2017年3月11日 (土)

自然界に“与え返す”生き方

 今日は午前10時から、山梨県北杜市にある生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールで「神・自然・人間の大調和祈念祭」が厳かに行われた。会場には、主としてオフィス勤務の職員が集まったが、御祭の様子はインターネットを通じて国内外に中継され、前もって通知されていた全国の教化部や海外伝道本部等でも、多くの信徒が同祭典には間接的に参列した。 
 
 私は「四無量心を行ずる神想観」の先導をさせていただき、御祭の最後に概略、以下のような所感を述べた-- 
 
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 皆さま、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」に参列いただき、ありがとうございます。 
 
  今日は「東日本大震災」と呼ばれるようになった大地震が起こって、ちょうど6年がたった日です。私はその時、東京・原宿にあった生長の家本部にいて、確定申告の締め切り日が近かったものですから、税理士さんと打ち合わせをしていました。私の執務室は細長い6階建ての建物の最上階にあったので、東京は「震度5強」ですから、相当揺れたのであります。危険を感じた私は、まずデスクの下に潜り込みましたが、余震が続くので、階段を使って降り結局、建物の外へ避難しました。 
 
  皆さんもきっと、あの日のそれぞれの体験を、まだ生々しく記憶されていることと思います。私の記憶は、先ほど述べたような個人的なものにとどまりません。ご存じのように、白鳩会総裁が朗読された「自然と人間との大調和を観ずる祈り」は、大地震の6日後の「3月17日」のブログに発表したものです。だから一種“公的”にも、私はあの祈りの言葉を読むたびに、5年間ずっと、そして今でも震災のことを思い出します。特にその中の-- 
 
 「人間よもっと謙虚であれ」
 「自然の一部であることを自覚せよ」
 「自然と一体の自己を回復せよ」 
 
 という言葉が、心の中に染み入るのであります。 
 
 また、今日、地球の温暖化とともに世界中で気候変動が益々深刻化していますが、そういう災害や被害を見聞するたびに、この祈りにある次の言葉が思い出されるのであります-- 
 「人間が自然を敵視すれば、その迷い心の反映として、自然の側から“敵”として扱われるような事態が現れてくるのである。」 
 
 私たち人類は、自然界を「全体」として受け入れるのではなく、「一部」だけを取り出してそれを偏愛し、他の部分を嫌って遠ざけたり破壊することによって、現代文明を築き上げてきました。だから今、洪水や旱魃、暴風雨の襲来などを頻繁に伴う気候変動に直面している。そのことを、この祈りの言葉は指摘しているのです。 
 
 その一方で、私たちは「自然界に甘える」--という心理ももち続けてきました。これは「自然からどんなに奪っても、自然は黙って与え続けてくれるだろう」という自分勝手で、甘ったれた子供のような考え方であり感情です。私たちの中には、自然界を擬人化して、無限に与え続ける“お母さん”だと考える傾向があります。だから、「母なる自然」という言葉があり、英語にも「Mother Nature」という言い方があります。しかし、それはずいぶん人間本位の、人間至上主義的なご都合主義の裏返しです。私たちは自然から奪うことで一時的に“幸福”を感じることがあっても、その幸福は決して長続きせず、かえって心の寂しさを増幅することになる。奪うのではなく、自然に与え、自然を育てることで、もっと永続性と広がりのある幸福感が、人間には生まれるし、人間は魂的にも成長し、深い満足感を得ることができる。このことは、ペットを飼ったり、作物を育てたり、森の手入れをしている人にはよく分かるでしょう。 
 
 子供は小さいときは、母から与えられることを当然に思い、母に要求し、母から奪いながら成長します。しかし、成人して人生経験を重ねるにつれて、親の立場を理解するようになりますから、母をいたわり、母を護り、母に与え返すことで、より深い満足を得、人間的に成長します。これは個人の人生の一般的姿です。人類全体と自然界との関係も、これと同じように「ギブ・アンド・テイク」あるいは「テイク・アンド・ギブ」とも表現できるような、双方向的な“与える”動きがなければならないと、私は考えます。自然から奪うだけではなく、与えることができて、初めて人類は進歩したと言えるでしょう。ところが、産業革命以来の人類全体の生き方は、自然から単に奪うだけでしたから、まだ“子ども”と変わらない状態です。しかし、これからは自然破壊は人類破壊につながりますから、自然に対して“与える”こと“与え返す”ことで喜びを感じるような人々が、もっともっと増えていかねばなりません。 
 
 私は最近、『おおきな木』という絵本と出会いました。いや、もっと正確に言うと、出会ってからは4~5年たっているのですが、きちんと本を開いて中身をしっかりと読んだのは最近だということです。この本は、アメリカのシェル・シルヴァスタインという絵本作家の作品で、1964年に出版されて以来、今日まで38カ国で900万部を超える数が売られているロングセラーですから、皆さんの中にも読んだ方はいると思います。日本語版は現在、作家の村上春樹さんの訳で「あすなろ書房」から出ています。実は、この本のことは、谷口純子・白鳩会総裁が2013年10月号の『日時計24』に掲載された「“ただ与える”こと」というエッセイの中で紹介しているのです。 
 
