られ“余剰胚”として凍結保存される。ヒト胚を使うES細胞の研究には、それら“余剰胚”のうち廃棄の決定をされたものが使用されている。精子の提供は、かなり前から普通に行われている。そして、これらの動きの主導権はもっぱら医師や研究者が握っていて、宗教の側からの発言は少なく、あってもあまり重視されない。そういう社会環境にいる者から見ると、イタリアのように白黒がハッキリする制度は、何となく羨ましいのである。

谷口 雅宣

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2005年6月13日

杏 と 李

昨日、梅の実が色づいた話を書きながら気になっていたのは、アンズの実のことである。アンズの木は我が家にはないが、仕事場の近くの東郷神社の境内に、高さ6メートルほどの立派な木が立っている。去年の今ごろ、ジョギング後のストレッチをしに境内へ行ったとき、拝殿前の楠の下で、近所の子供たちが黄色い実を集めて遊んでいるのを見つけ、親樹を探したのである。親樹は、拝殿に向かって右側の道路脇にあった。その時は雨のあとだったせいか、20~30個も落ちていた。上方を見れば、どれが親樹かすぐ分かった。ストレッチを終って拝殿前へもどると、もう子供たちの姿は見えず、黄色いアンズの実だけが岩の割れ目に並んでいた。

杏子の実集めし岩や子ら思う

実はこの句は最初、「スモモの実……」と書いてあった。私が混同していたのだ。それを自分のウェッブサイトにも掲示してしまった。スモモは「李」でアンズは「杏」だ。字が似ているだけでなく、互いにバラ科で同じころに咲き、同じころに実をつける。しかし、実の色が違う。アンズは黄色だが、スモモは赤だ。岩の割れ目に並んでいたのだから、黄色いアンズでなければならなかった。

スモモの方がアンズより大型で、味もいいことになっている。「プラム(plum)」はスモモのことだが、私は最近まで、あの黒紫色のドライフルーツのプラムと、赤くジューシーなスモモが同じ果物であることを知らなかった。ついでに言えば、健康食品として知られる「プルーン」もスモモの西洋種だ。こう書くと、スモモの方がアンズより良さそうに聞こえるかもしれないが、アンズはジャムにすると香りが引き立ち、スモモよりおいしい。(私の独断!)また、アンズの種からは漢方薬が作れるだけでなく、杏仁豆腐の原料ともなる。

アンズは梅と関係が近く、交雑が可能という。だから昨日の梅の話で、アンズが呼び出されてきたのかもしれない。梅の実が色づけば、アンズも熟れ時に違いないと思った。

梅雨入りが嘘のように青空が広がった今日の午後、ジョギングの帰りに東郷神社へ寄った。案の定、アンズの実はいくつか落ちていた。が、去年と比べると数が大分少なく、色もまだ薄い。と、近くで箒を持って掃除している人がいる。付近には、濃い紫色の桜の実が一面に落ちていて、果汁がアスファルトの道路を点々と染めている。掃除したい気持は分かるが、緑の木陰に黄色の実が落ちている風情はまた格別なのだ。

杏落つ庭を掃く人しばし待て

谷口 雅宣

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2005年6月12日

梅の実色づく

5月9日の本欄で、私の家の庭にある紅梅の木から実が屋根に落ちて驚いたことを書いた。その音は一時静まっていたが最近、再びするようになった。今度の音は、もっと大きい。前回の音は未熟な実が落下する音だったが、今回のは枝に残った実が成熟して落ちるからだ。梅の実は成熟すると緑から黄緑色に変わり、中にはアンズに近い黄色になるものもある。家の梅は紅梅だから、木の枝に赤みが差しているだけでなく、実の枝に近い側もほんのりと赤みが差している。直径3センチほどになったその実が、サンルームのアクリル・ガラス製の屋根に当ると「ターン」と弾けるような音がする。

PlumFruits

5月から1ヵ月間で、いったいいくつの実が落ちたのかと思う。今年は例年よりはるかに多くの実が落ちた。その理由は、今年は枝の剪定をしなかったからだ。例年は、5月の生長の家全国大会後に妻が剪定を依頼する。今年はそれを省いた。妻に聞くと、剪定をしない方が夏場に日陰ができて涼しいからだという。この季節は、スーパーでも梅の実を売っている。1キロ千円ぐらいだ。梅酒や梅干を作るセットも一緒に並んでいると、何となく作りたくなるものである。妻は庭に落ちた梅の実を5~6個拾って底の浅い器に入れ、さらに実のついたままの梅の枝を切ってきて花瓶に差した。それを見た私が「梅酒をつくろうよ」と言うと、「もうあるわよ」と言われた。去年買って浸けたのがあるのだという。

花と実の双方が楽しめる植物が近くにあることは、実に有難い。自然の恩恵を身近に感じる。そう言えば、今年はビワの木を剪定してもらったら、なぜか実がいっぱいついた。それが今、黄色くなりだしている。ブルーベリーも、昨年はかなり虫の害に遭ったが、今年は大いに実をつけて色づきはじめている。こうして植物たちが、確実に実りへの道を進んでいることを思うと、人間の自分は去年からどれだけ前進しているのか、と反省させられるのだ。

