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2005年5月31日

朝鮮半島は“キナ臭い”?

「世界情勢をどう見るかという判断には、国家間で相当違いがあるのだろうか?」--今朝(5月31日)の『ヘラルド朝日』紙の1面を見て、そう思った。日本の新聞は高速増殖原型炉「もんじゅ」をめぐる最高裁判決、フランスによるEU憲法否決、二子山親方の死去、東京都の浜渦副知事の辞任などの記事で埋まっていて、ヨーロッパはともかく、日本周辺では平和にものごとが進んでいるような印象を与える。しかし、ヘラルド紙(ニューヨーク・タイムズが発行する英字新聞と朝日新聞の英語版が合体したもの)の1面には、「北朝鮮をめぐる緊張が拡大(Tensions increase over North Korea)」「ブッシュ氏、北の孤立化を深める方針(Bush tries to deepen isolation of regime)」というあまり穏やかでない2本の見出しが踊っている。アメリカでは、北朝鮮との緊張が高まりつつあると認識しているが、北朝鮮の隣国である日本ではそう考えていないようなのである。

読者はご存知だろうか? アメリカが15機のF-117ステルス攻撃機「ナイトホーク」を朝鮮半島に送っていること、それに対して北朝鮮の国営放送は「これは危険な戦争準備だ」と言い、ライス国務長官のことを「虎の恐さを知らずに吠えつく犬だ」と非難したこと、これに先立ち、北朝鮮で9年間続いていたアメリカ兵の遺骨収集の活動をアメリカ国防省が突然中止したこと、ブッシュ大統領が27日に海軍士官学校で演説し「この新しい戦争の時代には、我々は国家でなく政権を狙い撃ちにすることができる。それは、テロリストや圧政者が、もはや罪のない国民の背後に隠れていることはできないという意味だ」と述べたこと、そして先週、北朝鮮の国営放送が「先制攻撃のオプションは、何もアメリカだけの選択肢ではない」と言ったこと……。

北朝鮮は“瀬戸際外交”が得意なことで有名だが、こういう事情を知ってみると、「どうしてどうしてアメリカも負けてはいない」という気がする。ポイントは「ステルス」という名を冠した飛行機だ。これは、敵のレーダーに補足されにくい特異な形状と外装、装備をもっていて、湾岸戦争で大活躍した。米国防省は最近、グァム島の基地にB-2ステルス爆撃機やF-15E戦闘機を「訓練のため」と称して派遣している。その数は飛行中隊(squadron)規模である。これらのステルス機が敵の懐深く入っていって、レーザー誘導爆弾で目標を破壊する映像を、我々はテレビでもよく見たと思う。B-2 ステルス爆撃機は、B-52 戦略爆撃機の後継機として開発され、遠くから攻撃できる。2003年のイラク攻撃の際、バグダッドから5500キロも離れたインド洋の島、ディエゴ・ガルシア島から発進しているから、グァム島から平壌(約3500キロ)を攻撃することは十分可能である。こういう最新鋭の攻撃機を朝鮮半島近辺まで移動しているわけだから、北朝鮮がピリピリするのも理解できるだろう。

では、その両国に挟まれた日本は今、何をどうやっているのだろうかと心配になる。今日(5月31日)の『朝日』によると、財務省の4月の貿易統計では、北朝鮮からのアサリの輸入は、3月に引き続き2ヶ月連続で「ゼロ」だったそうだ。船主責任保険加入や原産地表示の徹底をさせることで、一部で“経済制裁”に近い効果が出ていると考えられる。こうして静かに、目立たないようにやるのが日本政府の方針であるならば、日本のメディアもそれに協力して“きな臭い”ニュースの報道は控えている--そんな考えは穿ちすぎだろうか?

谷口 雅宣

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2005年5月30日

“金太郎飴”では衰退する

5月28日の本欄で釧路の印象を書いた際にも触れたが、地方都市の過疎化の流れは如何ともしがたいものなのだろうか。「人」がいないことには経済が動かず、したがって仕事がなく、若者は将来の発展を期して仕事のある都会へと出て行く。そこでさらに人がいなくなる。客が減れば商店は利潤が生じずに閉鎖し、閉鎖すれば取引先も仕事が減る……こういう悪循環が地方ではグルグル回っているようだ。北海道では札幌への一極集中が続いているが、それを加速させる要因として「土地の広さ」があるのだという。つまり、若者や中年世代が札幌へ出ていくと、残された老人には老後の心配がある。体にガタが来たときには、誰がどこへ連れて行ってくれるのか? 土地が広いがゆえに、お隣さんに声をかけられない。電話で連絡できても、隣家の助っ人が来てくれるまでが心配だ。それに比べて都会へ行けば、子供もいるし、医療施設も整っている。だから、苦労して開拓した土地ではあるが、やむなく……というわけである。

『秘境』の取材で山形県の村山市から新庄まで新幹線で出て、そこから各駅のローカル線で余目経由で鶴岡へと行った時のことが思い出される。2両編成のワンマン列車で、ワンマン・バスのように最前車両の先頭のドアだけが開いて、客が出入りする。駅はもちろん無人駅がほとんどだ。日曜日だったせいか客はまばら、落日前後の静かな夕方の景色--延々と続く田んぼと畑--を窓外に見ながら、「こんな少ない客でやっていけるのか?」と思った。でも、旅人の視線で見ると、素朴で、温かくて、懐かしい風景がいっぱいあった。若者もいた。子供もいた。鶴岡では湯田川温泉の旅館に泊まったが、ここも客は多く、若い主人や従業員がてきぱきと仕事をしていて活気が溢れていた。だから山形県は、北海道ほど過疎化は深刻でないのかもしれない。

そう感じていたところに、庄内地方の経済の変化について書いた記事が『朝日新聞』(5月29日)に載った。歴史のある鶴岡、酒田の中心街が衰退し、これら2つの中間地点の田んぼの中にできた大型ショッピングセンターに客が集まるようになっているという。郊外にあるこの種の大型店の魅力は「大都市の店と同水準の品ぞろえや価格で買い物ができる」点にあるらしい。しかし、私のように旅をする者の側から言わせてもらうと、こういう大資本が全国展開してできたショッピングセンターは、どれもこれも皆、似たり寄ったりなのだ。コンビニにせよスーパーにせよ、AVショップにせよ、新古書店にせよ、大資本であるがゆえに販売戦略や品揃え、サービスまで全国一律だから、概観も中身も何も面白いことはない。庄内も伊勢も名古屋も札幌も福岡も京都もみな同じである。そういう“金太郎飴”的な発想が、地方の衰退を加速させているのではないかと思う。

我々はローカルであることを恥ずかしく思う必要はまったくないと思う。政治家や経済人も「地方色」を消そうと思わず、それを突出させることで特徴のある地方を築き上げるべきだ。生き方もやり方も、東京や大阪や京都に合わせることはないと思う。逆に私のように、いわゆる“田舎”のない東京の人間にとっては、日本中の町が東京になろうとしていると考えると、おぞましさで身が震えるほどだ。旅行をする楽しみが、まったくない。こんな町(失礼!)は、世界中に東京一ヶ所だけで結構だ。花屋の花が全部バラになったら、誰もバラなんて買いやしない。日本の皆さん、もういいかげんに“人マネ”の生き方から卒業しようではないか。

谷口 雅宣

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2005年5月29日

暴力は社会の伝染病

5月13日の本欄で、「悪いニュースを集める」というメディアの活動が集合的に作用すると、意図しないで大規模な事実の歪曲が起こり、テロ活動の目的に協力することもありえる、と警告を発した。しかし、そういう事実誤認や社会不安の醸成が、実際の暴力事件の発生につながるかどうかまで考えるに至らなかった。読者は、どう思うだろうか? メディアがテロを含む悪いニュースを流し続けることで、実際に暴力事件が起こるのだろうか? もし、そういう因果関係が証明されたならば、メディアの社会責任は厳しく問われなければならないだろう。

この大いなる疑問に一部答えるような研究結果が、アメリカの科学誌『Science』の5月27日号に発表された。ハーバード大学医学部のフェルトン・アールズ教授(Felton Earls)らの研究によると、銃を使った暴力事件を目撃したティーンエージャーは、そうでない同年代の少年に比べ、その後2年間に自らが深刻な暴力事件を起す確率が2倍に増えるという。この研究は、シカゴ近郊の78箇所に住む12歳から15歳までの少年少女1500人以上に、5年間かけてインタビューした結果をまとめたもの。統計的処理により、実際に本人が銃劇事件を目撃したグループとそうでないグループに分けて、その後2年間の行動を調べてみると、「目撃した少年は、自分自身が暴力行為を行う可能性が2~3倍増える」ことが分かったという。したがって、暴力というものは“社会的伝染病”だとアールズ博士らは言っている。

銃撃事件を実際に身近で目撃することと、テレビ画面を通して戦争や暴力に関するニュースを視聴することとは、その深刻度に於いてもちろん差がある。しかし、「社会とは何か」について乏しい知識しかもたないティーンエージャーにとっては、“社会の窓”とも言えるテレビニュースが伝えるリアリティー(現実感)は決して無視できないものだ。ジョンズ・ホプキンス大学のダニエル・ウェブスター教授(Daniel Webster)によると、身近に銃撃事件などを体験した人は過剰な警戒心をもつようになるので、意味が不明確な社会的刺激--例えば、混雑したパーティーの中で誰かがぶつかってきた時--に対して過剰に反応し、それを“敵意”と捉えるかもしれない。そこから却って暴力が生じる可能性が増えると考えられる、としている。

すでに心理学の分野では、家庭内で虐待された子供が学校や社会で暴力事件を起すという関係がしばしば指摘されているが、これらの科学的知見は「類は類をもって集まる」という諺にも合致し、生長の家でいう「親和の法則」を見事に証明していると思う。だから、この暴力という“社会的伝染病”を終息させるために、我々は人生の光明面を見る「日時計主義」の運動をもっと盛んにし、どんどん社会に広げていかなければならないのである。マスメディアで働く皆さんは、この科学的知見を尊重し、どうか立派に社会的責任を果たしてもらいたい。

谷口 雅宣

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2005年5月28日

ヤチボウズとビール工場

 生長の家の講習会で釧路市に来ている。前日の天気予報では、「曇り所により夕方雨」ということだったが、空港に着陸するために高度を下げていく搭乗機の窓が、いつまでも白いままで時間が過ぎる。そして雲が切れたと思ったら、もう滑走路のすぐ上にいた。私の乗ったJAL1143便の前2便は、霧が深いため着陸できなかったと聞いたから、我々はラッキーだったのか、あるいは搭乗機の機長が冒険家だったのだ。いずれにしても、ありがたいことだ。空港のビルを出るとひんやりとした空気に包まれる。予報では翌日の最高気温が12℃、最低は7℃とあったから覚悟していたものの、背広の上にスプリング・コートでは寒いぐらいだ。「日本は広い」と感じた。

 空港から車で約50分走ると、釧路市の中心部へ着く。途中、見渡すかぎりの平原と、その向こうに横たわる薄墨色の山と森を眺めながら「ロシアもこんな風景なのか?」とふと思う。根釧地方は、年中霧が深く日照が弱いために農産物があまり育たない。だから牧草を育てて牛馬を放牧するのだ、といつか聞いたことがある。その広大な牧草地で牛が草を食む姿が点々と見える。馬の姿もある。カマボコ屋根の倉庫の戸の間から、牧草を丸めた大きな束が見える。車を運転してくれた人が、この牧草地の由来を教えてくださった。この辺りはもともと湿地帯で牧草など生えないところだったが、土地の周りを囲むようにして溝を掘り、土中の水を川へ流して水はけをよくしたところ、ようやく牧草が生えるようになったという。よく見ると、なるほど牧草地の周囲にはまだ深い溝が残っている。しかし、(と運転手さんは続ける)こうして牧草地ができてみると、今度は「自然保護」が叫ばれるようになり、釧路の湿原を回復させようと言われるようになったという。人間社会には「時代の変化」というものがある。