 このたび彼女の著書が『この星で生きる』という題名で出ることになり、そこにこのエッセイが収録されているので、その文章を引用しながら絵本の内容を紹介しましょう-- 
 
「ある所にリンゴの木があった。その木は小さな少年を愛した。少年も木が好きで、毎日木のところに来て、葉っぱを拾ったり、木に登って遊んだり、リンゴを食べたりした。やがて少年は成長して、あまり遊びに来なくなり、木は寂しくなった。そんなある日、少年はまた木のところにやってきたが、自分は大きくなりすぎてもう木では遊べないと言う。それよりお金がおしい、と木にねだる。木は自分はお金は持っていないが、自分の枝に実ったリンゴを売ればいいという。そこで少年は、リンゴを抱えて帰っていく。木は、その後ろ姿を見て幸せを感じる。 
 何年もたち、少年は成長し、ある日またリンゴの木を訪れる。そして、“家がほしい”と木に頼む。木は自分の枝を切って家を作ればいいという。少年はリンゴの枝を伐って家を建てる。少年の役に立って、リンゴの木は幸せだった。 
 さらに何年もたち、少年は中年になって木のところへやってくる。そして、“遠くへ行くためにボートがほしい”と木にねだる。木は自分を切り倒してボートを作ればいいという。リンゴの木は倒され、切り株だけが残る。 
 やがて、さらに何年もたった後に、年老いた少年がやってくる。彼はもう何もほしがらないが、疲れたので休みたいという。そこで木は、切り株になった自分に座って休めばいいと言い、少年はそれに従い、木は幸せを感じる。」 
 
 --まあ、ストーリーはこう展開します。この物語と絵から生まれる解釈には、いろいろのものがあるでしょう。その1つは、リンゴの木は、少年から愛されること以外は何も求めず、ただ自分の命を与え続けていくという“無償の愛”を象徴しているという解釈です。しかし私は、ここにある「リンゴの木」を「自然界の代表」と捉え、「少年」を「人間の代表」として見る解釈もできると思いました。すると、次のようなストーリーを物語に重ねることができます-- 
 
 人間は昔、自然と共に生き、自然界の恩恵をふんだんにもらって生きていたが、時代の流れとともに、行動範囲が拡大し、自然との触れ合いが減り、さらには自然が犠牲になることを顧みず、自分勝手な要求をして自然を傷めつけながら、家を建て、船を作り、そして自然の生命力を極端に小さなものにしてしまった。しかし、「自然の懐で休みたい」という生来の感情を否定できず、自然のもとにもどってくるのだが、その時には、すでに人間は老いて生命力も衰え、自然も人間の生命を回復させるのに必要な力を失っている-- 
 
 これは、現代の人類が直面することになる、あるいはすでに一部で直面している地球上の出来事ではないでしょうか。このような解釈をすると、『おおきな木』という絵本は、痛烈な文明批判と予言とを内包した作品だと見ることができます。 
 
 では、私たちは、人類と自然界とをこのような悲惨で寂しい状態に陥らせないために、何をしたらいいのでしょうか? その答えは、この絵本が意識的に省略していること--つまり、作者シルヴァスタインが、この物語を寂しく悲しい結末に結びつけるために、敢えて描かなかったことはないか、を考えてみればいいでしょう。私たちは、オフィスを“森の中”に移転し、毎日、自然界と密接な関係のもとに業務を進めていますから、自然と人間との関係で、この絵本から抜け落ちていることを見つけることは、簡単にできると思います。それは何でしょうか? 
 
 それはすでに、私が述べたことの中に含まれます。人間は“母なる自然”から奪うだけでなく、与えることができるし、そうすべきであると申し上げました。その点を考えてみてください。私たちは、リンゴの実から種をとって殖やすことができます。また、リンゴの木に栄養を与えることができます。これは化学肥料である必要はまったくない。森を育てて土を豊かにし、生物多様性を拡大して、自然界全体の生命力を向上させることで、土は豊かになります。このような自然界に与え返すことを、私たちはオフィスと周辺の森の中で「自然を伸ばす活動」として実践してきました。これは、自然と人間との「ギブ・アンド・テイク」を実践することですから、「テイク」ばかりを進めてきた“旧い文明”とは異なる“新しい文明”に向かう先進的な活動と言えるのです。別の言い方をすれば、私たちは自然に“甘えて”ばかりいた生き方を改めて、自然に“与え返す”生き方を進めていくのです。 
 
