« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »

2005年4月27日

運転士の心理状態

JR宝塚線の脱線事故による死者の数が100人を超えそうだという。判明する死者の数が日ごとに増えるこの事故は、本当に悲惨な様相を呈してきた。犠牲者のご冥福を祈るとともに、ご家族や関係者の心痛を思うと、事故の本当の原因をしっかり検証し、再びこのような惨事が起こらないような予防策を講じてもらいたい。

この「原因」に最も近いところにあるのが、運転士の心理状態だろう。列車も自動車も同じと思うが、無茶な運転をすれば、どんなに安全設計をほどこした乗り物であっても事故は免れない。また、安全性をあまり考慮していない乗り物でも、それに乗る人間の心理状態が安定しており、かつ熟練された乗り手ならば、(サーカスの綱渡りのように)、事故を起さずに目的地に行くことは珍しくない。だから、“その時”の運転士が何を最も重要と考え、何を重要と考えなかったのか、あるいは考慮しなかったのかという点の解明が重要になるのだろう。

これまでの報道による限り、問題の電車の運転士が、列車の安全を重要視しなかったことは容易に想像できる。事故現場の手前の駅で40メートルもオーバーランしたこと、その事実を車掌に隠してもらおうとしたこと、オーバーランによる約1分半の遅れを取り戻そうとして、制限速度70キロのカーブに100キロのスピードで突入し、カーブの途中で急ブレーキをかけたこと……これらがもし事実とすれば、運転手は「定刻通りの運行」を最優先し、列車の安全性を後回しにしたと考えるほかはない。が、分からないことが一つ残る。

それは、事故現場手前の伊丹駅で、なぜ定位置より40メートルも先に停車したかということだ。4月27日の『朝日新聞』によると、この23歳の運転士は過去3回、処分を受けていたらしい。それも、車掌から運転士になって1ヵ月後に約100メートルのオーバーランをして訓告処分を受けているのだ。車掌時代にも、相棒の運転士がオーバーランしたときに、車掌として引かねばならない非常弁を引かなかったことで訓告を受けている。ということは、彼は運転時にオーバーランをするような心理状態になりやすい性格であるということだろう。

私は列車の運転については何も知らないので想像する以外にないが、自動車の運転と比べて考えてみると、赤や黄色の信号で停まるときに、停止線を越えるような、あるいは交差点にまで出て停まるような運転をするのは、やはり先を急いでいるときだ。また、急いでいなくても、前方に注意が十分向かっていないときも同様の結果になることがある。最も危険なのは、先を急いでいながら、前方に注意を払っていない場合だろう。今回の事故は、どうもこの最後のケースで起こったような気がしてならない。問題は、彼はその時、なぜそういう心理状態だったかということである。

私はもちろん心理学の専門家ではないが、彼の過去の失敗の例から考えて、ADHD(注意欠陥多動症)の疑いを感じる。彼はまた、テレビやパソコンのゲーム好きではないだろうか。すると、運転士の適性検査の際、JRがADHDの有無を調べるかどうかが問題になる。多分、調べているだろうが、程度の問題でパスしたのかもしれない。もしADHDでないならば、前夜寝不足だったとか、居眠りしていたとか、車掌とベラベラ話をしていたとか、そんな理由だろうか……。それにしても、自分が何百人もの人間の命を預かっているという自覚が欠けていたことは事実だろう。

谷口 雅宣

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2005年4月26日

人間の脳をもつネズミ

 私の短篇小説集『神を演じる人々』(2003年、日本教文社刊)に書いたことが、本当に実現しそうな様相になってきた。人間の脳をもったネズミを作る計画が進行中なのだ。

 3月12日付のイギリスの新聞『The Telegraph』の伝えるところでは、米カリフォルニア州のスタンフォード大学の癌・幹細胞生物学研究所(Institute of Cancer/Stem Cell Biology)のアーヴィン・ワイズマン教授(Irving Weissman)のグループは、中絶された胎児から採った幹細胞を使って、脳が100%人間の細胞からなるネズミを作る計画を大学に提出し、大学の倫理委員会はこの2月下旬、その計画を承認した。ただし、「もしネズミが人間に似た行動--例えば、記憶の増幅や問題処理能力の向上--を見せたならば、計画を中止する」という条件つきだ。ワイズマン教授は、昨年10月にワシントンで行われた公聴会で、このネズミは他のネズミと変らない行動をするだろうし、もし人間に似た兆候が見えたらすぐに処分すると証言した。

 異種の動物の細胞や器官が混じったものを「キメラ」というが、キメラはすでにいくつも(あるいは何人も)存在する。過去に於いて、ミネソタ州の診療所で人間の血液をもったブタがすでに作られているし、昨年はネバダ大学で肝臓が80%人間のものである移植用のヒツジが作られた。また、ブタの心臓などの臓器を移植した人間の数は多い。ワイズマン博士の研究グループは、すでに人間の脳が1%混じったネズミの作成に成功しているので、第2段階の実験に入ったということだ。目的は、パーキンソン病やアルツハイマー病の治療に幹細胞がどう役立つかを研究するためという。

 この種の科学技術の“暴走”をどこで止めるかの決定は各国の政府に委ねられているものの、なかなか進んでいない。技術の進歩に社会が追いつけないでいるからだ。4月21日付の『ヘラルド朝日』紙によると、カナダは昨年、すべてのキメラの制作を禁止する決定をした。アメリカ合衆国は今年2月、特許事務所からの議会への問い合わせに答える形で、人間とチンパンジーの体を混ぜ合わせた“ヒューマンジー”の特許の申請を却下したという。この特許は、すでに7年前に申請されていたものだ。申請者はニューヨーク医療大学のスチュワート・ニューマン教授(Stuart Newman)で、同教授はこの化け物を実際に作るために申請したのではなく、倫理的には疑問が多いが技術的には可能なこの種の科学的研究について、人々の注意を喚起するためだったという。

 その間に、タフツ大学の生物学者は、乳癌の治療の研究のために人間の乳腺細胞をもったネズミを作成した。また、ネブラスカ州の研究者は、体内に人間の免疫系と肝臓をもったブタを作ろうとしている。特定の患者の臓器をブタの体内で培養し、人間の側で手術が終った後に、ブタの体内の臓器を移植すれば、拒絶反応のない安全な移植が可能になると考えているのだ。

 ところで、前記の私の小説(2002年12月記)では、ES細胞の品質検査のために使われたネズミの胚から、人間の脳をもったネズミが成長する、という設定になっている。時は2005年、場所は北カリフォルニアのUCバークレー(カリフォルニア大学バークレー校)である。小説の主人公は、自分の作ったそのネズミを見て「ネズミの形をした人間」だと考える。しかし、上記のワイズマン教授は、同じものを「人間の脳をもったネズミ」だと考えている。前者の場合は、それを処分すれば殺人になるが、後者の場合はそうならない。さて読者は、どちらと思われるか?

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月25日

技術の落し穴 (2)

現代文明は人間に便利さを提供したというが、「本当だろうか」と疑いたくなることがある。私は若いころ「便利は善なり」という単純な楽観主義にあまり疑問を感じなかったが、最近はしばしば「便利に裏あり」と考えるようになった。便利さをもたらす技術の裏にある、人間の「動機」について思いをめぐらせるようになったからだ。ある技術が、善悪両面の目的に利用できることはしばしば指摘されていることだが、それでも技術開発をやめろとか、ある種の技術は開発を諦めよう、などという話にはなりそうもない。

ウイルスバースターの被害は凄まじかった。この凄まじさの大きな原因は、ネットへの「常時接続」という極めて便利な技術のおかげである。個人のADSLの利用や企業内のLAN経由のネット接続が大々的に展開されていたから、ウイルス・パターンファイルの「自動更新」という考え方が生まれたのだ。私は、いまだに不便な「ダイヤルアップ」の接続方法を利用しているから、ウイルスバスターを使っていても今回の被害には逢わなかった。ダイヤルアップで自動更新を選択すると、接続時にパソコンの反応がいやになるほど遅くなる。だから、自動更新の機能は使わず、自分で決めた時に手動でパタンファイルの更新を行っている。

私が常時接続を使わない理由は、ウイルス感染の危険が増大するからだ。ウイルスだけでなく、ネット上の“なり代わり”の被害に逢う確率も常時接続により増大する。私は、このダイヤルアップによるネット利用であっても、すでに何回もウイルスの被害に逢っているから、ネット業者の「便利さ」の売り込みにも簡単に乗らなかった。もう一つ「怪しい」と思っているものが、無線によるネット接続である。これは、いつでもどこでもネットにつなげるから、善人だけが存在する社会ならば、これほど便利な方法はない。が、ご存知の通り、無線は常に“盗聴”の危険を伴う。今日の“ネット販売”(またまた便利な方法)の隆昌を考えると、この“盗聴”とは、ネット上の“なり代わり”だけでなく、クレジットカードや銀行の預金情報の略取に直結する。

ダイアナ妃の例を出すまでもなく、携帯電話の盗聴はすでに数多く行われてきたが、この分野でも、技術の便利さは悪用による不便さによって食いつぶされそうだ。現在、ケータイでは盗聴を防ぐために「暗号化」の技術が使われているが、ここでも悪用者による「解読」とメーカー側の「暗号の強力化」のイタチごっこが続いている。25日付の『ヘラルド朝日』紙の伝えるところでは、これまでの携帯電話による会話の暗号化は、暗号カードや暗号チップのような機械(ハードウエア)によるものが主流だったが、先月、スロバキアの会社が発表した暗号化はソフトウエアによるものという。