梅の実の色づきて知る時速し

谷口 雅宣

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2005年6月11日

内外一如の話

前日、関東地方は平年より2日遅く「梅雨入りしたとみられる」と気象庁が発表した。が、今日は青空がひろがる好天気、かと思うと小雨もパラつくなど不安定で、不思議な一日だった。帰宅のため事務所を出ると、何か冷たいものがポツリと落ちた。しかし、空を見上げると雲はまばらだ。「でも梅雨なのだから……」と次のポツリを待つ。が、なかなか落ちて来ない。空を見上げたまま歩を進めていくと、東郷神社の鳥居の脇に立つ大きな楠の葉の間から、「顔」の形をした雲がこちらを見ていた。「ふーーん、面白い顔だなぁ……」と眺めながら歩き続けると、空がゆっくり動いて、枝葉に隠れていた雲の「腕」と「胴体」も姿を現した。足は片足だけで、先の方が消えかかっている。「なるほど」と私は納得した。

何を納得したかというと、人間の脳内には“顔細胞”があるという話にだ。外界にある「顔」の形のものに敏感に反応する脳の一部分(大脳の側頭連合野の一部)をそう呼ぶらしい。進化生物学によると、こういう「顔」に特化した脳細胞が発達した理由は、人間社会の中で顔のもつ役割が大きいからだ。つまり、より速く、より正確に相手の「表情を読む」ことが生存に有利だったからだ。人間同士のあいだでは言語が重要なコミュニケーション手段であることは言うまでもないが、言語は異民族間では通じないこともあり、また人間は必ずしも言葉通りのことを感じ、考えているわけではない。そういう場合には、顔をよく見て「表情を読む」ことに長けている人の方が生存に有利となり、そういう人の遺伝子が現代人に引き継がれているというわけだ。

WoodPuzzle

しかし、こうして人間の脳が「顔」や「表情」に敏感になったおかげで副産物も生じた。それは、人間の視覚が「顔」でないものも顔として見る傾向をもつようになったことだ。私が雲の形を「顔」として捉えたのが、そのいい例だ。また、病気でベッドで寝ているときなど、天井板の木目や、壁のヒビやシミが人の顔に見えたりする経験をした人は多いのではないか。さらに自動車好きの人は、ひいきの車種について「顔がいい」などと言ったりする。自動車のフロント回りが「顔」に見えるからだ。傑作は、かつてアメリカで話題になった火星上の“人面岩”騒ぎで、火星の表面の写真の中に「人の顔をした大きな岩」が発見されたことで、すわこれはスフィンクスの火星版だと言わんばかりの議論がメディアなどで起こったそうだ。結局、この岩は撮影時の光線の加減で人の顔のように見えたにすぎず、後年、もっと精密な写真が撮れるようになった時、“人面岩”は少しも人の顔に似ていないことが判明したそうだ。

で、私は思うのだが、人間は自分の心(脳)にあるものを外に見るのである。だから、外界は内界の反映である--しかし、この世界はその言葉ほどには単純でないかもしれない。実は、人間の脳には「神」や「仏」などの宗教的な対象のことを想起すると反応する部分もあるらしい。では、神仏は人間の脳の反映なのか?

こう考えたらどうだろう--人間の脳に“顔細胞”が発達したのは、「表情を読む」という行為を人類が何十万年、何百万年も繰り返してきたからであって、その逆(顔細胞が先にあったから外界に顔が見える)のではない。大体「顔」なるものは類人猿にも、イヌにもネコにもある。昆虫や魚類にも「顔」と呼んでいいものがあるだろう。それと同様に、人間の脳の一部に神仏に反応する細胞があったとしても、それは神仏が人間の脳の創作物であることを意味しない。そうではなく、その細胞の存在は、人類が何十万年、何百万年もの長期にわたり、「神」や「仏」などの宗教的対象と関係をもち続けてきたという事実を示すにすぎない。

しかし、こうして人間の脳が「神」や「仏」に敏感になったおかげで、“顔細胞”のときと同じような副産物が生じた可能性がある。それは、本当の「神」や「仏」でないものも、すぐに「神」や「仏」だと考えてしまう傾向のことだ。その場合は、(“人面岩”が地球上の人類の“顔細胞”の反映であるように)神仏は人間の脳の反映だと言うことができるだろう。

谷口 雅宣

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2005年6月10日

“吸収論”と“崩壊論”

前日に引き続き、朝鮮半島情勢について……。北朝鮮をめぐる韓国とアメリカの“温度差”の原因は、地政学上の立場の違いに加えて、東西ドイツの統一をどう見るかの違いにもあるらしい。

【吸収論】韓国は、ドイツ統一で西ドイツが被った経済的、社会的負担はかなわないと考え、徐々に、時間をかけて“北側”を自国社会に同化させる方策を考えている。ソウルが北のロケット砲の射程内にあるという地政学上の問題ももちろんあるし、本質的に同一民族である“北”と戦端を開くことは、できるだけ避けたいに違いない。だから、北との人的、社会的、経済的交流を拡大する“太陽政策”を推し進めている。“北”が核兵器をもつことはもちろん好ましくないが、“北”との軍事衝突はもっと好ましくないのである。