 私たち生長の家は、今後さらに、この生き方を3つの“プロジェクト型組織”を通して全国に、さらには全世界に展開していく途上にあります。皆さんのご理解と、温かいご協力、そして斬新で、積極的なアイディアをいただきながら、この運動をぜひ、大成功に導きたいと心から念願するしだいです。それが、東日本大震災とそれに伴う津波によって霊界に旅立たれた多くの人々に対する、私たちの心からの追悼とご恩返しの表現だと信ずるのであります。 
 
 それではこれをもって、「神・自然・人間の大調和祈念祭」での所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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2017年3月 1日 (水)

魂の飛躍への道

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山にある龍宮住吉本宮出龍宮顕斎殿で「立教88年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が挙行され、国内外の生長の家の幹部・信徒約770名が参集して、人類光明化運動の始まりを祝い、国際平和信仰運動のさらなる発展を誓い合った。また、昨年までの運動で顕著な功績のあった大勢の幹部・信徒が表彰された。
 私は本式典の中で概略、以下のような言葉を述べた--
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 皆さん、私たちは本日、立教88年の記念日を迎えました。誠におめでとうございます。漢字の「八」という字は、二つの縦の線が足を踏ん張ったように拡がっているので、これを「末広」とか「末広がり」と呼んで、「おめでたい」ことと考えます。その理由は、「末の方がだんだん広がっていく」からで、事業や家族が「次第に栄えていく」「子孫も増えていく」などと考えるわけです。その「八」の数が二つ並べば、二重におめでたいことになります。ですから生長の家も、これで信徒の数が倍増していけば、さらに素晴らしいことになりますが、こちらの方は、まだそれらしい兆候が見えていないので、ぜひ、皆さんと共に運動をさらに盛り上げていきたいと念願しています。皆さん、よろしくお願い申し上げます。
 さて、私はこの立教記念日にはよく、『生長の家』誌の創刊号を引き合いに出して、その中に説かれている真理が、年月がたっても少しも古びていないという話をしてきたのであります。今日も、それと似たことをしたいと考えます。今日、取り上げたいのは、創刊号の表紙には「マーデン博士の積極的健康法」と書いてありますが、ここにある「マーデン博士」のことです。この創刊号には「健康法」が取り上げられています。人間には本来、疲労を回復したり、病気を治したりする偉大な力が備わっていることをここでは説いています。しかし、マーデン博士は、別の本では健康のことだけでなく、人間には本来、スポーツや学問、ビジネス、芸術などの他の分野でも、自分でも想像できないほどの偉大な潜在能力があるということを力強く説いていた人です。
 生長の家創始者の谷口雅春先生は、マーデン博士の翻訳書も出されていて、それをここでご覧にいれます。『繁栄への道18章』というご本で、昭和50年(1975年)に発行されたものです。雅春先生は、この本の冒頭にある「訳者はしがき」の中で、マーデン博士を次のように紹介されています-- 
 
「オリズン・スエット・マーデンは、エマソンを幽祖として発展して来たったニュー・ソート(光明思想)をアメリカ合衆国全土にわたって普及した2人の著名な著述家のうちの一人であるということができると思う。もう一人は、嘗て私が『幸福はあなたの心で』と題して訳書を出した“In Tune with the Infinite”の原著者であるラルフ・ウォルドー・トラインである。トラインの方は綿密に論理を追いつつ、当時の科学的資料を巧みに引用綜合して哲学的に人間の心と霊との力を解明して綿々諄々と叙述の文章を連ねているところに特徴があるのだが、マーデンの方は宇宙の真理を哲学的にというよりも霊感的に“精神的”にとらえて、それを、鼓舞する力強い激励的な直截簡潔な文章に表現して、読者に動的な希望を与えるところに特徴があると言い得ると思うのである。」(pp.1-2) 
 
 ご存じの方も多いと思いますが、ニュー・ソート(New Thought)というのは、「新しい思想」とでもいうような意味で、「神は自己のうちに宿る」ということを説く、生長の家ととても近い考え方をもった宗教・思想運動です。雅春先生の時代には、戦前も含めて生長の家とは思想的、人的な相互交流があった団体であり、運動です。その運動の初期の思想家の一人がオリズン・スエット・マーデン博士です。谷口雅春先生は、そういう人の文章をわざわざ翻訳されて、それを『生長の家』誌創刊号に掲載された。そのことを考えると、私たちの運動は最初から、一種の国際運動であったことが分かります。つまり、先生の関心は、日本国だけにあったのではなく、世界全体に拡がっていた。だから「人類光明化運動」という名前をつけれらたということを、改めて思い出すのであります。 
 
 そういう前提を確認したところで、今日は、マーデン博士の他の著書から引用して、現在の私たちの運動にとっても重要なことが、アメリカの地では当時から説かれていたということを、お伝えしたいのであります。 
 