しかし、この電話の盗聴に関しては、もう一段、複雑な問題がある。それは、犯罪防止と取締等の目的で、警察による盗聴は世界各国で合法化されているということだ。つまり、あまり完璧な暗号化の技術は、それが“悪”なる目的に使われた場合は、社会にとって有害になるからだ。技術というものは、かくも節操のない存在である。状況如何によって、善になびいたり、悪になびいたり……。

谷口 雅宣

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年4月23日

技術の落し穴 (1)

 「便利なものは良い」という常識には大きな“穴”があるようだ。特に、高度技術がそれを開発した国以外のところへ輸出されると、いろいろな問題を起しやすい。4月23日の『朝日新聞』によると、家族以外の女性の素顔を写真に撮ることがタブー視されているアラブの国々では、カメラ付き携帯電話が問題になっているという。日本の技術がイスラム社会に波紋を起しているわけだ。

 サウジアラビアでは、従来は「女性のプライバシーを守るため」などの理由で、このカメラつきケータイの販売を禁止していたそうだが、昨年12月にこれを解禁した。というのは、すでにヤミで大量に出回っており、またケータイの趨勢がカメラつきに移行していたからだ。ところが無断撮影が頻繁に行われたり、ポルノ写真が流通され始めたばかりか、男が17歳の少女をレイプする様子をケータイで写した写真がメールで流されたため、今年1月、男2人が鞭打ち1200回の刑を受けたという。同じ記事では、似たような問題を抱えるクウェートでは、ケータイで無断に他人の写真を撮った場合、懲役2年または罰金2千ディナール(約74万円)を科し、その写真をメールで流通させた場合は懲役5年とする法案が可決されたという。

 「どこでも写真を気軽に撮れて迅速に送る」という撮る側の便利さが、撮られる側にとっては、逆に大いなる迷惑を生じさせているわけだ。この問題は、当の開発国、日本でも本質的に変わらない。温泉やトイレで有名人や女性を組織的に隠し撮りする事件が相次いでいるからだ。24日の『日本経済新聞』によると、参院自民党は、カメラつきケータイによる隠し撮りを罰する「盗撮防止法」をつくる目的で、参院政策審議会に作業チームを設置したそうだ。開発者が、開発当時にこの問題を真剣に考えたかどうかは、きわめて疑わしい。もちろん、シャッター音を人工的に付加するなどの処置は講じているが、ケータイにつけたカメラの解像度がどんどん上がっているのは問題だと思う。解像度を上げれば上げるほど、悪用者にとっての悪用の魅力も上がってくるからだ。

 ケータイには、これと似たジレンマがある。それは、自動車運転中のケータイ使用である。科学的な検討では、この行為が危険であることが証明され、罰則によってこれを禁じる法律もできたが、運転中のケータイ使用はまだよく見かけられる。だから、盗撮防止法の制定も、根本的解決にはならないと私は思う。

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月22日

法王として飛ぶ?

4月4日の本欄で新しいローマ法王を選ぶコンクラーベのことを書いたが、その時、「名前が上がっている人」として列挙した枢機卿のすべてが見事に外れた。まあ、「誰が選ばれるかは予測しない方が賢明」と書いた通りになったわけだ。メディアに出ている「解説」も、この予想外の選挙結果が、今後のローマ・カトリック教会、ひいては世界のキリスト教全体にどのような影響を与えるかについて喧しい。今回は、21日付の『ヘラルド朝日』紙のいくつかの解説記事から、その様子をお伝えする。

今日のカトリック教会はヨーロッパで衰退し、ラテン・アメリカやアフリカで発展していると書いたが、この現状を前提にして今回の選挙結果を見ると、「途上国での発展をさらに伸ばす」というよりは、「ヨーロッパでの衰退を食い止める」との意気込みが感じられる。新法王、ベネディクト16世はヨハネ・パウロ2世の側近中の側近で、しかもドイツ人。バチカンの内部事情に通暁しているだけでなく、かなり思い切った人事も行ってきたという。カトリック教会の伝統的な教えに忠実で、一部に“カトリック原理主義”との表現も見られる。新法王は、以前からヨーロッパや北アメリカの状況を「攻撃的な世俗主義」が拡大していると見て危険視していた。今回、コンクラーベが始まる直前の説教でも、彼は他の教派のことを「漠然とした宗教的神秘主義」とか「融合主義」とか「新教派」と呼んで警戒していたそうだ。だから、今後もカトリック教会の優越性を主張する可能性が高いという見方がある。

が、その一方で、ベネディクト16世は、法王となった最初のミサで、キリスト教会の結束と他の宗教との対話を訴えた。自分の第一の仕事は「すべてのイエスの信仰者の間の、例外のない、目に見える結束」(full and visible unity of all the followers of Christ)を実現することだと言い、「世界教会主義を根本目標として推進する」(to promote the fundamental cause of ecumenism)ことを宣言した。そして、他の宗教に対しては、「開かれた誠意ある対話」(an open and sincere dialogue)を継続するとも述べた。法王となる前の彼の生き方が、伝えられている通りのものならば、少し失礼な表現だが、“ひと皮むけた”と言うべきなのか……。

人間は責任ある地位につくと、以前とは人が変わることがある、とはよく言われることだ。が、新法王は旧法王の側近で、教義判釈という重要な仕事をしていたから、責任のない地位にいたわけではない。今回、カトリック教会の頂点に立ったことで、以前の自分からどれほど高く飛翔できるか--“部外者”としては、そういう期待を込めながら、とりあえずは「お手並み拝見」と傍観するほかないのかもしれない。

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月21日

カイコの巨大な繭

長さ35センチの巨大な繭をカイコに作らせた人の話が、今日(4月21日)の『朝日新聞』に載っていた。エッと驚いた。またもや遺伝子操作の産物かと思ったら、さにあらず。ある特殊な条件に置かれると、そういう繭をつくるカイコが昔からいるというのだ。

カイコは蛾の幼虫で、成虫は正式には「カイコガ」という。人間がこれを飼って絹繊維を採ることは、4~5千年も前から行われてきて、かの『魏志倭人伝』にも養蚕の記述があるという。人間による“品種改良”が延々と行われてきたから、1個の繭から長さ1500メートルという驚異的な量の絹糸を生産できるようになった。が、その一方で、人間の手によらなければ繁殖できないものがほとんどという。これは、栽培種の農産物と似た状態だ。幼虫は行動範囲が狭く、餌がなくなっても這い回ることもなく、成虫のガは飛ぶ力がないから、1メートル以上離れたところにいるオスとメスは交尾ができない。また、糸を多く取るために“改良”された厚い繭を作る種類の品種は、自分の作った繭を食い破る力もないそうだ。そして、一度病気にかかると、回復の望みはないという。

今回“開発”されたカイコは、群馬県蚕業試験場の主任研究員をしている小林初美さん(52、男性)の作品。安い外国産絹糸に押されて衰退しつつある地場産業の再生を期して、巨大繭の作成に挑戦したという。品種改良を重ねてきたカイコガを大きな球形のダンボール箱の中で飼育して繭を大きく作らせようとしたが、箱の隅に集まって小さな繭をつくるだけだった。悩んだすえ考えたのは、改良種ではなく在来種で、糸を周囲に吐き散らす厄介者の「又昔」という種を80匹箱に入れること。すると各自が箱の中で足場を求めて這い回り、糸を周囲に吐き散らして、ついに一つの巨大な繭を作ったという。まあ、在来種といえども品種改良が行われた種類だが、吐く糸の量を極端に増やそうとした品種からは、這い回る力も失われたということだろう。

在来種は共同作業で大事業を達成したが、改良種は個々バラバラに小さな繭を作ることしかできなかった--こう考えると、ピラミッドや仁徳天皇稜を建設した昔の奴隷や労働者の影と重なるが、それは擬人法が過ぎるというものか。

ところで、繭から絹糸を採るには、中のサナギがまだ眠っているときにグツグツ煮るらしいが、この巨大繭にはそんなことをしないでほしい。それより、中の80匹がいつ、どうやって繭を食い破って出てくるか知りたいものだ。ある月夜の晩、35センチの白いラグビーボールのような繭から1匹が頭を出し、羽を開きながら飛び出したかと思うと、続々と白いガたちが同じ穴から飛び出していく……あるいは、ラグビーボールの80箇所から一斉に穴が開いて飛び出していく。いずれの場合も、見事な光景ではないだろうか。

谷口 雅宣

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年4月20日

中国経済の矛盾

 中国が反日デモの抑制に本腰になってきたことは朗報である。中国政府の中にも“良識派”がいることの証だろうが、いろいろな意味で、中国の抱える矛盾がこれによって露呈してきたとも言える。中国の日本不理解や国際常識の欠如の問題はさておいて、経済的側面について考えてみよう。

 中国は一応、社会主義なのであるが、資本主義と自由主義経済の制度を相当取り込んでいる。このこと自体が矛盾であるから、“歪み”が出ることは仕方がないだろう。今回、反日デモが起こった上海、天津、広州などの都市は、現代中国経済の言わば“火の玉”である。4月20日に中国国家統計局が発表した今年1~3月期のGDPの実質成長率は、前年同期比で実に「9.5%」である。政府の今年の生長目標が8%であることを考えると、“燃えすぎ”といえる。固定資産投資は22.8%増、うち不動産投資は26.7%増、海外からの対中投資は9.5%増、個人消費の伸びを示す社会消費小売総額は13.7%増、消費物価上昇率は2.8%増という。(21日付『産経』)

