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2005年3月26日

英語の幅、考えの幅

 英語にも、考えにも大きな幅がある--国際宗教学宗教史会議世界大会に出て、改めてそう思った。

 「英語は世界語」とよく言われるので、数多くの国で使われていると頭では分かっていたが、いざ実際に多種の英語を聞いてみた時の実感はまた別である。午前中に出席した「宗教多元主義の実践:東南アジアの事例研究」では、インドネシア人の英語とドイツ人の英語を聞いた。インドネシア人は2人だったが、それぞれの英語が少し違った。年長者の方が若い人より分かりにくかった、と言うか、ほとんど分からなかった。ドイツ人の方は、抑揚の少ないカサカサと滑るような調子の英語で、慣れるまでに時間がかかった。

 午後からは「宗教と科学技術」というセッションに出て、パキスタン人の英語を聞いた。こちらはあまり訛が少なく分かりやすかったが、発表態度が違った。個人差もあるのだろうが、聴衆が聞きやすいかどうかなどお構いなく、マイクに近づいたり、遠ざかったり、OHPで投影した文字を読むだけだったり、話の最後のところでは自国の大統領を誉めてみたり……。その後に出た「戦争と平和をめぐるイスラムの視点」では、イラン、ブルネイ、マレーシアの人の英語を聞いた。この中で最も聞き取りにくかったのがマレーシアの人で、単語を短く切りながら、機関銃のように英語をしゃべる。それに比べ前二者の英語は、抑揚が適当についているので分かりやすかった。

 この3番目のセッションが一番興味深かった。というのは、イラン人の発表者は、「イスラムは人権を尊重し、男女平等を説き、理由のない暴力を許さない教えである」ということを、平坦な調子で原稿を読みながら延々と話した。そのあとでマレーシア人が「コーランはテロリズムを認めない」ことを機関銃のように話した。ブルネイ人もイスラムのいい所を話した。ディスカッションの時間になると、まずドイツ人が手を上げ「今日は学問的分析を聞きに来たのに、宗教講話を聞かされたのには驚いた」と皮肉った。部屋の最後部で手を上げたオーストラリア人は、「もし貴方がたの言うことが正しいなら、9・11のあと、イスラムの宗教指導者たちは、なぜ団結してテロ行為を否定しなかったか?」と質問した。バングラデッシュ人の女性も立ち上がり、「貴方がたは言っていることとやっていることが違う」と批判した。

 これに対してイスラム側の反論は……力がなかった。イラン人は「イスラムに多くの教派があり、教えの解釈も教派によって多様だ」と言った。ブルネイ人は、「西側のニュース報道は選択的で、一部の民衆が踊って喜んだことは事実だが、宗教指導者は皆、テロ行為をイスラムにもとると批判した」と言った。最後の方で、大きな白人(国籍不明)が立ち上がってこう聞いた--「イスラムの解釈にそんなに幅があるならば、宗教指導者は何のためにいるのか。民衆は、右から左にいたる大きな解釈の幅を利用して、その時々の感情に合ったイスラムを選択すればいいことにならないか?」--うん、確かにその通りだ、と私も思った。

谷口 雅宣

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コメント

コメントが少し遅れてしまいましたが、国際宗教学宗教史会議世界大会への参加を私も楽しませていただきました。
確かに、国籍によって英語の発音が実にさまざまだということを、私も感じました。
私が参加したのは3/24-25の二日間でしたが、3/25に私が最初に出たのは、(いま手元に大会プログラムがないので正確なセッション名を書けないのですが)生命倫理にかんするセッションでした。クローン技術等に関して、キリスト教、仏教、イスラム教の観点からどういう見解が出てくるか、ということを四名の研究者が報告していましたが、私が一番良く聞き取れ、かつ最も興味を持ったのは、京都大学のカール・ベッカー教授が、仏教的観点から生命技術の使用に反対する論拠として、諸行無常・生老病死という現実を謙虚に受け止める姿勢(humiliation)こそが重要であることをその論拠としていることでした。ですが、たとえば幼くして愛するわが子を失うという不幸に遭った親がその子のクローンを得たいと思った場合(これが報告の中で取り上げられた例でした)に、自分の不幸な境遇を、ベッカー教授のいう謙虚さ(humiliation)によって、(その不幸な境遇に恨みを抱くことなく)それを受容できるかどうかについては多少疑問に思ったので、実は思い切って質問してみたのですが、それに対してベッカー教授は「これこそが仏教的アプローチだ」と重ねて力説しておられました。ただ、セッション終了後に挨拶に伺ったところ、「よい質問をありがとうございました」と言っていただいたのは、大変うれしかったです。
二番目に出たのは「宗教と暴力」(たしかそういう題名でした)というセッションでした。細部にわたってはとうてい聞き取れていませんが、私が興味を持ったのは、三人目の報告者がアルカイダ等の宗教テロリズムが「政治的」な目的を持っている点に注目していたのに対して、この日の午前中に行われた全体会議「戦争と平和-その宗教的要因」でkeynote speakerをつとめていたマーク・ユルゲンスマイヤー教授が、“善と悪の間のcosmic war”として戦われているという「宗教的な」側面を力説して、政治的側面を強調する報告者とさかんに論戦していたことでした。
三番目に出たのは…もちろん生長の家のセッションでした。そのセッションでも、国籍によって英語の発音がかなり違ってくることを興味深く思いましたが、三番目に報告されたブラジルの方の英語の発音が大変キレイなことには、報告の論旨が大変明確であったことも含めて、つくづく感心させられました。あと、雅宣先生のご報告の英語をほぼ100%聞き取れ、内容がよく理解できたことが大変嬉しかったです。また、雅宣先生のご報告で、「宗教紛争がその本質においては政治紛争である」ことを力説されようとしたところで、その議論に入る前に、疑問文を効果的に使われて(プレゼンテーションの技法としてよく言われるものの一つですが)、聴衆の関心を惹きつけようとされていたのがとても印象的で、私もこういう機会が将来できたら見習わせていただこうと思った次第でした。

投稿: 山中 | 2005年4月 5日 14:16

山中さん、

 詳しいコメント、ありがとうございます。

 カール・ベッカー教授の「仏教的考え方」は面白いですね。つまり、「諦観せよ」ということですね。人生は所詮、諸行無常、何が起ころうと執着を断て……でも、ここからは社会正義の実現というのは、難しいと思います。


 

投稿: 谷口 | 2005年4月 5日 23:12

谷口雅宣先生、

すでにご存知かもしれませんが、国際宗教学宗教史会議東京大会(IAHR2005)の討議をまとめた書物が出されましたので、お知らせ致します。

島薗進 他編『宗教-相克と平和』(秋山書店、2008年10月10日発行)

これは、大会での5つの全体会議(プレナリー・セッション)をもとにした計5つの部に加えて、「まとめと補遺」を第6部として付けたもの(定価2500円+税)です。

投稿: 山中優 | 2008年11月27日 12:56

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