 まず、この生長の家総本山の龍宮住吉本宮には2014年に、住吉大神に加えてアメノミナカヌシの大神、タカミムスビの神、カミムスビの神が勧請され、私たちは運動の中で、これら“造化の三神”のムスビの働きを盛り立てていくことを決め、それ以来、生活と運動の両面でそれを継続しています。この「ムスビ」という考え方は、日本独特のもので西洋社会には存在しないと考える方がいるかもしれませんが、そうではないという証拠をマーデン博士の文章から示してみたいのです。その前に確認しておきますが、「ムスビの働き」とは何でしたか? 私はこう説明申し上げました--本来一つだが分離して、別物のように見えている2つのものが合わさり、新しい価値が生まれるということでした。例として、植物の花に動物である昆虫がやってくる。一見、両者は別物のように見えるが、しかしその2つが合わさると、植物において「受粉」が起こり、次の世代の“種”を生み出す作業が始まる。このようにムスビとは、一見相互に異質だと思われる2つのものが合わさって協力すると、それぞれが単独では生み出すことのできない“新しい価値”が生まれる、ということでした。 
 
 そういう考え方が大切だということを、実はマーデン博士も説いてきたのです。実際の例を、同博士の『Making Life A Masterpiece』(人生を名作に仕上げる)という本から引用します―― 
 
「異なったものは異なった性質を生み出す。異なった経験は、われわれの脳の中に、それぞれ特徴的な性質と力を発現する。それは例えば刺激に富んだ一冊の本かもしれない。霊感に満ちた一つの講演、あるいは牧師の説教かもしれない。また、自分を信頼してくれる友人の忠告や激励かもしれない。あるいは、何らかの緊急事態、人生の危機、旅、何気ない会話、新しい経験、大きな苦しみ、仕事上の失敗かもしれない。しかし、これらは私たちの最も高貴な特質を、私たちが知らない全く新しい自分自身を与えてくれるのだ。 
 
 私たちは、原因は何であれ、世界の進歩は、私たちが自分の可能性をどれだけ見出し、どれだけ使うかにかかっていることを知っている。」(pp. 146-147) 
 
 ――このように書いてあります。 
 
 ここでは、私たちの人生で遭遇するあらゆることが、良いことも悪いことも含めて、私たちの内在の無限の可能性――博士自身の言葉を使えば「私たちの最も高貴な特質」を引き出してくれる試金石だと説かれているのです。一見、自分の人生とは“異質”と思われることでも、それが訪れたときに、相手と真剣に取り組めば、私たちの人生は新しい次元に飛躍するということです。だから私たちは、一見自分を害するような、自分の人生には“異物”のように感じられる人や物や事に遭遇しても、それらを単に排斥したり、そこから逃亡したり、あるいはそれから目を閉じたりするのではいけない。そんな状態では、人格的に進歩せず、人生も味わいのないものになってしまう、と知らなければなりません。 
 
 マーデン博士の別の本『Training for Efficiency』(効果的仕事のための訓練)には、「責任は能力を開発する」という章の中に、こんなことも書いてあります―― 
 
「どんな人も、自分の最大の強さ、最も偉大な能力について、普段は無知である。それが引き出されるのは、大きな責任、深刻な非常事態、あるいは人生最大の危機に面したときである。」(pp. 128-129) 
 
 「多くの人は、男女を問わず、自分を成功に導いてくれると考えていたすべてを奪われるまでは、自己内在の本当の能力を発見することはない。その能力が分かるのは、自分の人生で大切なものをすべて失ったときだ。私たちの最も偉大な力、最大の可能性は、私たち人間の本性のあまりにも深いところに眠っているから、それを引き出すには、大変な事態、大きな危機が必要になるのである。」(pp. 130-131) 
 
 マーデン博士のこのような言葉を聞いて、皆さんは何か思い出すことがありませんか? それは今日の立教の日と大いに関係があります。谷口雅春先生は、どのような経緯で『生長の家』誌の発行を決意されたのでしたか? そうです。それは、先生が2回の盗難に遭われて、雑誌発行に必要な資金を全部奪われてしまった後でした。このような非常事態の中から、非常事態をものともせずに立ち上がったのが、谷口雅春先生と輝子先生であり、その精神を受け継いでいるのが今、私たちが進めている人類光明化運動・国際平和信仰運動なのです。 
 
 皆さんの中には、昨年の役員改選で初めて教区の指導者に選ばれて、「経験がないのに大変なことになった」と心配されている方がおられるかもしれませんが、しかし、雅春先生もマーデン博士も言っているように、私たちの内部に眠る“神の子”の無限力は、あるいは私たちの人生のさらなる飛躍は、このような“非常事態”から生まれてくるということを知ってください。「新しいこと」「責任のあること」「難しいこと」を実行する能力は、私たちの中に必ずあります。それが一見存在しないように見えるのは、その“神の子”の能力が私たちの内部神性の最も深いところに眠っていて、これまではそれを引き出す機会がなかったからです。しかし、これからはそうではありません。 
 
 私たちの運動は、“新しい文明”を構築するという、実に大きな目標を掲げています。それは困難でないとは決して言いません。しかし、その困難のおかげで、私たちには魂の飛躍への道が今、目の前に開かれていると考えて下さい。私たちはこれから、困難とムスビ合って、困難を自らの飛躍、さらには運動の飛躍へと結びつけるのです。これが生長の家の生き方です。私たちの運動は、全国に多くの同志がいます。全国どころか、世界中に仲間がいることが、先ほど披露された祝電の内容でお分かりになったと思います。皆ともに“新しい文明”の基礎をつくる道を、勇気と喜びをもって進んでまいりましょう。 
 
 これをもって、立教記念日の言葉といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 谷口 雅宣

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2017年2月28日 (火)

“次の当たり前”でいいのか?

