2012年1月23日 (月)

“便利な機器”は国を亡ぼす?

 生長の家講習会で高知へ行くために乗った航空機の機内誌に、作家の浅田次郎氏が技術社会に厳しい目を向けた随筆を書いていた。浅田氏はこの雑誌に毎号機知に富んだ随筆を書いていて、中には冗談か本気か分からないものもあるので、私は今回も冗談半分の一文かと最初は疑った。が、この号の内容は真面目で理にかなっているので、私も氏の訴えを真面目に受け止めようと思った。浅田氏は、「民に利器多くして国家滋昏(ますますくらし)」という老子の言葉を引用して、「国民生活に便利な道具が増えれば国は暗くなる」と述べている。そして、「科学は人間の幸福を求めて日々進歩するが、この恩沢を蒙る人間は、利器が幸福とともにもたらす実害や精神の退行について、謙虚に誠実に考え続けねばならない」と説いている。氏は、現代の便利な機器は、人間精神の退行をもたらすという、見落としやすい、しかし重要な問題を提起しているのである。

 もっと具体的に言うと、浅田氏は自動車をモデルチェンジなどですぐに買い換えたりせず、1台の愛車を10万キロ走行して使い切り、最近の便利な機器であるETCもカーナビも使わないのだという。そして、その理由が上に述べた“老子の教え”によるらしいのである。私も、自動車をモデルチェンジのたびに買い換えるのは資源の浪費であり、商業主義への敗北だと考えている。で、95年型のホンダ・オデッセイを今でも運転していて、走行距離は10万キロに達する。が、その理由の大きなものは、燃費のいいハイブリッド型のSUV(多目的スポーツ車)が出ないからで、それが発売されればすぐにでも買い換えるつもりだった。また、ETCは早々と導入したが、カーナビは設置していない。カーナビを使わない理由は浅田氏のように哲学的なものではなく、実利的なものた。つまり、私の場合、知らない土地に自動車を運転して行く機会が少ないからである。
 
 では、ETCやカーナビが「国を暗くする」とはどういう意味だろう。浅田氏のETCへの反感は、この装置を取り付けるのが「利用者負担」だという点にあるようだ。ETCの導入を道路会社が勧めるのは経営合理化が目的だが、それはそもそも道路会社自身の努力が前提であるべきなのに、利用者にコストを負担させるのはケシカランというわけだ。カーナビがマズイ点は、それに頼った運転者が増えることで、ドライバーが方向感覚を磨くのをやめるからだという。これらの理由は、確かにそれなりに理解できる。が、それがなぜ「国を暗くする」という大きな問題につながるのだろう。それについて、氏は「この言はわれわれの生きる時代にも、怖いくらい当てはまる。ことに(中略)“利器多くして”は、原発から携帯電話機に至るまで、老子が、二千年後の世界を予見していたとしか思えぬ」と書いてあるだけで、詳しい理由は述べていない。

 そこで私は、勝手に考えることにした。原発の問題がここで指摘されているのは、我々が戦後、原発の構造やエネルギー生産の仕組み、危険度等について何も知らないまま、「原発は安全で豊富なエネルギー源だ」という政府や電力会社の宣伝を信用し続け、国民として国のエネルギー政策に無知・無関心のままだったことを指しているに違いない。これは確かに、「国を暗くする」という大変な問題を今、引き起こしている。日本は国家として、エネルギー政策をどう進めればいいのか“真っ暗闇”の中にいるからだ。
 
 では、携帯電話はどのようにして「国を暗くする」のか。私は携帯電話をもっていない。その理由はどこかにも書いたが、第一に「自由を束縛される」と考えるからだ。携帯電話を買う人は、恐らく「自分から相手に連絡する」という“外向き”方向の通信の便利さを重視するのだと思うが、電話は双方向の通信機だから、「相手からかかってくる」という“内向き”の通信を無視できない。「地球上どこにいても誰かから呼び出される」という可能性を、私は排除したいと考えている。第二の理由は、携帯電話によってもたらされる“ながら族”の生き方は、日時計主義に反すると考えるからだ。これについて詳しくは、拙著『日時計主義とは何か?』や『太陽はいつも輝いている』を参照してほしい。
 
 しかし、これらは皆、個人生活に注目した考察で、そういう個人がどんどん増えてくることで、「国が暗くなる」かどうかの問題まで、これまであまり考えたことはなかった--そう書こうとして、「いや、書いたことがある」と思い出した。それは、本欄の前のブログ「小閑雑感」で「情報の質」について考えたときだ。その時、私はアメリカ軍が現在パキスタンなどで多用している無人偵察攻撃機を取り上げ、科学技術の最先端を行くこの兵器が一見、情報収集能力に長けているように見えても、実は本当の意味での“正しい情報”を得ることはできない、という見解を述べたのだった。長い話をごくごく簡単に縮めて言うと、「高性能ビデオカメラによっても、人間の心中は見ることはできない」ということだ。そんな機器によって“敵味方”の判別は正確にはできず、よし判別できたとしても、人間同士の接触による相互理解のような、本当に重要な情報伝達(心の理解)などできないということだった。
 
 携帯電話の利用から一気に現代の軍事戦略にまで話題が飛躍してしまったが、しかし、私は浅田氏が指摘するように、“便利な機器”が抱える問題には国家レベルのものもあると考える。現に昨年来、中東を中心に起こっている“アラブの春”革命は、携帯電話やスマートフォンの利用と密接に関係していると言われているし、日本でも最近、国会議員の電子メールが海外からのアクセスで盗まれた痕跡が発覚した。また、国内の軍事産業に関わるコンピューター内の情報が中国からアクセスされた疑いも出ている。
 
 私は実は“便利な機器”大好き人間であるが、浅田氏の一文を読んで、それらの機器の利便性だけでなく、限界や危険性も十分に理解して、正しく使うこと(あるは使わないこと)が、今後ますます重要になってくると感じたのである。

 谷口 雅宣

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2012年1月 9日 (月)

現代の“知恵の木の実”(2)

 科学界では、昨年12月26日の本欄で書いた“人造ウイルス”の是非をめぐる問題が、年が明けても論議されている。『ニューヨーク・タイムズ』紙(電子版)は、1月2日、6日、7日付でこれに関する記事を載せた。

それによると、今回の研究データーを一部の責任ある科学者にだけ限定するという案については、科学者はおおむね否定的である。その理由は、科学技術上の知識を秘匿することは、戦争や兵器開発との関係で17世紀から行われてきたことだが、あまり効果がないからだという。これまでは数学や暗号技術、物理学、核科学、光学、生物学の知識がこの分野で使われており、そして今、ウイルス学の領域でも同じことが起こっているのだという。今回の研究を行なった一人、ロッテルダム市のエラスムス医療センターのロン・フッシャー博士(Ron A. M. Fouchier)によると、この種の情報を得る資格のある科学者は、「世界の100以上の研究機関などで働く1000人以上」の人々だといい、「10人以上に知らせれば、その情報はすぐ誰でも入手できるようになるだろう」と指摘している。だから、検閲はすべきでないというのだ。

 また、ラトガース大学の化学教授で生物兵器の専門家であるリチャード・エブライト博士(Richard H. Ebright)は、「生物兵器として使うことができるタイプの細菌の情報は、これまで意図せずに何百回もアメリカの研究所から漏洩している」と指摘し、今回のケースも「やがて必ず洩れる、10年以内に……」と断言する。