 これだけの勢いで経済成長が進んでいれば、中国人労働者はその“果実”を享受していると普通は考える。もちろん、一部のエリートはその通りであるが、中国人全体は必ずしもそうは言えないようだ。20付の『ヘラルド朝日』紙によると、この経済発展の基地となっている中国南東部では、実に200万人分の労働力が不足しているというのだ。それならどんどん雇えばいいじゃないか、と普通は思う。が、経営側は「誰でも雇う」わけではない。特に、海外から進出してきている企業にとって「マネージャー」や「熟練労働者」は“金の卵”だが、このエリート達はすぐに給料の高い他の企業へ行ってしまう。中国南部の労働者が同一の仕事についている期間は、平均して2.1年という。ならば、普通の労働者はできるだけ安い給料で、厳しい条件下で雇うことになる--若くて、移動性があり、長時間労働をし、家族と離れて働ける人々……というわけだ。

 こういうことを考えれば、中国で貧富の差が拡大しつつあることの理由が分かる。労働者間の平等を重視する“社会主義国”が、こういう状態だ。また、“社会主義国”であるがゆえの、余分のコストもかかるらしい。それは労働者の給料に見合った「社会的費用」で、社会保険税、医療税、住宅預金等を指す。これらを総合すると給与額の40~50%に当るというが、これを企業側が支払わねばならない。だから、「人件費が安い中国」という伝説は、少なくとも中国東南部の諸都市においてはしだいに失われつつある。先週、広東州の新聞が報じたニュースでは、ある出版社では維持管理要員を雇わねばならないというので、年収1万8千ドル(約210万円)を提示したという。この額は、博士号をもつプロの年収の何倍にもなるらしい。

 というわけで、一部の中国人--とりわけ経済発展の目覚しい南東部の都市周辺の中国人の間に、不満が高まることは十分考えられる。その不満が、「愛国無罪」の標語とともに日本の政府機関や企業に捌け口を求めたと考えることは、あながち不合理ではないだろう。もちろん破壊活動は、それによって正当化できるものではない。が、政府に都合のいいように教育された多数の労働者を抱える中国に、わざわざ“生贄の羊”を与えるような外交政策が賢明と言えないことは明白だ。

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月19日

野球の多民族化

昨日は、野球が進歩しているか否かを“四割打者”の出現との関係で書いたが、その時、密かに書かなかったことがある。それは、イチローの大リーグでの活躍は、彼が日本人であるがゆえかもしれない、と考えていたことだ。もう少し分かりやすく言うと、日本の野球はアメリカの野球と相当違うと言われているから、イチローはその「違い」を有利に活用して大リーグを“手玉”にとっているのかもしれない--そんな憶測を否定できないでいた。

ところが、大リーグのことを「アメリカの野球」などと単純化して考えていたのが間違いであることが分かった。それは、大リーガーの三分の一は、アメリカ人ならぬ外国人が占めることを知ったからだ。4月19日付の『朝日新聞』によると、大リーグ機構がまとめた今シーズンの開幕時の選手出身地の集計では、登録選手829人中の29.2%に当る242人はアメリカ国外の出身者だそうだ。この“国外者比率”は、昨シーズンの27.3%を上回るという。アメリカ外出身者の最多はドミニカ共和国の91人、2番目はベネズエラの46人、3番目に多いのはプエルトリコの34人、以下、メキシコ(18人)、カナダ(15人)、日本(12人)、パナマ(6人)、韓国(5人)、コロンビア(2人)、オーストラリア(2人)……と続く。大きな傾向は、中南米出身者が増える一方で、黒人選手が減っているという。

こういう数字を考慮に入れると、イチローの活躍は「アメリカ野球に対する日本野球の進出」などではないことが分かる。“アメリカ野球”そのものが多国籍化、多民族化している。多様な民族的特徴をもった選手が大リーグに参加する中で、打率四割を記録する選手が出てきているのだ。これはもう「日本野球」などと大雑把に表現するのは間違いだ。それは“イチロー野球”であり“松井野球”であるのだろう。グールド博士が言うように、それは spread of excellence (優秀さの拡大)が起こっているのであり、やはり「野球は進歩している」と言わねばならない。こういう多様化の中での優秀さの拡大が、アメリカ社会の強みであるのだろう。

ところで、ひと昔前のことだが、ある日本の政治家が「日本社会がいろいろな意味で外国よりも有利なのは、日本が単一民族からなる社会だからだ」という意味の発言をして物議をかもしたことがある。グールド流の発想とは、いかに違う考え方か、と改めて驚かされる。

谷口 雅宣
 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年4月18日

大リーグは衰退中?!

 大リーグは衰退に向かっているのか!? 4月17日のホワイトソックス戦でのイチローの活躍を知って、私はこんな感想をもった。

 かつて本欄の前身である『小閑雑感 Part 3』で、アメリカの進化生物学者、スティーブン・J・グールド博士の死を悼んで書いたとき(2002年5月22日)、同博士の著書『フルハウス』(早川書房刊)に出てくる大リーグの打率の“進歩”の考え方を紹介した。それによると、米野球界では1941年にテッド・ウィリアムズがシーズン中、最高打率「0.406」を記録して以来、いわゆる“四割打者”は出ていないが、これは野球の進歩であって退歩ではない--こういう考え方である。理由は明快である。高打率の打者が出るというのは、守備側の投手や野手の努力にもかかわらず、一人の打者がそれを上回って打ち続けるということだから、野球全体のレベルが上がっていない証拠と考えられるからだ。逆に、ある打者の“一人勝ち”ができにくくなることは、投手も野手も実力を伸ばしていることを示し、それこそ野球の進歩と言える、というわけだ。

 ところが今シーズンのイチローは、四割の打率を今のところキープしている。それどころか、17日のホワイトソックス戦では、1回の先頭打者で0-1からいきなり本塁打を放ち、7回には中前安打した。1試合で3打数2安打1打点、しかも5回と7回には盗塁も決めている。イチローを好きか嫌いかの問題は別にして、1選手の“やりたい放題”でプロの試合が進むというのは、野球全体としてはやはり問題があるだろう。が、まだシーズンは始まったばかりだ。私はイチローのファンの一人だが、グールド博士のファンでもある。後者のファンとしては、イチローが今後、今までの好調子を維持しつづけることは難しいと考えるのだが、前者のファンとしてはぜひ、進化生物学者の鼻を明かしてほしいとも考える。

 もちろんグールド博士も、今後決して四割打者は現れないと言っているのではない。著書から引用しよう:

 「私は、これから誰も再び0.400を打つことはないと言っているのではない。ただ、そのような記録は極端に稀な--野球史の初期に結構見られたようなものではなく、多分、100年に1回来る洪水のようなものとなると言っているのだ。テッド・ウィリアムズ以来、50年も記録が涸れているという事実は、このことを示している。(中略)しかし、いつか誰かが、きっとまた0.400を打つだろう。そして、その時の記録は、以前のどの時代よりはるかに困難なものだから、それに相応しくはるかに名誉あるものなのだ。」(Steven Jay Gould, Full House: The Spread of Excellence from Plato to Darwin, p.132)

 うん、これを読むと安心する。テッド・ウィリアムズ以来すでに63年たっているのだから、四割打者出現の確率は年々高まっているのだ。それが今期のイチローでなかったとしても、来年のイチローであるかもしれないし、また、別の誰かかもしれない。記録の再来が遅れれば遅れるほど、野球の進歩が証明されるというわけだ。読者は今期、野球とイチローのどちらに期待するだろうか?

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月17日

石油高でG7対策なし

今朝の新聞各紙は、ワシントンで開かれていたG7の共同声明を一斉に報道した。が、共同声明の内容に新しいものは何もないから、取り扱いはバラバラだった。私は本欄で「石油高騰」の話に焦点を合わせて書いているので、それに関することだけを言えば、「これに対する策は当面ない」ということのようだ。

『日経』は1面で「原油価格の高騰が世界経済の減速を招くリスクに懸念を表明」と書き、4面の分析記事では、今年4月にロンドンで行われたG7との違いについて、「これまでは価格上昇は一時的との楽観論が優勢だった。だが最近のニューヨーク市場で一時1バレル60ドルに迫るなど価格の騰勢が強まり、需要急増に供給が追いつかない状況が続くとの観測が広がっている」と書いている。『朝日』はその背景について「原油高の根っこにあるのは、中国などの需要急増で供給が追いつかなくなることへの懸念」があるとし、さらに「投機資金」の動きが原油高に拍車をかけているとの見方を報じている。これが、今回の声明が「石油市場のデータの改善」を求めている理由だろう。谷垣財務相の言葉によると「原油市場の情報を明らかにしていくことが、無用な投機などを防ぐことになる」(朝日)というわけだ。

しかし、産油国にとっては、正確な石油の埋蔵量に関する情報は“国家機密”とされるという点が事態を難しくしている。共同通信は、なぜ産油国側が増産しないかの理由を「1980年代に生産能力を増強した結果、価格低迷に苦しんだ産油国は設備投資に慎重だ」と分析している。が、増産しない理由は、価格低下の懸念だけだろうか? 増産しようと思っても、埋蔵量にそれほど余裕がないのではないか? と、つい思いたくなる。「石油ピーク説」がありそうなものだと考える私としては、産油国が互いにポーカーをしているように感じるのは行きすぎだろうか。