【崩壊論】対するアメリカは、“ビッグバン”ではないが、どうも北の政権崩壊を期待し、また信じているようだ。これには、ベルリンの壁崩壊によって、東西ドイツ統一が短期間に実現したことが指針になっているらしい。特にブッシュ政権の中には、物事を“善悪”で割り切る考え方の人が多いらしく、「“悪の政権”はいずれ崩壊するが、アメリカがその崩壊に手を貸すことは善である」との思考が続いているのではないか。アフガニスタン侵攻やイラク攻撃は、そんな論理が一部働いて行われた。「悪とは取引しない」との強硬姿勢が、ここから生まれているのだろう。地政学的な側面から見れば、“北”の大陸間弾道弾は西海岸のサンフランシスコやシアトルに到達する能力はあっても、核兵器として軍事的な信頼性を得るまでにはまだまだ時間がかかる。それよりも重要なのは、“北”の核兵器やミサイルの技術がテロリストに売り渡され、9・11のようにアメリカ国内で使われることだ。これは将来の話ではなく、「今そこにある危機」だ。だから、“北”の崩壊は早ければ早いほどよし、ということになる。

では、日本はどうか。ニュース報道を見聞するかぎり、日本は韓国よりもアメリカ寄りだから、小泉首相は崩壊論を信じているのだろうか? しかし、地政学的には、日本は韓国と同様の問題を抱えている。崩壊前にアメリカとの軍事衝突があれば、日本の米軍基地が攻撃されるかもしれない。“北”が崩壊すれば、多くの難民が日本海を渡ってわが国へ来るかもしれない。“北”のミサイルは、発射から20分で東京上空へ到達するという。つまり、現在の技術力では、“北”からの核攻撃を防ぐ術はない。では、拉致問題を棚上げして“北”への経済援助をするというのか? 世論を含めたこれまでの経緯から考えると、その可能性はゼロに近い。それなら国の防衛はアメリカの軍事力に頼って、日本は経済的に“北”を締め上げる強硬策を採ろうというのか? しかし、経済封鎖は、長い国境線を共有する中国や韓国の同意がなければ、ほとんど効果はないだろう。

こう考えてくると、互いの立場が調整できるなら、6ヵ国協議の場で話がまとまるのが“最善”ということになる。しかし、それはあくまでも「互いの立場の調整」が可能ならばの話だ。そうでなければ、“北”の立場は、6ヵ国協議を先延ばしにして、手持ちの核爆弾の数を増やせば増やすほど有利になる。だから、これから始まるアメリカと韓国の首脳会談で、互いの立場がどこまで調整できるかが注目されているのである。

谷口 雅宣


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2005年6月 9日

“北の核”と共存できるか?

5月31日の本欄で、日本のメディアがアメリカと北朝鮮の間の“キナ臭さ”を報道しないのは、日本政府の「目立たないようにやる」方針への協力か、などという憶測を書いたら、その後、続々と朝鮮半島をめぐるキナ臭いニュースが報道され始めた。私はバランス感覚を保つために『朝日新聞』と『産経新聞』の双方を読んでいるが、この朝鮮半島の問題については、なぜか『朝日』の方が詳しく報道しているようだ。

それらの報道によると、すでに本欄でお知らせしたようなアメリカの軍事的圧力が奏功したのか、北朝鮮は、アメリカとのニューヨークでの接触を求めてきたが、6月6日の米朝会談では「様々な問題に関して見解を表明したが、6ヵ国協議復帰の意図については明確にしなかった」とホワイトハウスは発表した。(『産経』)この「様々な問題に関しての見解」が何であるかについて、『朝日』は8日の夕刊で北朝鮮は「核保有国として処遇されなければならない」との要求があったと伝えている。このことを裏づけるように、北朝鮮の外務次官は8日に放送された米ABCテレビのインタビューで、「米国の攻撃に対する防衛のために十分な数の核爆弾を保有している」と明言した。(『朝日』9日夕刊)

さて、ここからは私の想像だが、北朝鮮は結局、アメリカの軍事的圧力に対して、アメリカに直接メッセージを伝えることを急いだと思われる。そのメッセージとは、「我々は自国の核施設に対してアメリカが先制攻撃をしても、その攻撃によっても生き残れる数の核爆弾をすでに用意している」ということだろう。「アメリカの先制攻撃によっても生き残る」という意味は恐らく、イラクでも使われた地中貫通弾「バンカーバスター」を積んだステルス爆撃機による攻撃でも、地下施設に隠された核爆弾をすべて破壊できない--という意味だ。もちろん「生き残る」のは核爆弾だけでなく、金正日氏を含む政権中枢部も含まなければならない。そして、生き残った後は報復攻撃に出ることになる。

