« 芸術は自然の模倣? | トップページ | 芸術は自然の模倣? (3) »

2005年6月28日

芸術は自然の模倣? (2)

 さて前回は、「芸術は自然を模倣する」という考え方を検証しつつ、「自然とは何か」の問題に踏み込んだ。我々が「これが自然だ」と思っているものが、本当の意味で「自然」なのだろうか--という問いかけである。桔梗の花が「紫色」なのは自然か? 夏の空が「水色」なのは自然か? 雲は本当に「白い」のか? 夏の木々の葉は本当に「緑色」をしているのか? これらの疑問にすべて「イエス」と答えられるならば、「芸術は自然を模倣する」と言っていいのかもしれない。しかし、我々が棲み慣れた“人間の視点”から離れて考えようとすると、とたんに何が「自然」だか分からなくなる。芸術は「自然そのもの」を模倣するのではなく、「人間が捉えた自然」を模倣すると言った方が正確そうだ。では「人間が捉えた自然」とは何か、を考えよう。

「人間が捉えた自然」とは、まず「ある特定の人物が捉えた自然」である。その「特定の人物」とは、もちろん芸術家のことだ。平山郁夫画伯が広大なアフガニスタンの砂漠を行くラクダの隊列を描いた絵が、今ここにあるとする。ではこの絵は、「平山画伯が捉えた自然の模倣」なのだろうか? 私には「模倣」という言葉がよけいなもののように感じられる。何のマネでもない「平山画伯が捉えた自然」でいいではないか。島田雅彦氏は「模倣」とは言わずに「似せ物=偽物」という言葉を使った。どちらの言葉も、しかし「本物」が芸術作品以外のところに存在することを前提としている点で、同じだ。そして芸術作品自体は、その「本物」より一段劣ったコピー(複製)だと言っている。では、平山作品より優れた「本物」とは、どこに存在するのか?

 平山画伯のような一流の芸術家を例に出すと、かえって分かりにくいかもしれない。前述した、ガラス器に活けられた桔梗の花を思い出してほしい。私がそれを今、一枚の画用紙に描いたとする。花に紫色を塗り、葉は緑色で、蕾は白っぽい黄緑色だ。この絵は、「私が捉えた自然の模倣」と言えるだろうか? 下手な絵ならば「模倣」と言えるが、上手な絵ならば「自然」と言うのか? そうではあるまい。絵の上手下手にかかわりなく、自然物とそれを題材とした芸術作品の間には、“本物”と“コピー”のような関係があることを指摘しているのだ。ここにはやはり優劣の価値判断がある。本物はコピーより勝っている。芸術作品は本物より劣っている。では、その「本物」とはどこに存在するのか?

「お前の目の前の、その桔梗の花が本物だ」と読者は言うだろうか?
 では、私は訊こう
「その桔梗の花は自然そのものか?」
「自然そのものではなく、お前が捉えた自然の一部だ」
「では、それはどこに存在するか?」
「お前の目の前に、だ」
「では、私の目の前の花は何色か?」
「紫色だ」
「そんなはずはない。猫の感覚には紫色は存在しない」
「……?」
「紫色の桔梗の花は、どこに存在するのか?」
「お前の言いたいことが分かった。それは、お前の脳の中にある」
「それ、とは何か?」
「紫色の桔梗の花だ」
「その花はどこに存在するか?」
「お前の脳の中だ」
「では、芸術作品がコピーだとすると、本物はどこにあるか?」
「芸術家の脳の中にある、ということになる」

 さて、この結論は正しいだろうか?

谷口 雅宣

|

« 芸術は自然の模倣? | トップページ | 芸術は自然の模倣? (3) »

コメント

 参加してみます。
 結論は、正しくないと思います。
 会話形式の、末尾から10行目以降の数行に誤りのポイントがあるかと。
 紫色は脳が認識して初めて紫色になる。これはこれで良いのですが、脳の中にあるのは花ではなくて、「紫色に見える光を紫色と認識する主観」といった方が適切でしょう。
 そして、「紫色の桔梗の花」を、「日光の下で人間には紫色に見える光を出す桔梗の花」と言い換えれば、脳の中ではなく、目の前に存在すると言って問題ないのではありませんか。
 (この表現でも曖昧なら、スペクトルを持ち出すことになり、本題からズレるので、「日光の下で人間には紫色に見える光」という表現は主観を含まないということに仮定しましょう。)
 ・・という答えを考えてみました。
 あっているかなぁ・・?

投稿: 片山一洋 | 2005年6月29日 19:55

この御文章を今朝、拝読させて頂いて、たった今までバスの中で拝読していた「生命の実相」第35巻第二章と殆ど同じ内容であったのでびっくりしています。

私は外界と内界は同じであるという見解から外界は本来存在せず、内界の映しの世界であると思います。従って、「自然」なる具体的なものは存在せず、その本体は実は我々人間の心の中にあると思います。
それが美しいと感じられるのは実際に美しい自然があるのではなく、それを感じる人の心が美しいのであり、その心を外界に投影してここに美しい自然があると認識しているに過ぎないと思います。

即ち、平山画伯の描いたシルクロードの絵は平山画伯の心の中にあるもの、言わば平山画伯の絵心、絵のセンスそのものの表現であるということになると思います。

堀 浩二拝

投稿: 堀 浩二 | 2005年6月30日 09:15

片山さん、

 なかなかいい線いってると思います。

 しかし、それでは「日光の下で人間には紫色に見える光を出す桔梗の花」という表現を考えてみると、「日光」「人間」「光」「桔梗」「花」という、人間にのみ通用する言葉が出ていますね。これも本当の意味では“客観的”とは言えないと思います。(スペクトラムとなると、なおさら……じゃありません?)

投稿: 谷口 | 2005年6月30日 17:48

堀さん、

>> 外界は本来存在せず、内界の映しの世界であると思います。 <<

 うーむ……。もし外界が存在しないなら、どうやって我々は「桔梗」とか「紫色」というような認識をもつのでしょうか? 例えば、生まれつき盲目の人に、「紫色」や「桔梗」が我々と同じものとして把握できるでしょうか?

投稿: 谷口 | 2005年6月30日 17:53

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 芸術は自然の模倣? (2):

« 芸術は自然の模倣? | トップページ | 芸術は自然の模倣? (3) »