  科学者がこのように“規制反対”の傾向なのに対し、ジャーナリストは“規制すべし”という見方が多いようだ。特に『ニューヨークタイムズ』は7日付の社説で、「そもそもこのウイルスは開発されるべきではかった」と明確に反対の意思を表明している。リベラルな論調が特徴的な同紙の論説としては、なかなか踏み込んだ表現である。この社説によると、研究が行われるべきでなかった理由は、「人間へ危害を及ぼした場合、その規模は壊滅的なものとなるのに対し、研究によって得られるメリットは仮定的で、効果が疑わしい」からだとしている。そして、科学界がもっと説得力のある研究のメリットを提示しないならば、この“人造ウイルス”は破壊されるべきだとする。もしそれがだめならば、政府の監視下にあるいくつかの研究所に隔離し、「レベル4」という最高レベルで防護すべきだという。そして、今後この種の研究は、事前にその危険性をもっと真剣に検討する必要があり、そのためには国際監視機関のようなものを作るのが望ましい、と述べている。

  上の社説の中に、ウイルスが人類に及ぼす被害について「壊滅的」という表現が使われているが、これは恐らく次のような事実にもとづくのだろうーー

今回の研究では、「A(H5N1)」というタイプの鳥インフルエンザ・ウイルスを、遺伝子操作によって人間に感染しにくい型のものから大気感染するタイプに変異させた。このタイプのインフルエンザに人が感染した場合、過去の例では約600人に感染し、うち半数以上が死亡している。この50%という率は、1918年に約1億人が死亡したインフルエンザの大流行(死亡率2%)と比べて、はるかに高いのである。

さて、私は昨年12月26日の本欄を次のような文章で結んだ--
 
『科学的知識や技術は、人類の生存を助け、人間社会を豊かにする目的で探求される。しかし、その同じ知識や技術は、客観性をもち再現可能であるというそのことにより、悪意をもった人によって目的外の使い方をされる可能性が常に存在する。「“知恵の木の実”を食べた人間が楽園から追放される」という神話が、現在もなおリアリティーをもっているゆえんである』

 本件についての明確な態度表明とは言えないかもしれないが、私の考えは『神を演じる前に』(2001年)の出版当時から基本的には変わっていない。その本の「はしがき」で、私はカール・せーガン博士の言葉を引用して、「人類や地球環境を破壊するような科学技術を生むな」と訴えた。そして、この本の結論は、「利己心や欲望を最大の動機として、21世紀の科学技術が使われてはならない」というものだった。この「はしがき」を書いたのが2000年11月14日で、その約1年後に「9・11」が起こった。だから、私はこの時、科学技術が“宗教的目的”に使われる際も、人類に甚大な被害を及ぼすことがありえるという事実を見落としていた。また、昨年3月11日の“事件”を思い起こせば、科学技術は、まったくの善意で使われている場合も、人類に甚大な被害を及ぼし得るという事実を承認しなければならないだろう。
 
谷口  雅宣

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2012年1月 1日 (日)

“竜蛇を定める”大切さ

 読者の皆さん、新年おめでとうございます。
 
 本日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館において新年祝賀式が挙行された。今年の祝賀式は、初めての試みとしてインターネットによる複数会場への中継を行い、本部会館のほか長崎西海市の生長の家総本山、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山、そして山梨県富士河口湖町の生長の家富士河口湖練成道場の3カ所と連結して新春の到来を寿いだ。教化・講師部の報告によると、参列者数は総本山を除く3会場合計で約900人だそうだ。総本山での参列は、長崎北部、同南部教区のほか近県からも多数参加したため現在、その数は調査中という。
 
 祝賀式では、総本山の龍宮住吉本宮歳旦感謝祭で「みくにきよめの舞」を奉納する様子などが中継されたので、参加者の感動を深めたと思う。私は、例年のように式典の最後に挨拶に立ち、概略以下のような話をした。
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 皆さん、本日は新年おめでとうございます。

 関東地方は昨年末から好天に恵まれていまして、元旦も穏やかなよい天気の中で迎えることができました。皆さんと一緒につつがなく平成24年、2012年の新年を迎えられますことを心から感謝申し上げます。ありがとうございます。
 
 すでにご存知のように、今日の新年祝賀式は少し新しい趣向を凝らしています。これまでこの行事は、東京の本部会館だけで行われていましたが、今回の祝賀式は長崎・西海市の生長の家総本山など3会場をインターネットで結んで行い、音声と映像を同時中継しています。プログラムにもこれが反映されていまして、総本山の新年の儀式の一部を、参加者の皆さんにご覧に入れたところであります。このような方式を使うことで、大勢の信徒の皆さんがこの祝賀式に参加し、新しい年の最初の日に同じ想いを共有しよう、というのが目的であります。また、それと同時に、布教活動から出る二酸化炭素の排出量を少しでも減らそうという意図もあります。今回は実験的な試みですが、この方式が「よい」ということになれば、生長の家本部がまもなく八ヶ岳南麓へ移転したあとの各種行事のやり方にも、取り入れていくことになるでしょう。
 
 さて、過ぎ去った2011年、平成23年は“激変の年”でありました。このことは『聖使命』紙などの挨拶の中にも書きましたが、いわゆる“アラブの春”という中東・北アフリカ地域の民主革命が年初から起こっただけでなく、ヨーロッパの信用不安が起こり、また日本では東日本大震災とその後の原発事故が起こり、さらに歴史的な円高が続いています。これらの“激変”は、一回きりの単発のものでなく、現在にも引き続いて、今後もしばらくは継続するだろうというので、私たちの生活のみならず、日本全体の政治・経済に大きな影響が出ているところであります。しかし、「変化」というのは必ずしも“悪い”ばかりではありません。これらの変化を通して、現象世界に神の御心である“実相”がより明らかに顕現するのであれば、変化は望ましい“進歩”ということになります。ですから、私たちはこの機会をとらえて、“実相の顕現”に資するような活動や生き方を益々、勇気をもって展開していくことが必要です。
 
 そういう意味では、今年が十二支では「辰年」であることはなかなか示唆的であり、興味深いものがあります。「辰」はご存じのように「竜」に喩えられています。十二支には12種類の動物が当てはめられますが、この中で「竜」はただ一つ、想像上の動物です。ほかの動物(鼠、牛、虎、兎、蛇、馬、羊、猿、鳥、犬、猪)は皆、現実に存在する動物です。このことから、中国や日本では、「竜」に特別の意味を付して宗教や諺などで使ってきました。昨年はウサギ年だったので、ウサギを使った諺を2つ紹介しましたが、今年は「竜」の諺を紹介しましょう。それは、「竜頭蛇尾」です。この諺の意味は、何でしょうか?
 