北朝鮮がアメリカの先制攻撃を恐れていることは、8日付の『産経』のソウルからの報道でも明らかだ。それによると、この国では今年の4月から国際電話の9割が遮断され、約2万台の携帯電話が没収されたという。韓国の『中央日報』の報道を引用したものだが、同紙はその目的について「米国からの先制攻撃に対応するためで、内部情報の流出遮断が目的とみられる」と書いている。インターネットの使用も厳しく制限されているそうだ。事実上の戦時体制といえる。

そんな中で希望がもてるのは、中国の王光亜・国連大使が7日に、6ヵ国協議再開の時期について「今後2~3週間になる」との見通しを述べたことだ。(『朝日』8日夕刊)アメリカのヒル国務次官補も7日、「北朝鮮側は6者協議への関与を継続する意思は示した」(同)と説明している。アメリカは北朝鮮に“強硬”であるが、韓国と中国は“同情的”なのである。日本は拉致問題もあるので、強硬な“アメリカ寄り”であることは言うまでもない。この両派の“温度差”を利用して、北朝鮮は核兵器の開発を続け、経済援助を引き出してきた。問題は、北朝鮮は核実験をしないまま、事実上核保有国と見なされる可能性が増大しつつあることだ。そうなると、日本は北朝鮮の核兵器を“限りなく黒に近い灰色”のものと見なしながら、かの国と共存する選択肢に直面することになる。

谷口 雅宣

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2005年6月 8日

“京都後”の行方

地球温暖化防止のための京都議定書が2012年に終了するのをにらんで、各国は“京都後”に向けて動き出しているらしい。目標はもちろん、同議定書が定めている数値以上に温室効果ガスを減らすことだ。なぜなら、同議定書での削減量は、とても充分とは言えないからだ。しかし、その方法論をめぐって意見が分かれているという。一つは“京都の息子”(son of Kyoto)をつくること。つまり、京都後にも同議定書の基本的枠組みを変えず、温室効果ガス削減対象となる国の数を増やしたり、削減の目標値を上げることで対処するというもの。もう一つは、同議定書の枠を取り外して、ゼロからスタートするというものだそうだ。5月28日付の『NewScientist』誌が伝えている。

京都議定書の欠陥の一つは、温室効果ガス削減を義務づけられているのがいわゆる“先進国”だけで、いま急速に経済発展しているブリックス諸国(BRICs、ブラジル、ロシア、インド、中国)などが含まれないことだ。しかし、現在の気候変動の激しさや、砂漠化や黄砂の被害を経験した途上国の中には、自らの意思で温室効果ガス削減等の対策を講じる国が出てきいている。アルゼンチン、メキシコ、ブラジル、南アフリカ、インドネシア、中国などがそれである。例えば、アルゼンチンは、重油やガソリンよりCO2排出量が少ない天然ガスを使う自動車の数が、すでに世界一である。また、中国でもエネルギー効率を高める活動は盛んであるという。

しかし、発展途上国にもCO2削減を義務づけるとなると、その数値目標の平等性と効果が問題になる。そこで、もともと先進国にだけ厳しい目標を課している京都議定書の枠組みを一度外してしまい、新しい考え方で、途上国やアメリカも参加できるような統一基準を盛り込んだ案が検討されているのだ。その一つは、「すべての国に平等」に義務を課す方法で、地球上のすべての人が平等に温室効果ガスを排出できるとの前提で目標値を定めるものだ。つまり、各国の人口に比例して排出許容量の上限を定めるという考え方だ。もう一つの方法は、国内総生産(GDP)に対する炭素排出量を「炭素集中率」として捉え、その数値の削減目標を決める方法である。これによって、温室効果ガスを排出しない技術を育てようとするものだ。前者を押しているのは、スイス、ケニア、メキシコ、モナコなどで、後者の推進者は今のところアメリカだけだそうだ。

ところで私は、石油の生産量が頭打ちになる「石油ピーク」が近づくことで化石燃料全体の価格が高騰し、それによって(多少時間はかかるが)代替エネルギーや自然エネルギーへの転換が起こることを期待しているが、どうだろうか? 現に昨今の原油の値段は1バレル50ドルの大台を突破しつづけていて、その影響からアメリカではハイブリッド車の生産が注文に応じ切れず、プレミアムがついている状態という。ただし、このハイブリッド車の販売台数がアメリカではまだまだ少ない。6月7日の『ヘラルド朝日』紙によると、同国でのハイブリッド車の売り上げは、自動車全体のわずか0.5%にすぎない。これが2012年までに4%になるという予測があり、トヨタ自身は10%を目指しているらしい。しかしこの国での問題は、アメリカ人は伝統的に「馬力のある車」が好きだということだ。あるアメリカの調査会社が最近、人々が自動車を買う際の基準を調べてみると、56の基準の中で「燃費のよさ」は28番目にすぎなかったという。私の期待は空しいのだろうか。

