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2005年5月21日

技術と伝統

 3月27日の本欄で童話作家、寮美千子さんのことを書いたら、ご本人から著書を3冊も贈っていただいた。どれも美しい絵で埋められた絵本である。感謝にたえない。中にお手紙でも入っていないかと調べたが、なかった。その代わり、本欄の当該箇所に長文のコメントをいただいたので、興味ある読者は是非それを読んでいただきたい。

 贈っていただいた童話の中に、アイヌの“クマ殺し”の儀式を描いた『イオマンテ』(小林敏也絵、パロル舎刊、2005年)というのがあり、興味深く読んだ。こわいようなことが書いてあるが、アイヌ民族の自然観がよく分かる。読みながら「これはアイヌ民族だけの考え方だろうか?」とふと思った。「自然は生命の連続であり、そのことを感じ、恐れ、感謝しながら、すべての生物を同僚とし、背後の命の流れを神として生きよう」--こういう自然との一体感と信仰は、実は私が今、『光の泉』誌に連載している小説の中の少女、サヨの世界観なのだ。私はアイヌのことを深く勉強したことはないし、もちろんアイヌではない。肉体的特徴も、どちらかというと“南方系”だと思う。民俗学を学んだこともなく、大学の専攻は法律や政治学である。小学校、中学校、高校はミッション・スクールで毎日、聖書を読んだ。にもかかわらず、そういう自然観が小説の中に現れた理由は、「もともと自分の中にあったから」としか言いようがない。

 聞くところによると、こういう自然観・世界観は日本だけでなく、北アメリカの原住民、イヌイット、ケルト族等も共有しているらしいから、洋の東西を問わないのかもしれない。しかし現在の問題は、「昔は皆そうだったのだから、昔へもどればいい」という単純な答えでは済まないことだ。我々日本人自身が、日本文化は自然を大切にしてきたと言いながら、19世紀以来、自然破壊を繰り返してきている。いまや「列島改造」という言葉を使う人はいなくなったが、日本列島はいろいろな意味で、すでに昔の状態から“改造”されてしまっている。

 名古屋行きの新幹線の車内にあった『ウェッジ』(ウェッジ社刊)の6月号に、俳人の佐川広治さんが田植えについて書いていたが、日本文化の代表とも言える俳句の季語が、科学技術の発達につれて失われつつあるか、あるいは従来の意味を伝えられなくなってきているらしい。佐川さんによると、「昭和50年代に田植機が発明されて以来、千数百年続いてきた日本の稲作作業が大きく変化した」という。従来の新潟地方の稲作では、種まきを八十八夜に行い、その30日後の6月上旬~半夏生(7月1~2日)までに田植えをしていたが、現在の田植えは5月のGWごろまでに機械で一気に終えるのだという。すると「早乙女」「早苗」「早苗饗」などの稲作にかかわる季語がピンと来なくなる、というわけだ。

 では、我々は伝統的な季語を取りもどすために田植機を捨てるべきだろうか? 「そうすべきだ」と答える人は少ないと思う。田植機を捨てて、頑固に伝統的農業を続ける人もいるかもしれないが、それは本当に稲作農家のためなのだろうか。それで後継者が育つだろうか。一代で終ってしまうならば、やはりそういう季語は長い間のうちには死ぬのである。そう考えると、死に行く季語を必死に守るよりは、今の人々の生き方に合わせた季語を新たに創出するという選択肢があるはずだ。

田植機の音止めて見ん冠雪山

谷口 雅宣

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コメント

寮美千子です。お送りした本に手紙同封せず、ご心配おかけしてすいませんでした。冊子小包や宅急便では、手紙は同封できず、別便で送らなければなりません。お手紙を郵送する代わりに、ウェブログのコメントで書かせていただきました。無精ですいません。

>読みながら「これはアイヌ民族だけの考え方だろうか?」とふと思った。
>(中略)
>聞くところによると、こういう自然観・世界観は日本だけでなく、
>北アメリカの原住民、イヌイット、ケルト族等も共有しているらしいから、
>洋の東西を問わないのかもしれない。

「自然は生命の連続であり、そのことを感じ、恐れ、感謝しながら、すべての生物を同僚とし、背後の命の流れを神として生きよう」と要約してくださった「イオマンテ」の自然観は、確かに自然と共に生きるすべての先住民文化に共通の思想であるように思われます。それは、地球生態系の姿そのもの、つまり、自然から学んだ絶対の真実だからこそ、用の東西を問わず、同じ自然観が存在するのではないでしょうか。

科学は、地球生態学等に研究によって、そのような自然の姿を徐々に明らかにしてきました。研究が進めば進むほど、自然が驚くほど精妙に出来ているということが明らかになり、ますます自然への畏敬の念が増していきます。その一方で、科学テクノロジーの発達により、人間は、いまここにある自然を我々の思うがままに操作しようともしています。この二つの方向は、同じ科学といっても、そのベクトルは全く逆であるように感じられます。

だからといって、すべてのテクノロジーが悪であるわけではありません。ただ、その運用の際に、自然への畏敬の念を忘れず、調和を重んじることを忘れなければ、テクノロジーもまた、よきものになる可能性があるでしょう。

ご恵贈いただいたご著書『今こそ自然から学ぼう』には、まさしくそのようなことが具体的に書かれているのだと、目次を拝見して感じました。また、巻末の「『生長の家』環境方針」にも感銘を受けました。これから、ゆっくり拝読させていただきます。ありがとうございました。

投稿: 寮美千子 | 2005年6月 1日 02:13

寮 美千子さん、

 コメント、ありがとうございます。

 テクノロジー(技術)自体は道具ですから、
善も悪もないと思います。その「使い手」の心が問題になるのでしょう。

 人間の心をどうするか……これが21世紀最大の問題だと思います。

投稿: 谷口 | 2005年6月 2日 16:50

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