とにかく、石油の大量消費国である日本は、このままの状態でいいはずがない。そのことは政府も十分気づいているようで、4月15日に行われた総合エネルギー対策推進閣僚会議でも、石油代替エネルギーの供給目標計画に変更が加えられた。が、変更の幅が微々たるものだったのが残念だ。つまり、平成22年度の目標として、原子力は28.1%だったのを27.6%とし、石炭は34.4%から32.1%に減らし、逆に水力を6.0%から6.7%とし、風力等の新エネルギーを6.0%から7.6%に引き上げた。16日付の『産経』によると、小泉首相は会議の席上、太陽光、燃料電池、風力、バイオマスなどの「代替エネルギーに大いに力を入れて、石油依存度の低い国に」と指示したそうだが、掛け声の割には新エネルギーの目標値は低いと思う。温室効果ガスを生み出す石炭をもっと減らし、新エネルギーはせめて二桁台の目標値を設定してほしかった。

谷口 雅宣


| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年4月16日

天童から

生長の家の講習会のため、山形県天童市に来ている。天童市は将棋で有名だが、人を駒として使う“人間将棋”はサクラの開花をにらんだ来週ということで、今日の町は比較的静かである。満開を過ぎた東京から、雪の残る山の斜面を列車の両側に見てこの町につくと、日本も案外広いとの感想をもつ。

“将棋の町”らしく、特大の「王将」の駒を象ったホテルの看板がいくつも立っていたり、表通りの歩道に詰め将棋のタイルが貼ってあったり、将棋駒の製作実演が見られる場所がある。私の泊まったホテルでは、ロビーで数組の若者が熱心に将棋を指していた。そんな様子を見ていると、かつて中・高生のころに私自身が将棋に凝っていたことを思い出して懐かしくなった。

中学生の頃は教室にまだダルマ・ストーブが入っていたが、授業の合間に将棋を指していた友人が、勝負の途中でやめるわけにいかず、厚紙製の将棋盤に駒を載せたまま、机の引き出しに滑り込ませていたのを憶えている。ところが、授業が始まり、先生が教科書を読みながら室内を回ってきたときにそれを見つけ、授業中に将棋の次の手を考えていたと思ったのか、生徒の机から駒の載ったままの将棋盤を引き出すと、つかつかとダルマ・ストーブの前へ行き、石炭のくべ口を開け、燃え盛る炎の中に将棋駒をすべて流し込んだ。あれよあれよという間に、である。その頃の私は、毎朝の新聞から棋譜だけを切り抜き、それを画用紙に貼っていた。新聞のスクラップは現在も続けているが、もちろん棋譜を切り抜くのではなく、本欄に書くような時事関係の記事等を切る。今思い起こすと、私はこの時、初めて新聞の切り抜きを始めたのだろう。

天童市には「広重美術館」というのがある。この「広重」とは、有名な浮世絵の広重である。恥ずかしい話だが、私はこの歳になるまで「広重」とは、安藤広重とか歌川広重という江戸後期の浮世絵師個人の名前だと思っていた。が、そうではなく歌舞伎の「歌右衛門」とか「団十郎」のように、「広重」も襲名されることをこの美術館で学んだ。つまり、広重には三代目も五代目もいるのである。天童市にこの美術館があるのは、初代広重(1797-1858)が天童織田藩の財政を助けるために、当地へ来て(版画ではなく)肉筆画を数多く描いたからである。彼の当時の一連の作品を「天童広重」と呼ぶのだそうだ。広重の版画は教科書等で何枚も見ているが、手刷りの大版で見ると迫力がまったく違う。肉筆画が見れたのも収穫だった。

興味のある方は、以下のURLへ:

http://www.takinoyu.com/hiroshige/

谷口 雅宣
(April 16, 2005)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月15日

雨後のタケノコ

今年は雪が多く、サクラの開花も遅れるなど春の到来が遅かったが、タケノコも頭を出すのをためらっていたようだ。ところが今週初めからの雨のおかげで、地面から一斉に頭をもたげた。まさに「雨後のタケノコ」の言葉どおりだ。以前、タケノコを絵に描いたとき、ヤマザクラの花弁が周囲一面に散り敷いていたのを一緒に描きこんだ。これを憶えていて、「サクラが散るとタケノコの季節」と思って今朝、庭の西側の孟宗の竹林を見たら、本当にその通りだった。地面のあちこちが割れて、土が盛り上がっている。中にはもう黄緑のエラをつけて、鉛筆の先のような頭を出しているものもある。

よくテレビや雑誌などでタケノコ掘りの名人が出てきて、「タケノコは地面に頭を出す前に、足で踏んで感じたところを掘る」などと言うことがある。その方が、柔らかくて良質のものが採れるというのだが、我が家ではそんな“名人芸”にはこだわらずに、「地面が割れたら掘る」ことにしている。それでも十分柔らかくて、おいしいタケノコが採れるから有り難い。朝食後に小型のシャベルを持ち、せっせせっせと5~6本掘った。体が暖まり、シャツは汗ばんだ。我が家のルールは、タケノコは手当たり次第に掘らないこと。そこに竹が生えてきては困るような所--庭の真ん中とか、軒下に近い場所--を選んで、タケノコを掘る。また、全部掘らずに残しておく。竹は地下茎で殖えるから、今年タケノコを成長させたところに新たな根が張り、そこから来年のタケノコが伸びる。

収穫後、大きいもの2本を隣家へ初物として進呈し、残りを妻の手に委ねた。妻は直ちに皮をむき、大鍋で茹で始める。こうして採ってからすぐに茹でると、地面から上に少し出たタケノコでも、案外やわらかく、おいしく食べられる。夕食には、若竹煮が出た。庭の山椒の葉も添えて、旬の料理は最高だ。

孟宗竹は中国原産で、日本に入ったのは18世紀になってからだから、比較的新しい。しかし、日本の田舎、特に中国や九州地方へ行くと、丘陵地や低い山々の相当部分に孟宗竹が生い茂って、荒れ果てた感じになっているのに驚くことがある。混み合って生えすぎてしまい、竹と竹とが互いに栄養素を取り合い、“共倒れ”の状態になっていることが多いのである。毎春、人間がタケノコを適度に採ることで竹と竹との間隔を保ち、風通しのいい環境に保っておけばいいのだろうが、そういう世話をする人が日本の田舎からいなくなってしまった。

竹は観賞用として美しいし、工芸材料としても優れ、しかも早く成長するから利用価値は高いはずだ。香港では、高層ビルの足場として使われているのを見て驚いたことがある。タケノコは歯ざわりがよく、低カロリーでありながら、蛋白質、脂肪、炭水化物も含まれている。皆さん、竹をもっともっと利用して下さい!

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年4月14日

桜下の午睡

休日を利用して、妻と連れ立って新宿御苑に花見に行った。関東地方はサクラの満開も過ぎ雨も続いたので、「どうかな?」と思いながらだったが、なかなか見事な咲きっぷりを堪能できた。

久しぶりの晴天だったので、春の日差しを全身に浴びようと、御苑には大勢の人々が繰り出していた。我々もその中に混じり幸せな気分に浸った。ソメイヨシノは満開を過ぎて一部葉桜となっていたが、まだ蕾の固い八重のサクラもあり、まさに満開の白いサクラもあり、ピンクの枝垂桜もあり、その他、聞いたことのない名前のサクラが何種類もあって、「よくぞこれだけ集めた」との感想をもった。それぞれの木の幹に“名札”がついているのが嬉しい。人間はなぜか、名前が分かると何か分かった気がして安心する。しかし、本当は何も分かっていないのだ。

ソメイヨシノの美しさは、空に向かって一斉に咲く淡いピンクの豪華さにあるが、「ああこれは吉野桜」と名前が分かったとしても、その名前は単なる符号で、桜の生命力を何も表現していない。同じように、シダレザクラの美しさは、無数の細い滝のように上から下へ降り落ちるような濃いピンクの流れにある。が、「あれは枝垂桜だ」と分かっても、その名は植物の特徴を一部表していても、美しさについてはあまり語らない。

サクラの見事さは、咲き誇るときより散るときにある、と思う人も多いだろう。我が家の庭には南西の端近くにヤマザクラが1本立っているが、それが決して見えない東向きのベランダにも、白い花弁が風に乗ってひらひらと散る。多少風が吹いていた今日は、だから御苑の芝生には周囲の様々な木から降り落ちる花弁が、黙々と、次々に着地する。木の下で弁当や菓子袋を開いていた人たちは、きっとその花びらを食べそうになったに違いない。

木のもとに汁も鱠(なます)も桜かな (芭蕉)

我々二人も芝生の上に腰を下ろし、午後の光の中でのんびりと読書をすることにした。が、しばらく陽射しを浴びて体がポカポカしてくると、眠気がやさしく体を包む。私は、きりのいい所まで本を読み進めると、両肘を突っ張って支えていた体重を芝生にどっと預けて目を閉じた。恐らく撮影のためだろう、上空を低く旋回するヘリコプターの爆音が、しだいにうるさく感じなくなった。