 これは、「初めは勢いが盛んだが、終わりになると衰えて振るわない」ということです。竜の頭は立派ですが、ヘビの尻尾は貧弱だからです。この諺の中には、「竜は立派だが、蛇はつまらない」という考え方が含まれています。さらにこれが発展して、「竜は本物だが、蛇はニセモノである」とか「竜は善だが、蛇は悪である」いう考え方につながっていきます。出典の1つは禅宗の書である『碧巌録』です。これをひもといてみると、「竜蛇(りゅうじゃ)を定める」とか「竜蛇混雑」などの言葉が出てきます。これは「正邪を分ける」とか「玉石混交」というのと同じ意味に使われています。こういう宗教的、文化的な伝統を考えてみると、今年が辰年であるということは、今年こそホンモノが現れるべき年であり、正邪がハッキリ分けられるべき年だということになるでしょう。
 
 谷口雅春先生の『碧巌録解釈』から、第35則「文殊前(ぜん)三三」という公案のところを紹介します--

 【垂示】垂示に云く、竜蛇を定め、玉石を分ち、緇素(しそ)を別ち、猶予を決す。若し是れ頂門上に眼あり、肘臂(ちゅうひ)下に符あるにあらずんば、往々に当頭に蹉過(しゃっか)せん。只如今(ただいま)見聞不昧。声色純真。且(しばら)く道(い)へ。是れ皂(そう)か是れ白か、是れ曲か、是れ直か。這裡(しゃり)に到って作麽生(そもさん)か弁ぜん。
 
 これは難解な文章で、ほとんど外国語のようでありますが、谷口雅春先生が分かりやすく解釈してくださっているので、そこを朗読いたします--
 
 「さて、この垂示に示されている“竜蛇を定め”は、相手が、天神の使いであるところの竜であるか、それともただの蛇であるか、それともまた人間をまどわして“知識の樹”の果を食らわせて人類をエデンの楽園から追放せしめるに至った“サタンなる蛇”であるかを見分けなければならぬというのである。宗教にも色々あって、正信もあれば淫祀邪教もある、玉石を混淆し、黒白を曖昧にしてはならぬので、“玉石を分ち、緇素を別つ”能力がなければならぬというのである。“緇”というのは“黒”ということである。僧侶のまとう墨染めの黒衣のことを緇衣(しい)と称する。“猶予”(ゆうよ)の猶というのは、疑い深い獣(けもの)の一種の名だということで、疑い深いために、善悪の判断を截然とつけることが出来ず、これは本当は白か黒かと疑って狐疑逡巡している動物だが、人間はそのようなことではいかぬ。一分の猶予もすることなく、炬火の炎の如き明らかなる眼をもって善悪の判断をキッパリ決せねばならぬというのが“猶予を決す”である」。
 
「ある説には猶は犬に似た形の疑い深い主人に忠実な動物で、飼主に伴われて道を行くとき、予め自分が前に進んで飼主を害するような敵がいないかを見定め、見定め終ってから飼主の許に来って飼主を迎える、そして又次の地点に行くと予めまた自分が前に進んで危害の有無を観察してから飼主を伴う--その間に予め時間を要する。それだから“猶予する”という熟語が出来たのだともいう。しかし人間はそんなのろまなことではいかぬ。明眼をもって、直ちに黒白を明らかにし、玉石を甄別(けんべつ)し、竜蛇いずれかを見別けなければならぬ。それだから、人を導く宗教人や、一国の政治外交を司る総理や閣僚の椅子に坐るような人間は“頂門上に眼ある”如きものでなければならぬ、そうでなければ、何か宗教上の信仰をもっていて護符を肘臂(ひじ)に結びつけて、その護符を媒介として神又は守護霊の導きを受けなければならぬ--もし、そうでなかったら、“往々に当頭に蹉過せん”--頭を壁にぶち当てて、せっかくの好機会に行きちがいになって、機会を看のがすことが度々あるぞと、この垂示は吾々に注意を促しているのである。“頂門上に眼あり”というのは、両眼のほかに額の入口に、もう一つの眼があるということであって、両眼は物質界のことを見る眼だから、物質界に起こる以前の“心の世界”に於ける“兆”(きざし)を観ることは、“頂門上の、もう一つの眼”を以って観なければならぬのである」。(同書、pp.291-293)
 
 このように説かれていまして、変化の時代に大切なことは、玉石混交した情報を前に躊躇逡巡することではないのです。「頂門」とは神想観をするときに精神を集中するところですから、そこにある「眼」で見るとは、「神の御心に聴く」ということです。多くの人々は変化にとまどい、あっちに行ったりこっちに来たりとウロウロするかもしれませんが、私たちは決して狼狽することなく、神想観をしてさらに信仰を深め、迷わずに“実相顕現”の正しい道に向かって勇気をもって進んでいく--それが“竜蛇を定める”ということです。本年はそういう年にしたいと念願するしだいであります。

 谷口 雅宣

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2011年12月26日 (月)

現代の“知恵の木の実”

 しばらく本欄から遠ざかっていたが、来春に出版が予定されている新刊書の原稿書きなどで余裕があまりなかった。その間、大きな出来事はいくつかあったが、本欄の主題にふさわしくないなどと考えながら、つい“筆無精”してしまった。しかし、人と自然との関係を考えさせられる話題として、ウイルスの開発に関わる最近の出来事には言及しておいた方がいいと思い、キーボードを叩いている。

 「ウイルスの開発」と言っても、コンピューター・ウイルスのことではない。本物の生きたウイルスを人間が作る話である。日本のメディアではあまり大きく取り上げられなかったが、12月22日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』が第1面で報じたことだ。有名な科学誌『Science』と『Nature』に対して、アメリカ政府への諮問機関がウイルス研究の一部情報を公表しないように働きかけているらしい。学問の自由、表現の自由を重んじるアメリカ社会では、かつてないことだというのでニュースになっている。

 その記事によると、問題となっている研究は、アメリカとオランダで行われた「A(H5N1)」という鳥インフルエンザ・ウイルスの研究で、科学者たちは毒性が高く、かつ感染力がきわめて高い種類のウイルスを作成したらしい。フェレットというイタチの一種を使って作成されたインフルエンザ・ウイルスで、通常は人から人への感染は起こらないが、感染した場合、致死性はきわめて高いという。このウイルスは1997年に発見され、その後約600人が感染して半数以上が死亡した。これまでのほとんどの症例は、鳥を媒介としてアジア地域で起こっている。

 この諮問機関とは、アメリカの国家保健研究所(National Institute of Health)の傘下にある「生物安全保障のための国家科学諮問委員会」(National Science Advisory Board for Biosecurity)で、研究の結論部分は公表されるべきだが、「実験と遺伝子変異の詳しいデータは、実験を再現可能とするため公開すべきでない」としている。これに対して、『Science』誌のブルース・アルバーツ編集長は、一部の情報の公開を控える用意はあるとしつつも、「正当な理由でそれを必要とする科学者に対しては、非公開の情報も得られる制度を政府が作るならば…」との条件を付けているという。

 しかし、科学者の側も、この技術が生物兵器製造などの間違った目的に使われる危険性が現実にあることを了解している。アルバーツ博士は、「この研究でわかったのは、このウイルスをきわめて危険な状態に変化させることが比較的容易だということで、そうなると、誰も気づかないうちにエーロゾル(煤霧質)などに混入させて空気中にバラまくこともできるだろう」と言っている。この状態になれば、ウイルスは咳やクシャミによって人々に次々と感染していくことになる。

