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2005年6月30日

芸術は自然の模倣? (3)

 このシリーズは3回目に入って、かなり難解になってきたかもしれない。簡単に復習してみると、我々が「自然」と呼んでいるものは、地上のどんな生物が感覚しても同じように感覚されるような“客観的存在”ではなく、あくまでも人間の肉体の感覚を通して感じる「人間が捉えた自然」だと考えられる。しかも、その場合の「人間」とは普通名詞の一般的人間ではなく、「平山郁夫」とか「谷口雅宣」などという固有名詞で表される具体的な「人物」であると思われる。なぜなら、同じ一輪の桔梗の花を見ても、平山画伯と私とでは「感じ方」が違うと思われるからだ。今、私が「思われる」と推量形を使ったのは、ここでやっかいな「クオリア」(qualia)の問題が出てくるからだ。

 このクオリアの問題に私は『神を演じる前に』(2001年)の中で触れているが、とても充分とは言えない。本欄でも満足な説明はできないので、詳しく知りたい人は、神経科学者の茂木健一郎氏や哲学者のダニエル・デネット氏の諸著作を読まれたい。が、あえて簡単に言えば、クオリアとは我々が感じる“ナマの感覚”のことである。「原始的感覚」(sentience)という言葉を使う人もいる。例えば、私の目の前にある桔梗の花の「紫色」(クオリア)が、読者(または平山画伯)が見る同じ花の「紫色」(クオリア)と同一であるかどうかを確認する直接的手段はまったく無い--この事実を指して、ここでは「クオリアの問題」と言っている。これは何も「色」だけのことではなく、「形状」や「匂い」や「味」や「音」や「触覚」に関する原始的感覚についても、全く同じことが言える。

 ただ、これを確認する直接的手段がなくとも「間接的手段」は存在する。その一つが、芸術表現だ。つまり、同じ桔梗の花に対して平山画伯と私の「感じ方」(クオリア)が異なることを知るためには、両者が描いた絵を見れば分かるのである。が、これはあくまでも「間接的」な確認方法であるから、必ずしも正確ではない。なぜなら、両者の間には技術の差があるだけでなく、芸術表現にはいわゆる“客観性”は要求されず、画家は実際に自分の視覚が感じた「紫色」を使わずに(例えば青を使って)桔梗の花を描いたとしても、芸術的には全く問題ないからだ。

 さて、あまり問題の細部に踏み込まずに“大筋”を確認しよう。ここまでの議論で明らかになったことは、我々が漠然と「自然」と呼んでいるものは結局、「個々人が感覚(クオリア)を通じて心で捉えた自然」だから、決して客観的ではなく、「千差万別」ということになりそうだ。「しかし……」と、読者は抗議するだろうか?

「もし自然が個人によって千差万別であれば、自然科学は成立せず、芸術でさえ共感の場を失う!」
「“千差万別”の意味をどう取るかで、答えは違ってくる」
「“千差万別”とは、種々様々で、違いもいろいろという意味だ」
「人間の顔は千差万別だが、猿とは異なる人間としての同一性をもつ……こう考えればいい」
「自然の数は、人間の数だけあるという意味か?」
「細部まで厳密に考えればそうなるが、人間の感覚器官や脳の構造には同一性があるから、個々人の捉える自然にも“同一性”があると同時に“個別性”もある」
「しかし、自然がいくつもあるという考えには納得できない」
「では、自然は1つしかないとどうして断言できるか?」
「自然科学が、それを証明している」
「物理化学の法則は、いくつもある自然の“共通部分”と考えられないか?」
「物理化学の法則が適用できない領域は、宇宙のどこにも存在しない」
「日常生活のレベルではその通りだが、素粒子のレベルでは、物理化学で説明できない事実がいくつもある」

 ……というわけで、どうも迷路に入ってしまった感がする。で、本稿を終る前に、前回の最終部に出た疑問--「本物はどこにあるか?」--に対する答えを、きちんと書いておこう。この疑問に「脳の中にある」と答えるだけでは、自然科学の法則が存在することを含めた説明にはならないだろう。なぜなら、脳細胞(神経細胞)自体が、物理化学の法則によって支配されているからだ。つまり、脳が自然のすべてを創造しているのではなく、脳も自然の一部だが、我々(肉体をもった人間)はその自然の姿を脳を通してのみ知ることができるのだ。「目の前に紫色の桔梗の花が存在する」という認識は、確かに我々の脳の中で発生するのだが、それは脳以外の場所に何も存在しないという意味ではなく、“何か”は存在しているが、それは人間が脳の活動を通して「紫色の桔梗の花」と呼ぶだけのものでは決してない、ということである。

谷口 雅宣


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コメント

 今日の最後の一文を読んで、大変納得が行きました。
 昨日の私の答案は、「桔梗の花」を「文字」あるいは「言葉」で完全に表現しようとしていた時点で、頓挫していたのですね。気が付けばシンプルなことなのに、初歩的なミスでした。とほほ・・。
 ありがとうございました。

投稿: 片山一洋 | 2005年6月30日 23:44

「紫色の桔梗の花」は完全なものとして、はじめから存在していると思います。(現象としても)
人間は五感(六感)によって現象を認識しますが、その能力にも個人的には違いがあります。その認識力によって差(違い)が出てくるのだと思います。

投稿: 早勢正嗣 | 2005年7月 1日 06:36

早勢さん、

>> 「紫色の桔梗の花」は完全なものとして、はじめから存在していると思います。(現象としても)<<

 「完全なもの」とは、どういう意味ですか?
また「はじめから」とは、いつからですか?