Jrejad_022817  生長の家の春季記念日のために長崎へ向かう途中、久しぶりに新宿駅へ降りた。すると、駅のエスカレーターを昇ったところに、新旧の新幹線の先頭車両を真ん中から縦に割ってつなぎ合わせ、それを正面から撮影した写真(=写真)が目に入った。JR東日本の宣伝ポスターだ。ポスターの下部には、「次の当たり前をつくろう。」というコピーが大きな文字で入っている。1987年の車両と今年の車両を視覚的に比べて、「30年間でこれだけ変わった」ことを分かりやすく見せている。広告としてはよいできだと思った。 
 
 しかし、その広告が訴えようとしているメッセージには、大きく首をかしげた。これは科学技術のこれまでの歩みを“進歩”として無条件に認め、人類がこの方向に今後も進むことに何の疑問も感じないどころが、「それがわが社の使命!」とばかりに胸を張っている、と感じる。ポスターの左上部に小さい文字で5行に分けて文章が書かれいる-- 
 
 「どんなに夢だ、未来だと騒がれた先端技術も、 
 やがて見慣れた風景になる。それでいい。 
 私たちの仕事は、人々の暮らしを支える当たり前をつくること。 
 これまでの30年も、これから先も。 
 変えたかったのは、歴史じゃない。日常だ。」 
 
 この文章の最後の1行の意味は、わかりにくい。が、そこにいたる4行に書かれていることは、「先端技術の無限の進歩が、人々の暮らしを支える」ということで、科学技術による経済発展礼讃論だ。また、「日常を変える」ことが“善”だと考えているフシが感じられるから、この会社にとって日常は“悪”なのか、それとも少なくとも“不満の種”なのか、と勘繰りたくなる。生長の家では、日常生活の中に真理があり、また真理を日常に活かすのが信仰だと説いている。さらに、日常の「当たり前の生活」の素晴らしさを認め、感謝するのが信仰生活だと教えている。 
 
 朝、まだ雪が残る北杜市を出発し、早春の大都会・東京に着いたとたん、このような理解の違いを目の前にした私は、一種の“カルチャー・ショック”を覚えたのだった。 
 
Mirai022817  この種の「科学技術による経済発展礼讃論」は、しかしJR東日本だけでなく、都会全体を支配しているように感じる。というのは、妻と私を新宿から羽田空港まで運んでくれたタクシーが、「ミライ」という最先端の燃料電池車だったからかもしれない。これに乗るのは、今回で2回目だ。特に選んでいるのではなく、温暖化が深刻化している現在、「ガソリン車は避けたい」という希望を出すと、タクシー会社の方で電気自動車などの“低公害車”を回してくれるのだ。が、私としては「ミライ」よりも「リーフ」が好きである。こういう言い方が個人的過ぎるならば、燃料電池車よりも電気自動車が好きだと言おう。理由は、前者よりも後者の方が自然エネルギーと親和性があり、エネルギーの分散利用にもつながると考えるからだ。 
 
 が、本当は、自動車などに乗らなくても、自転車の利用で、あるいは徒歩で、どこかへ行くだけでも十分幸福な生活ができるのがいい。神さまとご先祖さまからいただいた優秀な2本の脚を使って、大地を踏みしめながら歩くことで「ありがたい」と感じ、しかも健康維持や健康増進につながるならば、これほど素晴らしいことはないではないか。このようにほとんどの人々が簡単にできる多くのことを、「当たり前」すぎるといって価値を低く見るのは、生長の家でお勧めしている「日時計主義」とは反対の生活態度である。その点は、私がすでに本欄で発表した「凡庸の唄」を読んでいただけば、読者はきっと理解されるだろう。 
 
 燃料自動車「ミライ」は、トヨタの世界戦略車の1つだが、この会社が描く“未来”の姿を暗示させるもう1つの“技術の粋”に、今日私は遭遇した。といっても、物理的な遭遇ではなく、ネット上でのバーチャルな遭遇である。しかも、その動画は10年も前のものだから、読者はすでにご存じかもしれない。カナダ駐在の生長の家本部講師である高義晴氏がFacebook上でシェアしてくれたので、私の目に留まったのだ。 
 