谷口 雅宣


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2005年6月 7日

キノコを彫る

この春は寒さが遅くまで続いたせいか、シイタケがうまく出なかった。東京の家の庭の朽ちたベンチに立てかけてあるホダ木からは、驚くほどの大きさのものが2~3個出たが、それで終ってしまった。山梨県大泉の山荘の林の中のホダ木でも、同様なことが起こった。直径20センチぐらいの化け物のようなものが3~4個、いちどきに採れた。長崎県西彼町の生長の家総本山でもシイタケのホダ木栽培をしているが、担当の人に聞いてみると、春シイタケは梅雨入りするまでの期間、コンスタントに出ると言っていたから、私の世話の仕方が問題なのだろう。

キノコへの関心は、妻から伝染した。伊勢育ちの彼女は、子供のころから山でキノコ採りをしていたというので、山荘ができるとすぐに裏の林へ入ってキノコを見つけてきた。私も彼女の“お供”をして林の中を歩いたが、そのうち、食用とそうでないものを見分けたり、貴重な種とそうでないものと区別したりする面白さを覚えた。また、それぞれのキノコの形の面白さや色の美しさ、味や危険度の違いなどを知るにつれて、ついに“キノコ病”にとり憑かれた。妻は、探して採るところまでは熱心だが、食べる段になると急に慎重になる。が、私は食べるところまで一気に楽しもうとして、妻に迷惑がられることが多い。

キノコ採りの最中には写真も撮ったが、そのうちスケッチ画を描きはじめた。そのいくつかを生長の家の美術展である「生光展」に出品したこともある。絵を描くのは、キノコには足が早いものが多く、採るとすぐ色が変わりはじめ、形も崩れていくのを見て、何とか自然のままの色と形を留めておきたいと思ったからだ。しかし、絵は写真と同じく平面芸術だから、キノコ特有の立体としての存在感、質感、肌触りなどは記録できない。そこで思いついたのが、キノコの形を木に彫ることだった。参考にするためにインテリア・ショップや工芸品店、玩具屋などを見て回ったが、キノコの彫刻や飾り物は案外少ない。それなら自分の思い通りに作ってしまえというわけで、昨年の秋から暇をみて彫刻刀で彫りはじめた。材料は、山荘を建てたときに余った木切れである。

彫刻刀などめったに握ったことがない身には、当初は大変だった。が、雨の日の山荘で、薪ストーブの前に座って無心に木を彫ることの精神的安らぎを知ってからは、大変とは思わなくなった。それに、木の肌の感触や木目の美しさを感じる心の余裕ができた。だから、「形ができたら色を塗ろう」と思いながら始めた最初のキノコの木彫りは、透明ニスを塗るだけにして、木の色と木目の曲線を楽しめるように仕上げた。ごつごつした所が残り、キノコの傘も正円ではないが、いつか実際に採ってみたいと思っているヤマドリタケに似せた木彫が、こうしてできた。現在、3つめを制作中だ。

Fungis

ところでキノコは、学問的にはカビと一緒に「真菌門」という生物群に属し、植物のように葉緑体をもっていない所から、最近では植物とは別個の生物群として扱われるようだ。葉緑体のある植物は、光合成によって大気中の二酸化炭素を体内に取り入れて栄養素とする。動物はその植物を食べて栄養源とする。しかし、菌類のうちキノコ類は、植物に寄生して栄養素を奪うものはむしろ少なく、多くの種は樹木などの高等植物と共生関係を結ぶ。だから人間も、キノコの生き方から学ぶことは多いと思うのだ。

谷口 雅宣

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2005年6月 6日

バナナと芭蕉

やっと夏らしい気温になってきた。予報では東京地方は25℃ということだったが、妻に聞くと「もっと上がった」という。世の中では6月から「クールビズ」なるものが推奨されているが、朝夕の仕事場との往復にはまだ夏物スーツで耐えられる。というか、今日は湿度が低かったせいか快適な歩行が楽しめた。数日前の新聞に「梅雨入りが遅れている」と書いてあったが、太平洋上を北上中の台風4号が日本列島に近づけば、日本海にいる高気圧を押しのけて梅雨前線を引き寄せてくれるだろう--などと素人考えで天気図を読んだ。

家の庭にはバナナの木があった、というのが私の記憶である。ところが、母はそんなはずはないと言うから、多分彼女の記憶の方が正しいだろう。しかし、小学生頃の私の記憶として、あのバナナの花の巨大なグロテスクな姿が脳裏に焼きついている。記憶は作られるというから、どこかの温室で見たバナナの花と、庭にあった芭蕉の記憶とが合成されたのかもしれない。バナナは、バショウ科の大型多年草で、日本名はミバショウ(実芭蕉)というから、記憶の中で芭蕉と混同されても無理はないだろう。

ところで、インドはバナナの産地である。だから、釈迦の時代から実を食用に供するだけでなく、その大きな葉を食器として使っていたという。初期の仏典にはモーチャパーナ(mocapana)というバナナの果汁を記述した文章があって、それは漢訳されて「芭蕉漿」と表記された。また、バナナの葉鞘をむいていくと、タマネギの皮のようにどんどんむけて、ついに茎がなくなってしまうことから、仏教で「芭蕉のごとく」と言えば「実体は空なり」という意味になる。生長の家の谷口雅春先生もこれを援用されて、「久遠いのちの歌」の中で「是の身は芭蕉の如し/実ありと見ゆれども/中空にして実あらず」と書かれた。しかし、この「芭蕉」がバナナのことだと思う人は少ないだろう。