小一時間ほどして、体の節々に痛みを感じながら我々は芝生から起き上がった。そして、夕食のホッケの干物に添える大根おろしのダイコンを求めて、御苑をあとにした。

咲き満ちる桜仰ぐ人 車椅子

谷口 雅宣

CherryBlos

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2005年4月13日

失敗と成功

“花金”と言えば「花の金曜日」だが、木曜日が休日の私は“花水”だ。ということで、レオナルド・デカプリオ主演の『アビエイター』を見ることにした。

午後7時開演に間に合うように夕食をすませるつもりで、妻と二人で家を出た。目指すは、映画館のある六本木ヒルズ。ところが、席を確保するために事前に映画館のチケット売場へ行くと、前の会は5時開演で、次の開演は午後8時20分だという。出発前に家から映画館に電話をかけて確認した時間と、大いに違っていた。抗議しようと思ったが、今さらどうにもならない。最終回の8時20分まで待つのはシンドイし、どうしても見たい映画でもなかった。また、「いつでも見れる」と思ったので、悪アガキはやめてスッパリと諦めた。

では、ゆっくりと夕食を……と思って、周囲を歩き回って安めの和食屋へ入った。1時間半ほどたってその店を出て、地下鉄日比谷線の駅近くの本屋へ寄った。時間に余裕のあるときには、我々はよく本屋へ入る。そして、思い思いの棚の前へ行って物色する。だが今日は、私は店の中へすぐには入らず、店先の路上の棚でセールをしていた洋書の前で立ち止まった。「掘り出し物があるかもしれない」と思ったのだ。

この種の路上セールに出される洋書は、流行作家の小説や、英文科の女学生好みの作家の本や旅行書が多い。しかし、場所が六本木だから、ネイティブ・スピーカー用の普通の本もあるかもしれない……などと思いながら、何の気なしに1冊を棚から抜き取った。本当に「何の気なしに」で、背表紙の文字もロクに読まなかった。その本を手に持ちながら、しかし私の目は近くの別の本の表紙に書かれた「SILENT SPRING」というタイトルを読んだ。どこかで聞いたことがある。著者名を見ると「Rachel Carson」とある。そうだ、レイチェル・カーソンの名著『沈黙の春』だった。思わず手に取ってみたが、この本の和訳本の文庫版はもう買って家にある。いくらセールとはいえ、2冊ある必要はないと考え、棚にもどした。

もう一方の手に持っていた本を、私はその時改めて見た。著者の「ROSENBERG」という名前が、記憶に引っかかった。知っている名前だと思ったが、誰なのか思い出せない。タイトルは「the transformed cell」とある。副題は「unlocking the mysteries of cancer」だ。著者は「MD」であり「PHD」であり、癌(cancer)に関する本である。ここまで読んで、私は思い出した。記憶とは不思議なもので、一端をつかむと、それに引かれてズルズルと残りが出てくる長い紐のようだ。癌の免疫療法をアメリカで行っている医師のことを、もう何年も前にABCニュースで見た。その医師の、白髪混じりの短髪とアゴ鬚までも目の裏に浮かんできた。その人の名前が確か「ROSENBERG」なのだった。立ち読みで「まえがき」を読み、確信を得たので買うことにした。セール本の売値はどれも500円だから、私にとっては確かに“掘り出し物”だった。

このローゼンバーグ博士の弟子として働いていた日本人医師が帰国し、癌の免疫療法をしていることを、私はかつて生長の家の講習会で話していたことがある。患者自身の免疫系にあるNK細胞を血液から取り出し、試験管内で大量に増殖させ、それを再び体内にもどして癌細胞と戦わせる--こういう治療法である。人間には本来、癌を治す力があるということを、医学的にこれだけ有力に立証するものはない。そう思って紹介していた。だから、懐かしい気持でこの本を手に持ち、帰途についた。

私は、本とのこういう“予期せぬ出会い”を大切にしている。「本が自分を招ぶ」と言えば迷信臭いかもしれないが、「人間は意識せずに必要な本を見つける能力をもっている」と感じるような出会いを、私は過去に何回も経験している。多分これは「親和の法則」の一部だろう。そのおかげで、お目当ての映画の時間を間違えたという“失敗”も、見事に“成功”に変わってしまった。

谷口 雅宣

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2005年4月12日

中絶胎児を利用するな!

4月9日の夜に放映されたNHKスペシャル『中絶胎児利用の衝撃』という番組の録画を見た。9日はちょうど金沢に生長の家講習会のため行っていたので、時間の自由がきかなかったからだ。

内容はだいたい予測していた通りだが、“見切り発車”が始まっているという感想をもった。私はすでに『今こそ自然から学ぼう』(2002年刊)の中で、移植手術のために中絶胎児を利用することに反対の意思を表明しているが、番組を見てもその考えは変わらなかった。というよりは、「人間は結局、“自己目的のために他を利用する”という誘惑に逆らえないのか」と慨嘆したい気持になった。

『今こそ……』にも書いたが、アメリカはすでに1993年、中絶胎児の組織の研究に連邦政府が予算をつけるようになっており、イギリスやスウェーデンでも中絶胎児の研究目的の利用が認められている。番組ではそのことがまるで“世界の趨勢”であるかのように語られているのが残念だった。なぜなら、ドイツは中絶胎児の利用に早くから「ノー」の結論を出しているからである。これは、かつてのナチス・ドイツの人体利用の苦い経験を踏まえた結論だろう。我々はそれを単に“ドイツ人の経験”としてしか見ず、“人類の経験”として捉える視野を失っているのだろうか。

もう一つ残念だったのは、番組に登場する医師や研究者たちは、例外なく「胎児利用を進めるべきだ」との考えを披瀝してはばからない点だ。私は、彼らも同じ人間であるから、利用されるのがたといか弱い小さな生命であっても、人間が人間を利用して生きることの倫理的問題をまったく感じていないとは思いたくない。が、番組では、そのような側面を見せる科学者は皆無だった。これは医師や科学者に対するマイナスの評価を増長する、と私は思う。

問題は中国である。私は国家としての中国や、中国人に対してさほど偏見をもっていないつもりだ。しかし「一人っ子政策」の維持のために中絶された数多くの胎児を使って、ALSなどの治療のために海外からやってくる大勢の外国人の治療をしている医師を見ると、「そんなに金儲けがしたいのか?」とつい思ってしまう。中国では、胎児を含む死者の体の利用に関する国の倫理基準などほとんど何もないから、先進国では許されないような“人体実験的”治療もまかり通るのだろう。通常は、マウスを使った実験のあとは、サルを使って同じ霊長類である人間への安全性を確かめ、しかる後にボランティアを募って人間の臨床試験をする。しかし、番組に出てきた中国人医師は、マウスの実験からいきなり人間の治療へと移行した。その点を外国の研究者から疑問視されると、「実際に患者のほとんどが回復しているのだから、いいじゃないか」と熱弁を奮う。彼には、大勢の中国人の命が、外国人の便宜のために使われているという構図が見えていないのだろうか。

私はここで「ナショナリズムを高揚させろ」と言うつもりはない。この問題は「国家」以前に人類社会全体の問題を含んでいると思う。それは「大人のために子供(胎児)を利用する」という行為を、21世紀の人類が容認するかどうかである。我々は普通、「子供のため」と思って、様々な苦労も惜しまず、子育てや教育に金をかけ、家業や遺産のことも考えてきたのではなかったか。そういう人類の生き方を逆転させることで、未来に良い社会が来ると考えるのだろうか。否、否、と私は叫びたい。

谷口 雅宣

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年4月11日

エーテルの復活か?

エーテルを復活させるための実験が行われようとしている。と言っても、この「エーテル」とは有機化合物のことではない。1世紀以上も前に科学実験によって存在が否定された“宇宙に充満する原質”のことだ。イギリスの科学誌『NewScientist』が、4月2日号の特集でそれを伝えている。

当時の科学者は、「光は波である」ことから、海の波が海水を必要とするように、光も何かの媒体を通して空間を伝わると考えた。そして、この見えない媒体にエーテル(ether)という名前をつけた。このエーテルの名は、ギリシャの自然学に由来する。古代ギリシャ人は「真空」というものを認めずに、宇宙にはアイテルが充満していると考えたが、それを物理学の世界に持ち込んだわけだ。

ところが1887年に、アルバート・マイケルソンとエドワード・モーレイという科学者が共同してエーテルの存在を確かめるための実験をした。エーテルが実在するなら、宇宙空間を高速で飛んでいる地球には、風と同じように“エーテルの風”が当っているはずだから、この風と同方向に進む光と、それに逆らって進む光の速度には微妙な違いが出るはずだ--というわけで、精密な測定装置を作り上げて実験をしたところ、残念ながら2つの方向に進む光の速度に違いはなかった。その後、似たような実験が繰り返されたが、やはり有意な差は観測されなかった。そして、物理学の教科書には「エーテルは存在しない」と書かれるようになった。

が、この結果に満足しない科学者も少なからずいた。彼らが工夫した実験では、“エーテルの風”は地球の周りを秒速8キロのスピードで吹いていると測定された。1902年のウィリアム・ヒックスの実験、1921年のデイトン・ミラーの実験などが続き、実験のたびに“エーテルの風”の速度が微妙に違ったりしたことから、定説を覆すには至らなかった。そこで今、シシリー島にあるイタリア国立核物理学研究所のモーリツィオ・コンソーリ博士が、20万ドルをかけた大実験を行い、この“世紀の謎”の解明に挑戦しようとしているらしい。

詳しいことはよく分からないが、『NewScientist』誌によると、エーテルの存在が実験で証明されれば、アインシュタインの相対性理論も修正を余儀なくされるといい、素粒子論中の謎の一部も説明可能となるらしい。それからもう一つ、生長の家の関係について言えば、谷口雅春先生の『生命の實相』がエーテルの存在を前提としていたことで、一部から「科学的でない」とされてきたが、その評価が変わる可能性もある。