Roboviolinist2   ビデオの中身を簡単に言えば、トヨタ製の人型ロボットがバイオリンを弾いている映像だ。これを見ると、技術的には、ロボットにバイオリンを弾かせることは、そんなに難しくはないようだ。ただし、上手に弾くかどうかは別だ。ビデオでの弾き方はかなり稚拙だが、10年後の今日は、技術的にはもっと向上しているだろう。が、上手か下手かの問題より重要なのは、人手不足をロボットの開発で補おうという、現在の政府などの考え方の是非である。 
 
  労働を機械に置き換えていく流れは、産業革命以来ずっと続いているが、これは短期的には良さそうでも、中長期的に見ると、失業者を増やすことは確実である。そのことは、今の欧米の経済問題が有力に語っている。最近テレビで見た日本のニュースでは、あるコンビニチェーンが代金支払いを「無人化」しつつあると伝えていた。コンビニ店は、すでに相当の省力化が進んでいて、店員数は極限まで抑えられているように見えるが、ついに無人となるのだろうか。これによって誰が得をするのか、損をするのかは、誰にも明白だ。産業の自動化・ロボット化は結局、社会の“非人間化”につながるだろう。 
 
 私は、その方向にまったく疑問を感じずに「この道をまっすぐ!」と進もうとしている日本の政治家と、産業界の重鎮たちの心境が、よく理解できないのである。 
 
 谷口 雅宣

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2017年2月20日 (月)

“代替事実”はウソ?

「代替事実」という言葉が流行っているそうだ。といっても、日本のことではなく、主としてアメリカでである。だから、もっと正確に言えば、英語の「alternative facts」という言葉が流行っているのである。理由はたぶん、従来のアメリカ政治の常識を覆すトランプ新政権の性格を、よく表しているからだろう。 
 
 この言葉は、日本の解説者によっては「もう一つの事実」などと訳されている。こちらの方が日本語としては分かりやすい。しかし、私がこれを使わない理由は、「もう一つ」を認めると、「更にもう一つ」とか「三つ目の」という表現もあり得るようなニュアンスが生まれるからだ。「alternative」という英語には、そういう意味はない。語幹が共通する「alternate」という形容詞は、「交互の」とか「かわるがわるの」という意味だから、「選択肢が2つ」しかない中での「もう一方」なのである。例えば、「alternative medicine」という英語は、すでに「代替医療」とか「代替医学」などと訳されて広く使われているが、この場合も、「西洋医学」に対する「もう一方」の医学--漢方やアーユルヴェーダ、超越瞑想法など--を一団の「非西洋医学」として捉え、それ全体を指している。 
 
 こんな背景を頭に入れて考えてみると、「代替事実」という言葉の意味は、「事実以外にも、別の事実がある」というのだから、何か不思議で、探偵小説のようなミステリアスな香りがしてくる。が、アメリカのジャーナリストの間では、この言葉はきわめて評判が悪い。というのも、それがトランプ大統領の側近の口から出たためで、「事実を曲げる」目的に使われたと考えられるからだ。 
 
 問題の発端は、今年の1月21日のホワイトハウスでの記者会見だった。発足したてのトランプ政権の新報道官、シーン・スパイサー氏が、トランプ大統領の就任式について「史上最大規模の国民が参加した」と発言したことに、記者側から異議が出された。アメリカのメディアは、その時点ですでに「オバマ大統領の2期目の就任式(2013年)よりも少なかった」と報道していたからだ。 
 
 するとスパイサー報道官は、就任式当日の現場に通じる地下鉄の利用者数を引き合いに出し、それが「42万人」だったのに、オバマ氏の時は「31万7千人」だったと主張した。が、この数字の根拠は不明だった。実際の数字は、当日の午前零時から11時までの利用者数が、2017年が19万3千人、2013年は31万7千人、就任式当日24時間の利用者数は、2017年が570,557人、2013年は782,000人で、いずれもオバマ氏の就任式の方がトランプ氏を大きく上回っている。それどころか、2つの就任式の会場を当日、上空から撮影した映像を比べても、群衆の列の長さは、オバマ氏の時の方がトランプ氏の時よりも明らかに長いことが示された。 
 
 このことを指摘されると、スパイサー報道官は、今回の就任式では初めて、会場の地面を白いカバーで覆ったから、それが視覚的に群衆の列の長さを短く見せたのだ、と説明した。ところが事実はそうではなく、白い地面の覆いは、2013年のオバマ氏の就任式の際も敷かれていたという。 
 
 こんな見え透いたウソを大統領報道官がメディアに向かって堂々と発表するのでは、トランプ政権の発表には今後、誰もが疑いの目を向けることになる。そんな問題が論じられている同じ時期に、今度は大統領顧問のケリーアン・コンウェイ氏が、『ミート・ザ・プレス』というNBCのTV番組でインタビューに答え、この問題について「そんなに大袈裟に騒がなくていいでしょう。あながたはこれを間違いだと言うけれど、私たちの報道官、シーン・スパイサーは、それに対する代りの事実を述べただけよ」と言ったのだ。この「代りの事実」に相当するのが「alternative facts」である。インタビューアーは即座に、「代りの事実なんてのは事実でなく、間違いのことですよ」と反論したという。 
 