投稿: 谷口 | 2005年7月 2日 12:30

谷口雅宣先生

 答えを全部、拝読させて頂いて、私が先生の問いかけを誤って受け取っていたことに気が付きました。
 私は現象は心の影であり、第一義的には存在しないという視点で外界は存在しないと申し上げてしまいました。
 即ち脳を心ととらえて、外界を現象と置き換えてしまったと思います。申し訳ありませんでした。

 ところで外界の対象物というのはそれを構成する分子の振動の様なものでその分子の振動から来る波動を我々の感覚器官がとらえて、そこから伝わって来る信号を脳髄がそれを脳髄に刻まれた習慣性で翻訳してそしてその翻訳された脳内の形象を心が解釈するということだと思います。

堀 浩二拝

投稿: 堀 浩二 | 2005年7月 2日 19:25

堀さん、

 「外界の対象物というのは……」という記述ですが、「脳内の形象を心が解釈する」という部分で、疑問が生じます。心と脳をどう分けて考えますか?

投稿: 谷口 | 2005年7月 2日 23:17

>「完全なもの」とは、どういう意味ですか?

あらゆる要素を持っているということです。
例えば、まあるいお月さんは、平面では円として完全に描かれ、立体では球体として完全に描かれる。お月さんは表現方法の中では円とか球体として描かれるが、どちらも完全なるお月さんを描いていることは間違いない。
このような書き方でうまく伝わっているでしょうか。


>また「はじめから」とは、いつからですか?

存在しはじめた時。
これだけでは、あっさりしすぎでしょうか。

投稿: 早勢正嗣 | 2005年7月 3日 14:19

谷口雅宣先生

 心が真理を悟らず、悪はあると悪を恐怖する習慣性があれば、その恐怖の念、取り越し苦労の念が脳髄にその刻印をして行き、それがひどくなれば神経衰弱等の所謂心の病気になるのだと思います。
 神経衰弱の脳であれば、被害妄想にもなり、自分の感覚器官を通して入ってくる情報を全て自分を害するように心がとらえるのだと思います。

 反対に例え、神経衰弱の脳髄でも心が真理を悟り、この世に何も心配事がないという考え方になれば、入ってくる情報を悪くとらえることも少なくなり段々と脳の神経衰弱も治って行くのだと思います。

 私はこのように脳と心を分けて考えております。

堀 浩二拝

追伸:URL訂正頂き誠に有り難うございます。お手間を取らせ申し訳ありませんでした。

投稿: 堀 浩二 | 2005年7月 4日 13:05

早勢さん、

 あなたの「完全なもの」の定義によると、紫色の桔梗の花は、少なくとも現象的には@「完全」とは言えないと思います。だって、「紫色」のときは「赤」ではないし、「黄色」でもないのですから……。

 また、あなたの「はじめから」の定義は、普通の日本語の意味とは違います。「存在しはじめたときから」を「はじめから」と言えば、貴方の鼻くそもはじめから存在していたことになりませんか?

投稿: 谷口 | 2005年7月 4日 21:35

感じ方の違いだと思うのです。単に私の感じ方が普通のものとズレているだけのことかもしれません。

私は「紫色」の時は「紫色」なのだから、「紫色」として完全であるという見解です。「紫色」しか認識できないのですから、そのような人に「桔梗の花は何色?」と尋ねても、「桔梗の花は紫色」としか答えは返ってこないと思います。そのような人には、「桔梗の花は紫色」が完全なのです。

桔梗の花は、私たちが「桔梗の花である」と認識した時には既に存在していました。また、他のものが変化して桔梗になったものでもないと思います。たぶん、鼻くその場合は、何かが鼻くそになるまでの過程は見ることができると思います。

投稿: 早勢正嗣 | 2005年7月 4日 23:22

早勢さん、

 あなたの言葉の使い方は、通常の日本語ではないし、論理の進め方も少し混乱していると思います。

 「紫色」というのは決して1色ではありません。赤に近い紫から青に近い紫までグラデーションが無限に続いています。だから、「紫色のままで完全」という意味は、何のことかよく分かりません。言葉では「紫色」といっても、目のいい人には“無数の紫色”もありえると思います。また、桔梗の花には「紫色」だけがあるのではなく、一見1色だけに見えても、顕微鏡などで見れば「白」や「青」や「赤」も見える可能性があります。