谷口 雅宣

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年4月10日

「石油後」を考えよう

 石川県・金沢市の生長の家講習会で「石油ピーク説」を紹介し、日本などの先進国がエネルギーのムダ遣いを続けていれば途上国に犠牲者が増えるだけでなく、国際紛争を激化させることになると話した。帰途の羽田行きの飛行機内で読んだ新聞には、石油の値段が現在値よりもさらに高いレベルになることが恒常化するだろう、と書かれていた。金沢市内のスタンドでは、ガソリンの値段は1リットル120円弱だった。これがどの程度に“高止まり”するかは、我々一般市民にとっても重大な関心事だろう。

 石油の高騰は単なる個人の予測ではなく、IMF(国際通貨基金)という国際機関の分析だから傾聴に値する。IMFは先週木曜日、年2回発行する世界経済情勢の分析で、石油は2030年には1バレル39~56ドルの値段になると予測し、これにインフレ要素などを加味して現在の値段に置き換えると、1バレル当り67~96ドルに該当すると発表した。先週、ゴールドマン・サックス社が出した予測では、石油の値段は1バレル100ドルを超える高騰を示す前段階にあるとしたが、IMFはその可能性を否定しなかった。

 なぜ石油の値段が上がるかの理由については、大方の見解は一致している。「需要サイド」の要因は、中国やインドなど好調な経済発展を続ける国々のエネルギーや資源需要がこれからも長期的に続くからだ。「供給サイド」の要因は、産油国の生産体制(とりわけ精製能力)が需要に応え切れない状態にあることだ。しかし、ここで語られていないことが2つある。1つはイラクの石油生産能力のことであり、もう1つは「石油ピーク説」だ。イラクの政治が安定し、石油生産がイラク戦争以前の状態に回復すれば当然、供給側の条件は緩和する。IMFの予測の中には当然、これが加味されているのだろうが、それでも石油は高騰すると考えているようだ。

 「石油ピーク説」とは、石油生産量はピークに達するという考え方だ。これは、すべての鉱物資源には、掘っても掘っても前年より生産量が上がらないという「生産ピーク」が来るとの経験則を、石油に当てはめたものだ。現在の大方の予想は、石油の生産ピークが来るのは「2010~20年」ということになっているが、この予測範囲の最も早い時期は「あと5年」である。あと5年で石油の生産量が頭打ちになれば当然、価格は高騰するだろう。中国やインドの経済発展が、この先5年で終ってしまうことなど考えられないからだ。とすると、IMFもゴールドマン・サックスも、「石油ピーク」を織り込んだ予測をしているのだろうか?

 ならば、いっそのこと「世界経済は石油生産のピーク段階に近づいた」と宣言したらどうか、と私は思う。そうすれば、先進国の人間はもっと危機感をもって、エネルギーの節約を考えるのではないか。石油の代替エネルギーの利用に、もっと真剣に取り組むようになるのではないか。世界経済や国際政治が混乱することを恐れているのかもしれないが、来るものはいずれ来るのだから、できるだけ多くの人に早い時期から「石油後」の心の準備をさせておくことは為政者の責任だと私は考えるのだが……。

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月 9日

原人の愛

 もしあなたが土を掘っている時、化石化した人骨を発見し、その頭蓋骨の歯がすべてなくなっていたとしたら、どう考えるだろう? 4月8日付の『ヘラルド朝日』によると、いま考古学者、人類学者の間で起こっている論争は、まさにその点に集中している。

 その人骨の化石とは、2千年とか3千年程度昔のものではない。177万年も前の直立原人(Homo erectus)のものだから興味がそそられる。旧ソ連のグルジア国コーカサス地方で発見され、科学者の鑑定の結果、年齢が40歳ぐらいの男性のものという。口の骨の再生状態から判断すると、歯が抜け落ちてから少なくとも2年間は生きていたと考えられ、歯のない期間に一体何を食べていたのか、と科学者たちは想像力を膨らませている。

 この時代の原人にとって40歳は“老人”であるという。だから、この“老人”が歯を失ってから2年間、周囲の原人たち(恐らく家族)が、歯がなくても食べられるような野菜や果実などの食物を与えたか、獣の肉を石で磨り潰して与えたりしたから“老人”は生き延びられた--こう考える科学者たちは、この頭蓋骨の化石こそ、ネアンデルタール人以前の原人も、愛情をもって家族間で助け合った証拠だと結論する。これに対し、「歯がないこと」と「愛情」とを結びつけるのは短絡だと考える科学者たちもいて、論争は続いている。

 私はもっと素朴に考える。愛情(compassion)というものを人間以外の動物が共有することは、そんなに問題なのだろうか、と。鳥や犬やネコに、子を育て、仲間を守る行動が観察されるならば、それを「愛情」と呼ぶことにそんなに深刻な問題があるのだろうか。もし問題がないのならば、猿人や原人に同様なことが起こっても何の不思議もないはずだ。しかし、科学者の間では、こんな素朴論は相手にされないのだろう。ここでの論争の焦点は、この頭蓋骨の化石が「人類の祖先の中に、真に人間的と言える行動が現われた最初の証拠」であるか否か、ということらしい。

 でもこれって、「昔は今より劣っていた」という前提がなければ言えないことではないか? また、人間至上主義的な考えが背後にないだろうか? だから、進化の結果、猿人は原人になり、原人は人間性を獲得し、人類へと移行した、と考えるのだろう。しかし、「人間性」というものがそんなに優れているなら、どうして地球環境問題など起こってくるのか? どうして生物種の絶滅が危機的な速度で進行しているのか? どうも分からないことが多すぎる。

谷口 雅宣 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月 8日

無人戦争は可能か?

かつて“元祖版”の「小閑雑感」欄(2001年4月22日)で、アメリカの無人偵察機「グローバル・ホーク」が22時間の無給油無人飛行実験をする話を書いたが、この種の無人機は現在、700機以上がイラクの上空を飛んでいるらしい。テロリスト追跡と反政府勢力のモニターを仕事としているのだが、空の混雑度が危険なレベルに達している、と4月6日の『ヘラルド朝日』紙は伝えている。

4年前の情報では、グローバル・ホークの実戦配備は2010年までないはずだったが、その後、9・11が起こったため、これは急遽配備され、無人航空機の分野では最大で最高級の機種となった。全長13.4m、翼長35.4m、ジェット・エンジン1機を搭載し、高度1万8000mを飛び、飛行時間は最長40時間……と言われた。が、現在ではこのほかに10種類以上の無人機--重さ2キロで木の上を飛ぶ軽量機からグローバル・ホークまで--が実線配備されているという。

こういう無人機が、どこから操縦されているかご存知だろうか。「プレデター」という機種の操縦士と副操縦士は、アメリカ西部のネバダ州の空軍基地にいる。そこのトレーラーの中から、ジョイスティックを握った空軍パイロットが1万2000キロ離れたイラクやアフガニスタン上空を飛んでいる無人機を制御し、必要があればミサイル発射も行う。この機種はジェット機ではなくプロペラ機で、時速130キロ程度でゆっくりと飛び、24時間以上滞空できる。操縦士たちは、ネバダ州のトレーラーの中から機に搭載されたズームレンズやレーダー、赤外線投射装置を操作し、無人機の見るものを見る。そして、イラクやアフガニスタンの地上の兵士と会話したり、電子メールのやりとりをする。一方、地上の兵士は、無人機から送られる上空からの映像をパソコン上でリアルタイムに見ることができる。

米空軍には現在、プレデターの飛行大隊が3つあるが、先月、これに15大隊を加えることを発表した。こういう無人機の操縦にも、従来はF-16ジェット戦闘機のパイロットが使われていたといい、1日8時間の“搭乗”を週に6日間続けるというストレスの多い仕事らしい。にもかかわらず、操縦士の数は必要数の半分しかいないという。

アメリカでは、戦闘用ロボットが開発されたという話を最近聞いたが、これからの戦争は、こうして次第に機械と人との戦い、さらに機械と機械との戦いになるのだろうか。それならいっそのこと、ゲーム機の内部に戦場を作り、無血ゲームで勝敗を決することはできないだろうか?