 この研究に関わっているのは、オランダのロッテルダム市にあるエラスムス医療センターと米ウィスコンシン大学のマディソン校で、双方ともアメリカのNIHから助成を受けている。研究の目的は、どのような遺伝的変化がウイルスの感染力を決めるかを突き止めることだという。それが分かれば、自然界にあるウイルスの遺伝的変異を観察して危険な大流行の兆候を事前に察知し、対策を講じたり、場合によっては治療に役立てることも可能になるからだ。

 これに対し、同諮問機関の委員であり、米陸軍の生物防衛研究所(defensive biological lab)の前所長、デービッド・フランツ博士(David R. Franz)は、今回の答申についてこう語るーー「私の懸念は、大変な損害をもたらすような知識が素人やテロリストの手に渡ったらどうなるかということです」。同博士は、「今後、我々が直面する事態に対処するための情報を、最良の、責任ある科学者だけがもつ」べきだと強調している。しかし、インターネットが発達した今日の社会で、情報の流れを規制することはなかなか難しい。事実、今回問題となっている研究でもオランダのものは、すでに今年9月にウイルス学の学会で発表されており、また研究論文も審査のために複数の科学者の手に渡っているという。

 科学的知識や技術は、人類の生存を助け、人間社会を豊かにする目的で探求される。しかし、その同じ知識や技術は、客観性をもち再現可能であるというそのことにより、悪意をもった人によって目的外の使い方をされる可能性が常に存在する。「“知恵の木の実”を食べた人間が楽園から追放される」という神話が、現在もなおリアリティーをもっているゆえんである。

谷口  雅宣

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2011年12月15日 (木)

薪ストーブのこと

Breakfast121511  休日を利用して、例のごとく北杜市大泉町の山荘に来ている。フェイスブックの私のページに、今日の朝食を薪ストーブの上で作っている写真を載せたが、ここにも掲載しておこう。何の変哲もない目玉焼きとトーストが写っているが、妻はこのほか昨夜からストーブの上でジャガイモ、タマネギ、ニンジン、ゴボウ、レンコンをグツグツ煮て、野菜のスープ煮を作ってくれた。また、写真に写っているヤカンの湯で、私はコーヒーを入れた。だから結局、今日の朝食はかなり“炭素ゼロ”に近いエネルギーでいただいたことになる。もちろん、完全な“炭素ゼロ”ではない。なぜなら、これらの食材の成長過程、収穫から自宅への運搬過程、そして私たちが東京から山荘まで運ぶ過程でもCO2は出ているからだ。
 
 前回の本欄でCOP17の結果を嘆くようにして書いたら、“炭素ゼロ”運動に賛同してくださる読者から、「この冬は雪が降らない限り凍死しない程度に節電を心掛けようと思います」とのコメントをいただいた。そこまでしていただくのは何か気の毒な感じがしたので、私は薪ストーブの使用を勧めてみた。それを読んだ別の読者からもコメントをいただき、“薪ストーブ談義”にしばし花が咲いた。そこで話が出たのは、「日本の家庭がみな薪ストーブを使うことになったら、国内で薪が充分確保できるか」ということだった。私はこの疑問に対して、薪の値段が高いということを指摘して、そういう事態は現実には来ないという意味の答えをしてから、「しかし、山を持っていたり、安価な薪を入手できる人にとっては、この選択肢は魅力的です。また、中・長期的には、多くの人々が薪を使うようになれば、林業が復活し、コストも安くなるでしょう」などと書いた。この発言は、前半はともかく、後半は間違いだったので、この場を借りて訂正させていただきたい。
 
 まず、前半の発言に関連して、私がどうやって薪を都合しているかを話そう。多くの読者はご存じと思うが、私が住まわせてもらっている東京の住居は“お山”と呼ばれている。つまり、文字通り小高い丘の上にあり、樹木が多く茂っている。この樹木の中には渋谷区の「保存樹木」に指定されているものが何本もある。そんな大木でなくても、実生から育った若い木や、ツツジなどの灌木も多くある。こういう樹木は定期的に剪定する必要があり、また台風などで枝が折れたり、倒れることもある。それらを処分せずに、適当な長さに切りそろえて縁の下に置いて乾燥させておけば、1年後にはよい薪になるのである。これは大変ありがたいことで、冬場にはそういう薪を車に積んで山荘へ運んでいる。

 しかし、こういう個人レベルのことと、それを日本人が全員でやったらどうなるかということは、別に考えなければならなかった。それをせずに、「多くの人々が薪を使うようになれば林業が復活し、コストも安くなる」というのは完全な間違いではないが、不完全な答えだったと思う。つまり、もっと薪が使われるようになれば林業が復活するという予測は正しくても、すべての家庭が薪ストーブを導入した場合、日本の森林は薪の需要にはとても応えられない。“炭素ゼロ”のためには、他の自然エネルギーを併用することがどうしても必要になるのである。

 “薪暮らしの伝道者”を自任する岩手県の森林官、深澤光氏は、次のような数字を示してこのことを説明している--
 
「日本人1人あたりの森林面積は約0.2haです。これは国立公園などの自然公園や保安林、人が近づくことができない奥地や崖のような急峻な山岳林など、木材生産に使えない森林も含んでいます。したがって、木材を利用できる森林は、実質的にはその半分の1人あたり0.1ha(1000㎡=300坪)くらいにすぎません。この森林資源を持続的に利用しようとすれば、森林の幹材の年間成長量は1haあたり3~5tですから、1年間に1人あたりの使える木材は国民の平均値でいえば、多く見積もっても300㎏くらいでしょう。その木材エネルギー量を灯油に換算すれば100l程度、灯油ポリタンクで5~6個分ですから、どれほど森林の持つエネルギー供給力がつつましいものかおわかりいただけるでしょう」。(深澤光著『薪暮らしの愉しみ』、pp.162-163)

 これらの数字が正しければ、森林を含むバイオマス・エネルギーだけで現在の日本のエネルギー総需要をまかなうことは不可能なことはもちろん、家庭内のエネルギー需要にも応えられない。太陽光を初め、風力、地熱、潮力、波力など、それぞれの地域の特徴に合った再生可能の自然エネルギーを動員して需要に応え、応えきれない分は、エネルギー効率の向上(省エネ)と節約で補うほかはないだろう。

 ところで、ペレット・ストーブの話が出ているが、これも個人の使用程度なら問題は少ないが、大量に長期にわたって使用する場合は、熱効率の悪いものはかえって森林破壊につながる恐れがある。なぜなら、木質ペレットは木を粉末にして固めたものだから、生産時にエネルギーを使っている。木質チップも同様である。だから同氏は、これらを「重工業などの産業用、大規模発電用の燃料として使うことは間違っている。たとえば、石炭火力発電所の燃料として数%の木質チップを、ましてやエネルギーをかけて生産する木質ペレット(粒塊)を混焼することなど、愚かなことと言わざるをえない」と言っている。傾聴に値する意見だと思う。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○深澤光著『薪暮らしの愉しみ』(創森社、2009年)

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2011年12月12日 (月)

難産だった「ダーバン合意」

 南アフリカのダーバンで行われていた国連の気候変動枠組み条約締約国会議(COP17)が、難航のすえようやく終った。来年末に期限が切れる京都議定書の後継条約を検討する重要な会議だったが、例のごとく先進国と途上国の意見が激しく対立し、当初の終了予定を36時間も延長して条約の“大枠”だけを決め、実質的な内容の合意は次回以降に伸ばされた。「ダーバン合意」と名付けられたその“大枠”は、以下の通りである--