 広大な牧草地が、実は昔は湿原だったという証拠を教えてもらった。それは、牧草の間の所々に頭をもたげている「ヤチボウズ」という草の塊のことだった。このヤチボウズが湿原の印だという。「谷地坊主」とも「野地坊主」とも書くらしく、スゲ類の株が密集したもの。高さ数十センチほどに盛り上がっているのが、子供のイガグリ頭に似ているところからこの名があるという。スゲ類は根元から多くの茎を密生させ、分けつすることによって叢株をつくる。毎年、この同じ株からスゲ類が生い茂るので、やがて大きな株となる。冬季に土が凍結すると、霜柱が土を持ち上げる原理で地面が隆起し、ヤチボウズは株ごと持ち上げられる。春には雪解け水や雨水が湿原に流れ込んで、叢株の根元の土を抉り取る……こうして数十年で40~50cmの高さになるという。スゲ類は生命力が強いから、牧草が辺りを覆った後もヤチボウズを成長させるのだろう。詳しくは、このURLを参照されたい。

BeerFactory
 釧路全日空ホテルにいつもより早めに到着したので、部屋で一息ついたあと、妻と2人で周辺を散歩した。といっても、10℃前後の気温でしかも結構強い風が吹いていたから、両手をポケットに突っ込み、コートの襟を立てて、前かがみで早足で歩くのである。釧路川を挟んだホテルの対岸には、黄色い壁のビール工場の建物がある。その色が、周囲の渋い色の建物群や岸壁の灰色と対照的だったので、かつてスケッチしたことがある。ところが、今日見たビール工場の壁は、屋根や窓から無数に垂れ下がるサビの色が見苦しい。「どうして掃除しないのだろう?」と思いながら近くまで行くと、原因が分かった。工場は閉鎖していた。土曜日だから閉鎖していたのではなく、明らかに廃業の状態だった。周囲の店の中にも、空き家や廃業の店が目立つ。屋根が崩れ落ちた民家もある。「諸行無常」という言葉が頭に浮かんだ。それと同時に、自然界にはヤチボウズのように年とともに育っていくものがあっても、人間界では、上がったものは下がる時が必ず来るのだと思った。

谷口 雅宣

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2005年5月27日

ブッシュ氏、初めて法案拒否か?

5月25日の本欄で、ES細胞研究に関するブッシュ大統領の姿勢を誉めたが、アメリカ連邦下院は24日、238票対194票で連邦政府の支援できるES細胞研究の範囲を広げる法案を可決した。これまでは、すでに樹立されたES細胞株を使った研究のみを国の援助の対象にしていたが、この法案が法律になれば、新たにつくられる受精卵であっても、遺伝上の両親が廃棄することを決めたものは、それを使ったES細胞研究が国の援助の対象となる。共和党議員50人が大統領に反対してこの法案に賛成票を投じたが、それでも「238票」は大統領の拒否権をくつがえせる議会総員の「三分の二」には至らなかった。したがって大統領が拒否権を発動すれば、この法案は成立しないことになるだろう。

不妊治療で受精卵を作成する場合、1回に1個だけでなく5~6個の受精卵を作成しておくのが普通だ。したがって、最初の1~2個の受精卵が着床に成功し、無事赤ちゃんが生まれた場合は、残りの受精卵は“余分”となる可能性が出てくる。日本ではこれを“余剰胚”と呼んでいて、これを使ったES細胞の研究は認められている。しかしブッシュ氏は、上述した下院での投票が行われる直前に人々を集め、この“余剰胚”を他のカップルに寄付することで誕生した子供を紹介して、これまでに81人が同様の方法で誕生しているのだから、「余剰胚(spare embryo)などというものは存在しない」と宣言したという。

この法案は次に上院の審議にかけられることになるが、日程はまだ決まっていないようだ。上院でも可決が予想されているが、そうなると、ブッシュ大統領は就任以来初めて、議会で成立した法案に対する拒否権を発動することになるだろう。『ニューヨーク・タイムズ』は27日の紙面で、そういうブッシュ氏の考えを揶揄した「ブッシュの幹細胞神学」という社説を書いているが、そのポイントは「多様な考え方を許すこの社会で、一つの宗教的信念を押し通そうとするのは間違っている」ということだ。しかし、部外者から言わせてもらえば、そういう宗教的信念をブッシュ氏がもっていることを十分承知で、アメリカ国民は彼を選んだはずだし、それによってアフガニスタンやイラクでの戦争も起こったのだから、今回も甘んじて彼の姿勢についていくことになるのではないか。もっとも『タイムズ』はケリー支持で、イラク戦争にも反対だから、今度もブッシュ氏に反対しているのだろう。その点では一貫している。

ところで私は、イラク戦争反対だったが、受精卵を使ったES細胞の研究にも反対である。クローン胚や胚性幹細胞ではなく、血液や皮膚や脂肪中にある体性幹細胞の研究を大いに進めてもらいたいと考えている。

谷口 雅宣

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2005年5月26日

環境対策2題

買い物の際、代金をレジで支払うと商品を入れてくれる“レジ袋”を、有料にする動きがあるという。生長の家では、青年会がこのレジ袋削減運動を強力に進めているが、国も京都議定書の目標達成との関係で、プラスチックごみの削減に本腰を入れはじめたようで、うれしいニュースである。5月24日の『産経新聞』によると、環境省は来年の通常国会を目標に、容器包装リサイクル法を改正してレジ袋の有料化を盛り込むことなどを検討しているという。また、ガソリンに代わってバイオマス燃料であるバイオエタノールの活用が注目されだした。こちらも、今年の生長の家の全国大会(相愛会・栄える会合同全国大会)で紹介されたから、ご存知の読者も多いと思う。

レジ袋の削減の難しい点は、今までタダでもらっていた袋を有料化することに対する消費者の抵抗だろう。それから、商店にとっては、他の店が無料であるなら自分の店も無料にしないと“客離れ”が起こるという問題がある。だから、全国の主要スーパー約100社が加入する日本チェーンストア協会は5月20日総会を開き、レジ袋を法律で有料化するように国に求めるという方針を打ち出した。(5月21日『朝日』)上述の環境省の動きは、この決定を受けた形になっている。しかし、法律によって商店のサービスの程度を決めるというのは、変わった考え方だ。また、環境税なり炭素税を実施するつもりならば、それとの関係で消費者から“二重取り”する危険性はないのかどうか確認したい。

わが家では、妻がかなり前から“マイバッグ”運動を進めているので、国による全国展開は遅きに失した感はあるものの、大いに歓迎したい。が、重要なポイントは、国が法律によって有無を言わさず金を取るのではなく、消費者自らが「レジ袋の過剰使用は環境に有害だ」と自覚し、それでも必要なときは「環境へのコストを自ら負担する」と理解して金を出すようになることだろう。そういう意味で、レジ袋削減運動やマイバッグ運動は、これからも大いに推進していく必要があると思う。

さて、バイオエタノールの話だが、上述の全国大会で発表した日系ブラジル人の高崎・ルイス・アントニオ氏によると、これはブラジルではすでに30年の歴史をもつ燃料で、同国ではガソリンと混合して自動車を走らせている。そういう仕様のエンジンをフォルクスワーゲン社などが開発し、何も問題なく動いている。それだけでなく、サトウキビから作られるものだから、それを燃やしても温室効果ガスの排出増加にはならないのだという。この言い方は分かりにくいと思うので、少し説明しよう。

植物は光合成によって、大気中のCO2を取り込み酸素(O2)を出すことが知られている。二酸化炭素の化学記号である「CO2」から「O2」を取り除くと「C」(炭素)が残る。つまり、植物は、成長するときに大気中にある炭素を自分の体内に取り込んで固定するのである。それを原料としたバイオエタノールは、燃やすことでCO2を排出することはするが、それはもともと既に大気中に存在したCO2だから、「新たに排出する」ことにはならないというわけだ。これに比べて、化石燃料であるガソリンや重油は、太古の昔に大気中にあったCO2を植物や動物が地下に固定したものだから、これを燃やすことは大気中にCO2を「新たに排出する」ことになり、温暖化の要因になるわけだ。

だから、ガソリンや重油を使うよりは、ブラジル産のバイオエタノールを使う方が地球温暖化防止に役立つことになる。また、このサトウキビからエタノールを抽出した後の残りかすは、ブラジルでは発電燃料に使われているというから、この場合も石油による発電より環境負荷が少ないといえる(輸送用の船がこの燃料で動けばなおいい)。5月26日の『産経新聞』は、来日するブラジルのルラ大統領に対して、小泉首相が同国産バイオエタノールの輸入促進に協力する意向を伝えると報じている。これもいいニュースだ。環境保全運動が経済活動と両立することを示す、よい例でもある。

谷口 雅宣

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2005年5月25日

欲望と社会の健全さ

 私は本欄で生命倫理の側面から見た社会の不備や不用意について何回か書いてきたが、今日は悪い点ではなく“善いニュース”を2つお伝えし、讃えることにしたい。

 1つは、アメリカのブッシュ大統領のことだ。今、同国の連邦議会には、新たに作られたES細胞株の研究に予算を支出させようとする動きがあるが、これに対してブッシュ大統領は最近、就任以来初めて「拒否権を行使する」と反対を明言した。これは、5月22日の本欄で触れた韓国での“大きな進歩”を知った後の大統領の発言であるから、なおさら重要である。韓国での“進歩”に対して、米大統領は「そういう方面の研究は、アメリカ政府は支援しない」と宣言したことになる。ただ、「そういう方面」がどこからどこまでなのか、少しはっきりしていないようだ。

 というのは、ブッシュ氏は以前からES細胞の研究に反対してきたが、その理由は、ES細胞は「受精卵」という生命を殺すことによって得られる、という点だ。だから、すでに作られてしまったES細胞株の研究には(新たに受精卵を殺すことはないから)国は支援する、という立場だった。新たにES細胞を作る場合は、受精卵をそのつど殺さねばならない。これでは「殺す目的で生命(受精卵)を作る」ということになり、倫理的矛盾が起こる。だから、そういう新しいES細胞を使う研究に国は支援しない--こういう考え方だった。

 しかし、今回の韓国の研究では、通常の受精卵ではなく「クローン胚」を作り、そこからES細胞と同等のものを作り出したのである。受精卵とクローン胚との違いは、前者が精子と卵子の結合によるものであるのに対し、後者は卵子だけがあればできる点だ。前者は通常の「有性生殖」で、後者は「無性生殖」だ。そして、後者では卵子が犠牲になるのは確かだが、その犠牲は、受精卵を作って殺すのに匹敵するほど倫理的矛盾があるとは思えない。なぜなら、女性の体内では、受精しなかった卵子は毎月“犠牲”になり、体外へ排出されているからだ。その中の一つの生命力を利用してクローン胚を作り、そこからES細胞を採るのである。ブッシュ氏は、これまで「殺すために生命を作り出す」ことに反対してきたが、クローン胚の場合は「どうせ死ぬ運命にある生命(卵子)を、別の形(ES細胞)にして生かす」と考えられる。両者の倫理的意味は少し違うと思うが、その点をブッシュ氏がどう考えているのか知りたいものだ。

 もう1つの“よいニュース”は、日本での判決である。5月24日の『朝日新聞』によれば、大阪高裁は代理出産によって生まれた子を法律上の子と認めない決定をした。これがなぜ“よいニュース”かというと、代理出産には倫理的な問題が多く含まれるからである。だから、日本では許されていない。しかし、「子がほしい」という人は数多くいて、そういう人が海外(上記の場合はアメリカ)へ行って、その土地の人の子宮を借りて、子を育ててもらい、月が満ちて生まれた子を養子にする--これが代理出産である。が、今回の判決内容が最高裁でも支持されれば、日本では代理出産の方法によって生まれた子は、養子にできないことになる。それはなぜか? 判決文によると、代理出産は「人をもっぱら生殖の手段として扱い、第三者に懐胎、分娩による危険を負わせるもので、人道上問題がある」からだ。