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月 7日

胴長のインク瓶

休日の今日は、珍しいことをした。インク瓶を買ったのである。高校時代以来のことだ。

朝、別の用事で妻と2人で新宿の伊勢丹デパートへ行った。買い物をひとつ終り、エスカレーターで階下へ降りた所で万年筆売場があるのに気がついて、私はハッとした。実は、家を出る前に、洗面台の横に置いてあったモンブラン社製の万年筆を胸の内ポケットに滑り込ませたのだ。インクがなくなっていたので、デパートに行くなら、何かのついでに補給できるかもしれないと思ったからだ。

モ社のロゴマークを目当てに担当嬢を探し、その前へ行って「インクが切れちゃったんですが……」と言った。
「色は何色でしょう?」
 と訊かれて、ハタと困った。自信がないのである。
 私はものを書くときは、ほとんどパソコンですませる。だから万年筆は普段使わない。今回インクがなくなった万年筆は、半年ほど前に人からもらったもので、それ以降ずっと使わなかったのを、最近になって“画材”として使ってみる気になった。すると、中のインクが固まりかかって出が悪く、濃縮されて紙の上に出る。それが、もともとはブルーブラックだったのか、それとも普通の黒インクだったのか、即座に判断ができなかった。

結局、担当嬢に3種類のインクで紙に波形を書いてもらい、その色を比べ、最後に、描線の上を濡れた指を滑らせて、にじみ具合を見て判断した。選んだのは黒だった。この万年筆をもらった直後に、それを使って周辺のものを2~3枚スケッチしたが、その際、水を含ませた筆で描線をぼかした。そのにじみ具合や色を憶えていたから、迷わずに選べた。このインクは、普通に使えば紙の表面に「黒」しか出さないが、水でにじませると青っぽくも、赤っぽくもなる。

インク瓶は四角い漆黒の箱に入っていた。家に帰ってから箱を開け、瓶を取り出してみると、それは不思議な形をしていた。何か両腕を地面に突いて踏ん張った動物のようだ。それも、ダックスフントのように何となく愛嬌がある。パソコン用のインクジェット・プリンターのインク入れには、こんな形のものはない。機能と効率重視の考えからは、こんな“遊び”のあるデザインは生まれてこないだろう。

気に入ってしまった私は、机の引出しの奥をかき回して古い原稿用紙を探し出し、買ってきたインク瓶のインクを使って、この文章を書き始めた。

谷口 雅宣
InkBottle

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年4月 6日

アンカーマンの退場

アメリカのABCニュースの看板アンカーマン、ピーター・ジェニングス氏(66)が、肺ガンにかかっていることをニュースで自ら発表した。かつての張りのある高めの声は消え去り、喉の奥で鉄のビー玉をいくつも転がしているような低い声で、懸命に自分の意志を伝えようとしている姿を見て、私は衝撃を受けた。

私はほぼ毎朝、ABCニュースをNHKの衛星放送で見て1日を始める。そして録画もとる。ここ数日、ピーターの姿が見えないことは気になっていた。録画を過去に遡って確かめてみると、4日ぶりのテレビ登場である。この前に登場した4月2日放送のニュースは、ローマ法王が危険な状態に陥ったということを、バチカンからの報道を交えながらトップニュースでスタジオから伝えていたが、声が震えているのがわかり、私はその時、「ピーターはカトリック教徒か?」と疑ったほどである。彼は、感動的なニュースを報道する際、たまに声を震わせるだけでなく、涙をにじませることもあった。だから今度も、感動のために声が震えているのだとばかり思っていた。しかし、肺ガン、またはその治療の影響で、商売道具の「声」が思うように出なかったに違いない。彼自身がバチカンへ行く予定だったが、行けなかったとの報道があったから、健康状態は相当よくなかったのだ。

彼は、世界的大事件や大イベントがあると現場へ飛んで、そこから報道することで有名だ。香港が中国へ併合された時も、湾岸戦争やイラク戦争の前夜にも現地から報道した。だから今回、ローマ法王の死について自ら現地から語れなかったことは、さぞ残念だったに違いない。今日の放送では、自分が突然テレビから姿を消したことで様々な憶測が流れたことに言及した後、「私は肺ガンにかかっています。ええ、私は煙草を吸っていました。でも、それは20年前のことです。その後、9・11が起こった時、また吸いました。これからも体調がよい時には、またアンカーとして登場するでしょう」と言った。この時、私はニューヨーカー、もしくはニューヨークを仕事場にする人にとって、9・11がどれほど大きな衝撃だったかを、改めて思い知らされた。

私が彼のことを「ピーター」と気安く呼ぶのが気になる人がいるかもしれない。しかし、私にとって彼を「ジェニングス氏」と呼ぶのは、まるで別人のようで違和感がある。彼は20年以上、ABCのアンカーマンをやってきたが、私はその約半分、少なくとも10年間は彼のニュースを見てきた。「見る」だけでなく、シャドウィングという英語の練習をした。これは、聞こえてくる英語に半秒ほど時間を遅らせて、聞こえた通りの英語をオウム返しに言う方法である。それによって hearing と speaking の双方を向上させようというわけだ。この10年間で、私の英語が実際どれほど向上したか心もとないが、しかしどんな人の英語よりも、彼の英語に私が慣れ親しんだことは確かである。だから「ピーター」なのだ。

ところで、煙草好きの皆さんに訴えたい。ぜひ、できるだけ早く、吸うのをやめてください。これは確実に、あなたの寿命を短くします。まだまだ仕事が続けられる年齢時に、声帯を奪ったり、呼吸機能を奪います。ニューヨーカーの進化生物学者、スティーブン・J・グールド博士も煙草のために肺ガンとなり、60歳の若さで亡くなりました。「好きなもののために死ぬんだったら、いいじゃないか」と言わないでください。あなたの死を望まない人は、あなたが知る以上に数が多いかもしれないのです。

谷口 雅宣

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年4月 5日

軍用燃料電池車

4月1日の本欄で、米軍の多目的車「ハムビー」のハイブリッド版「Shadow RST-V」の話を紹介したが、アメリカはさすがに技術大国らしく、軍用車両にはハイブリッド車だけでなく燃料電池車の導入も考えているらしい。

4月5日の『産経新聞』によると、アメリカは今後5年間で計1億5800万ドル(約170億円)をかけて、官民共同で燃料電池車の開発を強化する計画をもっている。実用化のターゲットは2020年。GMとダイムラー=クライスラーは、政府と折半で8800万ドル(約95億円)を出資して、今後40台を開発して実証実験を行う。そして、軍と共同して、ピックアップ・トラックの燃料電池化を目指すのだという。軍がそれをする理由は、「燃料電池車は騒音や排ガスが出ず、敵に察知されにくいため、戦場での優位性がある」からだという。

そう言われれば、燃料電池車の動力は電動モーターだし、そこからの排出物は「水」だけだから、静かでクリーンには違いない。が、値段が1億円以上するから……と考えてきて、ハッと気がついた。軍の装備には、値段はあまり関係ないのだった。だいたい今の「ハムビー」だって、商用車に比べれば相当な値段に違いない。だから、アメリカの軍用車は、これからはジーゼルと電気とのハイブリッド化を進め、最終的には燃料電池車に切り替わっていくに違いない。石油の生産量が減少をはじめると予測されているのは「2010~2020年」だ。「2020年」という開発目標は、その最終年にピッタリ合っている。

しかし、同じ記事には、米エネルギー省がBPやシェルなどの石油資本と共同で、水素供給スタンドをアメリカ主要都市に設置する計画があると書いてあるから、水素の原料としてはやはり化石燃料を考えているのだろう。これって、何かオカシイ気がする。車の燃料の大元が同じならば、結局、化石燃料の奪い合いが続くことにならないだろうか?

それはともかく、アメリカの燃料電池車への意欲は大きいようだ。今、議会で審議されているエネルギー法案では、今後5年間に12億ドルをこのために投入するという。

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月 4日

コンクラーベは根競べ?

 ローマ法王が死去したため、後継者を選挙するための枢機卿会が開かれる。この選挙を、外部の干渉をできるだけ受けないように、また短期間で選挙を済ませるために、選挙権者を一箇所に集めて外へ出さない“密閉区”をコンクラーベというそうだ。ラテン語のもともとの意味は「鍵をかけられた」(with key)という意味だそうだが、英語の「conclave」は、この法王秘密選挙の会場を意味するほか、集合的に「枢機卿」を指したり、「秘密会議」の意味にも使われる。80歳未満の枢機卿が選挙権をもち、投票総数の三分の二を超える得票数を獲得した者(枢機卿)が新法王となる。

 現在の枢機卿は183人で、うち80歳未満は117人。その大半がヨハネ・パウロ2世自身の任命によるから、前任者の意思を受け継いだ保守的な法王が選ばれると考えられている。しかし、“保守的”とは必ずしも“伝統的”を意味しない。ヨハネ・パウロ2世自身がイタリア人ではなく、ポーランド人だったことが象徴するように、今日のカトリック教会は、伝統的ヨーロッパでは衰退しているが、逆にアフリカや南アメリカ等の途上国で教勢を伸ばしている。現在、全カトリック信者の三分の二ほどが途上国に住んでいると考えられるから、その信者の構成が重視された場合は、アフリカやラテン・アメリカから新法王が選ばれる可能性も十分あるという。しかし、一度イタリアから出てしまった法王位を、再び自国にもどしたいというイタリア人の動きも無視できないそうだ。

 ということで、名前が上がっている人の中には、アフリカのナイジェリアのフランシス・アリンツ枢機卿、ホンジュラスのオスカー・アンドレ・ロドリゲス・マラディアガ枢機卿、ブラジルのクローディオ・ウムメス枢機卿がいる。また、イタリア人の中には、ディオニジ・テッタマンツ枢機卿、アンジェロ・スコラ枢機卿、ジョヴァンニ・バティスタ・レー枢機卿などがいるそうだ。しかし、ヨハネ・パウロ2世自身が、選挙以前はほとんど無名の枢機卿だったことを思えば、誰が選ばれるかは予測しない方が賢明かもしれない。

 ところで私は知らなかったのだが、「ヨハネ・パウロ2世」というのは“芸名”ならぬ“職名”のようなもので、本名は別にあるのだそうだ。3月4日付の英字紙『ヘラルド朝日』は、見開き全2頁を使って「Karol Wojtyla, 1920-2005」という人の一生を紹介している。これがこの稀有なポーランド人法王の本名なのだが、どう発音すればいいのだろうか?

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年4月 3日

カラスの仕業?

