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2005年5月25日

欲望と社会の健全さ

 私は本欄で生命倫理の側面から見た社会の不備や不用意について何回か書いてきたが、今日は悪い点ではなく“善いニュース”を2つお伝えし、讃えることにしたい。

 1つは、アメリカのブッシュ大統領のことだ。今、同国の連邦議会には、新たに作られたES細胞株の研究に予算を支出させようとする動きがあるが、これに対してブッシュ大統領は最近、就任以来初めて「拒否権を行使する」と反対を明言した。これは、5月22日の本欄で触れた韓国での“大きな進歩”を知った後の大統領の発言であるから、なおさら重要である。韓国での“進歩”に対して、米大統領は「そういう方面の研究は、アメリカ政府は支援しない」と宣言したことになる。ただ、「そういう方面」がどこからどこまでなのか、少しはっきりしていないようだ。

 というのは、ブッシュ氏は以前からES細胞の研究に反対してきたが、その理由は、ES細胞は「受精卵」という生命を殺すことによって得られる、という点だ。だから、すでに作られてしまったES細胞株の研究には(新たに受精卵を殺すことはないから)国は支援する、という立場だった。新たにES細胞を作る場合は、受精卵をそのつど殺さねばならない。これでは「殺す目的で生命(受精卵)を作る」ということになり、倫理的矛盾が起こる。だから、そういう新しいES細胞を使う研究に国は支援しない--こういう考え方だった。

 しかし、今回の韓国の研究では、通常の受精卵ではなく「クローン胚」を作り、そこからES細胞と同等のものを作り出したのである。受精卵とクローン胚との違いは、前者が精子と卵子の結合によるものであるのに対し、後者は卵子だけがあればできる点だ。前者は通常の「有性生殖」で、後者は「無性生殖」だ。そして、後者では卵子が犠牲になるのは確かだが、その犠牲は、受精卵を作って殺すのに匹敵するほど倫理的矛盾があるとは思えない。なぜなら、女性の体内では、受精しなかった卵子は毎月“犠牲”になり、体外へ排出されているからだ。その中の一つの生命力を利用してクローン胚を作り、そこからES細胞を採るのである。ブッシュ氏は、これまで「殺すために生命を作り出す」ことに反対してきたが、クローン胚の場合は「どうせ死ぬ運命にある生命(卵子)を、別の形(ES細胞)にして生かす」と考えられる。両者の倫理的意味は少し違うと思うが、その点をブッシュ氏がどう考えているのか知りたいものだ。

 もう1つの“よいニュース”は、日本での判決である。5月24日の『朝日新聞』によれば、大阪高裁は代理出産によって生まれた子を法律上の子と認めない決定をした。これがなぜ“よいニュース”かというと、代理出産には倫理的な問題が多く含まれるからである。だから、日本では許されていない。しかし、「子がほしい」という人は数多くいて、そういう人が海外(上記の場合はアメリカ)へ行って、その土地の人の子宮を借りて、子を育ててもらい、月が満ちて生まれた子を養子にする--これが代理出産である。が、今回の判決内容が最高裁でも支持されれば、日本では代理出産の方法によって生まれた子は、養子にできないことになる。それはなぜか? 判決文によると、代理出産は「人をもっぱら生殖の手段として扱い、第三者に懐胎、分娩による危険を負わせるもので、人道上問題がある」からだ。

 このほかにも、代理出産によって生まれた子は、片親(多くの場合は父)が遺伝的に法律上の親と異なるという問題がある。これはAIDの場合と似ていて、将来その子が成長して大人になった時、遺伝上の父と法律上の父が違うことを知って心理的問題を抱える可能性が大きい。このことは現在「出自を知る権利」との関係で、実際に複雑な問題を生み出している。将来、そういう問題が生じることを知りながら、なお代理出産という方法で子をもちたいと思うのは、いかがなものか。どんな犠牲を払ってでも、自分と遺伝的につながりのある子がほしいと考えるのは、人間の欲望であり、執着ではないか。

 科学技術が進歩すると、これまで不可能だと思われていたことが可能となる。すると人間の欲望が一段階増幅して、「できるならやりたい」という思いが噴き出す。そして、恵まれた環境にある人はそれを実際に行うことになる。こうして、欲望の階段を一つ一つ上ってきたのが人類の歴史ではないだろうか。このことは、ある人の欲望の実現が別の人を犠牲にしない間は、あまり問題にされなかった。しかし、今日では欲望の実現が他人の犠牲を生むことが数多く生じている。ES細胞の研究や代理出産はその一例であるが、人間のそういう果てしない欲望を一国の指導者や裁判所が“チェックする”役割を果たしているのは、社会がまだ健全である証拠だと思う 。

谷口 雅宣

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