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2005年5月 5日

自然界の余力

 久しぶりに山梨県大泉の山荘に来た。いろいろな事情もあって、今年初めての訪問である。

 「村」の名前まで変わってしまった。昨今流行の市町村合併のおかげで、大泉村は「北杜市大泉町」になった。私個人としては「八ヶ岳市」を希望していたが、合併の対象である自治体の中に八ヶ岳の裾野ではなく、甲斐駒ケ岳に近い白州町などが含まれていたために、こうなったらしい。まぁ、“よそ者”としては地元の決定に文句を言うつもりはない。有難いことに今年2度目の花見ができる。ソメイヨシノだけでなく、山桜も八重桜も枝垂れ桜も同時に咲いている。シバザクラ、スイセン、レンギョウ、チューリップ、ユキヤナギ、タンポポ…… You name it! 以前、北海道の人が、「こちらでは春も夏も一緒に来ます」と言っていたことを思い出した。

 「今年は春が遅い」と言われていたので、雪をかぶった八ヶ岳や甲斐駒ケ岳を想像していたが、「残雪わずか」という感じだ。山荘のある高地では木々が一斉に芽吹いていて、春光の中で黄緑の美しさを競っている。そんな自然を満喫しようと各地から訪れた人々の車が、町の道路をひっきりなしに通る。普段の交通量を知っている者には、「ここは都会か!」と思わせる。生長の家の全国大会後にここへ来ると、GW前半に訪れた人々が山に入って山菜を大分採ってしまうので、“残り物”を探すことになる。特にタラノメは判別しやすく美味であるため、ほとんど「採りつくし」といった感じになる。私の山荘のすぐ裏にはタラの若木が何本も生えているが、去年は無残なものだった。

 そんなわけで、今回もあまり期待をしないで山荘へ来たのだが、不思議なことに、その山荘の裏に限ってタラノメが10個前後も手つかずで残っていた。周囲はことごとく“坊主”になっていたのに、である。きっと山菜採りに来た人が、「ここは家人のために残しておこう」と仏心を起してくれたに違いない。感謝いっぱいである。

 植物の新芽を摘むことは、その植物の成長を阻害する行為であることは否めない。しかし、自然界で生きる生物は成長力が旺盛であり、少々の“阻害”があることを予定して、それを上回る成長をする。そういう成長の「余力」の部分を他の生物がいただくことで、自然は豊饒なバランスを維持している。タラノメを採るときも、その原則を忘れてはいけない。「新芽の部分を指先で持って折る」のがいい。刃物を使って芽の部分を“根こそぎ”に切り落としてしまうと、次に出る予定の芽が出なくなる。芽から下の幹の部分から伐るなどというのは、邪道中の邪道だ。また、翌年のことを考えて、背の低い木の芽などは採らないで残しておく余裕がほしい。

 人間による山菜採りの勢いよりも驚いたのは、シカの被害である。山荘周辺の森には、タラ以外にもコシアブラやハリギリなどが生えていて、去年の秋、コシアブラの若木にヒモを結んで判別しやすくしておいた。ところが、こちらの方はほとんどがシカに食べられていた。人間とシカの違いは、採られた跡を見るとすぐ分かる。人間は切ったように採るが、シカはそれこそ「丸かじり」である。切り口が割れていたり「皮つき」だったりする。また、折れたまま片方にぶら下がっているのもシカの仕業だ。

 山菜にする木よりも“深刻”なのは、栽培種の木である。庭に植えたリンゴ、ライラック、ヤマボウシ、ゴールデンアカシア、ブルーベリーなどの被害はある程度覚悟していたが、本来土地の木であるモミやイチイなどの若木が無惨に皮を剥かれている姿は痛々しい。今年は雪が多かったため、シカも食糧を求めて必死だったのかもしれない。シカの数は日本各地で毎年増えていると聞くから、自然界の「余力」と、それに基づいたバランスが今後どうなっていくのか心配だ。

谷口 雅宣

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