 そして、それらのすべての「色」は、見る人の視覚や心の状態によって揺れ動くのですから、「完全な紫色」などというものは存在しないと私は思います。

投稿: 谷口 | 2005年7月 7日 00:20

先生のお書きになったことよく解っているつもりです。私の書き方の問題です。

私は“無数の紫色”を「完全なもの」と表記しました。「あらゆる要素」を“無数の紫色”と読み替えてもらっても良いと思います。

たとえば、“無数の紫色(完全なもの)”を単色のクレヨンで表現するとしたなら、紫色のクレヨンを使用します。単色の中では紫色のクレヨンが完全である。(紫色に塗りなさいと言われれば、「むらさき」と表示してあるクレヨンを、通常使います)

書き込みの趣旨が曖昧になりそうなので整理させてください。
私は考えます。

①人間は神の子で完全である。
②現象として肉体があるが、その肉体は完全である。(神が肉体を作ったとしたなら、当然神の思ったとおり完全に作られている)
③今、自分の周りに見える現象は、自分の今の状況を如実に完全に顕し出している。

同じ完全という言葉を使っているが、完全の具体的内容は別物です。

ところで、(完全な)「紫色の桔梗の花」は何処にも存在しないのでしょうか?

投稿: 早勢正嗣 | 2005年7月 7日 11:07

早勢さん、

 あなたの「完全」という言葉の使い方は、間違っていると思います。日本語は、日本語の辞書で定義されているように使うのが正しい用法で、それ以外の意味に使おうとすると、他人とのコミュニケーションの障害になります。

 だから、貴方とのやりとりは困難なのだと思います。悪しからず……。

投稿: 谷口 | 2005年7月 7日 23:30

「完全」という言葉を使ったのが間違いでした。もう少し、書いておきます。

「目の前に紫色の桔梗の花が存在する」という認識は、脳の中で発生します。そして、認識の前提には、被写体として目の前に紫色の桔梗の花が現に存在しています。私だけに見えるのなら、それは幻想でしょうが、他にも見えている人がいるのなら、現実に存在しているといえます。
そこで、私が認識した紫色と、私以外の人、たとえばAさんが認識した紫色とが微妙に違ったとしても、それらの紫色は、被写体となった桔梗の花の紫色に含まれた色に間違いありません。
私の認識した紫色は、私の脳が勝手に認識したのではなく、あくまで被写体の桔梗の花の紫色を認識したのです。

投稿: 早勢正嗣 | 2005年7月 8日 01:44

早勢さん、

 ごく常識的な結論になりましたね。(笑)

 でも、2つ問題があります:

>> 認識の前提には、被写体として目の前に紫色の桔梗の花が現に存在しています。私だけに見えるのなら、それは幻想でしょうが、他にも見えている人がいるのなら、現実に存在しているといえます。<<

 では、離れ小島に貴方と犬だけが(動物としては)いたとします。それでも、目の前にあるものが「紫色の桔梗の花」だと言い切れますか? 言い切れるとしたら、それは何故ですか?

投稿: 谷口 | 2005年7月 8日 13:14

早勢さん、

 もう一つの問題点は:

>> そこで、私が認識した紫色と、私以外の人、たとえばAさんが認識した紫色とが微妙に違ったとしても、それらの紫色は、被写体となった桔梗の花の紫色に含まれた色に間違いありません。 <<

 それは貴方の単なる想像ではありませんか? 確認する方法はありますか?

投稿: 谷口 | 2005年7月 8日 13:17

> ごく常識的な結論になりましたね。(笑)

はい。常識的なことを書きたかったのですが、表現方法を間違えました。
それにしても、私の書くことは不適切な表現ばかりのようです。結構、考えて書いているつもりなのですが・・・・。

>> 認識の前提には、被写体として目の前に紫色の桔梗の花が現に存在しています。私だけに見えるのなら、それは幻想でしょうが、他にも見えている人がいるのなら、現実に存在しているといえます。<<
これもですね、私自身は確信を持って見えていると言っても、他の人が見えないと言うならば、幻想の可能性があるということになります。また、私と同じように見えている人が他にいれば、現に存在している可能性は高くなりますが、見えていない人がそれ以上に多くなれば幻想の可能性の方が高いかもしれません。
私の母は病死でしたが、末期は意識状態の低下とか、薬の副作用もあって、病室内のカーテンレールの上に鳥が2羽止まっているとか、蟻が床が真っ黒になるほどいると言っていました。
見えるものが、本当にあるのかということは、その状況を常識的に認識するしかないのではないでしょうか。
ですから、目の前にあるものが「紫色の桔梗の花」だと言い切る場合は、その見えている状況が常識的に誰とも共有できると私自身が確信しているから、ということになります。

単なる想像であるかないかの確認は、現実を体験するしかないと思います。たとえば、本物の紫色の花を置いておきます。
一つは、単色の紫色と他の色のクレヨンを用意して、用意した中の一色だけを用いて花を描かせる方法です。
もう一つは、紫系統の色と他の色のクレヨンを用意して、用意した中の一色だけを用いて花を描かせる方法です。

投稿: 早勢正嗣 | 2005年7月 9日 00:34

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