 今朝、庭で飼っているブンチョウの世話をしに行ったとき、足元に青いパンジーの花が散乱しているのに気がついた。花が4~5輪散らばり、茎や葉がそれについているが、根や土は見当たらない。真っ先に想像したのは、庭を住処としているノラネコ達のうちの1匹がやったということだ。実は一昨日、玄関先の石段の隅に置いてあったパンジーの植木鉢が、ネコに倒されて割れてしまった。だから「またアイツか?」と考えた。しかし、周囲にパンジーの植木鉢はなく、また植えられているわけでもない。いったい何者の仕業か?

 さらに周囲を見回し顔を上げてみると、軒下に吊るされたいくつかの植木鉢の1つに、同じ色のパンジーが咲いているのに気がついた。ネコが跳びつくには高すぎる位置だし、跳びついたとしても何のためか疑問が残る。そこで「下手人はカラスだ」と思った。しかし、何のために?

 妻にこのことを知らせると、彼女は剣幕を起しながら「これはカラスだわ!」と犯人を断定した。そして、このパンジーを咲かせるまでに彼女がどれほど世話してきたかを訴える。私は、「あぁそう、それは残念だね……」などと言うしかない。彼女は続けて、2階のベランダに置いてあった植木鉢の話を始めた。「そうそう……」と私も思い出した。

 この植木鉢は2つあり、ベランダの縁に掛けてあったもので、娘がまだ家にいた頃、彼女が中に入れる植物を選んで植えた。ところが、いつかカラスが飛んできて、その植物を根こそぎ引き抜き、ベランダの床に捨てた。これが確かまだ暑い季節だったので、抜かれた植物はすぐに死んでしまった。カラスの“犯行現場”を見た者はいないが、わが家ではすぐに「カラスの仕業」ということになった。

 “状況証拠”だけで犯人を断定していいか!--と読者は疑問に思うだろうか? 私が考えるに、この断定には根拠がまったくないわけではない。拙著『心でつくる世界』にも書いたが(p.101)、カラスは実に不思議な習性をもっていて、線路に“置き石”もするのである。これは、1996年当時の神奈川県警の結論だ。現在では多少、解釈が変わってきているかもしれないが、とにかくカラスには「貯食」という習性がある。カラスだけではなく、同じカラス科のカケス、オナガ、カササギなども貯食をする。貯食とは「食糧を貯める」ことだ。余分な食糧を後々のために隠しておくという知恵がある。

 また食糧だけでなく、理由は分からないが、さまざまな雑物を取ってきて隠す習性がある。鳥の生態に詳しい唐沢孝一氏の『カラスはどれほど賢いか』(中公新書)によると、カラスが隠すガラクタ類にはガラス玉、ビール瓶の栓、石鹸、時計、鉛筆、万年筆、キセル……など、いっぱいある。それらを土に埋めたり、屋根の隙間、樋の中などに隠す。その過程で植物を引っこ抜いたり、花を抜いたりすることは十分考えられると思う。

Panzey ということで、妻はさっそく被害に逢った植木鉢の中を点検したが、そこには異物は発見されなかった。では、何者の仕業なのだろう? 隠そうと思ったカラスが、途中でやめたのかもしれない。結局、真犯人は分からずじまいだが、この犯人に私は感謝したいことがある。それは、彼(または彼女)のおかげで散乱したパンジーの花を、妻があわててグラスに挿してくれたからだ。私は普段、日中は家にいないから、こんなパンジーが咲いていることなど気がつかなかった。でも、これから数日は、暗くなってからも、居間のテーブルの上でこの花の美しい「青」を観賞できるのである。

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月 2日

戦争の原因は“迷妄”なり

戦争の原因は“迷妄”であるということが、ますます明らかになった。

ブッシュ大統領が設置した超党派の独立調査委員会が最近出した報告書が、そのことを有力に物語っているようだ。簡単に言えば、今回のアメリカによるイラク侵攻は「核兵器を含む大量破壊兵器をもち、テロリストを支援する独裁政権を倒すため」という正当化がなされたが、「大量破壊兵器」の存在も「テロリスト支援」も事実ではなかったのである。しかし、諜報機関上層部とブッシュ大統領の側近は、この正当化の理由に合わせて都合のいい情報を信じ、都合の悪い情報を排除した。そして結局、自分たちの“迷妄”に当てはまった事実の断片を組み上げて「悪人サダムの脅威」を造り上げ、それに向かって攻撃をしかけたのである。この迷妄の構築に大統領自身が関与していたかいなかったかが問題になったが、今回の報告書では「この誤った情報分析に、ホワイトハウスあるいは国防省が関与した証拠は見つからなかった」としている。

「証拠は見つからなかった」とは便利な言葉である。証拠が残らないように指示すれば、無罪放免ということになるからである。しかし、チェイニー副大統領が慎重派のパウエル国務長官と対立し、CIAの情報を無視してサダム攻撃の口実を探し回ったことは事実であり、数多くのレポートがすでに出されている。

例えば『ニューヨーク・タイムズ』は昨年10月の初旬、次のような記事を掲載した--

チェイニー副大統領を初めとする大統領側近は、2002年のイラク侵攻前の重要な時期にメディアのインタビューを受けて、イラク大統領が核兵器を開発中だという「否定できない証拠をもっている」と述べた。これは高強度のアルミニウム筒のことで、何千本ものこの筒がイラクにある秘密の遠心分離装置に運び込まれ、その一部を入手したと発表した。これが、イラクが大量破壊兵器をもっている、あるいは開発中だという唯一の物証だった。当時、国家安全保障補佐官だったライス氏は、この筒についてCNNニュース(2002年9月)の中で「これは核兵器の開発にしか適していない」と述べ、「我々はキノコ雲を見てから、そのことに気づきたくはない」と言った。

しかし、CIAに所属する4人の職員によると、ライス氏の部下たちは、このほとんど1年前に、この筒についてすでに政府の核専門家の意見を聞いており、それはこの筒が「核兵器開発に使われることは極めて疑わしい」という内容だった。これらの専門家の意見では、この筒は小型の砲兵用ロケット発射装置に違いないということだった。が、ブッシュ側近は、これが核兵器用だとする意見を採用した。そして、反対の見解があることを大統領には伝えなかった。彼らは個人的には「核兵器用」だとする理由は弱いとの見解を表明していたが、公の場では、確信をもってそう主張した。

--まぁ、これは報道のごく一部だが、このようにして一連の“物証”あるいは“状況証拠”が作り出され、政権上層部の信じるような「悪人サダムの脅威」が構築されていったのであろう。「人間は信じるものしか見ない」とはよく言われることだが、世界最大最強の国にしてこのような状態であることは、決して喜ばしいことではあるまい。なぜなら、このイラク侵攻によって何千人ものイラク人が死に、アメリカ兵も1500人以上が死に、イラク経済は破壊され、貧困は拡大し、アルカイダは未だに活動をしているからだ。小泉首相の見解を、ぜひ聞きたい。

谷口 雅宣

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年4月 1日

軍隊も環境を重視?

 私のウェッブサイトの掲示板で自衛隊の環境対策に触れたとき、米軍の「ハムビー(Humvee)」という多目的車(ジープのお化けみたいな車!)のことを書いたら、アメリカの読者が興味ある情報を教えてくれた。簡単に言うと、米軍も戦闘車両の“グリーン化”のことは考えているらしい。が理由は、環境保全ではなく「静寂化」と「効率」である。まことに軍隊らしい考え方だ。この「ハムビー」の商用版が「ハマー(Hummer H2)」だ。

 今、アメリカの海軍研究所と高度防衛調査計画庁の肝いりでジェネラル・ダイナミック社が開発している「Shadow RST-V」という多目的車両が、ガソリンをがぶ飲みするハムビーの代わりに導入されるかもしれないという。この Shadow は、ディーゼル・エンジンと電気モーターを併用したハイブリッド車だ。シャドーという英語は「影」の意。電気モータだけで動いている時は音がほとんど出ないため、“影”のように動き回れる。この機能を使って偵察や、諜報活動、ミサイル攻撃用の標的指示などを行う。電動モードだけで32キロ走れ、熱も、音もあまり出ないのでレーダー等に捕捉されにくい。ディーゼル・エンジンだけで走れば、1回の給油で758キロ走れるという。燃費もハムビーの半分以下だ。2.5リットルのディーゼル・エンジンで138馬力出る。最高速度は時速112キロ。これはホンダ・アコード並みだが、Shadow の大きさが通常のセダンの3倍あることを思えば、優秀だという。ハイブリッド化のほかに燃費改善のもう一つ理由は、車体をアルミニウム製にしたこと。

 この“グリーン・ハムビー”の開発構想は、ブッシュ政権の前のクリントン時代の申し子である。クリントン政権の副大統領をしていたゴア氏は、環境問題の専門家として有名だが、当時の国防次官のジャック・ガンズラー氏が1999年度予算に「電動式ハムビー」と「ハイブリッド・バス」を開発し、それを民生用にも利用する計画を打ち出した。それがブッシュ時代に少し形を変えて実現したわけだ。そう考えると、今回の Shadow が環境保全と全く関係がないというわけでもないようだ。

 これらの情報の詳細を知りたい人は、下記を参照されたし。(写真もある)

http://www.dot.gov/affairs/1998/dot2498.htm
http://www.military.com/soldiertech/0%2C14632%2CSoldiertech_Shadow%2C%2C00.html

谷口 雅宣

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »