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2005年4月16日

天童から

生長の家の講習会のため、山形県天童市に来ている。天童市は将棋で有名だが、人を駒として使う“人間将棋”はサクラの開花をにらんだ来週ということで、今日の町は比較的静かである。満開を過ぎた東京から、雪の残る山の斜面を列車の両側に見てこの町につくと、日本も案外広いとの感想をもつ。

“将棋の町”らしく、特大の「王将」の駒を象ったホテルの看板がいくつも立っていたり、表通りの歩道に詰め将棋のタイルが貼ってあったり、将棋駒の製作実演が見られる場所がある。私の泊まったホテルでは、ロビーで数組の若者が熱心に将棋を指していた。そんな様子を見ていると、かつて中・高生のころに私自身が将棋に凝っていたことを思い出して懐かしくなった。

中学生の頃は教室にまだダルマ・ストーブが入っていたが、授業の合間に将棋を指していた友人が、勝負の途中でやめるわけにいかず、厚紙製の将棋盤に駒を載せたまま、机の引き出しに滑り込ませていたのを憶えている。ところが、授業が始まり、先生が教科書を読みながら室内を回ってきたときにそれを見つけ、授業中に将棋の次の手を考えていたと思ったのか、生徒の机から駒の載ったままの将棋盤を引き出すと、つかつかとダルマ・ストーブの前へ行き、石炭のくべ口を開け、燃え盛る炎の中に将棋駒をすべて流し込んだ。あれよあれよという間に、である。その頃の私は、毎朝の新聞から棋譜だけを切り抜き、それを画用紙に貼っていた。新聞のスクラップは現在も続けているが、もちろん棋譜を切り抜くのではなく、本欄に書くような時事関係の記事等を切る。今思い起こすと、私はこの時、初めて新聞の切り抜きを始めたのだろう。

天童市には「広重美術館」というのがある。この「広重」とは、有名な浮世絵の広重である。恥ずかしい話だが、私はこの歳になるまで「広重」とは、安藤広重とか歌川広重という江戸後期の浮世絵師個人の名前だと思っていた。が、そうではなく歌舞伎の「歌右衛門」とか「団十郎」のように、「広重」も襲名されることをこの美術館で学んだ。つまり、広重には三代目も五代目もいるのである。天童市にこの美術館があるのは、初代広重(1797-1858)が天童織田藩の財政を助けるために、当地へ来て(版画ではなく)肉筆画を数多く描いたからである。彼の当時の一連の作品を「天童広重」と呼ぶのだそうだ。広重の版画は教科書等で何枚も見ているが、手刷りの大版で見ると迫力がまったく違う。肉筆画が見れたのも収穫だった。

興味のある方は、以下のURLへ:

http://www.takinoyu.com/hiroshige/

谷口 雅宣
(April 16, 2005)

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