 このほかにも、代理出産によって生まれた子は、片親(多くの場合は父)が遺伝的に法律上の親と異なるという問題がある。これはAIDの場合と似ていて、将来その子が成長して大人になった時、遺伝上の父と法律上の父が違うことを知って心理的問題を抱える可能性が大きい。このことは現在「出自を知る権利」との関係で、実際に複雑な問題を生み出している。将来、そういう問題が生じることを知りながら、なお代理出産という方法で子をもちたいと思うのは、いかがなものか。どんな犠牲を払ってでも、自分と遺伝的につながりのある子がほしいと考えるのは、人間の欲望であり、執着ではないか。

 科学技術が進歩すると、これまで不可能だと思われていたことが可能となる。すると人間の欲望が一段階増幅して、「できるならやりたい」という思いが噴き出す。そして、恵まれた環境にある人はそれを実際に行うことになる。こうして、欲望の階段を一つ一つ上ってきたのが人類の歴史ではないだろうか。このことは、ある人の欲望の実現が別の人を犠牲にしない間は、あまり問題にされなかった。しかし、今日では欲望の実現が他人の犠牲を生むことが数多く生じている。ES細胞の研究や代理出産はその一例であるが、人間のそういう果てしない欲望を一国の指導者や裁判所が“チェックする”役割を果たしているのは、社会がまだ健全である証拠だと思う 。

谷口 雅宣

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2005年5月24日

『秘境』脱稿しました

 小説『秘境』をやっと脱稿した。ちょうど2年前の今ごろに無謀にも開始した連載が、当初予定していた短篇もしくは中篇程度の長さをはるかに超過して、長編小説になってしまった。素人作家の気まぐれに長々と付き合ってくださった読者の皆さんには、何と言って感謝すればよいか分からない。本当に有難うございました。

 生長の家の講習会で4月半ばに山形県村山市へ行ったとき、小説の舞台に同県の鶴岡を使ったためだろうが、この「秘境」に関する質問がいくつか出た。関心をもって読んでくださる人がいると知って嬉しかった。その中で、私がどういう意図をもってこの小説を書いているかと問われたので、何か答えたが、正確にどう言ったのか覚えていないので、ここで少し補足してみよう。--この小説は、自然と人間とがどう付き合っていくことがこれからの時代に必要であるか、を自分自身に問うつもりで書いた。人間は自然を愛していながら、同時に自然を破壊している。このきわめて矛盾した生き方は、産業革命以降に顕著になったが、それ以前になかったわけではなく、農業の発明以来、延々と続いているのである。そして地球環境問題が深刻化している現在、この傾向は強まりこそすれ、決して弱まることはない。その中で、日本人は自然との一体感を大切にしてきたというのは事実であるが、しかし、戦前戦後の近代化と工業化の中で、欧米諸国に負けずに自然破壊を続けていることも事実である。その最も大きな理由は何か、ということを知りたかった。

「そんなことが小説を書いて分かるのか?」とも思うが、この『秘境』ではなく『神を演じる人々』(2003年、日本教文社刊)に収録されている「再生」という短篇の中で取り上げた「ヘビ」がいなくなってしまったことによるのではないか、と思う。この短篇に出てくるヘビは、「畏れるもの」のメタフォーである。人間は神を畏れなくなり、自然現象も恐れなくなり、今や遺伝的原因を改変して自分の運命をも掌中に握ろうとしている。それが人間の幸福のためだから……と考えながら、現代人が古代人や中世の人々と比べて幸福であるかどうかは、実はきわめて疑わしい。そして、最も重大なことは、このような人間の活動が今、地球の生態系と物理バランスを撹乱して、古代人や中世・近代の人々がかつて経験しなかった種類の一大カタストロフィーを招くことが予見されていることだ。

 はっきり言って、私は現代に“宗教”が復権しなければいけないと思う。ただし、その「宗教」とは現在、戦争やテロの正当化に使われているような融通のきかない、狭量で独善的な教義をもつものではなく、自然界の営みの背後に、そして全ての宗教の教えの背後に、絶対的価値をもった存在があることを認め、その要請に人間が自ら従うことを教えるものでなければならない、と思う。人間が自己目的を追求するのではなく、人間が自己の生きる目的を発見するよう導くものが必要と思う。

 いやはや……少し力コブを入れて書いてしまったが、小説はあまり堅苦しくならずに、楽しんで読んでいただければ十分です。

谷口 雅宣
 

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2005年5月23日

横浜との縁

横浜の思い出を何回か書いているが、この町は私と不思議な縁があることに気がついた。こんな書き方をすると、「何を健忘症みたいに……」と思う方がいるかもしれない。しかし、人間の記憶とは不確かなもので、自分が30年前に何を感じ、何をしていたかを思い出すのは(少なくとも私にとっては)至難の業だ。ところが、3月末の本欄で触れたように、古い写真のデジタル化などをしていると、アルバムにも貼ってないような写真を見ることになり、普通では思い出すこともなく忘却の彼方にある過去の自分に、突然逢ったような気持になる。そして「へぇー、そうだったのか……」と自分自身に気がつくのである。

私は結婚後の新居と職場をこの地にもっただけでなく、独身時代にも何回も横浜を訪れていることを写真で知り、またそのことを思い出した。今まで見つけたもので“最古”の横浜の写真は昭和46(1971)年だから、私が20歳のころだ。この頃は青山学院の法学部に通っていたが、写真に凝っていて、友人と一緒に車で横浜など東京の近郊へ出かけて、写真を撮っていた。写真は父が趣味としていて、自宅に暗室を作って自ら現像と焼付をしていたのを、息子の私も教えてもらって自分でやるようになった。私はもっぱら白黒写真だったが、父はその頃からカラー写真の現像と焼付けもやっていたのを憶えている。私はそれを傍から見て「すごいなぁー」と思ったものだ。

保存してあったネガフィルムの束を見ると、私はその頃、横浜の海岸通りや新港埠頭近辺を撮影しただけでなく、友人と山下公園などであったモデル撮影会にも参加している。青山や六本木辺りの夜の写真もある。それを見ていて思い出したが、当時は森山大道氏らが夜の都会の断片を“本能的”に切り取ったような、粒子の粗い白黒写真が写真雑誌に載っていて、私はそれを真似て、暗闇に向かってほとんど無作為にストロボを焚いただけの、ワケの分からない写真なども撮った。写真の画像をわざわざ荒らすための「増感現像」もしていたから、ちょっとした“マニア”だったのだろう。そうやって撮った写真の中に、8~9年後に自分の主な仕事場となる横浜海事記者倶楽部が入った横浜税関の建物も写っていた。

Yokoham140

「地縁」といえば、ある土地に住み着くことで生じる人との縁のことを指すが、私は人と土地そのものとの関係にも、深い浅いの違いがあるような気がする。「故郷」と呼ばれる場所は、血縁と地縁の双方が合わさった濃厚な関係を人と結ぶが、「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川」と歌われるように、人以外の自然環境との間にも人は深い心理的関係を結ぶ。もしそうであるなら、人は故郷以外の土地とも“縁”を結んでいるに違いない。そんな関係を、私は横浜に感じるのである。

谷口 雅宣

(写真は、昭和46年当時の横浜税関の正面玄関。向かって左側の玄関脇の1階の部屋が記者クラブに充てられていた。)

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2005年5月22日

霊魂とES細胞

 医療目的のES細胞(胚性幹細胞)の研究で最近、“大きな進歩”があったとして医学界は興奮に沸いている。体細胞クローン技術を利用して、特定の人間と同じ遺伝子をもったクローン胚を作成し、そこからES細胞を取り出す効率的な方法が発見されたというのだ。韓国の科学者がアメリカの科学誌『Science』の電子版に発表したもので、それを英米のメディアが大きく取り上げ、日本では『朝日新聞』が5月20日の朝刊一面トップで報道した。(『産経新聞』はなぜか取り扱いが小さかった)

 クローン胚とは、ある特定の人と同じ遺伝子情報をもった胚(受精卵が成長して、胎児になる前の段階と同じ機能をもつもの)のことである。それを女性の体内に移植して成長させれば、クローン人間となる。だから、俗っぽい言い方をすれば、「初期段階のクローン人間」とも表現できる。これをなぜ医療目的で研究するかというと、このクローン胚を一個の人間の肉体に成長させずに、臓器や組織だけを成長させることが理論的に可能だからだ。つまり、ある人がアルツハイマー病になって、脳内の神経細胞が破壊されつつある場合、その人と遺伝子が同じクローン胚を作成してそこから神経細胞の“素”を作り出し、それをその人の脳に移植することで、破壊された脳の再生が(これまた理論的には)可能だからだ。脳だけでなく、心臓の筋肉や肝臓、骨、胃袋、皮膚、血液など、あらゆる種類の細胞や組織がクローン胚からは取り出せるとされている。

 今回の韓国チームの研究が騒がれているのは、あらゆる組織や細胞の素となるES細胞を、これまでになく高い効率でクローン胚から作成したからだ。具体的には、このチームは、2歳から56歳の患者11人の皮膚の細胞を使い、そのうち9人と同じ遺伝子をもつ11株のES細胞を作成したが、それに要した卵子が185個ですんだ。つまり、一人の患者に適合するES細胞を作り出すのに、卵子が10から20個あればいいということになる。同じチームが昨年2月、242個の卵子を使ってわずか1株のES細胞の作ったのと比べると、「長足の進歩」というわけだ。今後は、ES細胞から移植目的の特定の臓器や組織の細胞を成長させる方法を発見すれば、患者の必要に応じた、拒絶反応のない“オーダーメイド”の組織や臓器が得られるようになる、と考えられている。

 私はこのES細胞やクローン胚の抱える倫理的な問題について、すでに拙著『今こそ自然から学ぼう』の中に書いている。それを簡単に要約すれば、宗教の世界では「霊魂」の存在を信じるが、この問題のポイントは、霊魂が肉体に「いつ宿るか」という問題に帰着する。霊魂は「ある瞬間」に100%肉体に宿るのではなく、「ある期間」を経過しつつ肉体としだいに密着すると考えてもいいが、とにかく、ある時点から、肉体と霊魂とが抜き差しならぬ関係(互いに自然には引き剥がせない関係)になると考えられる。その時点とは、霊魂が自らの意思で肉体を形成しはじめる時点だと言える。この「霊魂が肉体を形成し始める時点」とは、医学的用語で言い換えると、肉体の諸組織・緒器官を形成する能力をもった細胞群が出現する時点--つまり、ES細胞が形成される時期である。ということは、ES細胞の医療目的の利用は「霊魂から肉体を奪う」ことになる。したがって、これは「殺人に等しい」と言わないまでも、決して“愛の行為”とは言えないのである。

 以上は、宗教的見地からの反対論であるが、倫理的見地、社会的見地からも反対論がある。今後、それらも取り入れた議論が本格化すると思うが、宗教の信仰者の立場から「霊魂」の問題も視野に入れた議論がされることを切に望む。科学は恐らく霊魂の存在を否定するのだろうが、社会は科学者ばかりで構成されているわけではない。社会的合意なしに科学や医学が暴走することだけは、避けてほしいものである。

谷口 雅宣

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2005年5月21日

技術と伝統

 3月27日の本欄で童話作家、寮美千子さんのことを書いたら、ご本人から著書を3冊も贈っていただいた。どれも美しい絵で埋められた絵本である。感謝にたえない。中にお手紙でも入っていないかと調べたが、なかった。その代わり、本欄の当該箇所に長文のコメントをいただいたので、興味ある読者は是非それを読んでいただきたい。