 ①京都議定書を5年もしくは8年間延長する。
 ②米中を含むすべての主要排出国が参加する新しい「ダーバン枠組み」(Durban Platform)を2015年までに採択、2020年に発効する。
 ③途上国の温暖化対策支援のために「緑の気候基金」を設立・運用する。
 
 京都議定書の延長について日本は、世界一の排出国・中国に削減義務がなく、2位のアメリカが離脱したため、カナダ、ロシアとともに交渉の初めから一貫して反対した。その代わり、新枠組みができるまで各国が自主目標でつなぐ案を提案した。それが見事に無視された恰好だ。日本は、延長議定書での削減目標を提出することを拒否したから、13年以降の削減努力から実質的に撤退したと言える。実に残念な決断である。これにより、「京都」の名を冠した国際条約に背を向けた国として日本のイメージは低下し、今後の温暖化交渉における発言力は大きく失われるだろう。ただし、鳩山内閣時代に宣言した「2020年までに25%削減する」という目標は国際公約としてまだ残っているから、これに向かって真剣に取り組んでもらいたい。

 日本に比べ、同じように現行議定書での削減義務をもつEUは、今回の交渉で主導権を発揮し、重要な合意への大きな流れをつくった。EU代表団は開幕前の記者会見で、「京都議定書は(温暖化対策の)シンボルであり重要な道具だ。我々には『京都』が必要だ」と述べ、日本案については「自主的な行動に任せていては十分な対策は取れない」と否定的な態度を示した。そして、中国、アメリカを含む「すべての主要国が将来新たに削減義務を負うと約束する」ことを条件に、議定書の延長に賛成した。この「将来」についても、新条約を「2015年までに採択し、2020年までに発効させる」と具体的に提案した。これに対してブラジルやアフリカ諸国が早々と同意したことで、交渉の流れは決まった。

 交渉が難航した原因は、新条約の発効の時期だ。今日(12日)の『日経』夕刊の記事によると、削減義務の履行を遅らせたい米・中・インドなどの意向をくんだ議長案は、発効を「20年以降」として提出されたが、温暖化の被害が深刻な島嶼国やEUが反発。その後、昨年の議長国・メキシコが間に入って打ち出された最終案には、「以前」も「以降」もない「20年発効」が明記されたという。

 いろいろ紆余曲折はあったが、これでとにかく世界の温暖化抑制努力に「空白期間」ができるのが避けられたのは、よかった。また9年後からではあるが、世界の主要排出国すべてが温室効果ガス削減の義務を負う合意にこぎ着けたことは、評価すべきだろう。ただし、「9年後の世界」が喜んでいられるような状態であるかどうか、私はかなり疑問をもっている。私たちは今から、“炭素ゼロ”に向かってできることはどんどん実行していこう。
 
 谷口 雅宣

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2011年11月22日 (火)

すべての中に“光”はある

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山で「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が厳かに執り行われた。私は祭文を奏上したほか、概略以下のような言葉を述べた:
 
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 皆さん、本日は「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」に大勢お集まりくださり、ありがとうございます。
 
 谷口雅春先生は昭和60年6月に満91歳で昇天されましたが、まだこの世にいらっしいましたならば、今日で118歳のご誕生日を迎えることになります。肉体はお亡くなりになってすでに四半世紀たちましたが、私たちは「400冊」とも言われるご著書によって、今でも先生のお心に接することができる。これは誠にありがたいことであります。先生の最後のご著作は『碧巌録解釈』という上下2分冊の本であります。この本の後篇の最後にある「『碧巌録』終講の辞」というのが、先生の絶筆であります。
 
 この『碧巌録解釈』の後篇に収められた第86則「人人(にんにん)光明」という公案から、今日は学びたいのであります。この「本則」の中に、「作麼生(そもさん)か是れ諸人の光明」という言葉が出てきます。これは、雲門和尚という禅宗の偉い坊さんがある日、説教壇に立って並み居る学僧の前で問いかけた言葉です--「人には皆、光明が宿っているというが、これはどうだ? 何か言うことはあるか?」と訊いたのであります。しかし、学僧たちは何も言えないでいる。そこで和尚自らがこう言った--「厨庫(づく)三門」「好事も無きに如かず」。厨房があり三門(山門)がある。寺には僧達の食事をつくる厨房があって、それは敷地の脇の目立たないところにある。これに対して三門は正面のよく見える所に、目立つように建てられる。寺院には、そのどれもが必要であるから、それぞれが自分の特長はこうで、他より自分は素晴らしいなどと主張しない方がいい--そういう意味のことを谷口雅春先生は、解説文の中で書いておられます。それを読みます。
 
「好事などといって自分の特色を自己宣伝みたいに振り回されると、鼻持ちならぬことになるから、そんな特色など無い方がましである。当り前が当り前に整っているだけでそれで、各自それぞれの個性ある光が輝いているのである。茶碗は飯を盛れば、それで茶碗相応の光を輝かしているのであり、椀は味噌汁を淹れるだけで、椀相応の光を発しているのである。別にこれらの物は光を発しようと分別擬議し工夫して光っているのではないのである。寺院でいうならば正面から参詣すれば仏殿三門があり、その背後には眠るための寝堂があり、日常生活に便するための方丈がある。これらが皆、それぞれ、その物の光である。別に光ろうとして光っているのではない。此処では“厨庫三門”とあるが、厨庫のことを日本の寺院では庫裡(くり)と称している。台所ことである。山門のように高く聳えてはいないけれども、台所があるので僧院の美味しい食事が整えられるのである」。(同書、pp. 794-795 朗読)
 
 このあと「頌」(じゅ)というのが続きます。頌とは、本則で示された真理の讃辞のようなものです。それを『碧巌録』を編纂した重顕禅師が付け加えているのです。
 
「頌に云く。自照孤明を列す。君がために一線を通ず。花謝して樹に影無し。看る時誰か見ざらん。見不見。倒まに牛に騎って仏殿に入る」。

 この「頌」に対する先生の解釈を読みます--
 
「すべての生物は皆それぞれ自己の個性ある光を備えていて、その光は他の者が模倣出来るものではないからそれを孤明というのである。各自はその孤明ある独自の光を発揮していて自己を照しているのである。自己の光を、自己が見れば、自分が列聖の一人であって、誰にも劣る者ではないとわかるのであるが、肉体の瞳をもって光を見ようと思っても、その聖(とうと)い光は肉眼には見えないのである。そして自分が尊い“神の子”であるとうことが却って見えず、肉屋にぶらさがっている牛肉の肉塊の一片のようにしか、自分には“自分の実相”が見えないのである」。

 少しとばして796ページのおしまいの方へ行きます--
 
「春が来たって桜花爛漫、夏が来たって夾竹桃が紅白の絢爛とした花をつけると、それを観賞する人は外面的な花の美のみに心を捉えられて、その樹木の幹の中を流れている“生命の流れ”を視ようとする人はいないのである。ところが、秋雨来たって花謝って散り、冬来って悉く落葉し、幹も枝も真っ裸になって、それに冬の日が照っている、どこにも影はない花のかげりも葉のかげりもない。それでも枯れた木と、枯れないで一陽来復の春が来たったときに再び爛漫とした花を咲かせようと、黙々として樹木の根幹には、種々の個性ある樹木それぞれの生命の尊い営みが行われているのである。恐らく、斯ういう時には、花爛漫の時には看なかった“樹の生命”を誰でも見ることが出来るのである」。(同書、pp.796-797)
 
 このようにして雅春大聖師の解釈を学んでみると、私たちの普段の“ものの見方”が浅薄であることがよく分かります。例えば今、総本山の境内では木々が美しく紅葉していますが、私たちはその中でもっとも目につく、紅葉が美しい木の下へ行って、写真を撮ったり絵を描いたりしがちです。しかしそれは、「人人光明」「自照孤明」の真理を忘れているのではないか? むしろ枯れたようになった木の前に立って、そこに流れる見えざる生命を見る「見不見」をすべきではないか? そういう問いかけがここにはある。皆さんも今回、この大祭と式典に参列されたのですから、このあと、ご自分で枯れたようになった木の前に立って何が見えるか、そこで心が何を感じるかを確かめてみてください。きっと新しい発見があるはずです。
 
 この記念式典では、このあと本部褒賞の授与があります。そこで表彰される方々は皆、生長の家の光明化運動に永年にわたって素晴らしい活躍をされた人たちです。生長の家本部は、それを認め、絶大な感謝の気持を込めて表彰させていただきます。それはそれで素晴らしいことです。しかし、表彰されなかった人々は素晴らしくないかといったら、決してそうではありません。「人人光明」「自照孤明」ですから、私たちが触れるすべての人々は、それぞれの個性を通した光明が輝いているのです。それが見えないのは、私たちの側に一種の“偏見”があるかもしれない。自分勝手の“色メガネ”をかけているからかもしれない。「厨庫三門」「好事も無きに如かず」です。

 これと同じことは、自然界を見るときにも言えます。私のブログの文章を集めた『小閑雑感』の19巻目が最近出ましたが、その中の「キノコ採りで考える」という文章に、自然界の3大生物群--動物、植物、菌類ーーの間の微妙で重要な関係が書いてあります。そこを紹介いたします。

「日本菌学会会長を永く務めた生物学者の今関六也氏は、生態系の中での菌類の役割について『日本のきのこ』という本の中で興味深い話を書いている。それによると、地球の生態系は、無機物でできた環境界と有機物による生物界から成っているが、キノコを含む菌類は、その中で有機物を無機物に変換する2つの重要な流れの1つを担っているという。もう1つの流れは、動物が担っているが、動物による有機物から無機物への分解能力には限りがあるので、菌類がそれを補っている。これに対して植物は、光合成を使って無機物を有機物に変換するとともに、菌類と動物とによる有機物を分解して無機物に変換する。この双方向の流れがバランスよく働いているために、生物の繁栄に必要な稀少量の無機物が無限に循環する生態系が成り立っているというのである。そして、今関氏は次のように言う--
 
“生物の出現は35億年前といわれるが、35億年の長い生命の歴史は、植物・動物・菌の共同生活によって築かれ、その永い歴史を通して生物は進化に進化を重ね、ついに人類は誕生した。人類が今日あるのは、35億年の生命の歴史のおかげであり、この歴史を築いた三つの生物群の一糸乱れぬ共同生活を続ける限り、人類の永遠?の繁栄も約束されるはずである”。」

 こういう事実を知ってみると「すべてが一体である」「自然界は神の命、仏の命の表れである」という生長の家の教えが、より深く理解されると思うのであります。私たちは、表面の派手な出来事に目を眩まされてはいけない。本当にあるものは肉眼や感覚を超えている。このことは、人と人との関係においても、人と自然との関係においても言えることです。すべての中に“光”はあるのです。私たちは雅春大聖師の教えをさらに深く学びつつ、その上に立って、現代喫緊の課題である自然と人間との調和する世界の実現に向かって、これからも勇気と信念をもって力強く進んでまいりたいと思うのであります。
 
 谷口雅春大聖師御生誕日に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 

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2011年11月10日 (木)

森はカラマツ色

Karamatufall  休日を利用して大泉町の山荘へやってきた。町の中心部は紅葉・黄葉が美しい盛りだが、標高のあるわが山荘付近は、木々はだいぶ葉を落としてしまっている。それでも庭で育っているメグスリの木やカエデ類は、黄緑から黄色、橙、赤へと続く美しいグラデーションを見せている。カラマツの黄葉を期待していたが、山荘近くでは大半がすでに地に落ちていた。しかし、カラマツの葉のいいところは、地に落ちても変色が少ないことだ。だから、黄葉が地面を染めることになる。
 
「黄葉」と書いてはみたが、カラマツの黄葉は決して普通の「黄色」ではない。光が当たれば黄金色に輝くが、地に散り敷いたときの色はサーモンピンクに近く見える。1枚の葉は長さ数センチの太めの糸状だから、それが大量に落ちると、辺り一面をサーモンピンクに染めてしまう。そんな森の中をのんびりと散策していると、ほのかな芳香をかぐことができる。以前にも書いたことがあるが、私はカラマツが放つ微かな香りが好きで、散り敷いた葉をKaramatuleaves 集めて東京の家に持って帰ったこともある。今日も朝食前の時間に付近を散歩した。曇り空だったため、赤や黄色の鮮やかな色は後退し、サーモンピンクの山道がまっすぐに続く景色が目に飛び込んできた。顔に当たる山の空気は冷たく、手袋なしの手はやがてかじかんでくる。しかし、その清冽な冷気が、私の心を内側から昂揚させてくれるのがわかる。歩いて3~4分のところに隣家の別荘があるが、人気はない。その黒い屋根がサーモンピンクの砂糖をまぶしたように見えるのがいい。黒くなった古い切り株の上に積もった葉も、趣がある。表面を指でこすってみると、切り株が柔らかになっている。苔が生えているのだ。

 朝食後に、山荘西側のデッキの前に伸びていた細めのクリの木を1本、切り倒すことにした。眺望を妨げていたし、一部が枯れて枝が腐ってきていた。また、枝振りにも難があったからだ。もちろん、これらの理由は皆、人間の勝手な都合だ。寒風の中、ここまで一所懸命に生きてきたクリの木の身になれば、とんでもない話だ。が、込みすぎて生えている木は、互いに栄養分を取り合ってひょろひょろになる。実は、クリよりも山荘に近接して立っていたヤマザクラの木は、先に枯れてしまった。春には白い花をつけて私たちを楽しませてくれたし、幹に鳥の巣箱をゆわえておいたので、ヒガラなどが出入りする様子が観察できた。しかし、理由がわからないまま枯れて、幹の表面にあまり美しくない苔が一面に生えてきたので、管理会社の人に伐採してもらった。が、クリの木は、それより細く、自分で切り倒せると思ったのだ。
 
Kurinokicut  チェーンソーで切り倒す作業は、簡単だった。が、その後が案外、大変だった。枝を払い、焚きつけにできる長さに切り、幹も約1メートルの長さに切って、一箇所に集めておく。この作業に小一時間かかった。この過程で、クリはカラマツよりも硬く、重いことを知った。木の内側の色も、前者は黄色っぽいのに対し、後者は赤っぽい。いずれの木も、伐採後は薪にして燃やしてしまうというのでは、いかにも勿体ない。用途をゆっくり考えてみようと思う。
 
 谷口 雅宣

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2011年11月 3日 (木)

動物の心について (8)

 前回、本題で書いた文章に登場したゴキブリのシーダーには、心があったのだろうか? その答えは、きっと「心とは何か」という定義如何による。しかし、その定義自体がきわめて難しい、と私は思う。『広辞苑』の定義は「人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用」ときわめて簡単である。三省堂の『大辞林』も、昆虫に心があるとは認めていないようだ。なぜなら、いくつもある定義のどれもが「人間」のことにしか触れていないからだ。例えば、最初の定義は「人間の体の中にあって、広く精神活動をつかさどるもとになると考えられるもの」を心だとしている。この定義では、心は昆虫の体の中にあってはいけないことになる。
 
 同じ三省堂の『新明解国語辞典』(第4版、1989年)では、心を次のように説明する--
 
「特に人間に顕著な精神作用を総合的にとらえた称。具体的には、対象に触発され、知覚・感情・理性・意志活動・喜怒哀楽・愛憎・嫉妬となって現われ、その働きの有無が、人間と動物一般、また敬愛・畏怖の対象となる人と憎悪・けいべつすべき人間を区別するものと考えられる。古くは心臓がこれをつかさどるものとされた」。

 この定義によると、心は「特に人間に顕著な精神作用」とされているから、人間以外の動物も「顕著でない程度」において、精神作用があることが前提になっていると読み取れる。ただし、その場合は「心」とは呼ばないということか。ところが、この辞書では、上記の説明のすぐあとに使用例を示しており、そこには「ペットとの心の触れ合い」と書いてあるのだ。つまり、ペットにも心があると読み取れるのだ。すると、この定義は自己矛盾を冒している。
 
 英語で心を意味する語は「mind」だが、その定義を見ると、心をもつものが人間であるか否かに触れないものもある。次の定義は、2000年版のランダムハウス・ウェッブスターの大学辞典(Random House Webster's College Dictionary)のものである--
 
「推論し、思考し、感じ、望み、知覚し、判断などをする要素や部分、あるいは精神過程のことで、人間または意識をもった存在の内部にある」(the element, part, or process in a human or other conscious being that reasons, thinks, feels, wills, perceives, judges, etc.)

 この定義で興味深いのは、人間以外の動物であっても「意識をもつ」場合は心ももちえるとしている点だ。こういう見解は、恐らく最近の心理学や認知科学の知見を取り入れているのだろう。これらの定義の背後には、しかし総じて「人間」とその他の動物とを“別もの”として分離しようとする動きが感じられる。それはなぜか……と考えてみると、「擬人化(anthropomorphism)」という言葉に突き当たるのである。
 
「擬人化」とは、人間ではない動物や植物、その他の存在に対して、人間と同様の形態や性質をもたせようとする考え方で、科学者にとってタブーとされる。もちろん、科学以外の分野では--例えば、イソップ童話の動物たち、ミッキーマウス、ピノキオ、ミツバチ・マーヤ、ハロー・キティーなど--擬人化は世界中で行われてきたし、童話やアニメの分野では今も大々的に行われている。こういう分野では、動物が心をもつことにいちいち目クジラを立てるような野暮な批評家は、恐らく存在しないだろう。では、科学の分野では、なぜ擬人化が厳しく規制されるのか? その理由は、それほど明確でない。
 
 私の想像では、科学者が擬人化を嫌うのは、本来別のものを同一視しようとする考え方を、科学は基本的に嫌うからだろう。別の言い方をすれば、生物種Aと生物種Bがあった場合、AとBとが同種または近種であるという証明がない限り、科学はAとBを別種とすべきだと考えるのだ。これは科学特有の慎重さであり、これによって科学は早急な誤った結論を未然に防ぐ努力をしてきた。私はそれを評価するのに吝かでない。が、この慎重さによって誤った結論を防ぎきれたわけではないし、この慎重さがすべての分野の判断に必要なわけでもない。また、この慎重さに固執することで、かえって自由な発想が妨げられ、大胆な仮説の提出を妨げる場合もあるだろう。
  
 本シリーズの7回目で紹介した昆虫学者のウイリアム・ジョーダン氏は、「擬人化」という言葉の正当性に疑問を投げかける。彼に言わせると、「“擬人化”という言葉は、人間と動物の心のあいだに、橋をかけようもない大きな割れ目、一種の聖なる深淵があると想定しなければ使えない」という。擬人化を徹底して否定することは、人間と他の生物種の間に先験的に共通点を認めないことを意味する。科学者は、すべての可能性に対して開かれた心をもっているべきなのに、まるで宗教の教義のように、なぜ「人間と他の生物は異なる」という前提にしがみつかねばならないか、とジョーダン氏は批判しているように見える。彼は、そんな“教条主義”を捨てて、新しい発想に向かうべきだと次のように訴えている--
 
「擬人化という概念は、妙な具合に生物学と対立する。知識として当然とされてきたものをひっくり返してみたらどうだろう。つまり、人間の思考を動物の心(マインド)にあてはめるのではなく、動物の機能を人間の心にあてはめてみたらどうだろう。われわれが動物から進化したものなら、人間の心だって動物の衝動の延長線上にあるのではないか」。(『カモメの離婚』、p.143)

 ここでジョーダン氏が言っていることは、「人間が考えるように動物も考える」という擬人化(“人間→動物”という方向への同一化)が許されないならば、動物の中で起こることが人間の心の作用にも潜んでいると、逆方向(“動物→人間”という方向)に考える必要があるのではないかということだ。そういう思考過程をへて彼がたどりついた結論は、なかなか刺激的であるーー
 
「単純な昆虫たちを飼育しているあいだに、私はふいに特定の場所で生きるための行動の適切さやそこに見られる良識、つまり、本能がそなえている知性に気づいた。そして、人間が良識と呼んでいるものは、根源までたどれば良い本能以外のなにものでもないという結論に至った。われわれが意識をもつ心と呼んでいるものは、本能、つまり意識のない神経が生まれつきそなえている知性の上に重なっていて、それらが機能するのを見まもっているプログラムにすぎないのかもしれない」。(前掲書、p.151)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○ウィリアム・ジョーダン著/相原真理子他訳『カモメの離婚』(白水社、1994年)

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2011年10月28日 (金)

谷口清超先生の「大慈意」に学ぶ

 今日は澄みきった青空のもと、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「谷口清超大聖師三年祭」がしめやかに挙行され、参列者は聖経読誦の中、谷口清超先生の御写真の前で玉串拝礼、あるいは焼香によって、静かに先生の遺徳を偲ぶ時間をもつことができた。
 
 私は御祭の後、大略次のようなあいさつを述べた。

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 皆さん、本日は谷口清超大聖師三年祭に大勢お集まりくださり、ありがとうございました。

 今日の祭文にもありました通り、谷口清超先生はおくり名を「実相無相光明宮弘誓通達大慈意大聖師」と申し上げます。「弘誓通達」という意味は、「真理を弘めずにはおかない」という誓願を徹底されたということです。「弘」は「弘法大師」の弘法の意味で、真理を弘めることです。それを誓願する熱意が貫徹しているという意味です。また、「大慈意」とは「大いなる慈悲の心」です。このおくり名のように、谷口清超先生は真理の伝道を大いなる愛の心をもって徹底して実践された、そういう信仰の先達として実に模範的な人生を送られました。このことは、追善供養祭のときにお話した通りです。今日はこの大聖師をお偲び申し上げ、おくり名の「大慈意」という点について先生のご著書から皆さんとともに学びたいと思うのであります。
 
 先生の著書に『愛は凡てを癒す』という本があります。この本にはいくつもの版がありますが、最近のものは平成4年(1992年)に出た「谷口清超ヒューマンブックス」(全10巻)に収録されています。一見比較的新しい本のようでありますが、初版は昭和29(1954)年です。ですから、清超先生が34歳のころに書かれたご文章が集められているのです。私はその頃はまだ小さい子供で、昭和29年には2~3歳です。それで、清超先生がこの本の原稿を書いておられたころは、まだ1~2歳ということになります。そういうまだ右も左も分からないような子供だった私のことが、実はこの本に少しだけ出ているので、まずそこを紹介いたします:
 
 これはこの本の最後の方の18章にあり、「子供は天真爛漫である」という小見出しがついた文章ですーー
 
「私の一番下の子が雅宣という男の子で、この子は今は11カ月目になりましたが、何時か何かいたずらをして、姉娘の邪魔をした事があります。すると姉娘が“チッチッ”と雅宣を叱ったのですが、雅宣は“チッチッ”と叱る言葉が面白いらしく、キャッキャッと笑いながら姉娘にふざけるのであります。だから彼には姉娘の叱責はちっともこたえないので、姉弟で遂にふざけ出して“チッチッ”“キャッキャッ”と騒ぎ出したのでした。幼な児は何でも善意に解釈して、叱られていても叱られているとは思わないで喜んでいるのであります」。(同書、pp. 252-253)
 
 まあ、私にもこのように天真爛漫な頃があったようでありますが、清超先生はこんなうるさい子供たちを観察して、その様子を原稿に書いておられたのですね。その頃は、子供に個室など与えられていませんでしたから、子供たちは先生が原稿を執筆されているところで騒いでいたのかもしれません。また、別の部屋で先生が原稿書きをしている時に、人の都合など気にしない幼い私は、先生の部屋に勝手に入っていったことがあるかもしれません。そんな時に、父親である先生はどのように応対したのか……と考えさせられます。たぶんずいぶん迷惑をおかけしたと思います。しかし先生は、そういう時のご自分の対応を考察されて、「真に愛するとはどういうことか」を文章に書いておられるのです。このご文章に、谷口清超先生がいかに「愛」を大切にされる大慈意の方であったかが表れていると思います--

「真の愛は吾々から自己の劣等なる心を偽装している口実を奪い去るのである。吾々が何か仕事をしている時、いと小さき幼な児が笑顔をもって走り込んで来る時、吾々の愛がいかに大きく崇高で純粋なものであるかを見ることが出来るのであります。その“仕事”なるものが果たしてどれだけ“幼な児の生命”より偉大でありうるであろうか。幼な児を愛し保護し養育するなどという事は名声を博することでもなければ金儲けになることでもないのであるが、真に吾々が幼な児を愛する時、すべてをなげうってでもこの一個の小さな生命を保護したい気持になります。果して吾々は自分のしたいと思っていることがさまたげられた時、いらだたしい気持で“偉大なる生命”を冒涜し、彼を心の中で傷つけはしなかったであろうか。吾々が真に幸福になる時は、かくのごとき口実をすべて洗い流して、全てを神にゆだね、神の御意(みこころ)の愛をたゆみなくほどこして行く時であります。自分が神の心を起す時、神の国が吾が周囲にあらわれて来るのであって、この逆ではないのです。神は別に名声を求めるのでもなければ、知識を求めるのでもなければ、いわんや金を儲けるのでもなく、ただ惜しみなく愛を与えて全ての有情非情を育てて行くのであります」。(pp. 40-41)

 この先生の愛の心は、決して自分の家族や人間の範囲だけに留まっていたのではありません。我々人間が他の動物をもっと愛さねばならないということを切々と説いておられる文章も、この本には収録されています。
 
「大体現代の世界的不安というものは、色々と手近かな原因もありましょうけれども、根本的には社会の人々が、あまりにも残忍になって、平気で生き物を殺しているというところに根本の原因があるのであります。吾々の現象世界は“因果律”の支配している世界であって、従って吾々人間が他の動物の生命をうばえば、自分の生命も奪われることになるのは当然であります。人間は凡ゆる下等動物の生命を平然と奪っているが、果してこれが神の御心にかなった行為であろうか。例えば捕鯨船が鯨をうつが、その時、捕鯨船の射手は子供の鯨を目標にして銛(もり)をうつと、その親鯨は子供が銛をうたれて引き摺られるのをみて可哀そうになって、どうしても子供を捨ててにげて行くことが出来ないで、自分の身が危険にさらされるのもかまわず捕鯨船について泳いで来て、遂に自分も捕獲されてしまう。そうして捕(と)って来た鯨の肉を、人間はうまいうまいと言ってたらふくたべるのであります。(中略)
 こういう事を平気でしていて、人間だけ殺されずに火にもやかれずに生きていたいなどということは少し虫が好すぎるのであります。ですから、このような残忍な心をそのままにして置いて、それで一方的に、人間同士だけの戦争をなくしようと努力したり、火事にあうまいと思って努力してみても、人類全体の業が流転して来て、大量の人類殺戮場たる戦争があらわれ、原子爆弾で人類の大量火あぶりが起るというのも当然のことなのであります」。(pp. 34-35)

 このご文章は半世紀以上も前に書かれたものですが、それを現代に引き寄せて考えてみても少しも“古く”なっていません。我々人類がクジラどころか、ウシやブタなどを殺した数は、この半世紀ほどで激増しています。数字でこれを表すと、世界の食肉生産量は1961年から2008年までの47年間で「約4倍」に増えています。その間に人口も増えていますが、それを勘案して1人当たりの食肉生産量を見ても、世界平均で「1.8倍」、先進国平均で「1.56倍」、途上国平均では「3.3倍」になっています。それだけ多くの高等動物の生命を人類が犠牲にしてきていて、「殺すものは殺される」という因果の法則から逃れられると考えるのは間違いです。
 
 私はもう何年も前から、食肉生産の増加が地球環境問題に深刻な影響を与えるということを書いたり、言ったりしてきました。そして私たちの光明化運動でも、「肉食を減らす」ことを1つの目標としてきました。皆さんもそれぞれ、そういう努力をしてきていると思いますが、世界全体としては、先ほど数字を申し上げたように、肉食の増加はすごい勢いで続いています。人類はそろそろ、そういう悪業を刈り取る時期に来ているのではないでしょうか?
 
 本年は、世界は大変動期にあるということを痛感するのであります。先進国の深刻な不況、“アラブの春”、東日本大震災、パキスタン洪水、タイ洪水など、気候変動と関係があると思われる現象がたて続けに起こっています。こういうときにこそ、有情非情に愛を注がれた谷口清超先生の「大慈意」を見ならって、私たちは自然に四無量心を行じる生き方を大々的におし進め、自然と共に伸びる運動を実現していかねばなりません。

 谷口清超先生の三年祭に当たり、所感を述べさせていただきました。ありがとうございます。

 谷口 雅宣

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