 こうして「代替事実(alternative facts)」という言葉は、アメリカのメディアやソーシャル・ネットワークで皮肉や嘲笑を交えて取り上げられることになった。これを「流行語」と表現するのが正しくないとすれば、新政権の危うさを示した「象徴語」と言えるだろう。
 ところで私は、ここに挙げられたような政治家とメディアとの関係では、アメリカのジャーナリズムの反応に全面的に賛成する。世界最強の国で最高権力を握るアメリカ大統領が、国民や世界に対して事実を告げずに、自分に都合のいい解釈や、事実を曲げた情報を“代替事実”として発表するようになれば、民主主義は崩壊する。また、世界には間違った判断が蔓延して、戦争や災害を含めた悲惨な事態に陥る可能性が大きい。かつてのイラク戦争が、当時のブッシュ大統領の事実誤認と判断の間違いによって起こったことは、読者の記憶にも新しいだろう。その結果、アフガニスタンとイラクは崩壊し、破壊と荒廃の中から立ち現れた「イスラーム国」なるテロ集団が今、世界を震撼させているのである。
 
  谷口 雅宣

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2017年1月16日 (月)

凡庸の唄 (7)

 凡庸はときどき考える――
 先を目指し
 縦方向へ上ることに
 しのぎを削る人たちが、
 もっと周囲に気を配り、
 横方向に意識をひろげ、
 競争するのではなく、
 協働することに
 喜びを見出す生き方に
 転じてくれる日のことを。
 人より秀でることは
 確かに素晴らしい。
 記録を塗り変えることは
 称讃に値する。
 優秀な作品や商品や
 サービスを創造することは、
 人間社会への大なる貢献だ。
 しかし、人間社会は
 地球のごく一部だ。
 そのために森林の破壊に目を閉じ、
 生物種や資源が減っていくのを顧みず、
 地球全体を暖める原因をつくることは、
 人間社会を超えて横方向に拡がる
 広大な生物共存の世界を壊すことだ。
 天と地と人との
 仕合わせを否定することだ。
 凡庸は思う――
 それはきっと彼らの本心ではないと。
 先を見て急ぎすぎるために、
 彼らの視野が狭まり
 周囲の豊かな世界、
 豊潤で知恵に溢れた地球世界を
 味わい楽しむ余裕がない。
 もっと凡庸であれば、
 心が開き拡大して
 世界に滲(にじ)み出ていくから、
 彼らだって
 人・物・事の結びつきが
 自分の幸せだと合点する。
 地球世界から分離しない
 本来の自分が感じられるに違いない。
 優秀と凡庸は
 本当は異質ではない。
 見ている方向が違うだけだ。
 優秀な彼らに
 凡庸の視点を与えよ。
 凡庸な我らに
 秀逸なる彼らの業績を与えよ。
 秀逸な才能の開花、
 秀逸な業績の実現は、
 実は
 凡庸の希望でもある。
 だから、大勢の凡庸は
 静かに彼らに協力し、
 応援している。
 凡庸は秀逸の母でありたいと願う。
 凡庸は秀逸を、
 人間社会だけでなく、
 地球世界の誇りにまで飛翔させたいと願う。
                        (了)
                   谷口 雅宣

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2017年1月14日 (土)

凡庸の唄 (6)

 凡庸と敗北主義を
 混同してはいけない。
 敗北主義は“及び腰”の生き方だ。
 自信がなく
 勇気がなく
 屈従が
 密かな慣(ならい)となっている。
 それでいて、
 自分の殻に閉じこもり、
 他人を信じず
 白眼(はくがん)で見る精神から離れられない。
 凡庸はしかし、
 自分の殻をもたないのだ。
 たといもっていても、
 それを破る生き方が
 正しいことを知っている。
 凡庸は“粘り腰”の生き方だ。
 他人の主張を
 壁のようにはねつけるのではなく、
 扉を開けて受け入れ、
 理解しようとする。
 自分が彼だったら、
 何が本当に言いたいのか、
 心を澄まして感じ取り、
 自分の言葉に翻訳する。
 それが心に染み込んでいくのを
 時間をかけて快く感じる。
 こうなれば、
 自分と他人との壁は消える。
 否、
 本当は壁などないことに
 気がつくのだ。
 自分は他人であり、
 他人は自分の代弁者だ。
 自分の本心を
 他人の声の中に聴き、
 他人の声を
 自分の中に聴くことができる。
 これが、
 本当の“粘り腰”だ。
 他人はいないから、
 もう他人に小突かれ、
 押し出されることもない。

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2017年1月13日 (金)

凡庸の唄 (5)