 贈っていただいた童話の中に、アイヌの“クマ殺し”の儀式を描いた『イオマンテ』(小林敏也絵、パロル舎刊、2005年)というのがあり、興味深く読んだ。こわいようなことが書いてあるが、アイヌ民族の自然観がよく分かる。読みながら「これはアイヌ民族だけの考え方だろうか?」とふと思った。「自然は生命の連続であり、そのことを感じ、恐れ、感謝しながら、すべての生物を同僚とし、背後の命の流れを神として生きよう」--こういう自然との一体感と信仰は、実は私が今、『光の泉』誌に連載している小説の中の少女、サヨの世界観なのだ。私はアイヌのことを深く勉強したことはないし、もちろんアイヌではない。肉体的特徴も、どちらかというと“南方系”だと思う。民俗学を学んだこともなく、大学の専攻は法律や政治学である。小学校、中学校、高校はミッション・スクールで毎日、聖書を読んだ。にもかかわらず、そういう自然観が小説の中に現れた理由は、「もともと自分の中にあったから」としか言いようがない。

 聞くところによると、こういう自然観・世界観は日本だけでなく、北アメリカの原住民、イヌイット、ケルト族等も共有しているらしいから、洋の東西を問わないのかもしれない。しかし現在の問題は、「昔は皆そうだったのだから、昔へもどればいい」という単純な答えでは済まないことだ。我々日本人自身が、日本文化は自然を大切にしてきたと言いながら、19世紀以来、自然破壊を繰り返してきている。いまや「列島改造」という言葉を使う人はいなくなったが、日本列島はいろいろな意味で、すでに昔の状態から“改造”されてしまっている。

 名古屋行きの新幹線の車内にあった『ウェッジ』(ウェッジ社刊)の6月号に、俳人の佐川広治さんが田植えについて書いていたが、日本文化の代表とも言える俳句の季語が、科学技術の発達につれて失われつつあるか、あるいは従来の意味を伝えられなくなってきているらしい。佐川さんによると、「昭和50年代に田植機が発明されて以来、千数百年続いてきた日本の稲作作業が大きく変化した」という。従来の新潟地方の稲作では、種まきを八十八夜に行い、その30日後の6月上旬~半夏生(7月1~2日)までに田植えをしていたが、現在の田植えは5月のGWごろまでに機械で一気に終えるのだという。すると「早乙女」「早苗」「早苗饗」などの稲作にかかわる季語がピンと来なくなる、というわけだ。

 では、我々は伝統的な季語を取りもどすために田植機を捨てるべきだろうか? 「そうすべきだ」と答える人は少ないと思う。田植機を捨てて、頑固に伝統的農業を続ける人もいるかもしれないが、それは本当に稲作農家のためなのだろうか。それで後継者が育つだろうか。一代で終ってしまうならば、やはりそういう季語は長い間のうちには死ぬのである。そう考えると、死に行く季語を必死に守るよりは、今の人々の生き方に合わせた季語を新たに創出するという選択肢があるはずだ。

田植機の音止めて見ん冠雪山

谷口 雅宣

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2005年5月20日

神奈川新聞が記事をブログ化

 昨日は『神奈川新聞』のことに触れたが、ここのニュースサイトが、2月1日から新聞社系サイトとしては全国で初めて記事をブログ化したらしい。6月1日号の『ASAHI パソコン』(朝日新聞社刊)がそう伝えていたので、ちょっと覗いてみた。著作権の問題もあって全部の記事を掲載しているわけではないようだが、「双方向のコミュニケーション」の実現という意味では、なかなかいい思いつきだと感じた。ただ、将来にわたっていろいろ解決すべき問題もあるようである。

 神奈川新聞のブログは「カナロコ」というニックネームのついたサイトで、ニュース記事そのものをブログのエントリーとした「ニュースブログ」のほか、横浜みなとみらい地区の話題を扱う「MMブログ」、地元球団の談義に花を咲かせる「ベイスターズフィーバー」という3つの大枠と、その他の細かい4つのブログから構成されている。ニュースブログを除いたブログは、前もって登録されたライターが自由に書き込み、それに読者がコメントをつけたりトラックバック(TB)を張ったりする形式だ。細かい話題を拾える点では“地元密着”とか“コミュニティー中心”と呼べるかもしれないが、逆に地元に密着しすぎて「商店の宣伝」とか「会社の販売促進」とか「オタク的」な記事になるリスクはあるようだ。それが面白いと言えばいえるかもしれないが、私のような他県の住人には不要な情報も多くある。

 しかし、いわゆる「行政ネタ」などの記事(役所の計画や成果を発表するもの)には、使い方によっては新しい可能性が開けるものもあると思う。例えば、「ゴミの分別収集の成果があった」などと役所が発表するのは恐らく「数字」だけをもとにしているのだろうから、数字に表れないいろいろな問題や市民の要望などを、読者からのコメントやトラックバックによって収集することができるだろう。しかし、このメカニズムを逆用すれば、何かの計画についての反対運動をブログによって行うこともできるわけだ。そういう意味では、神奈川新聞が、コメントやTBを受け付けることができる記事と、そうでない記事を区別しているのは理解できる。

 ところで生長の家でも、こういう新機能は利用できないかと思う。すでに白鳩会のウェッブサイトの一部でブログの機能を使っているようだから、技術的には問題ないと思うのだが……。

谷口 雅宣 拝

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2005年5月19日

横浜のカレー

25年前に横浜・菊名に新居をもった話を書いたが、そこから歩いて行ける距離にJR新幹線の新横浜駅がある。当時もジョギングをしていた私は朝、自分のアパートから新横浜駅を回って帰ってくるコースを走ったものだ。その頃の新横浜駅周辺は現在と大違いで、広い畑が続き、そこにキャベツなどが育っていたのを横目で見て走っていた記憶がある。その後東京に越してまもなく、駅近くに「横濱ラーメン博物館」というのが建った。博物館とはいっても、ラーメンのサンプルを展示するのではなく、全国の名物ラーメンを食べる所だ。そこには、休日などにわざわざ東京から子供たちを連れ出して食べに行ったことが何回かある。ここは評判となって成功したので、数年前、2匹目のドジョウを狙って「横濱カレーミュージアム」というができたことを聞いていた。

今日(5月19日)は、昼にそのミュージアムに妻と行った。場所は新横浜ではなく、JR横浜線の関内駅近くのイセザキモール(伊勢崎町商店街)だ。たまには“新体験”もいいと思った。8階建てのビルの上2階に各種のカレーを食べさせる店が11店入っている。館内は、ラーメン博物館と同じようにレトロ調とエキゾティシズムのインテリアだ。よほどの大食漢でなければ11店の味をすべて試すことはできないが、幸いなことに“お試しサイズ”とか“小盛り”と称して半人前の量を注文できる店が多い。2人で店に入り、半人分を1個だけ注文しても許される。我々はそのサービス精神に大いに感謝しながら、ゆっくりと昼食をいただいた。結局、四国高松の讃岐うどんのカレー、明治創業の大阪のインディアンカレー、そして札幌のスープカレーの味を楽しむことができ、満足した。

ところで「横浜へ行って横浜のカレーを食べなかったのか!」と怒られそうだが、横浜はカレーやラーメンだけでなく、様々な地方、様々な国の風物が自由に楽しめる町だ。そう理解していただければ、「これが横浜のカレーの食べ方だ」と聞いて勘弁してもらいたい。

伊勢崎町まで足を延ばしたついでに、今日付の『神奈川新聞』(本社・横浜市)に載っていた絵画展を見た。すぐ近くの中区翁町の画廊でやっていたもので、金沢区の主婦、原澤泰子さん(69)が錆びたドラム缶やトタン屋根などを描いた個展だ。この「ドラム缶やトタン屋根」という題材が私の興味を引いたのだ。しかもそれらが「錆びた」ものを描くのは何故だろうと思った。原澤さんは横浜美術協会と日本美術連盟の会員で、新聞記事には「老いる人間との共通点を感じる朽ちゆく缶を、15年来のテーマに据えている」とあった。原澤さんの絵を見て納得した。錆は老いの美しさに通じるというのは、同感だ。私も生長の家の講習会で地方都市へ行った際、古く、朽ちかけたものを見て写真を撮ることがある。錆には、黄や緑や朱などの鮮やかな色が出ることもある。それが黒や焦げ茶色の鉄錆にしっとりと調和している美しさは、人格の美しさとも共通するようだ。

そう言えば、横浜のラーメン博物館やカレーミュージアムが「レトロ」を強調するのも、文明にも「錆び」の美しさがあることを知ってのことだろうか。

谷口 雅宣

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2005年5月18日

横浜に来ています

 木曜日の休日を前にして、妻と横浜に来ている。本欄の前身の「小閑雑感 Part 1」にも書いたのでご存知の方もいると思うが、この地は我々が新婚時代に過ごした町だ。結婚後すでに25年を過ぎる。「センチメンタル・ジャーニー」というほど大袈裟なものではないが、たまに来て、変わったものと変わらないものを感じながら“羽を休める”気持になる。

 横浜は、東横線の菊名駅から歩いて7~8分のところにあった安アパートの2階が“新居”だった。住所でいうと「港北区大豆戸町」になる。大豆戸は「まめど」と読む。菊名駅からJR横浜線に沿って新横浜駅方面へ行く細い道を歩いていくと、事務機器メーカーのアマノの工場を過ぎた先に「菊名ハイツ」という大きな分譲マンションが何棟も並んでいるが、その駅寄りの端に2階建て8部屋の木造アパートがあり、その角っこの201号室が我々の“住家”だった。間取りは6畳と4畳半の2Kで、家賃は確か4万8千円だった。すぐ隣が豆腐屋で、朝早くから作業する音が聞こえていたし、ここの豆腐を妻は気に入っていた。実は昨年の12月に、2人の銀婚式を祝ってこっそり菊名を訪れた。木造の安アパートが25年後に残っているとは思わなかったが、そこにちゃんと建っているのを発見して歓喜の声を上げた。豆腐屋も営業していた。

 今日来ているのはそこではなく、当時の私の職場だった「港ヨコハマ」である。駆け出しの新聞記者として私が担当したのが、横浜港の出来事全般を扱う「横浜海事記者倶楽部」で、今は「みなとみらい地区」と呼ばれている新港埠頭の根元にある横浜税関の建物の中にあった。菊名に四半世紀前の木造アパートが残っていたのに比べると、この付近の変化は大変なものだ。かつては殺風景な倉庫群と、貨物船を引くタグボートの溜まり場だった所が、今は国際会議場やリゾート・ホテル、ショッピング・モール、遊園地などが集まる“新都心”を形成している。しかし、横浜のいいところは、そういう新開地の隣に、身をひそめるようにして、古い建物がちゃんと残されていて、しかも利用されていることだ。これはいわゆる「歴史的建造物」が保護されているというだけではない。平屋や2階建て程度の古い名のないビルが取り壊されずに、修理されたり、塗り替えられたりしながら、周囲の風景に溶け込んでいる。そういう雰囲気が、私の心を落ち着かせてくれるのだ。

Yokoham0518 今日の関東地方は、午後からあいにく雨がパラついたが、我々が横浜に着いた頃には雨は上がり、夕暮れ時の柔らかな陽を受けた「みなとみらい地区」の建物群は、その名のように幻想的な未来都市の雰囲気を漂わせていた。

谷口 雅宣

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2005年5月17日

GM作物の最近事情

 遺伝子組み換え(GM)作物のことは過去に主として理論的な問題点についていろいろ書いたが、最近は実際に栽培が行われた結果の分析や、調査研究が発表されつつある。私が『今こそ自然から学ぼう』(2002年刊)の中で書いたのは、①除草剤耐性の遺伝子組み換えを行った作物を栽培することは生物多様性を損ない、②やがて除草剤に耐性をもった雑草が出現し当初の効果を帳消しにしてしまう、ということだった。この2つを「環境への悪影響」として捉えれば、もう一つ指摘しておかなければならないのは、GM作物を開発した大企業の独占が進むという「社会への悪影響」である。

 ところで、最近発表された調査や研究結果では、GM作物は当初の思惑通り除草剤の使用を劇的に減少させたばかりでなく、収量も上昇したという。これはアメリカの科学誌『Science』の4月29日号(vol.308, p.688)に掲載された論文で、北京にある研究所の研究員らが害虫耐性をもたせたコメ(GM種)と在来種のコメとの大規模な栽培比較を行ったものだ。比較されたのは、2002~2003年に123の田畑で栽培したGM種2種と224の田畑で栽培した在来種のコメ。その結果、GM種の栽培では農薬の使用を在来種に比べ平均80%削減できたうえ、収量は在来種よりそれぞれ6%と9%向上した。さらに、この農薬使用量の劇的減少により、農民の病気も減少したという。数字で言えば、在来種のコメを栽培した人の8%が具合が悪くなったのに比べ、GM種の栽培では誰も体調を悪くしなかったという。

 これに対し、インドでは同じ害虫耐性をもたせた綿花の栽培結果が論争を巻き起こしている。その一つの原因は、GM種は在来種に比べ、期待していたほど収量が上がらなかったからだ。また、この害虫耐性のライセンスをもつ米モンサント社のGM種よりも、地元で違法に作り出されたGM種の方が、綿花の収量がはるかに多かったことが、大企業の独占の問題を浮き彫りにしている。貧しいインドの農民のことを第一に思えば、モンサント社のGM種ではなく、地元で違法に開発されたGM種の方が収量においてもコストにおいても優れていたということだ。ちなみに、インド中部と南部でのモンサント社のGM綿花の栽培面積は、2002年には5万ヘクタールだったのに対し、2004年にはその10倍に拡大し、インドの綿花栽培面積の20分の1を占めるに至っているという。(『NewScientist』5月7日号)

 ところで日本では、GM種の栽培はどうなっているのだろう。今日(5月17日)の『朝日新聞』は、北海道が全国で初めてGM作物の屋外での栽培を規制する条例を策定し、来年1月から施行することを伝えている。GM作物の栽培審査は、いくつかの法律にもとづき国が行っており、その審査に通った品種(現在約30種)は国内ならどこでも栽培していいことになっている。しかし、北海道では住民や消費者の不安や混乱を避けるために、法律に上乗せする形で知事の許可を条例で定めたということだ。ただし、一般の農家ではなく、研究機関の試験場での栽培は届出だけで済ませるとした。

 国によっていろいろな考え方があることが分かるが、GM作物のこれまでの成績は「1勝1敗」というところか。生物多様性への危険は証明されつつある。真価が問われるのは、長期的影響が明らかになるこれからだ。

谷口 雅宣

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2005年5月16日

もっとムダをなくそう

 長い曇天を抜け、久しぶりの青空の中、春光に満ちた爽やかな1日だった。東京の気温は20℃前後で風は爽快、寒くもなく暑くもない。こういうのを“最高の季節”と言うのだろうか。関西以西では、すでに“真夏日”を経験した所もあったようだが、幸か不幸か関東地方は“冷夏”ならぬ“冷春”が続いている。地球温暖化は確実に進んでいるのだから、これから一気に夏の暑さが訪れるのかと思うと、不気味ではある。

 5月6日の本欄で、ガソリン高騰のあおりを受けてSUV(多目的スポーツ車)の売り上げが不調なGMとフォードの“苦境”について触れたが、その後、ハイブリッド技術と燃料電池の両面でトヨタとGMが提携を強化する話が進んでいる(15日)。また、欠陥車問題やリコール隠しで評判を落とした三菱自動車が、起死回生を狙って電気自動車で勝負するとの話も伝わっている。こうして環境技術が様々な方面で利用されていくことは大いに歓迎したい。しかし、「技術」だけではこの問題の解決は難しい。現代人の生活には、現有の技術の下でもムダが多すぎるからだ。このムダは即ち、温室効果ガスの「余分な」排出を意味している。だから、ムダを省くことは環境保全運動でもあるのだ。

 先進国での人々の食生活のムダの多さはよく指摘されるが、昨日(5月15日)の『朝日新聞』には、それを数字で表した驚くべき調査結果が掲載されていた。それによると、アメリカでの食品は、収穫→流通→食卓の過程で40~50%がムダに捨てられており、それによる経済損失は約1千億ドル(10兆7千億円)に上るという。この数字を一般家庭(4人家族)に置き換えると、1日にムダになる食料は約580グラム。1年では212キロで、金額にすると約590ドル(約6万3000円)になるそうだ。日本の数字は、国内のレストランと食堂で摂る食事の3.3%が食べ残される。アメリカの数字と比べると随分小さいようだが、調理前の段階も含む「食品のムダ」と、調理後の「食べ残し」とは違うから単純に比較できない。そして、レストランと食堂、そして家庭での食事のすべてを含めると、日本人の「食べ残し」の総額は約11兆円というから、決してアメリカを批判できない。

 ところで、この問題ではアメリカにも心ある人が大勢いるようだ。ブッシュ大統領が「京都議定書」に袖を振って以来、アメリカでは環境保護派が鳴りを潜めているのかと思ったら、「国がやらないなら市でやろう」という動きが盛り上がりつつあるという。今日(5月16日)付の『ヘラルド朝日』紙の伝えるところでは、シアトル、ロサンジェルス、ニューヨークなど131の市は、京都議定書でのアメリカの約束だった温室効果ガス削減目標(2012年を目標に、1990年のレベルから7%削減)を達成するために動き出しているそうだ。これらの市は35州にまたがり、抱える人口は2900万人。その削減方法もいろいろあって、シアトル市では港で燃料補給中の客船にエンジンを止めさせたり、ソルトレーク・シティーでは風力発電所から大量に電力を購入したり、ニューヨーク市では市の公用車をハイブリッド車に切り替えたりしているという。

 生長の家でも今年度から、日本各地の教化部や練成道場を対象として、日本が京都議定書で約束した温室効果ガス削減目標どおりに、二酸化炭素の排出削減を実施しようと取り組んでいる。願わくは、この動きがもっともっと多方面に、大規模に広がっていってほしい。

谷口 雅宣

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2005年5月15日

二酸化炭素の地下固定

 5月4日の本欄で経済産業省のまとめた「技術戦略マップ」に触れたとき、「原子力発電はすでに長い実績のある技術だが、地下にCO2を貯留する技術は、まったく実績のない技術である」と書いた。これは私の間違いであることが判明したので、ここで訂正させていただきたい。この技術には、昨日(5月14日)の本欄でも言及していて、経産省はこれが2015年に、文部科学省は2025年に実用化するとの予想を紹介した。ところが実際には、一部の油田ではこの技術がすでに使われているというのだ。

 私が先に触れたアメリカの外交専門誌『Foreign Affairs』(Nov/Dec 2004)の記事によると、スウェーデンはCO2の排出1トンにつき50ドルの炭素税を課しているが、その効果もあって、国営石油会社「スタトイル」(Statoil)は北海ガス田の一部で海底深くにCO2を固定する作業を始めているという。

 専門外なので詳しいことはよく分からないが、この技術は、アミンを含んだ化学物質中に天然ガスを通すことで水素とCO2を取り出すと同時に、天然ガスの純度を上げるのだそうだ。これと似た化学反応--「集中的ガス化統合サイクル」(Integrated Gasified Combined Cycle, IGCC)--は、石炭などを燃やす火力発電所に応用できるため、ゼロ・エミッション(廃棄物ゼロ)の火力発電所も夢ではないという。つまり、石炭などを燃やして電気と水素、それにCO2を取り出し、CO2だけを地中深く埋めてしまうというのだ。米エネルギー省は2003年2月に、このゼロ・エミッション火力発電所のプロトタイプの建設を発表している。「フューチャージェン」(FutureGen)と呼ばれ発電容量は275メガワットと小さいが、その後、アメリカ電力社(American Electric Power)は昨年8月、商用のIGCC発電所を2010年までに建設することを発表したという。

 イギリスの科学誌『NewScientist』も4月30日号で、同様のCO2地中固定の動きを伝えている。それによると、CO2を地中に埋めるには、まずそれを圧縮して、使われていない石炭層や古い油田、ガス田、あるいは塩水で満たされた多孔質の岩に、パイプラインを通して注入するという。上記の北海ガス田の場合は、天然ガスからCO2を毎年100万トンも抽出して海底深く埋めているそうだ。また、アルジェリアのサラーのガス田では、昨年からBP社が同様の方法でCO2の地下固定を行っているという。古い油田やガス田は炭化水素を何百万年も安全に貯蔵してきたから、火力発電所から出たCO2も同じように安全に貯蔵できるはずだ、と関係者は考えている。そして、国際エネルギー機関(IEA)の概算によると、世界中にある地下の塩帯水層(salin aquifer)、油田やガス田、炭鉱を使えば、110億トンのCO2を埋めることができるという。

 もちろん、この方法を使えば化石燃料を好きなだけ燃やしてもいいというわけではない。同時にバイオマス、風力や太陽光などの再生可能エネルギーの利用を飛躍的に増やし、IGCCから出た水素を使う燃料電池を軌道に乗せ、省エネの努力をしなければならない。各国は衆知を合わせ、地球規模のエネルギー政策を早急に策定してほしいと思う。

谷口 雅宣

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2005年5月14日

文科省と経産省--未来図の違い

文部科学省の科学技術政策研究所が、今後30年の「技術予測調査」の結果を発表したそうだ。今日(5月14日)の『産経新聞』が1面トップで報じているが、これが『朝日』(5月4日)の伝えた経済産業省の「技術戦略マップ」(5月4日本欄参照)とどういう関係なのか、と考えてしまった。というのは、両者の間に結構な違いが見られるからだ。

経産省の予測ではES細胞を利用した臓器培養移植の実用化は2015年だが、文科省のそれでは2031年。経産省が2015年に予測する二酸化炭素の地中固定の実用化は、文科省の予測では2025年と悲観的だ。が逆に、経産省が20年後の2025年にも実現しナイとする立体映像テレビは、文科省の予測では2023年には「一般化する」というのである。まぁ、未来予測というのは「当らない」のが相場だろうが、両省が似たような技術を扱っていることを考えると、この10~15年の開きというのは何か別の意味があるような気がする。

誤解のないように付言すれば、この2つの予測は両省の職員だけで行ったのではなく、外部の専門家の意見をもとにしている。経産省の場合は「大学や企業などで最先端の研究をしている300人」の予想をもとにし、文科省のものは「専門家約2200人」へのアンケート調査による。両調査のもとになったサンプル数がずいぶん違う。また、「どの程度の専門家か」というサンプルの質の違いも気になるところだ。そこで経産省が“少数精鋭”のサンプルを使い、文科省が“平均的”サンプルから結論を得たと考えると、何となく両者の違いに納得がいく。“少数精鋭”の研究者や技術者は、自分の専門分野に関して、普通より大きな可能性を知っており、さらに「新技術を早く実現させたい」との希望をもっているだろうから、その希望的観測が予測に影響する。それに対し、“平均的”な研究者や技術者は新技術開発の可能性について“専門レベル”ではなく、“実用レベル”で考える傾向があるだろうから、一般的に保守的な予測をするのかもしれない。