バナナの育つ北限は、どこだろう? 百科事典には「九州南部でも栽培可能な品種がある」と書いてある。地球温暖化が進行すると、熱帯の植物が現在の温帯地域でも育つようになると言われる。私は、そうすると東京でもバナナの実が獲れるのではないか、などと思ったりする。多分、バナナが好きだからだろう。それから、(これは秘密にしていたかったのだが)実は私の仕事場から歩いて行ける距離に、バナナの木が1本生えている。明治神宮外苑近くの団地の中だ。数日前にそこを通ったら、あのグロテスクの花がついていた。花の根元には実になる前のとがった房が何本か出ていた。これが順調に育ってくれれば、温暖化にも感謝できるというものか。
TBanana

皆さんのお住まいの近くにも、バナナの木はありませんか? 北限をさがしてみませんか?

谷口 雅宣

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2005年6月 5日

遺伝子の不思議

私は時々、遺伝子操作の問題や動物のクローン作成のことについて書いたり発言しているが、だからといって遺伝子のことをよく知っているわけではない。遺伝子がデオキシリボ核酸(DNA)という物質の配列の上に乗っていることは知っているが、「物質の配列の上に乗る」ことと、生命体の構造や行動をその「配列」が支配することの因果関係の詳細については、ほとんど無知である。だから、これから書くことについては、遺伝学や分子生物学の素養のない素人の疑問だと思って、どなたかから御教示を受けたいのである。というのは最近、①「遺伝子が一つ違えば(表現型が)これだけ異なる」ということと、②「遺伝子は同一だが(表現型が)これだけ違う」ということの例が報道され、遺伝子をめぐる私の(乏しい)理解がますます混乱をきたしてしまったからだ。

まず①の例から--これは遺伝子の強力な“支配力”を示す例だと思うのだが、『ヘラルド朝日』(6月4~5日)紙が伝えるところでは、最近、科学専門誌『Cell(細胞)』に載った研究によると、科学者たちはミバエのゲノム中の遺伝子を1個変えるだけで、メスのミバエがオスのミバエと同じ行動をすることを発見したそうだ。また、オスのミバエの同じ遺伝子を操作してメスの形に変化させると、このミバエは受動的になり、メスにではなくオスに対して関心を示すようになったという。ここから浮かび上がってくる可能性は、ミバエだけでなく、我々人間の性的嗜好というものも、もしかしたら遺伝子の型によって決まっているのかもしれないということだ。もちろん、人間の性的嗜好がミバエと同じように、「ただ1個」の遺伝子によって支配されているとは思わないが、しかしそれにしても、遺伝子の支配力の大きさをこの研究は実証していると思うのである。

ところが、である、②の例を示す事実もある。--6月5日の『朝日新聞』日曜版には「life & science」の特集頁がついていて、そこではクローン猫が、遺伝子をもらった“親猫”と行動パターンが異なるだけでなく、毛の色まで違ってきたと書いてある。また、体細胞クローニングの方法によって生まれた6頭のホルスタイン牛の顔にある白黒の模様が、6頭それぞれが微妙に異なることが写真で示されており、性格も違うという。そして、記事には「遺伝子すなわちDNAが一緒でも、成長した個体はそっくり同じにはならない。クローンはむしろ、DNAですべてが決まらないことを語っている」と書いている。

私は、この②の例のようなことは理解できるし、現に自分の本の中にも「遺伝子が同一の一卵性双生児でも、指紋は違うし性格も違う」ということを書いた。これは必ずしも他人の受け売りをしたのではなく、私自身の観察にも基づいている。小学校と中学校に行っていた頃、私より1学年上に一卵性双生児の男子生徒がいたが、2人の顔は微妙に違い、性格も違っていたからだ。では、もし②が正しいのであれば、①の例はどう理解すればいいのだろうか? これは、単に研究対象がミバエという“単純な”生物だったからそういう結果が出たのであり、人間のような“複雑な”生物の場合は、また異なった、もっと複雑なメカニズムが働いて性的嗜好が形成される--そういう理解でいいのだろうか。どなたか、教えてください!

そして最後に、宗教や倫理とも関係のある側面について言えば、ゲイであることとないことの違いが(ミバエのように)遺伝子によって左右されるのだとすれば、「同性愛は罪である」とする一部の宗教的見解の基礎が揺らいでくるように思う。なぜなら、我々が受精卵としてこの世に存在をはじめる際、自分の遺伝子の配列の仕方に影響を与えることなど普通はできないと思うからだ。(それともできるのだろうか?)