 凡庸は、
 こんな機械の専制支配を
 笑いながら拒否するのだ。
 なぜ笑う――
 凡庸は機械の力を知っているのだ。
 機械に任せば
 仕事の効率は格段に向上する。
 出来栄えも一見、
 美しく
 正確で
 均整がとれている。
 規格通りの品が
 大量に、短時間で完成する。
 単価が下がり
 数多く売れるに違いない。
 が、しかし
 規格品は
 ボタンを押せば誰でも作れる。
 人が作るのではなく、
 機械が作るからだ。
 人間は、
 人間であることをやめ、
 ボタンを押すだけの機械になる。
 製作の技術が不要になるから、
 世界と人間との
 接点が希薄になる。
 世界に直接触れ、
 傷つけ疵(きず)ついているという
 切実な実感が失われる。
 ある物の製作が楽になっても
 別の物の製作ができず、
 応用がきかず、
 視野が狭くなる。
 それは、
 スペシャリゼーションと同じだ。
 
                      谷口 雅宣

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2017年1月12日 (木)

凡庸の唄 (4)

 凡庸の好きな言葉――
 下手の横好き。
 何事にも興味をもって当たること。
 関心を横に拡げることで
 世界の広さ、
 物事の豊かさ、
 人々の多様性、
 社会の許容量が実感できる。
 縦方向にだけ進んでいては、
 孤高の山は見えても
 牛馬が草食む草原、
 銀鱗ひらめく緑の湖(うみ)を
 見ることはできない。
 高山植物の名前を覚えられても、
 平地や森を彩る
 他の無数の植物について、
 花に来る虫たちについて、
 人に聞かねば分からない。
 分からなければ、
 彼らの助けを得られず、
 生きていけない。
 凡庸は
 雑学者であることを少しも恥じない。
 雑学は無知よりも数段優れている。
 スペシャリゼーションが
 もてはやされた時、
 凡庸はその道を断(ことわ)った。
 「下手の横好き」ができないからだ。
 白亜の城に囚われること――
 凡庸が最も嫌ったことだ。
 スペシャリゼーションの階段を昇っていくと、
 専門外が見えなくなる。
 専門外の知識を
 他に頼らねばならなくなる。
 知識だけでなく、
 技術も他人任せになる。
 技術が機械に移行した現代(いまのよ)では、
 機械に頼って生きなければならない。
 機械の指示に耳を傾け、
 目を皿にしてパネルを見つめ、
 マニュアルを片手に
 オロオロしながらボタンを押す。
 押し間違えて頭を抱える。
 いったいこれが人間の進歩か、
 文明の発展か。
                      谷口 雅宣

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2017年1月11日 (水)

凡庸の唄 (3)

 凡庸は今、
 白昼夢を見ているのではない。
 心が開かれれば
 人は皆、
 自分の周囲を理解し、
 慈しむ能力をもっている。
 それなのに
 先を急ぐ人は、
 「先」しか見ないと心に決め、
 目的をしぼって心を閉ざす。
 でも、よく考えてほしい。
 「先」しか見ないということは、
 何も見ないことではないか。
 Aの地点にせっかく来ても、
 彼はその先
 Bのことを考える。
 Bに到達すれば、
 彼はCの様子が気になり、
 電話して担当者を呼び出す。
 担当者に仕事を頼んだあとは、
 今いるBを楽しめばいい。
 しかし周囲の喧噪は、
 道を急ぐ人々の流れは、
 客引きの呼び声、
 パチンコ玉の跳ね散る音は、
 彼の心を急き立てる――
 今もっと何かすべきではないか。
 自分にし残したことはないか。
 彼の心は
 目の前にあるのと別のことを探している、
 考えている。
 そっちの方が
 価値あることだと信じている。
 そんな彼こそ
 白昼夢を見ているのだ。
                                  谷口 雅宣

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2017年1月10日 (火)

凡庸の唄 (2)

 凡庸であることを
 「恥」と思ってはいけない。
 凡庸は人生の達人である。
 一芸に長ずることで失われる
 時間と
 視野の広さと
 細かい気配りを
 自分のものとすることができる。
 凡庸は時間を大切にする。
 何かをするための時間ではない。
 そこに在るがままの時を味わう。
 通勤途上に仕事などしない。
 Aの駅ではAを味わい、
 Bのバス停では
 広告のデザインを楽しみ、
 学び、
 Cの町角では
 路傍の花に留まる虫に語りかける。
 おい、
 そんな小さな花でも
 お前の好みの色香を放つのか?
 凡庸は、
 ミツバチの視覚を自分のものとし、
 モンシロチョウになって
 民家の屋根より
 ずっと、ずっと高くへ昇り、
 トンボの複眼をもつ自分を想像する。
 空に上れば
 視野は広がり、
 自分が世界の一部だと感じる。
 その世界とは、
 ニュース報道が教える
 暴力と混沌の世界ではない。
 生きものがつながり合った
 自由で軽ろやかな
 地球大の紐帯(むすびつき)の世界だ。
 それぞれが主人公でありながら、
 それぞれが他者を支えている。
                               谷口 雅宣

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