私はそれに加えて、両省間に技術の“好み”の違いがあるような気がする。というのは、前回触れた経産省の“予測”は、「政府の研究開発予算を実現可能性の高い分野に集中投入する」ために作成したというのだから、それを知っている最先端の研究者たちは、調査に答える際に「自分の研究分野こそ可能性が大きい」と訴えたくなると思うのだ。そのバイアスが経産省の報告書作成の段階でどれだけ排除されたか定かでないが、結局、報告書の内容が補助金の行方を左右するのだから、省の“好み”がまったく含まれない内容であるとは考えられないのである。

……というような様々な憶測を加えて、私が両省の技術の“好み”を想像すると、以下のようになる。

経産省は、やはり企業サイドの監督官庁であるために、先端技術のもつ環境倫理や生命倫理の側面を考慮するよりは、産業育成や経済発展を重視する傾向があるから、ES細胞を利用した臓器培養移植、二酸化炭素の地中固定の実用化が「より早く来る」と予測している。これは、「より早く来てほしい」という意味にとらえていいだろう。これに比べ、文科省は「倫理」の問題とも関係が深いため、新技術の実用化にはより慎重なようだ。また、経産省の予測に比べ、地球環境への配慮を含んだ予測を出している。それは、2023年には水素を燃料とする自動車エンジンが開発されるとし、2031年には一人当たりのエネルギー消費量が半減すると予想している点だ。前者の予想はうなずけるが、後者はなぜそうなるのか、まったく不明である。これも「そうなってほしい」という同省の希望だと考えればいいのかもしれない。

谷口 雅宣

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2005年5月13日

人が犬に噛みつくとき

 「何がニュースか」と考えるときに、暗黙裡にジャーナリストが使うモノサシがある。それは「犬が人に噛みついてもニュースでないが、人が犬に噛みつけばニュースだ」というものだ。つまり、世の中で普通に起こる確率が少なければ少ないほどニュース価値が大きい、という考え方だ。

 この基準を、私は昔から批判してきた。なぜなら、この基準を使えば、世の中で起こりにくいこと--異常な事件、大犯罪、正視しがたい不幸な事故など--がメディアで大きく、頻繁に取り上げられることになるからだ。しかも、このグローバル化した世界では、世界中の優秀なジャーナリストが競ってそれを行い、衛星放送のネットワークに乗って、世界中の異常事件、異常事故、異常災害が繰り返し、繰り返し、一般人のお茶の間に流され続ける。その結果生まれるのは、大規模な事実の歪曲である。個々の事件や事故は、確かにその時、その場で起こっている“事実”だろう。しかし、異常事実ばかりが集められ、それがいつのニュースでも繰り返して放送され、印刷され、インターネット上に掲載され続けることによって、「稀な事実がいつも起こっている」という反事実が世界的に定着してしまうのだ。

 この大いなる矛盾を、世界のジャーナリズムが一顧もしないことを、私は嘆いていた。が最近、ジャーナリストの中にもこの問題を真面目に考えている人がいることを知って、うれしくなった。5月11日の『ヘラルド朝日』紙にニューヨーク・タイムズのジョン・ティアニー氏(John Tierney)が「自爆テロ」報道の意味を問う論説を書いていた。ティアニー氏はまず、自爆テロがもう「稀な事件」でなくなってしまったと述べ、にもかかわらず、未だにテレビや新聞が自爆テロによる悲惨で残酷なシーン、人々の恐怖や嘆きを詳しく報道することの意味に疑問を投げかけている。そういう恐怖に満ちた報道をしてきたという彼自身の経験から、その意味を問うている所が重要である。彼によれば、どんな自爆テロも、もはや意味は同じだという。「罪のない一般人にこんな残虐な仕打ちをする反対派がいる」ということ以外は、それが伝えるメッセージはもうないというのである。

 現地のジャーナリストは、もっと他の取材をしたいと思いながらも、自爆テロが起こると、上司の指示もあるから現場へ一斉に駆けつけ、同業他社の取材陣と競い合って、残酷で、悲惨で、不条理な事実を克明に記録するのだという。もうやめればいいのにと思いながら、それが何故かできない。そのことが、知らずしらずのうちにテロリストに協力することになる。なぜなら、テロの惨劇が広く報道されることで社会に「恐怖」が広がる。また、それを英雄的行為と考える少数の人々の間には「同調者」が増える。こうしてテロの目的は達成するからだ。

 結局、闇から光を生むことはできない。闇を深く抉れば抉るほど、闇は黒い口をひろげていくのである。だから、世界のジャーナリストよ、もっと明るいニュースを伝えてほしい。テロリストが10人いたら、その1万倍、100万倍の数の人々は、家族のため、社会のため、異民族のため、他宗教のために延々と努力を重ねていることを……。「人は犬に噛みつく」のではなく、「犬は最古の人の友」であることを。

谷口 雅宣

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2005年5月12日

誤訳恐るべし

出版業界には「誤植恐るべし」という言葉があるが、ニュースの世界では「誤訳」の問題はあまり重要視されていないようだ。というのは、NHKの海外ニュースの翻訳がいい加減の場合があることに時々気がつくからである。

今日(5月12日)の朝のフランス・ドゥーのニュースを、新聞を読みながら聞き流していたところ、フランス語を日本語に翻訳して読んでいる女性が、ワシントン上空の飛行禁止区域にセスナ機が誤って侵入した事件について伝えている中に「その時、ブッシュ大統領はメリーランド州でサイクリングをしていた」とか「ジョージア州で手投げ弾が発見されたのに」などというのが聞こえた。録画していたわけではないので正確な引用ではないが、確かにそういうニュアンスの日本語であった。しかし、このいずれも正確とは言えないし、2番目の例などは明らかな誤りである。これは、オリジナルのフランス語が間違っていたのではなく、日本語への翻訳の過程でチェックが甘いのだ。

当時のブッシュ大統領の居場所については、フランス・ドゥーの直前に放送されたABCニュースでは「メリーランドの自然公園に自転車乗りに出ていた」というものだ。この情報は公式のホワイトハウスの発表によるものだろうから、フランス人記者もその同じ会見で得た情報を流したはずだ。フランス語では何と言ったか知らないが、NHKで流れた「メリーランド州でサイクリングをしていた」という日本語は誤解を招く。それは「その時、大統領がホワイトハウスのあるワシントンDCから公務で別の州へ行っていて、そこでたまたまサイクリングをしていた」という解釈が容易にできるからだ。しかし、この日の『産経新聞』が「当時、ブッシュ大統領はホワイトハウス内にいなかった」と書き、『朝日』(夕刊)は「郊外に自転車乗りに出掛けて不在だった」と書いているように、ブッシュ大統領は何か公用があってホワイトハウスを離れていたのではなく、その時たまたま運動のため自転車乗りに出かけていたのである。『朝日』の「郊外」という言葉にあるように、メリーランド州はワシントンの目と鼻の先にある。

2番目の翻訳の最大の過ちは、英語の「Georgia」をアメリカ南部の州である「ジョージア州」だと早合点したことだ。このような間違いをホワイトハウス担当のフランス人記者がするはずはない。なぜなら、彼らは大統領の外国訪問の日程を知悉しているし、多くの記者は大統領に実際に同行するからだ。そして、つい数日前に「大統領の演説していた広場で手投げ弾が発見された」などという重大なことが、どこであったかを忘れるはずがないのである。その場所とは、グルジア共和国の首都・トビリシの自由広場である。グルジアを英語では「Georgia」と書き、発音もジョージアである。きっとフランス語の発音でも、この2つを区別しないのだろう。とすると「州」という言葉を付け加えたのはNHKの翻訳者であり、その翻訳者は、海外ニュース担当であるにもかかわらず、グルジアでの事件を知らなかったということになる。何ともお粗末と言えないだろうか?

まぁ、NHKに同情すれば、日本では英語に比べてフランス語の教育が遅れているから、この程度の誤訳は仕方がないのである。またフランス語のできる人は、きっと英語が苦手なのだろう。ニュースの翻訳担当であっても、日本語の新聞で自分の翻訳をダブルチェックする時間はないのだ。さらに、今日はたまたま翻訳担当者の上司は出社していなかったのかもしれない。それに、フランス語のニュースを日本語で聞くような視聴者は、きっと数が少ないのだ。だから皆さん、NHKの外国語ニュースの日本語の翻訳は鵜呑みにしない方がいいのです。

谷口 雅宣

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2005年5月10日

北朝鮮の核実験

4月2日の本欄でイラク戦争の原因について触れ、「戦争の原因は迷妄だ」と書いた。このことをもし北朝鮮との関係に当てはめた場合、どうなるだろう。シミュレーションで答えを探ってみたい。

アメリカのイラク侵攻の最大の理由が「石油」ではなく、フセイン大統領(当時)が大量破壊兵器を開発しテロ支援をしているとの米英両首脳の「誤解」だったとしよう。すると、ブッシュ大統領は、敵が抜いて撃つのを待っていては倒されるから、「相手より先に抜いて撃て」(先制攻撃論)との危機感からイラクに侵攻したことになる。この、相手をして交渉の余地のない「敵」と信じることが(つまり、圧倒的な不信感が)、今回の戦争を引き起こした--こういう論が立てられるだろう。もちろん、アメリカ側の言い分は他にもあるだろう。例えば、そもそも9・11は戦争行為そのものだから「先に抜いて撃ったのは敵方だ。我々は正当防衛をしただけ」という反論はある。しかし、その「敵方」が誰かを間違ったという事実は無視できない。

イラクよりずっと複雑だが、少し似たような状況が今、朝鮮半島にあるのではないか。かの国はアメリカ大統領の演説の中でイラクと共に“悪の枢軸”と名指しされた。その後イラクが攻撃され、政権転覆が実現した。かの国の金さんが「次はオレか」と身構えても不思議はない。彼とフセインの共通点は、双方の手法が人間不信による恐怖政治だということだ。自らの政権維持のためならば、文字通りどんな“悪”も正当化する。多くの国民を化学兵器で殺したり、強制労働で過労死や餓死させたり、麻薬の売買でも人間の拉致でも拷問でも処刑でも何でもする。それができるのは、人間を基本的に“悪”だと見ているからだ。「悪に対するには悪をもって相対せよ」というわけだ。そのような人間に「我々は善意と好意をもって君と交渉する」と言って近づいても、「よし、わかった」と簡単に納得することはないだろう。

そういう意味で、アメリカが「直接交渉はしない」と言って6ヵ国協議の再開を迫るのは理解できる。しかし、その協議メンバーのそれぞれの立場と事情が少しずつ違うので「一つの声」がなかなか出せず、状況はきわめて複雑だ。この複雑さをうまく利用して、かの国は自国の要求をできるだけ貫こうとしており、それが一部成功している。アメリカのライス国務長官は3月、“悪の枢軸”のはずだった国の「主権」を認める方針に初めて言及、そしてアメリカは先制攻撃をする意図はないと言明した。さらに今日(5月10日)の『朝日新聞』の報道では、同長官は、かの国が主権国家であることは「明白だ。彼らは国連の加盟国だ」と宣言した。このようなアメリカの態度の変化は、韓国や日本の立場に歩み寄ったとも解釈できる。が、重要なのは、かの国の金さん自身が、それをどう考えているかということだ。彼が、「核兵器の開発を進める(あるいは進めているように見せる)ことが交渉を有利に導く」と考えているならば、かの国の瀬戸際外交はまだ当分、続くだろう。

さて、かの国が実際に「核実験」をした場合はどうだろう? その影響はきわめて大きい。韓国や日本の安全保障とも深く関わってくるので、それへの各国の反応を予測することはなかなか難しい。それに、この行為は後もどりできない。つまり、「核兵器を作ってみたけど、ヤバイからやめた」というわけにはいかないのだ。だから、かの国がもし核実験をする能力が仮にあったとしても、それを行うのは“最後の手段”としてだろう。自国(あるいは金さん自身)が深刻な危機に向かっていると感じた時以外、私はこの手段に訴えることはしないと考える。これは金さんが“性悪説”を信者であるがゆえに、そう言える。性悪説の信奉者は猜疑心にあふれているから、敵に攻撃の口実を与えることは避けると思うのだ。

ではなぜ今、かの国は核実験をする準備のようなものをして見せるのか? それは、(万が一の場合に備え)アメリカの偵察能力を知ることと、日本に拉致問題を諦めさせること、韓国を宥和政策に引きつけておくこと、そして(最大の目的は)アメリカとの直接交渉だろう。

まあ、この辺のところまでは誰でも考えるかもしれない。では、戦争の危機はいつ来るのか? それは恐らく、6ヵ国協議のメンバー国のいずれかが「先に抜かなければ撃たれる」という心理状態になった時だ。最も可能性が高いのは、日本と韓国、それにかの国自身がそうなった時だ。この「撃たれる」という意識は、必ずしも直接的な武力攻撃だけを意味しないかもしれない。日本が真珠湾攻撃に踏み切ったのも、アメリカの武力攻撃が先に来ると考えたからではなく、経済封鎖でジワジワと首を絞められると考えたからだ。もう窒息死だけが残されていると考えれば、捨て身になって反撃する。だから、経済制裁の発動はよほど慎重にしなければならない。もし本当に発動するのならば、相手にとって致命的なものは避け、象徴的だが軽微なものから実行に移す。また、相手が交渉にもどる道を必ず残し、そういう自分の意図を相手に明確に伝えること。つまり、相手を手に負えない全くの“悪”だと考えないことが重要だ。注意深く相手の手の“裏”を読み、次の手を考え、徒に騒ぎ立てないことだ。

谷口 雅宣

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2005年5月 9日

梅の実の落ちるころ

夕食後の静かな時間、居間で窓に背を向けて新聞を読んでいたら、背後で突然、トーンと音がしたので驚いた。サンルームのアクリル・ガラスの屋根に小石のようなものが当り、そして小さいものが転がる音がした。一瞬「何だ!」と身構えたが、その音には憶えがある。まもなく“犯人”に思い当たった。梅の実なのだ。

サンルームの上に覆いかぶさるようにして、紅梅の古木が1本ある。祖母が還暦祝いにもらった盆栽が、地植えして育ったものだから、樹齢は40年を越えるだろう。毎年、寒風の中、他の木に先駆けて濃いピンクの花を咲かせ、我々の心を温めてくれる。否、紅梅より先にサザンカやツバキが花をつけているが、これらはあくまでも「冬の花」だ。紅梅はその色のせいか、寒中に咲いても春の訪れを感じさせる。それに続いてジンチョウゲ、ハクモクレン、ユキヤナギ、レンギョウ、ヤマブキ、ヤマザクラ、キリシマツツジと咲けば、もう春もたけなわ。桃色のサツキ、白い可憐なブルーベリーがこれに加わり、いつのまにか5月になる。そんな時、風が強く吹く夜など、花から実になった梅が落ちて人を驚かす。

この紅梅の木にはネコが登る。その理由の一つだと私が考えているのがキーウィーだ。サンルームの透明の屋根に隣接してキーウィーの棚がある。夏になり、この植物の蔓が伸び葉が繁ると野良ネコたちが近づきたがる。この話は『小閑雑感 Part 1』にも書いたが、キーウィーはマタタビ科だから、ネコにはその匂いがたまらないらしいのだ。紅梅を足がけにサンルームの屋根に上り、屋根からキーウィー棚に近づいて、その匂いをかぐ。下で読書などしている人間にとっては、それが気になって鬱陶しいので、ネコが屋根に上らないように、紅梅の幹の中途にネコの登攀を妨げるための「キャット・ストップ」なるものを工夫して設置したことがある。刀の鍔のように、ベニア板で梅の木の周囲を取り囲み、ネコの前進を阻もうというわけである。が、ネコはその上を跳び越えてしまた。金網を梅の枝に張ってみたが、それもネコの運動能力の前には無力だった。

そんなネコと人間との難しい関係が始まる前に、紅梅は実を落とすのである。もう夏は目の前だ。

薄屋根に梅の実落つや春の宵

谷口 雅宣


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2005年5月 8日

絶滅鳥の復活か?

アメリカで絶滅したとされていた鳥が、約60年ぶりに再発見された。地球温暖化防止のための京都議定書を「経済発展に不利益」として一蹴した国だから、さぞ自然破壊が進んでいると思いきや、絶滅種が再発見されるほど自然の回復力があるのだから、かの国の自然の懐の深さを感じる。

5月6日の『朝日新聞』によると、再発見されたのは「ハシジロキツツキ」という大型の鳥。全長約50cm、嘴の長さが7cmある。翼を広げた姿を上方から見ると、白い縁取りの黒い十字架のように見える大胆なデザインは、どこかタンチョウヅルを思い出させる。キツツキとしては世界最大級で、アメリカとキューバに分布するとされていたが、1944年以降、確かな目撃情報が途絶えていたそうだ。それが、この2年間にアーカンソー州の湿地帯で目撃されたという情報が相次ぎ、ビデオも撮影された。英語名は「ivory-billed woodpecker」(象牙色の嘴をしたキツツキ)といい、一説には「the Lord God bird」(主の神の鳥)とも呼ばれるらしい。キツツキという名があるが、主食は地虫(甲虫類の幼虫で地中にあるもの)だそうだ。

作家のジョナサン・ローゼン氏は、5月4日付の『ヘラルド朝日』紙に寄稿して「この発見は、鳥だけでなく我々にもある程度の希望を確かにもたらしてくれる。繁殖力のある番(つがい)が存在するかどうかは、まだ定かでない。しかし我々は、その鳥の休む古い木々をどんどん切り倒しているという罪は残るものの、まるで突然、殺戮に対する無罪判決を受けたようだ」と書いている。日本に置き換えて考えてみれば、東北か北陸のある地で突然、絶滅種トキの生息が再発見されたということか。10日から始まる「愛鳥週間」にふさわしいニュースだ。これを機会に、アメリカでの環境意識が飛躍的に高まり、世界各国と足並みをそろえて温暖化防止の努力に本腰を入れてもらいたいものだ。

谷口 雅宣

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2005年5月 7日

カリフォルニアよ、どこへ行く?

 5月3日の本欄で、アメリカ科学アカデミーがES細胞研究に関するガイドラインを策定したことに触れたが、7日の『朝日新聞』は、夕刊でES細胞を9割の確率で心臓の筋肉細胞に変化させることに日本の研究者が成功したことを伝えた。ただし、このES細胞はネズミのものだから、人間のES細胞から心筋細胞を豊富に分化させるまでには、もう少し時間がかかるだろう。とにかく、人間の受精卵から取り出したES細胞を治療目的に使おうという試みは、世界的に着々と進められている。

 そんな所へ、カリフォルニア州でのES細胞研究の中心となる公的機関がサンフランシスコ市に置かれることが決まったというニュースを、アメリカの知人が教えてくれた。『ロサンゼルス・タイムズ』が7日付で伝えたもので、同市のほか首都サクラメント、サンディエゴ市などが誘致を競っていたが、1700万ドル(約18億円)をはたいたサンフランシスコに軍配が挙がったという。それだけの経済効果を同市は期待しているわけだ。

 この機関は「カリフォルニア州立再生医療研究所」(California Institute of Regenerative Medicine)といい、昨年11月に行われたES細胞研究の是非を問う同州の住民投票の結果、設立が決まり、設置場所の選定作業が進んでいた。すでに本欄でも触れたように、ブッシュ大統領はES細胞の研究に厳しい枠をはめて、その枠内での研究のみに連邦政府の補助金の投入を認めてきた。しかし、これに不満を感じる研究者や患者は多く、特にハリウッドを抱えるカリフォルニア州では、州知事のシュワルツネッガー氏をはじめ、レーガン元大統領の夫人、俳優のマイケル・J・フォックス、クリストファー・リーブなどが再生医療の必要性を訴えたことが、ES細胞の研究にゴーサインを出す大きな力になったようだ。同研究所は今後10年にわたり、年間30億ドルの資金を州から得て研究活動を進めていくことになるから、カリフォルニア州がこれからのアメリカでのES細胞研究の中心となる可能性が大きい。

 カリフォルニア州は、アメリカでは最も自由度の高い考え方の州で、代理母や卵子・受精卵の売買も行われている。今回の決定もそのような風土を背景に下されたわけだが、予想はしていたものの、私には残念で仕方がない。この州にいる生長の家の信徒はアメリカで最も多く、アメリカ全体を受け持つ合衆国伝道本部がここにある。またサンフランシスコは、私が学生時代に1年間いたオークランドの対岸にある。まだ産まれない人間の霊魂に肉体を与えることを拒否し、彼らから奪った肉体を利用して、すでに人生の大半を過ごした人間の肉体の修復や延命治療に使う社会が、この地で成立しようとしているのだ。

谷口 雅宣

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2005年5月 6日

SUVは斜陽期に?

 生長の家の全国大会では、現在の石油やガソリンの値段の高さに触れながら“石油ピーク”が近々来るだろうという話をしたが、石油の高騰には善悪両面があるということに気がついてきた。言い換えれば、「石油等の化石燃料から新エネルギーへの移行には、市場メカニズムが重要な役割を果たす」ということだ。つまり、価格が上がれば需要が減り、代替製品の魅力が増すということだ。問題は、その市場の調整メカニズムが、地球温暖化の速度に間に合うかどうかだ。

 石油連盟の渡文明会長は先月13日、ガソリンは「1リットル130円になってもおかしくない」と発言し、さらに、平均的ドライバーの負担増は1ヵ月2000円程度だから、「消費行動にまで影響が出るとは考えられない」と楽観的な予測を示した(『産経』)。ところが、同16日にG7(先進7ヵ国財務省・中央銀行総裁会議)が石油の高騰について「世界経済の成長にとって逆風になっている」との懸念を示し、これまで増産を示してきたロシアの原油生産量の急速な鈍化が『日経』紙上で報じられ(4月23日)るなど、情勢は一向に好転しない。今月3日に採択されたIEA(国際エネルギー機関)の共同声明では、原油市場の透明性を増すこと、エネルギー源の多様化、代替エネルギー開発の必要性などが確認された。

 日米両国はこの“代替エネルギー”とは主として「原発」のことだと考えているらしい。上記したIEAの閣僚理事会に出席した中川経済産業相は、原発のことを「エネルギー安全保障と二酸化炭素削減の観点から、現実的かつ効果的」と指摘し、アメリカのボドマン・エネルギー省長官も「原発を積極的に進めるべきだ」と強調したという(『朝日』5月5日)。しかし、原発をいくら増やしても、石油を原料とした産業の問題は解決しない。同じ日の紙面には、石油化学メーカーがポリ袋の原料であるポリエチレンなどの石油製品を、1~2割値上げする方針を打ち出したことが報じられた。原油の高騰に連動して、ナフサの値段も高騰しているからだ。昨年から数えて5回目の値上げであり、値上げ幅は合計で3割になるという。

 このようにして、ガソリンやポリエチレンなどの石油製品の値段が高くなっていけば、当然それらの消費量は減るだろう。また、代替製品の開発も進む。すでに日本の大手商社各社は、ガソリンや軽油に代わる次世代自動車用燃料(GTL、DME、バイオ・ディーゼル、バイオ・エタノール)の事業化に走り出している(『朝日』4月25日)。
そして、石油に依存した現代の社会構造もゆっくりと変化していくことになる。5月5日の『ヘラルド朝日』紙に、その傾向を示す興味ある記事が載っていた。