谷口 雅宣


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2005年6月 3日

受精卵と養子縁組

5月27日の本欄で、ブッシュ大統領が受精卵からつくるES細胞の研究に反対の意を表明するために、受精卵の寄付を受けて生まれた子供たちをマスメディアの前で披露した話を紹介した。今日付の『ヘラルド朝日』紙は、そういう「受精卵を養子にする」活動をしている人たちのことをやや詳しく伝えている。同紙の記事によると現在、アメリカでは凍結された“余剰胚”が約40万個あるという。これを医療目的に利用しようという動きがある一方、2003年の調査では、その2%(8000個)が他の家族に譲られたそうだ。そして、上述したブッシュ大統領の会見での発表によると、81人の子供がそこから誕生している。カリフォルニア州は、受精卵を殺してつくるES細胞の研究に本腰を入れて動き始めているが、この人たちはES細胞の研究反対の立場からこの活動をしているのである。同じアメリカ人でも、ずいぶん考え方が違う人々がいるものである。

この人たちは、いわゆる“キリスト教保守派”と呼ばれている人々であり、宗教的信念から受精卵を養子に迎える活動をしている。受精卵は、不妊治療をしている医療施設から「ナイトライト・クリスチャン・エージェンシー」(Nightlight Christian Agency)という団体を介して譲り受けるという。カトリック教徒などの保守的なキリスト教信者は、不妊治療そのものに反対しており、カトリックの教えでは避妊にさえ反対だ。にもかかわらず、彼らは、自分たちの宗教的信念に反する行動をしている医療施設から受精卵を譲渡(有料で!)してもらうのだ。不妊治療では普通、実際に使う数よりも多くの受精卵を“予備”として作成する。だから、患者が妊娠に成功すれば余分な受精卵(余剰胚)が生じる。これを譲り受けるわけだ。彼らの立場から言えば、受精卵は人である。にもかかわらず、余剰胚は両親が“廃棄”を認めれば殺される。人が殺されるのを黙って放置することは“キリストの愛”に反する。だから、殺人をやめさせるために受精卵を養子としてもらう--こういう考え方ではないか。

一方、不妊治療の施設、妊娠中絶の権利を主張する人々、そしてES細胞研究の推進者たちは、この受精卵を「養子にする」という言葉の使い方に警戒しているという。なぜなら、この呼称は「受精卵」と「人」とを同一視しているからだ。それよりも、受精卵の「寄付」とか「寄贈」と言うべきだと反対派はいう。そうしないと将来、自分たちが進めている行為(ヒト胚の廃棄)が法的な問題に直面しかねないからだ。これに対し、受精卵の養子縁組を推進している側は、受精卵はまさに人間だから「養子」という用語を使わねばならないのだという。

私は『今こそ自然から学ぼう』(2002年刊)の中で、不妊治療のもつ問題点の一つとして、上記のような余剰胚を多く作り、それを不要になったからといって後から廃棄する行為について触れたことがある。また『足元から平和を』(2005年刊)では、着床前遺伝子診断との関係で、受精卵を選別することの問題点を指摘した。いずれの場合も
、人間の受精卵や胚(ヒト胚)を一種の“モノ”として扱っている。それは間違いであり、こういう行為がひろがっていくにつれて、他人を自己の利益のために利用することに倫理的な呵責を感じない社会が形成されていくだろう。

日本では、国の倫理基準の中に、受精卵は「人の生命の萌芽」であるから尊重すべしという考え方が明確に述べられているが、ここで「尊重する」と言うのが具体的に何をどうするのか不明であるため、勝手な解釈がまかり通っているのが残念だ。そして結局、人の受精卵は尊重されていないと思う。「不要になったら棄てる」という行為が「尊重する」ことならば、我々は毎朝トイレに行くときに、自分の排泄物を尊重していることになる。では、受精卵を他人の病気治療のために利用することが「尊重」なのか? それだったら、我々が自分の排泄物を野菜畑に撒いて肥やしにすることと同程度の尊重である。そう考えていくと、アメリカのキリスト教保守派の人々が推進している「受精卵との養子縁組」という行為が、(好みの問題はあるだろうが)宗教的信念と倫理観にもとづいたものであることが理解できるのである。

谷口 雅宣


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2005年6月 2日

“悪魔化”は戦争への道

 戦争とは一国が“身も心も”捧げて行う大事業だ、と書いた。だから、戦争が偶然起こったり、誰も予想しない時に起こったり、石を蹴つまずくように起こったりすることはない。ある小競り合いが戦争に発展することはあるが、その小競り合いが生じるまでに、両国間には領土紛争や、宗教対立や、敵視政策や、経済封鎖や、移民問題や、人種差別問題などの「敵対関係」が必ず存在する。また、両国民の間には心理的、思想的に“敵”を作るための「悪魔化(demonization)」が着々と進められるのが普通だ。日本も真珠湾攻撃の前までに、「日米必戦論」が人気を博し、「鬼畜米英」の語が新聞紙上で躍っていた。だから、一国の指導者が特定の国を名指しして「悪の枢軸」と呼んだり、「圧政者」という言葉を使うことは危険信号の点滅と思わねばならない。コトバが、現象界を作りつつあるのだ。

 今、アメリカでは文化・娯楽の面でも北朝鮮の「悪魔化」が進行中だ、と6月1日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。映画の世界では、すでに「007 シリーズ」が最新作『ダイ・アナザーデイ』(2003年)で北朝鮮の恐ろしさを強調したが、『The Pacifier』『Dragon Squad』『Tides of War』などでも、北朝鮮を“冷血な攻撃者”として描いており、テレビゲームの世界では、北朝鮮に実在する核再処理施設をゲーム者に破壊させるものがあるという。テレビドラマの中には、長らく“悪役”として使ってきたサダム・フセイン氏に代わって最近、キム・ジョンイル氏を登場させ、ドラマの中で大量破壊兵器調査官のハンス・ブリックス氏(実在の人物)をサメの餌食にするシーンを放映したそうだ。

 同紙は、メリーランド大学の政治心理学者、スティーブン・カル教授(Steven Kull)の言葉を引用する--人類史を通じて、国の指導者たちは敵を脅かすために積極的に悪魔化を行ってきた。こういう行動が危険なのは、その過程が軍事衝突へつながる文化を作り出すからである。悪魔化は、自分と同類の人間を攻撃することに対する心理的抑制のタガを緩める。それは国民の心を戦争へ、戦闘へと向かわせる。相手に対する同悲同慈の思いを弱めるのである。

 韓国にとって、北朝鮮は「同胞」である。家族や親戚を北にもつ韓国人は数多い。現政権の“太陽政策”により、北との経済関係も緊密化しつつある。加えて首都・ソウルは、北朝鮮からの砲撃が直接届く距離にある。それにミサイルの射程距離を考えれば、韓国の国民は全員が北朝鮮の“人質”にされていると言っても過言ではない。韓国人の北に対する態度は、だから当然、アメリカ国民とは違ってくる。そんな時、日本の外務省高官が「アメリカは韓国を信用していない」などと言うことが、外交的に好ましいはずがないのである。日本は、アメリカの「悪魔化」の流れに乗っているだけでは、何事も解決できないどころか、有効な外交など展開できないと思う。「コトバが人生をつくる」との立場から言えば、悪魔化は戦争への道だからだ。

谷口 雅宣

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2005年6月 1日

“恐怖”はわが内にあり

日本は今日、平和の中にいるのだろうか、それとも戦争をしているのか? 読者のほとんどは、恐らく「平和」と答えるだろう。では、その日本の最大の同盟国のアメリカはどうか? 「9・11」の直後に、ブッシュ大統領は「これは戦争だ」と言い、まもなく“テロに対する戦争”を宣言した。「the war against(on) terrorism」である。日本のメディアはこれを“テロに対する「戦い」”と訳したが、大統領の使った英語は「the war」である。「戦い」という語は、英語では「fight」あるいは「battle」または「engagement」であって、これらの語はスポーツの試合にも、人生の挑戦にも使えるが、「war」は「戦争」が第一義であり、二義的、比喩的に「病気との闘い(the war against disease)」というような使い方がされる。日本人が「戦争」を忌み嫌う気持は分かるが、それを理由に翻訳の過程でオブラートに包むことは、現実を見る目を曇らせ、大局的判断を誤ることにつながりかねない。

「戦争」とは、一国が文字通り“身も心も”捧げて行う大事業である。「事業」という語が何か誉め言葉のように聞こえるなら、「大行動」とか「大狂乱」と言い換えてもいいかもしれない。とにかく人員や兵器はもちろん、資源もエネルギーも、技術も経済も、食料も、社会生活も家庭生活も、教育も労働も動員して、“敵”を破壊するために使わなければならない。だから、“敵”がないことには戦争は遂行できない。しかし、“テロに対する戦争”において“敵”とは何か? タリバン政権は倒れた。フセイン政権も倒れた。しかしテロは終らないどころか、ますまず攻撃の度を強めているように思う。では、ビン・ラデンが倒れればいいのか。ザルカウィが死ねば終戦なのか? 私にはそうは思えない。大量破壊兵器はイラクに存在しなかっただけでなく、イランでは核開発がもっと進んでいた。そして北朝鮮は、すでに核兵器を持っていると宣言した。恐怖の対象は、終りのないリストを揃えて待ち構えているように見える。

「テロ」とは「恐怖(terror)」という意味である。恐怖とは、恐怖する人の心の中にあるのであって、どこか外側に実体として存在するのではない。ネズミが恐怖をもたらすからと言ってネズミを殺しても、次にカラスが恐怖を与えるかもしれない。ゴキブリが恐怖の対象となるかもしれない。ヘビやカエル、あるいは子供の不登校が、交通事故が伝染病が恐怖をもたらすかもしれない。恐怖の対象をことごとく排除しても、最後に残った自分が、今度は「孤独」を恐怖するということになりかねない。だから、“テロに対する戦争”という言葉は、問題の立て方が間違っているのだ。恐怖は“外”にあるのではなく“内”にある。“外”をいくら叩いても“内”にあるものは壊れない。或る“敵”を外に見出しそれを倒しても、次なる“敵”が内部の投影としてまた外に現れる。否、“テロとの戦争”という言葉を使う限り、自ら“敵”を外側に作り出さざるを得ないのだ。戦争には、具体的な“敵”が必要だからだ。

 私はアメリカが、そういう悪循環に陥っていないか心配だ。

 谷口 雅宣

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