 アメリカの消費者が、ガソリンの燃費が悪いSUV(多目的スポーツ車)離れをし始めているというのだ。今年4月の自動車のアメリカでの売り上げを見ると、トヨタと日産が売り上げを伸ばしている反面、GMとフォードは前年より売り上げが減った。GMの減少率は7.7%、フォードは5%減で、いずれもSUVが不調なのだそうだ。これに対して、トヨタは前年比21.3%増で、日産は27%も増えた。この増勢のおかげで、北アメリカ全体での自動車販売は前年より1.8%増えたというから、日本勢の“ひとり勝ち”といったところか。SUVの不調は、GMやフォードだけでなくトヨタにも見られるから、石油高騰によってSUVの全盛期は終るのかもしれない。

谷口 雅宣

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2005年5月 5日

自然界の余力

 久しぶりに山梨県大泉の山荘に来た。いろいろな事情もあって、今年初めての訪問である。

 「村」の名前まで変わってしまった。昨今流行の市町村合併のおかげで、大泉村は「北杜市大泉町」になった。私個人としては「八ヶ岳市」を希望していたが、合併の対象である自治体の中に八ヶ岳の裾野ではなく、甲斐駒ケ岳に近い白州町などが含まれていたために、こうなったらしい。まぁ、“よそ者”としては地元の決定に文句を言うつもりはない。有難いことに今年2度目の花見ができる。ソメイヨシノだけでなく、山桜も八重桜も枝垂れ桜も同時に咲いている。シバザクラ、スイセン、レンギョウ、チューリップ、ユキヤナギ、タンポポ…… You name it! 以前、北海道の人が、「こちらでは春も夏も一緒に来ます」と言っていたことを思い出した。

 「今年は春が遅い」と言われていたので、雪をかぶった八ヶ岳や甲斐駒ケ岳を想像していたが、「残雪わずか」という感じだ。山荘のある高地では木々が一斉に芽吹いていて、春光の中で黄緑の美しさを競っている。そんな自然を満喫しようと各地から訪れた人々の車が、町の道路をひっきりなしに通る。普段の交通量を知っている者には、「ここは都会か!」と思わせる。生長の家の全国大会後にここへ来ると、GW前半に訪れた人々が山に入って山菜を大分採ってしまうので、“残り物”を探すことになる。特にタラノメは判別しやすく美味であるため、ほとんど「採りつくし」といった感じになる。私の山荘のすぐ裏にはタラの若木が何本も生えているが、去年は無残なものだった。

 そんなわけで、今回もあまり期待をしないで山荘へ来たのだが、不思議なことに、その山荘の裏に限ってタラノメが10個前後も手つかずで残っていた。周囲はことごとく“坊主”になっていたのに、である。きっと山菜採りに来た人が、「ここは家人のために残しておこう」と仏心を起してくれたに違いない。感謝いっぱいである。

 植物の新芽を摘むことは、その植物の成長を阻害する行為であることは否めない。しかし、自然界で生きる生物は成長力が旺盛であり、少々の“阻害”があることを予定して、それを上回る成長をする。そういう成長の「余力」の部分を他の生物がいただくことで、自然は豊饒なバランスを維持している。タラノメを採るときも、その原則を忘れてはいけない。「新芽の部分を指先で持って折る」のがいい。刃物を使って芽の部分を“根こそぎ”に切り落としてしまうと、次に出る予定の芽が出なくなる。芽から下の幹の部分から伐るなどというのは、邪道中の邪道だ。また、翌年のことを考えて、背の低い木の芽などは採らないで残しておく余裕がほしい。

 人間による山菜採りの勢いよりも驚いたのは、シカの被害である。山荘周辺の森には、タラ以外にもコシアブラやハリギリなどが生えていて、去年の秋、コシアブラの若木にヒモを結んで判別しやすくしておいた。ところが、こちらの方はほとんどがシカに食べられていた。人間とシカの違いは、採られた跡を見るとすぐ分かる。人間は切ったように採るが、シカはそれこそ「丸かじり」である。切り口が割れていたり「皮つき」だったりする。また、折れたまま片方にぶら下がっているのもシカの仕業だ。

 山菜にする木よりも“深刻”なのは、栽培種の木である。庭に植えたリンゴ、ライラック、ヤマボウシ、ゴールデンアカシア、ブルーベリーなどの被害はある程度覚悟していたが、本来土地の木であるモミやイチイなどの若木が無惨に皮を剥かれている姿は痛々しい。今年は雪が多かったため、シカも食糧を求めて必死だったのかもしれない。シカの数は日本各地で毎年増えていると聞くから、自然界の「余力」と、それに基づいたバランスが今後どうなっていくのか心配だ。

谷口 雅宣

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2005年5月 4日

経済産業省の未来予想

経済産業省が、今後10~30年先の科学技術の進歩を予想する「技術戦略マップ」というのを作ったそうだ。『朝日新聞』が5月4日の紙面で伝えている。大学や企業の現場にいる研究者や専門家300人の意見をもとにしたというが、これを使って政府の補助金を実現可能性の高い分野に集中するというのだから、科学技術の将来に関心がある者としては黙っていられない。

この文書の予想では、家庭で起きる最大の変化は「ロボットの普及」だという。自走式掃除ロボットと、家具や小物を動かすロボットのコンビが掃除を引き受け、体の不自由な人の移動を介護ロボットが助けるという。ちょっと待ってくださいな。介護の必要を減らすために筋肉トレーニングを推奨するという方針は、どこへ行ったのですか? 人間が家庭で、できるだけ筋肉を使わずに生活することが進歩であり、そのために我々の税金を集中的にロボット開発に投入するのですか? そして、介護が必要な状態になったら、介護ロボットを雇うのですか? そういうことを1省庁が決めていいのですか?

予想されているような空前の高齢化社会が到来すれば、この種のロボットの需要が喚起されることは確かにあるだろう。しかし、そういうロボットの費用を支払う原資はどこから来るのだろう。人件費の削減のためのロボット導入でなければ意味がないから当然、介護ロボットは人間による介護の費用より安くならねばならない。また、人間的な側面が欠けた介護ロボットを、将来のお年寄り(つまり、私のような団塊の世代の人間)が歓迎するとの前提がなければならない。私には、その両方の前提が疑わしく感じられる。私だったら、そんなロボットよりもフィリピンあたりから来てくださる血の通った介護人から、彼の地の話を聞いたりしながら晩年を過ごす方がいい。

また、同文書は温暖化ガス対策のことにも触れていて、2015年には、CO2を回収して地中に貯留するための事業が本格化すると予想するが、これにも「オイ、オイ、オイ……」と言いたくなる。経産省であるならば、なぜ「火力発電に代わってクリーンな原子力発電が主流となる」と書かないのだろう。原子力発電はすでに長い実績のある技術だが、地下にCO2を貯留する技術は、まったく実績のない技術である。それを敢えて“希望の星”とするということは、逆に考えれば、監督官庁である経産省も原子力発電を見限ったということか。また、ムラムラと疑問が湧いてくるのは、太陽光や風力などの自然エネルギーの利用について監督官庁はやる気がないのか、ということである。

CO2を地中に貯留するという計画は、現在のような大量のCO2発生源をそのままにして、そこから出るCO2そのものを地下に固定するという考え方だ。これは、自然界の炭素固定機能(つまり、すべての生物)を使わずに、炭素を直接地下に埋める方法だから“効率的”と思われがちだが、私は反対である。理由は、自然からまったく学んでいないからだ。こういう人間中心主義的考え方の延長線上に現在の地球環境問題があるというのに、その“元凶”を温存して問題が解決すると考えるのは、最低限に言っても論理的でない。

最近、アメリカの外交専門誌『Foreign Affairs』に、このCO2の地中固定を推進しろという内容の論文が掲載された。この筆者の言い分は、京都議定書も自然エネルギー利用も原子力発電も温暖化防止には望みが薄いから、この方法で対処する以外にない、だから多額の政府補助を要請する--というものだ。地球環境問題の解決に関して、現在の経産省がそんな投げやりな気持であるとは思いたくないが、業界優先の体質がこれほどだとは知らなかった。

もう一つ気になったのは、この文書では2015年までに、ES細胞の利用による人工的な臓器や組織の移植が、心筋細胞や肝細胞で実用化すると考えている点だ。さらに2025年には、骨などの他の器官も人工培養が可能になるとしている。経済産業省は、まだ生まれぬ生命を大量に犠牲にして、老人の延命治療を行う社会を本気で実現させようとしているのだろうか? 繰り返しになるが、私はそんな社会に生き続けることは御免こうむりたい。

谷口 雅宣

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2005年5月 3日

ES細胞研究のガイドライン

 生長の家の4つの運動組織の全国大会(5月1~3日)が終了して、ひと息つくことができた。3日目の青年会全国大会では、本欄(4月26日)に書いた動物と人間のキメラの話を引用して、人間が肉体の存続に今後ますます執着を深めていくと、どれほど危ない世界が来るかを訴えた。ES細胞などの専門的な言葉を使ったので、若い人々にどの程度理解してもらえたか定かでないが、現代の科学技術の“気味悪さ”は感じてもらえたと思う。

 その時、触れなかったことがある。それは、アメリカ政府がES細胞などの幹細胞を扱う際の取り決めを制定できないでいる中で、アメリカ科学アカデミー(The U.S. National Academy of Sciences)が最近、独自のガイドラインを発表したことだ。話が細部にわたり、専門的になりすぎると思ったからだ。ES細胞に関する従来からのブッシュ政権の態度は、明白だ。それによると、ES細胞は受精卵を破壊することで初めて研究や利用ができるから、「破壊するために人間の命を作る」ことは倫理的に許されないと考え、すでに存在するES細胞の利用は認めても、新たに作成するものを使った研究には、合衆国政府は補助金を出さない--という方針。しかし、すでに書いたように、政府の補助金なしで行うES細胞の研究は着々と進んでいて、種々のキメラが誕生しつつある。その結果、人間か動物か判別できないような生物が誕生する恐れが増大しつつあった。

 このほどまとまったアメリカ科学アカデミーのガイドラインは、そういう倫理的に混沌とした科学研究の方向性に一定の“枠”をはめたという意味で、意義あるものだろう。ガイドラインでは、研究者はES細胞を人間の受精卵に注入することと、サルやチンパンジーの体内に入れることはできないとしている。これまでは、前者の方法による遺伝子治療が期待されていたが、その選択肢は狭められた。また後者は、人間への臨床試験の一歩手前の実験を行うものだが、今後はそれも難しくなるだろう。ただし、この基準には法的拘束力がないから、違反を承知で行われる研究を止めることはできない。

 上記の2つを除けば、ES細胞の研究は各種の方法が許されることになる。例えば、私が短篇小説「捕獲」と「捕獲2」の中で描いた“人間の脳をもったネズミ”の作成は禁じられていない。また、私が反対している「受精卵や死亡胎児の研究のための利用」は、今後もアメリカでは続けられていくことになるだろう。

 ガイドラインは、その他、以下のことも定めた:①治療目的のクローニングの研究のために卵子の提供を受ける場合、実費以外の徴収を禁じる、②研究室内では、ヒトの受精卵は(中枢神経が形成され始める)14日を越えて培養することができない、③ES細胞研究に従事する研究機関は、個々の研究の是非を判断し、研究過程をモニターする監督委員会を設置する必要がある。①は、卵子が売買の対象となることを防ぐためだろうが、現実に1個50万円前後で売買されているという事実をどう捉えているのか、定かでない。②では、成長する受精卵をどの時点から“人間”と見なすかという一つの基準として、中枢神経系の成立を考えたということだろう。が、この基準と、人工妊娠中絶が可能とされる時期とが大きくズレているから、今後の論議の対象となるかもしれない。③は、当然と言えば当然だが、この件に関して合衆国政府が何も基準を示していないことを考えると、アメリカでは今後も、生命倫理の問題が個々の研究機関の自由裁量に任されていく、との危惧も生まれる。

谷口 雅宣

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